束の間
春の気配が、ようやく辺境の村にも届き始めていた。
雪解け水が細い流れをつくり、森の中をさらさらと音を立てて走っていく。
ディランたちがバルゼナ王国から戻って数日。
あの地での戦いの余波がようやく心から薄れ、村には穏やかな時間が流れていた。
領主館の前の広場では、ミュナが籠を抱えて駆け回っている。
中には採れたての野菜と、朝焼け色の果実がぎっしり詰まっていた。
「ねぇねぇディラン! これ見て! 今年はすっごく甘いの!」
息を弾ませながら差し出した果実を、ディランは片手で受け取る。
「……ほんとだ。陽がよく当たったんだな」
「でしょー! あたしが毎日、魔法で虫を追っ払ったんだもん!」
ミュナは胸を張り、誇らしげに笑った。
その声に、遠くで畑仕事をしていた老人たちが目を細める。
「まったく……お前が村に来てから、ここは賑やかになったもんだ」
ディランが微笑むと、ミュナは照れたように笑って肩をすくめた。
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昼下がり。
領主館の庭先では、リリアーネとクラリスが並んで洗濯物を干している。
白いシーツが風に揺れ、陽光を受けてきらめく。
「クラリス姉様、最近ディラン様のところ、ずっと人が絶えませんね」
「まあね。魔法の相談から村の水路の調整まで、何でも屋みたいだわ」
クラリスは笑いながら言い、リリアーネの髪にくっついた花びらを取ってやる。
そこに、木陰からセリナが顔を出した。
腰には双剣。けれど今日は戦装束ではなく、軽い上着に膝丈のスカート姿。
「相変わらず女子会か。こっちは朝から村外れの魔獣退治だってのに」
リリアーネが笑みを浮かべて返す。
「お疲れさま、セリナさん。お昼にスープ作っておきましたから、食べていってくださいね」
「……そういうの聞くと、ちょっとだけ頑張ってよかった気がする」
セリナはそう言って剣を壁に立てかけ、
「そういやあんたのとこの弟子、今日は畑にいたよ。
土まみれでなにか叫んでたけど……あれ、呪文なの?」
「ええ……まあ、ミュナ流の“祈り”みたいなものです」
クラリスが微笑みながら答える。
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その頃、エルシアは森の奥の薬草小屋にいた。
薄い金髪を三つ編みに結い、細い指先で乾いた薬草を粉にしていく。
彼女はこの村に来て半年。
元は王家の最後の生き残り。
ディランたち以外にはその出自を知られていない。
扉が軋んで開き、ミュナが顔を出す。
「エルシア! また難しい顔してるー! 森が怖がっちゃうよ!」
「……怖がるのは、あなたの声の大きさだと思うけど」
小さくため息をつきながらも、エルシアは口もとに微笑を浮かべた。
「ディラン様の肩、まだ痛むんじゃない?」
「少しね。でも彼は気にしていないみたい。
……それより、また“闇”の気配が強まってきてる」
エルシアは粉薬を瓶に詰めながら、低く呟いた。
ミュナが不安そうに首を傾げる。
「やっぱり、また悪いことが起きるの?」
「……わからない。でも、ディラン様は必ず動く。
その時は、私たちも支えるの」
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夕刻。
ディランは村の丘に立ち、沈みゆく陽を見つめていた。
遠くで子どもたちが笑い声を上げ、家々の煙突から白い煙が上がる。
辺境の村は決して豊かではない。
けれど、そこには人々の温もりがあった。
ふと隣にイリスが立つ。
砂漠育ちの彼女にとって、この冷たい風はまだ少し肌に痛い。
「この村……いい匂いがする。パンと草の匂い」
「戦いの匂いがしない場所だからな」
ディランの声は穏やかで、けれどどこか寂しげだった。
イリスは彼の横顔を見つめる。
「あなたがこの村を守りたい気持ち、少しわかる気がする。
でも、私たちの血が狙われてるなら、逃げることはできないね」
「……ああ。けれど、守るために戦う。それだけは変わらない」
風が、二人の間を静かに通り抜けた。
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その夜。
領主館では、ライナルトを中心にした小さな宴が開かれていた。
長い戦から戻った仲間たちへのねぎらいだ。
大きなロースト肉、村で採れた野菜のスープ、クラリス特製の蜂蜜酒。
笑い声が夜気に混じり、灯火が揺れる。
「ディラン殿。王都からの報せが途絶えがちだと聞いた。
気になることがあれば、遠慮なく言ってくれ」
「……ありがとう、ライナルト。今はただ、この時間を味わいたい」
そう言って、ディランは杯を掲げた。
「この村に――そしてここで生きるみんなに、幸あれ」
杯がぶつかり、笑いが溢れる。
ミュナがリリアーネのスカートを引っ張りながら「おかわり!」と叫び、
セリナは半分酔った声で「戦う前に飲みすぎるなよ」と笑う。
エルシアは窓辺で星を見上げ、静かに祈るように呟いた。
「――どうか、この夜が少しでも長く続きますように」




