月下の契り
楽しんでください。
夜の森は、静まり返っていた。
虫の声すら遠ざかり、ただ、川のせせらぎだけが時間を刻んでいる。
ディランの村の外れ、小さな小川。
月が鏡のように水面を照らし、その光がふたりの姿を淡く包んでいた。
リィナは裸足で浅瀬に立ち、両手を水に浸していた。
冷たいはずの水が、妙に温かく感じられる。
指先に、微かに疼く熱。あの“紋”がまた動いていた。
「……また、痛むの?」
声をかけたのは、木陰から現れたエルシアだった。
彼女は薄い外套を羽織り、月明かりを受けて白銀の髪を光らせている。
「ええ。まるで、誰かが呼んでるみたい」
リィナは小さく笑う。
「血の中から、何かが目覚めようとしている。……私自身の中に、他人の意志があるような」
エルシアは静かに頷いた。
「“王の血”には、かつての契約が宿っているの。
それは、国を護るための“聖約”であり――同時に、“呪い”でもあるわ」
リィナは振り向く。
「あなたも……その血を持っていたのね」
エルシアは目を伏せる。
「かつて、私の国も王の血を中心に栄えていた。けれど、滅びの瞬間にその血は“鍵”にされた。
魔族にとって、王血とは“扉”なの。――人の世界と、彼らの冥界を繋ぐ扉」
「……扉を、開くために使われたのね」
「ええ。そして、私だけが“閉じる者”として生かされた」
エルシアの声は静かだったが、その奥に燃えるような決意があった。
リィナは小川の水をすくい、月光を映す。
「でも、私……怖いの。
あの時、オルグラを封じた瞬間、自分の血が“何かを喰らう”ような感覚がした。
それが私の力なのか、呪いなのか、もうわからない」
エルシアは一歩近づき、リィナの手を取る。
その手を包み込むように握りながら、静かに囁いた。
「リィナ。血は、呪いにも祝福にもなる。
“選ぶ”のは、血ではなく、あなた自身よ」
「……選ぶ?」
「そう。血が過去を縛るなら、意志は未来を開く。
あなたが誰かを護りたいと願う限り、血は“鍵”ではなく、“盾”になる」
リィナの瞳に涙が滲んだ。
月光がその頬を照らし、淡く光る。
「ありがとう、エルシア。……あなたの国の人は、皆、こんなに強かったの?」
エルシアは少しだけ笑って答えた。
「いいえ。私はただ、もう誰かを失いたくないだけ。
そして――あなたも、同じだと思う」
リィナは頷いた。
その瞬間、胸の中の紋がわずかに脈打ち、月光に溶けて薄く光を放つ。
エルシアが目を細め、指先で印を描いた。
「“闇を閉じる契り”――私の血とあなたの血を、一時だけ繋ぐ。
これで、あなたの中の影は鎮まるはず」
リィナが小さく息を呑む。
冷たい指先が手首に触れ、二人の血が月明かりの下でひとしずく混ざり合う。
水面に波紋が広がり、風が吹いた。
夜の森が一瞬、息を止めたように静まり返る。
「……これで、しばらくは大丈夫」
エルシアは微笑み、手を離した。
リィナの胸の紋が、今は穏やかな光だけを放っている。
「エルシア、あなたも……無理しないで」
「ええ。私たちは、もうひとりじゃない」
その時、少し離れた木陰から、ディランが静かに姿を現した。
彼は二人を見つめ、わずかに頷いた。
「……契りは終わったか」
「ええ。けれど、これで全て終わりじゃない」
エルシアが答える。
「むしろ、ここから始まる。――“幻奏”の旋律は、もうこの国にも届いている」
ディランの瞳がわずかに光を帯びる。
夜風が吹き抜け、月光の中で三人の影が重なった。
遠く、風に混じって、かすかに聞こえる笛の音。
甘く、哀しく、どこか懐かしい旋律。
それが、リュシフェルの“幻奏”だった。
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