前奏曲
見てください!
砂嵐が遠のき、金の大地が緑へと変わる。
ザルハン王国の国境を越えた瞬間、リィナは小さく息をついた。
「……空の色が違うのね」
「砂の色を映す空とは違う。ここは“水”の空だ」
ディランが短く答える。
風が湿っていて、草の匂いがした。長い旅の果てに戻った故郷の匂いだった。
セリナは手綱を緩め、馬の首を軽く叩く。
「帰ってきたわね。村の皆、元気だといいけど」
背後でリィナがかすかに微笑む。
「あなたたちの“村”。聞いた時から少し気になってたわ」
「ただの片田舎よ。でも、きっと気に入る」
セリナの言葉に、ディランは無言で頷いた。
――そう。
幾多の戦場を越えても、この村だけは変わらない。
杖を置き、心が人に戻る場所。
この地に帰ってくるたび、ディランは「まだ帰るべきものがある」と思い出す。
村は穏やかな午後の光に包まれていた。
子どもたちの笑い声、井戸の水を汲む音。
ミュナが畑の端で腰をかがめ、土の上に並ぶ芽を優しく撫でている。
「ミュナ!」
セリナが手を振ると、ミュナは顔を上げ、ぱっと笑顔になった。
「セリナ! それに……ディラン!」
駆け寄ってきたミュナは勢いのままディランに抱きつく。
「無事だったのね! みんな、帰ってこないんじゃないかって……」
「悪い、少し長くなった」
ディランの声は不器用なほど静かだった。
ミュナはその腕の中で目を細める。
「いいの。帰ってきてくれたなら、それで」
その様子を見て、リィナは少し頬を赤らめた。
「……とても、温かい村なのね」
ミュナが気づいて微笑む。
「あなたが、ザルハンの王女様? 大変だったって聞いたけど……よく来てくれたわね」
リィナは小さく頭を下げる。
「戦の終わりを、この目で確かめたくて。あなたたちが守ってきた“平和”を見たいの」
その言葉に、ミュナの表情が柔らかくなった。
「なら、うちでお茶でも飲んでいって。……ねぇエルシア!」
声をかけると、家の奥から一人の少女が現れた。
白銀の髪、深い青の瞳。
その瞳の奥には、静かな光と古の影が共に宿っていた。
彼女――エルシアは、穏やかに微笑んで近づいてきた。
「おかえりなさい、ディラン。長い旅だったみたいね」
その声音には、どこか凛とした品位がある。
村では穏やかに暮らしているが、その姿の奥には“王族”としての風格が見え隠れしていた。
「無事でよかったわ。あなたがいない間、村は少し落ち着かない空気だったのよ。
……森の奥で、何かが目を覚まそうとしている」
ディランの眉がわずかに動く。
「感じていたか」
「ええ。地脈の流れが揺れているの。特に――」
エルシアは、リィナの方を見た。
「あなたの血に、それが触れているわ」
リィナは思わず胸元を押さえる。
そこに赤黒い紋が浮かび、かすかに熱を放っていた。
「……やはり、封印の時の影響がまだ……」
ディランが低く呟く。
「それだけじゃないわ」
エルシアの声が静かに鋭くなる。
「その紋は、あなた自身の“王血”に干渉してる。
魔王の残滓は、王の血を鍵として“再誕の門”を開こうとしているの」
「門……?」
セリナが息を呑む。
「八魔将の一人、“幻奏リュシフェル”が動いている。
彼の音は、心を侵し、夢を現実にする。
この村の北にある古代の遺構――“ルシオンの回廊”が、次の標的になるはず」
リィナの顔が凍りつく。
「じゃあ……私の血を使って、その門を開くつもりなの?」
「可能性はある。でも、まだ間に合う」
エルシアはリィナの手を握る。
「あなたの血を“契約”によって護るの。
ディラン、あなたの闇の魔力なら、その器を守れるはず」
ディランはゆっくり頷いた。
「……わかった。だがその前に、王都へ報告がある。
バルゼナ、ザルハンとの同盟を正式に結ばねばならない」
「そうね」
エルシアは遠くを見つめる。
「この世界の“王血”が、今、何者かに狙われている。
それが“再誕”のためなのか、“滅び”のためなのか――見極めないと」
その夜、村には小さな宴が開かれた。
子どもたちが灯した篝火のそばで、ミュナが笑い、セリナが酒を振る舞う。
リィナは焚き火を見つめながら、静かに呟いた。
「この光……砂の夜には、なかったものね」
エルシアが隣に座り、微笑む。
「砂漠の星は空にあるけど、この国の星は地に灯るの」
リィナはその言葉を胸の奥で反芻し、火を見つめ続けた。
彼女の血の中で、赤い紋が淡く揺れる。
その光はまるで、封印された“何か”が目覚めを待っているかのように。
その光景を、ディランは少し離れた場所から見ていた。
闇の中、風が頬を撫で、彼の黒衣を揺らす。
「……静けさの中でこそ、嵐は生まれる」
そう呟きながら、彼は夜空を見上げた。
星々の奥に、見えぬ“音”が響いていた。
それは――“幻奏リュシフェル”の前奏曲だった。
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