幻奏の国
霧が立ち込める夜明け。
遠くで笛のような風が鳴り、廃墟となった街の尖塔をなでていく。
かつて「音楽と学問の都」と称されたエルミナは、今や沈黙に包まれていた。
ディランたちが到着したのは、王血会談から十日後。
レグナント王国より派遣された偵察団の報告では、街の音楽院を中心に異常な魔力反応が観測されたという。
まるで“音”そのものが呪われているかのように、夜な夜な音色が人々を狂わせていた。
「……まるで音が泣いてるみたいだな」
セリナが呟いた。双剣を背に、瓦礫の上を慎重に歩く。
「エルミナは“音の魔導”の発祥の地。
音を媒介に魔力を操る術が確立された場所だ」
ディランが応える。
その手の中で、黒の杖が微かに共鳴していた。
「つまり、敵は音を魔法の核にしてる……?」
イリスが眉を寄せた。
「おそらく。
そしてその術を極めた者が――《幻奏》の名を冠している」
ディランの声が低く響く。
「“八魔将”のひとり、《幻奏のリュシフェル》」
アルノルトが腰の剣に手を添え、周囲を警戒する。
「音で人を操るなんて……厄介な相手ね」
「音は空気そのもの。逃れようがない」
ディランの言葉に、誰もが緊張を強めた。
街の中心部、王立音楽院。
白い大理石のホールが、崩れかけた姿を晒している。
かつてここで無数の楽曲が生まれ、詩人と学者が語り合った。
今は、黒い靄が天井から垂れ下がり、そこから微かに音が漏れている。
「ディラン……聴こえる?」
イリスが小さく囁いた。
確かに――聴こえた。
柔らかく、美しい音。
だが、その奥には人の悲鳴が混じっている。
「これは……“人の声”を音に変えてる……!」
セリナが青ざめる。
「……魂を楽器に変える禁術か」
ディランの瞳が闇を見つめた。
「音そのものが生きている――いや、囚われている」
音楽院の奥から、誰かがピアノを弾くような旋律が流れてきた。
その音に合わせ、崩れた床の上の魔法陣が光を帯びる。
「来るぞ!」
ディランが叫ぶ。
黒い靄が渦を巻き、人の形を成していく。
その姿は、弦楽器を抱えた人影――。
頭には仮面。目は空洞。
まるで人形のように動く影が十体、二十体と現れた。
「演奏者……リュシフェルの眷属ね!」
アルノルトが剣を抜いた。
「セリナ、援護を!」
「了解!」
双剣が閃き、影を裂く。
刃が通るたびに、悲鳴のような音が響く。
「……やめて、彼らは……!」
イリスが苦しげに叫ぶ。
「この音、どこかで聴いたことがある……!」
ディランが一瞬だけ振り返る。
「――知っているのか?」
「エルミナの民の祈りの歌……。
この旋律は、街の人たちの“最後の合唱”よ!」
ディランの表情が凍る。
「……つまり、奴は彼らの魂を利用しているのか」
音楽院全体が震え始めた。
瓦礫が浮かび、光の粒が舞う。
まるで“世界そのもの”が楽器となって鳴り響くように――。
やがて、その音は一つの旋律へと収束した。
光の中心に立つ影。
長い白銀の髪。
仮面のように整いすぎた顔。
その唇がわずかに動くと、音の波が空間を震わせた。
「……ようこそ、我が楽園《オルフェウスの檻》へ」
男――幻奏のリュシフェルが微笑む。
「君たちも“音”になりに来たのか? それとも、破壊しに?」
「貴様の音は呪いだ」
ディランの声が響く。
「その旋律に囚われた者たちの声が、泣いている!」
「泣く? 違うさ」
リュシフェルが柔らかく笑う。
「これは祝福だ。
苦しみも喜びも――すべて音に変えて、永遠に奏でているだけだ」
「そんなもの、ただの支配だ!」
セリナが双剣を構える。
「支配……? ならば“君たちの心”も調律してあげよう」
リュシフェルが弦を弾いた。
瞬間、空気が震え、視界が歪む。
イリスが膝をつく。
「……頭が……! 音が、脳に響いて……!」
「精神干渉系の音波魔法か!」
ディランが杖を掲げ、闇の結界を展開する。
「《虚界障壁》――!」
波動が押し返され、音が一瞬途切れた。
しかしリュシフェルは余裕の笑みを崩さない。
「その力……まるで、闇そのものだね。
――君こそ、最も美しい音を奏でられるかもしれない」
ディランの目が細まる。
「……黙れ」
「では、聴かせてもらおうか」
リュシフェルが両手を広げる。
周囲の影たちが再び弦を弾く。
不協和音の嵐が吹き荒れ、街そのものが共鳴を始めた。
闇と音がぶつかる。
魔力の波が瓦礫を砕き、空が裂けた。
「《黒弦の呪詠》!」
ディランが詠唱を走らせ、杖を振り下ろす。
黒い魔力の弦が空間に張り巡らされ、リュシフェルの音波とぶつかり合った。
「美しい……!」
リュシフェルが恍惚と笑う。
「まるで二重奏だ。闇と音――これほど調和するとは!」
「調和じゃない、断絶だ!」
ディランが叫ぶ。
「お前の旋律は、命の尊厳を踏みにじるものだ!」
イリスが倒れた市民の影に祈りを捧げる。
セリナとアルノルトが突撃し、リュシフェルの結界を斬り裂く。
「今だ、ディラン!」
「……ああ!」
杖が輝き、黒い雷が奔る。
「《闇穿つ断章》――!」
黒光がリュシフェルを貫いた。
空間が歪み、旋律が途絶える。
リュシフェルは微笑みを崩さず、口を動かした。
「……やはり、美しい音だった……ディラン……」
その体が霧となって消える。
残されたのは、静寂。
戦いの後、街にはようやく本物の“音”が戻った。
風の音、鳥の声、人々の泣き声。
そのすべてが、痛いほど生きていた。
「……これで、少しは報われたのかしらね」
セリナが呟く。
ディランは静かに頷いた。
「彼らの旋律はもう自由だ。
だが――まだ六体、残っている」
イリスが顔を上げる。
「なら、私たちは……一緒に進むわ」
ディランは微笑んだ。
「ああ。もう“音”を奪わせはしない」
その空に、黒い月が一瞬だけ揺らめいた。
まるで、残る魔将たちが次の“楽章”を奏で始めたかのように。
しかしこれは束の間の沈黙だった。
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