神さまの三日間、わたしの願い
願い桜が光る夜は、風の音まで止まる。
春祭りの準備で遅くなった私は、境内の掃き掃除を終えて、ふと顔を上げた。
満開の桜が淡く発光し、その根元に——見知らぬ少年が立っていた。
ひやり、と空気が変わる。
私の声が出るより先に、少年が目を細めた。
「きみ……どうして、僕が見えるの?」
銀色の光を映したような瞳。淡く透けた輪郭。
人間じゃない。けれど、怖くない。
むしろ、とても綺麗だと思ってしまった。
「あなた……誰?」
「霧崎蒼真。願い桜の、神使だよ」
神使。
子どもの頃から神社で暮らしてきた私でも、物語の中だけの存在だと思っていた。
「人に姿を見せることはないはずなんだけど……君には見える。きっと巫女の血のせいだね」
「巫女って言っても、私はまだ見習いだし……そんな大層なものじゃないよ」
「ううん。君の心が強く“願っている”からだ」
願い——?
聞き返す前に、桜の光がふっと弱まった。
蒼真は小さく笑って、ひらりと夜に溶けるように姿を消した。
夢みたいだった。でも夢じゃない。
翌朝、神社の階段を降りる途中で、蒼真がこちらを見上げていたから。
「おはよう、ひかり」
「……本当に居るんだ」
「三日間だけね。桜が光っている間だけ、僕は人の世に降りられる。それが神使の役目だよ」
三日間。
それだけの短い時間で、彼が何をしに現れるのかは、まだ知らなかった。
◆
学校の帰り道、蒼真はまるで空気みたいに隣を歩いた。
他の人には見えていない。気づかれていない。
私はただ、彼と話すのが不思議と心地よかった。
「君、本当は都会に行きたいんだね」
「……なんで分かるの?」
「願い桜のそばにいると、人の“強い願い”が見えるんだ。君の願いは、ここから離れたいって叫んでる」
図星だった。
母は私に巫女になってほしがっている。
私は、神社という“決められた未来”から逃げたいと思っている。
「君は自分を小さくしてる。本当はもっと遠くまで行けるのに」
「そんな、簡単に言わないでよ……」
自分でも言葉が震えているのが分かった。
誰にも言っていない本音を見透かされるのは苦しい。でも、その苦しさが救いにも思えた。
蒼真は私の表情を覗き込み、柔らかく微笑む。
「生きてると、いろんなものが重荷になるんだね」
「あなたには……重荷って、あるの?」
「ないよ。僕は人じゃないから。
でも——人みたいに生きてみたいとは思う」
その声は、触れたら消えてしまいそうに儚かった。
◆
その日の夜、境内で蒼真はいつもより“薄かった”。
手を伸ばせば、触れられそうで触れられない。
「蒼真……?」
「僕の時間、あと一日だよ。
三日目の夜には、神のもとへ還る。それが決まりだから」
胸がぎゅっと掴まれる。
「戻りたく……ないの?」
「うん。君と話している時間が、あまりに楽しくて。
これが“生きたい”って気持ちなのかなって思ったんだ」
その言葉に、涙がこぼれた。
彼は私に近づこうとして、できずに足を止めた。
「泣かないで、ひかり。
君のおかげで、僕は初めて、人の心に触れたんだよ」
◆
三日目の夜。
境内に誰もいない時間を見計らって、私は願い桜の前に立った。
蒼真はほとんど光のように薄く、風に溶けてしまいそうだった。
「ひかり。ありがとう。
君に会えて、僕は……満たされたから」
「満たされたなら、消えていいの!?
私は……私は嫌だよ……!」
膝が震えた。
息も苦しい。
神職の家の娘がこんなことを言うのは間違っている。
それでも声が止まらなかった。
「消えないで……蒼真。
お願いだから、行かないでよ……!」
私は桜の前に手を合わせた。
祈りの言葉が勝手に口からこぼれ落ちる。
古くからの祝詞が、涙と一緒に流れる。
「この子を……連れていかないでください……!
どうか……どうか……!!」
願い桜が眩しく光り出す。
蒼真の身体が揺らぎ——
「ひかり」
桜の音がしたような気がした。
気づけば蒼真が、すぐ目の前にいた。
手を伸ばせば届く距離。
触れたかった。
でも、触れてしまったら終わりだと理解していた。
「願ってくれて、ありがとう。
でも、僕の役目はもう変えられないよ」
「そんなの……そんな……!」
蒼真は優しい顔で笑う。
泣いている私より、なぜか嬉しそうに。
「君の願いがあったから、僕は最後の瞬間まで“生きたい”と思えた。
それだけで十分なんだ。
ひかり。君は、君の未来を生きて」
光が舞い散った。
蒼真の輪郭が崩れ、桜の花弁のように夜空へ溶けていく。
「蒼真!!」
叫んでも、もう声は届かない。
最後に残ったのは——青く淡い、一枚の光る花びらだけだった。
◆
数日後、桜は普通の桜に戻り、蒼真の気配はどこにもない。
でも私は、あの夜の光を忘れない。
蒼真が言ってくれた言葉も、
触れたら消えるほど儚かった笑顔も、
全部、胸の奥に刻まれている。
だから私も、前に進む。
都会に行く夢を、今度こそ本当に叶えるために。
「蒼真……見ててね。
——私、ちゃんと生きるから」
願い桜の根元で呟くと、風がそっと髪を撫でた。
まるで、「大丈夫だよ」と言ってくれたように。




