闇市の囚われの少女
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夕暮れの光が、領主館の大広間を朱に染めていた。
静謐な時間を破ったのは、泥に汚れた鎧を鳴らしながら駆け込んでくる兵士の声だった。
「領主様、ただいま戻りました!」
膝をついたのは、兵士ベルンハルト。歴戦の槍兵でありながら、その表情には焦燥が浮かんでいた。
視線が集まる。領主ライナルトは重厚な椅子に腰を掛け、皺を刻んだ額に険しさを増した。
娘リリアーネは読んでいた書を閉じ、立ち上がる。家令クラリスは細い指で扇をたたみ、隣席の魔女セリナはワインの杯を軽く揺らしている。そして一番奥の席に、黒衣の男――ディランが黙して座していた。
「何があった」ライナルトの声は低いが、響き渡った。
「はっ……街道沿いの村々に、不穏な噂が広まっております。闇市が……」
その言葉に、空気が一気に緊張へと傾く。
「闇市……」クラリスが眼鏡越しに目を細める。「盗品や禁制薬物の取引ならまだしも、この辺境でそんな組織的な市場が?」
「それだけではございません」ベルンハルトは唇を噛んだ。「奴隷の売買が行われているとのこと……」
言葉が終わるか終わらぬかのうちに、リリアーネが椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「奴隷!? なんてこと……! この領地で、そんな非道が!」
「落ち着け、リリアーネ」ライナルトは厳しい声で制する。
だが娘は拳を握り、青い瞳を怒りに燃やしていた。
「父上! もし本当なら、一刻を争います! 無辜の人々がどれほどの目に遭っているか……!」
セリナが紅の唇を歪め、杯を置いた。
「まぁまぁ。熱いことですこと。けれど、確かに見過ごせませんわね。……ねえ、ディラン様?」
黒衣の男は、窓の外に目をやり、低く答えた。
「……俺が行く」
短い一言。だがその場にいた全員の呼吸が止まるほどの重みがあった。
「なにを申す、ディラン殿!」ライナルトが身を乗り出す。「盗賊どもが徒党を組んでいるならば、危険は計り知れん!」
「盗賊風情に遅れを取るつもりはない」
淡々と放たれた声には、揺るぎない自信と冷徹さが宿っていた。
クラリスがくすりと笑い、扇を口元に寄せた。
「やはり頼もしい。ですが、せめて護衛は必要ですわ。リリアーネ様、あなたも行かれるのでしょう?」
「もちろんです!」リリアーネは迷いなく言い切った。
「人々を救うためなら、この剣を振るいます!」
セリナも肩を竦めながら腰を上げた。
「ではわたしも。面白い品物があれば……いえ、人助けをしましょう」
「戦利品を探すつもりだろう」ディランがぼそりと呟くと、セリナは妖艶に笑った。
こうして一行は調査に赴くこととなった。
翌日、街道沿いの小村。
茅葺き屋根が並ぶ素朴な集落は、どこか沈鬱な空気に包まれていた。
馬を引く農夫にリリアーネが声をかける。
「すまない。最近、妙な商人を見かけなかったか?」
農夫は一瞬躊躇した後、声を潜めて答えた。
「……あんたら、領主様の方々か? なら話す。夜な夜な、森の外れに奴らが集まっとる。獲物は……女や子どもだ」
「やはり……!」リリアーネの瞳が怒りに揺れた。
「けど、言わない方が身のためだ。口を割った村人もおるが、次の日にはいなくなってな……」
農夫の恐怖に満ちた顔を見て、ディランは静かに言った。
「安心しろ。もう誰も攫われはしない」
その声音に、農夫の肩が震え、わずかな安堵の色が浮かんだ。
夕刻。森へと踏み入る前、隊は装備を整えていた。
リリアーネは剣を磨き、クラリスは薬瓶を確認し、セリナは呪符を編んでいる。
一方のディランは、闇に溶けるような漆黒の外套を羽織り、腰に短杖を差した。
「相変わらず簡素ね」セリナが肩をすくめる。
「必要最低限でいい」ディランは答える。
「ふふ。けれど、その“最低限”で全員を守るつもりなのでしょう?」
ディランは返答せず、森を見やった。夕陽が沈み、影が濃くなっていく。
森に足を踏み入れると、湿った空気と夜の気配が彼らを包んだ。
遠くで梟が鳴き、枝葉が揺れるたびに小さな影が走る。
兵士たちは緊張に喉を鳴らしたが、ディランは平然と歩みを進めていた。
「怖くはないのですか」クラリスが問う。
「闇は俺の領域だ」
淡々と返すディランに、リリアーネは不思議そうに彼を見つめる。
「闇が……領域?」
「そのうち分かる」
セリナはくすりと笑い、囁いた。
「女の子はそういう謎めいた言葉に弱いものよ」
「な、なっ……! わたしは別に!」リリアーネが顔を赤らめると、クラリスが静かに「ふむ」と眼鏡を押し上げた。
そうした掛け合いの裏で、森は次第にざわつき始めていた。
小道の奥からかすかな灯りが漏れる。
――闇市は、すぐそこだ。
⸻
森の奥深く、忘れ去られた廃村がある。
かつては街道を行き交う旅人たちの休息地として栄えていたが、魔獣の襲撃や疫病の流行で人々が去り、今では崩れた壁と枯れた井戸だけが残る幽霊村となっていた。
だが――その夜だけは違った。
闇に沈む廃屋のあちこちに篝火が焚かれ、赤い炎が不気味に揺れている。
炎の明かりに照らされて、粗野な笑い声と金属のぶつかる音が響き渡った。
かつて子どもたちが遊んだ広場は、今や汚濁の市場へと変じている。
――闇市。
盗賊と人買いが結託し、禁じられた品々を取引する違法の市。
禁制薬物、盗まれた武具、異国の宝飾品……そして――人。
檻に押し込められた人間たちが、松明の赤に照らされて震えていた。
骨ばった男が呻き声を漏らす。痩せこけた子どもがすすり泣く。
女たちは口に布を詰められ、恐怖に目を見開いている。
その一人一人に札が下げられ、値段が付けられていた。
「おい見ろ、この女は若いぞ! まだ十六になったばかりだ!」
「鉱山奴隷にぴったりの骨太の男だ! 五年はもつ!」
「こっちの子どもは声が綺麗だ。歌わせて慰み者にでもどうだ!」
粗野な掛け声が飛び交い、笑い声が混ざり合う。
金貨袋が投げ渡されるたびに、誰かの運命が無情に値段へと変わっていった。
人の尊厳が取引の対象となる、その異様な光景。
広場の中央、ひときわ厳重な檻があった。
鉄格子には鎖が幾重にも巻かれ、二人の盗賊が常に張り付いている。
他の囚人と違い、檻の中にはただ一人。
――獣耳の少女。
年の頃は十四、十五ほどか。
淡い灰色の髪が乱れ、尖った獣耳がぴんと立ち、恐怖に震えていた。
背には布切れ同然の衣しか纏っていない。
瞳は琥珀色で、涙の粒が光を受けてかすかに輝いていた。
「見ろよ、珍しい獲物だぜ」
「獣人の娘なんざ、辺境じゃなかなかお目にかかれねぇ。高く売れるぞ」
「しかも耳と尾が揃ってる。欠けも傷もねぇ……貴族様が飛びつくに決まってる」
見張りの盗賊たちはいやらしい笑いを漏らした。
少女は必死に後ずさり、尻尾を抱き寄せる。
(やだ……やだ……! こんなところで……売られるなんて……)
思い出すのは数日前のこと。
森に暮らす獣人の里に、突如として盗賊が襲いかかった。
焚き火を囲んでいた仲間が斬り伏せられ、母が叫びながら自分を庇い、そして視界が暗転した――。
「おかあ……さん……」
掠れた声が零れた。
だが、その声はすぐに鞭の音にかき消された。
「うるせぇ! 泣き喚くんじゃねぇ!」
「大人しくしてろ。どうせすぐに売られていくんだ」
鞭の痛みに、少女の身体は震え、瞳から涙があふれる。
檻の外では、すでに買い手の視線が集まり始めていた。
絹のマントを羽織った肥えた男。金の指輪をいくつも嵌めた商人。
そして、冷酷そうな顔立ちの貴族風の男。
「ほう……獣人の娘か。まだ幼いが、悪くはない」
「耳も尾も完全だ。品種としては上等だな」
「値は張るが……俺の屋敷に飾るにはちょうど良い」
彼らの声が、少女の心をさらに締め付ける。
身体が小刻みに震え、心臓が破裂しそうなほどに高鳴った。
(いやだ……助けて……! 誰か……!)
しかしその祈りは、夜の喧騒にかき消されていく。
檻の中は、夜の空気が淀んでいた。
湿った土と錆びた鉄の臭い。腐った藁が敷かれているが、そこからは酸っぱい臭気が立ちのぼり、吐き気を誘う。
獣耳の少女――ミュナはその隅に小さく身体を縮めていた。
両手首には鉄の枷がはめられ、鎖で背後の鉄格子に繋がれている。少しでも身じろぎすれば、錆びついた鎖がぎりぎりと軋んで音を立てた。
身体は痩せて小さく、まだ年端もいかない。だがその耳と尾は柔らかな毛並みを持ち、獣人の特徴をよく表していた。
その珍しさゆえに、今まさに商品として値踏みされようとしているのだ。
(……なんで、わたしが……こんな目に……)
心の中で、ミュナは何度も自問した。
思い返すのは数日前の出来事――あまりに突然の襲撃だった。
⸻
彼女の故郷は森の奥の小さな獣人の集落だ。
人間たちとは距離を置き、狩りと採集で慎ましく暮らしていた。
木の実を採り、川で魚を獲り、母が煮込む野草のスープを食べて笑い合う――それがミュナにとっての「世界」だった。
「ミュナ、今日はこれを干すのを手伝っておくれ」
「はーい、おかあさん!」
母の笑顔は、陽だまりのように優しかった。
里の仲間たちも皆温かく、子どもたちは耳や尾を揺らして駆け回り、長老たちは昔話を語って聞かせてくれた。
そのどれもが、何よりも大切な日常だった。
けれど。
それは、血と炎にあっけなく呑み込まれた。
⸻
森に響いたのは、怒号と剣戟の音だった。
黒ずくめの盗賊たちが突如として集落に雪崩れ込み、矢が放たれ、火が放たれた。
仲間が次々と倒れ、悲鳴が夜空を裂く。
「逃げろ、ミュナ!」
母が叫び、彼女の手を強く握った。
だが、その腕はすぐに荒々しい力で引き裂かれた。
「この娘だ! 獣人の娘だ!」
「捕まえろ、売れるぞ!」
屈強な男たちが笑いながら迫ってくる。
母が必死に抗ったが、あっという間に殴り倒され、血を吐いて地面に崩れ落ちた。
「おかあさんっ!」
叫ぶ声も、布を噛まされて塞がれた。
視界が涙で滲み、意識が闇に飲まれていく。
――そして目を覚ませば、この檻の中だった。
⸻
(おかあさん……生きてるの……?)
答えはない。
あの時、倒れた母の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
助けに行きたい、でも檻からは出られない。
鎖に繋がれたまま、ただ恐怖に震えるしかないのだ。
篝火の赤に照らされる闇市の喧騒。
人々の売買の声は絶え間なく響き続ける。
「こいつは腕力があるぞ、鉱山用だ!」
「この子どもは歌えるらしい、舞姫に仕立てろ!」
「ははは、もう少し泣かせてみろ! その方が値が上がる!」
耳に入る言葉はどれも人を人と見なしていない。
ミュナは耳を塞ぎたい衝動に駆られたが、鎖が邪魔をして自由に動けない。
小さな肩が震え、尾が縮こまる。
(わたしも……このまま……どこかに売られて……)
想像するだけで、呼吸が詰まりそうだった。
母のいない場所で、知らない人間に連れて行かれ、道具のように扱われる――。
未来が黒い闇に塗り潰されていく。
⸻
やがて檻の前に一人の男が立った。
黒い外套を羽織り、目つきの鋭い盗賊の頭目だ。
片手には金貨袋を握り、もう片方で檻の格子をがんと叩いた。
「聞け、小娘。お前は今夜、この市で売られる。買い手は貴族だ。お前の耳と尾なら、高値で落とされるに違いねぇ」
「……っ」
「泣いても喚いても無駄だ。お前の運命は、すでに決まってるんだよ」
言葉は冷たく突き刺さり、心を凍りつかせる。
ミュナの瞳から、再び涙が零れ落ちた。
(……助けて……誰か……)
その祈りは、闇夜の中に溶けていった。
夜の森を吹き抜ける風が、枝葉をざわめかせた。
月明かりの下、黒衣の男が木陰を縫うように歩を進める。
――ディランである。
彼は辺境伯領に新たに任じられて以来、村々を見回り、盗賊退治を続けていた。
その最中、耳にしたのだ。
「廃村で開かれる闇市」――人を奴隷として売買する闇の取引の噂を。
(……放ってはおけない)
彼の足取りは静かで、気配は風と同化する。
闇に生きる魔法使い――その本領を発揮する場であった。
⸻
やがて、篝火の赤が木々の間からちらついた。
笑い声と怒号が混ざり合い、獣の唸りにも似たざわめきが夜気を震わせる。
(ここか……)
ディランは視線を巡らせ、数を数える。
――見張りが十人。
――広場に集まる商人や貴族風の客が二十。
――盗賊の一団、おそらく三十はいる。
力任せに突っ込めば数で圧倒される。
だが、彼は口元に微笑を浮かべた。
(闇は……俺の領分だ)
掌を広げると、黒い霧が指の間から滲み出す。
それは夜の闇と溶け合い、音もなく広場を包み始めた。
⸻
「なんだ……? 火が……霞んで……」
「ぐっ、目が……! なんだこれは!」
盗賊たちが慌てて叫ぶ。
篝火の赤は黒に呑まれ、光は掻き消されていく。
見渡せば、夜よりも深い闇が渦巻き、方向すら分からなくなる。
「馬鹿な、夜霧か? いや……これは魔法だ!」
「魔導士がいるぞ! 皆、警戒しろ!」
動揺の声が飛び交う中、一人の影が音もなく踏み込んだ。
その瞬間、盗賊の一人の喉が闇の刃に裂かれた。
呻き声を上げる暇もなく崩れ落ちる。
「な、何だっ! 見えねぇっ!」
「う、後ろだっ!」
次々と悲鳴が上がる。
視界を奪われた盗賊たちは、敵の位置すら掴めない。
その間に、闇の刃は静かに、確実に命を刈り取っていく。
⸻
一方で、檻の中のミュナは震えていた。
突然広場を覆った黒い闇。
盗賊たちの悲鳴と、血の匂い。
(なに……? なにが起きてるの……?)
恐怖と希望が入り混じる。
彼女の視線の先、檻の前に人影が現れた。
黒衣を纏い、闇を背負った男――ディランだった。
彼は無言で鉄格子に手をかざした。
低く呟いた言葉と共に、格子が黒く腐食し、音もなく崩れ落ちる。
「……大丈夫か?」
その声は驚くほど穏やかだった。
ミュナの目に涙があふれる。
「た、助け……て……」
「ああ、必ず」
彼は少女の枷に触れ、闇の力で鎖を断ち切った。
自由になった腕を抱きしめるミュナに、ディランは外套を掛ける。
「少しの辛抱だ。すぐにここから出す」
「……うん……」
⸻
だが、広場の混乱は収まらない。
盗賊たちの中から、ひときわ大柄な男が姿を現した。
傷だらけの顔に、眼光だけが爛々と輝いている。
「……お前か、魔導士!」
頭目が唸るように叫んだ。
「闇を操るとは……いい獲物を連れてきやがった!」
手にした大斧を振りかぶり、闇を裂くように突進してくる。
その一撃は大地を抉り、檻を粉砕するほどの力を秘めていた。
「くっ……!」
ディランはミュナを抱き寄せて身を翻す。
風圧が髪を撫で、背後の地面がえぐれる。
「小娘を返せ! そいつは俺の金づるだ!」
「……くだらない」
ディランの瞳に冷たい光が宿る。
掌から奔る闇が、大斧を包み込み、軋ませる。
「な……馬鹿な……!」
「闇に飲まれろ」
刹那、大斧ごと男の腕が闇に呑まれ、悲鳴と共に消え失せた。
頭目は膝をつき、地に倒れ伏す。
広場を覆う闇の中、盗賊たちは総崩れとなった。
⸻
静寂が訪れる。
篝火は消え、夜の森は再び暗闇に支配されていた。
「……もう、大丈夫だ」
ディランは腕の中のミュナを見下ろした。
彼女は震えながらも、必死に頷いた。
涙に濡れた瞳が、初めて希望の光を映していた。
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