血の契約
楽しんでください。
――夜が裂けた。
地上では、まだ誰もそれに気づいていなかった。
砂嵐の吹き荒れるザルハンの街の地下で、神殿の奥底に封じられた“それ”が、初めて呼吸をしたのだ。
黒い息が空気を満たし、神殿の壁に刻まれた祈祷文字がひとつずつ砕けていく。
その光が散り、砂に還るたびに、空間全体が低くうなった。
――まるで地そのものが、胎動を始めたかのように。
「封印が……崩壊していく……!」
セリナの声は震えていた。
「ダメだ、あの時の術じゃ押さえきれない!」
ディランは掌を地に叩きつけた。
黒の紋様が放射状に広がるが、霊的抵抗は予想以上に強い。
封印は逆流し、まるで悪夢のように魔力を吸い返してくる。
「誰かが外から干渉してる――!」
「ザハリエル……か」アルノルトが低く呟く。「影の仮面、八魔将のひとり……!」
「そうだ。奴がオルグラを“目覚めさせた”。砂の国を餌にして。」
その瞬間、リィナが胸を押さえて呻いた。
左腕に刻まれた印が再び赤く輝き、皮膚の下で何かが蠢く。
光は次第に強まり、血潮のように滲み出して床を染めた。
「――やめて……! 誰か……!」
「殿下!」
ディランが駆け寄り、彼女の手を掴む。
だがその瞬間、彼の指先に“脈動”が伝わった。
人の鼓動ではない。
それは、遠くに潜む獣の心臓の音――。
⸻
轟音が響いた。
台座の奥、漆黒の殻が破れる。
その中から、無数の血の蔓が伸び、天井を穿つ。
石が砕け、神殿が崩れ始める。
巨大な獣の顔が現れた。
牙は人の背丈を超え、眼は灼けるような紅を宿している。
「――飢獣、オルグラ。」
ディランがその名を口にした瞬間、世界が反転した。
音が失われ、代わりに“飢え”の意識だけが広がる。
あらゆるものを喰らおうとする本能。
空気も、魔力も、記憶も、血さえも。
オルグラはそれを“生命”と呼んだ。
⸻
アルノルトが剣を構える。
「退け、全員! 私が前へ出る!」
「無茶だ!」セリナが叫ぶ。
「無茶でもやるしかない! 封印が完全に崩れたら、この国ごと呑まれる!」
赤い砂を巻き上げながら、アルノルトが突撃した。
剣が光を裂き、獣の皮膚に食い込む。
だが、肉の奥からは血ではなく黒煙があふれ出した。
それは形を変え、無数の“腕”となって彼女を絡め取ろうとする。
「くっ……離せッ!」
「《聖槍、イルシオン》!」
セリナの詠唱が響き、白光の槍が降り注ぐ。
獣の腕を貫き、黒煙を焼き払った。
しかし焼かれた部分から、また新たな腕が伸びる。
まるで絶望を餌に再生するかのように。
⸻
リィナはその光景を見つめながら、唇を噛みしめた。
胸の奥で、何かが囁いている。
――血をくれ。
――そうすれば、護ってやろう。
それは甘く、優しい声だった。
「……あなたは、誰?」
『我はお前の中の王。砂の王家が忘れた“原初の獣”。』
「……あなたが、オルグラ?」
『いや。オルグラは“飢え”に過ぎぬ。私は“欲望”だ。お前の願いそのもの。』
リィナの視界が赤く染まる。
その時、ディランが彼女の肩を掴んだ。
「戻れ、リィナ! それ以上は奴の内側に呑まれる!」
「でも、私が――抑えられるかもしれない!」
「命を賭ける気か!」
「国を護るためなら、安いものです!」
その声には迷いがなかった。
ディランは一瞬だけ目を伏せ、そして短く呟いた。
「……なら、俺が共に堕ちよう。」
彼は杖を地に突き立てた。
闇の陣が展開され、リィナの魔力と共鳴する。
光と闇が絡み合い、二つの力が融合する。
――それは禁忌だった。
闇の使い手が、王家の血脈と契約を結ぶこと。
それは王権の“影”として記録にも残されぬ儀式。
⸻
世界が光に包まれた。
オルグラの咆哮が止まる。
時間さえも止まったような静寂の中で、ひとつの声が響いた。
『面白い。二つの意志が、同じ器に宿るとは。』
獣の目が彼らを見下ろす。
紅蓮の光が神殿を満たす。
その中で、リィナとディランは互いの手を重ねた。
黒と赤の魔力がひとつに融ける。
「――封ぜよ、《双血の環》!」
地が鳴動し、光が天を貫いた。
獣の体が分解され、血の霧となって散っていく。
その血の粒がすべて砂に還ると同時に、神殿の崩落も止んだ。
⸻
静寂。
風だけが残る。
崩れた神殿の中央に、ディランとリィナが倒れていた。
アルノルトとセリナが駆け寄る。
「ディラン! ……殿下!」
「大丈夫……です……まだ、生きてる……」リィナがかすかに笑う。
「封印は?」
ディランが薄く目を開け、囁いた。
「成功した……だが、代償が残る。オルグラの力の一部が、俺と彼女に――宿った。」
その証拠に、リィナの瞳は淡い紅を帯びていた。
そしてディランの掌には、黒い紋が浮かんでいる。
それは互いに呼応し、脈を打っていた。
⸻
「……これで、終わりじゃないのね。」
「ああ。ザハリエルが動いている限り、八魔将の封印は崩れ続ける。」
「でも、あなたがいるなら……」
「俺も、貴女がいれば。」
沈黙。
セリナが咳払いをした。
「……なんか、いい雰囲気だけど、ここまだ崩れるかもしれないからね!」
「そうだな。」
ディランが苦笑し、リィナの手を取って立ち上がる。
「行こう。砂の夜が明ける前に。」
神殿を出ると、東の空に微かな光が見えた。
砂嵐は止み、風が穏やかに吹き抜ける。
砂の王国の夜明け――。
しかしその光の裏で、遠い地の塔の上、ザハリエルが仮面の下で笑っていた。
「……良きかな。飢獣は封ぜられた。だが、“血の契約”は始まった。」
「残る六柱――いや、六魔将。舞台は整ったな。」
砂塵の国の運命は、まだ序章に過ぎなかった。
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