暁の誓い
楽しんでください!
紅蓮と闇の奔流は拮抗し続け、街はもはや戦場というより、天変地異そのものに飲み込まれていた。
兵士たちは城壁の陰に伏せながら、互いに耳を塞ぎ、震える声で祈る。
「……あれは、人の戦いじゃない……」
「神と悪魔が戦っているような……」
だが、ただ一人。
女騎士アルノルトは剣を握りしめ、歯を食いしばりながらその光景を見据えていた。
「……ディラン……あなたなら……」
イグナドが天に紅蓮の剣を掲げた。
炎は膨張し、雲を焼き、空を紅く染め抜く。
「我が名は《紅蓮王》イグナド! ここに《紅蓮獄炎》を放つ!」
瞬間、空が裂けた。
数百の炎の隕石が降り注ぎ、すべてを飲み込む業火の奔流がヴァルトレインを覆い尽くさんとする。
城下の兵も、市民も、誰一人逃げ場はない。
――だが、その時。
ディランの影が、全街に広がった。
まるで夜そのものが舞い降りるかのように、黒き帳が天を覆う。
「《奈落終焉》」
低く呟かれた言葉と共に、降り注ぐ紅蓮が次々と闇に飲まれた。
火炎は消えず、闇も消えず――双方が衝突し、無数の爆発が繰り返される。
空は裂け、大地は砕け、光と闇の境界は消え去る。
その中心で、ただ二人だけが立ち続けていた。
「はぁああああああッ!!」
イグナドが咆哮を上げ、紅蓮の剣を振り下ろす。
「……終われ!」
ディランが闇の刃を伸ばし、正面から迎え撃つ。
炎と闇が衝突し、耳を劈く轟音が響く。
爆発の中、紅蓮の甲冑に亀裂が走り、灼熱の巨体が揺らぐ。
「ば、馬鹿な……この俺が……!」
「お前の炎は確かに強い。だが――暴走する力は、必ず自らを焼き尽くす」
最後の一閃。
闇の刃が紅蓮を裂き、イグナドの巨体が崩れ落ちた。
炎が消え、闇が霧散し、戦場に静寂が訪れる。
誰もが呆然と立ち尽くし、やがて一人、また一人と叫び声を上げた。
「勝った……! 紅蓮王が……倒された!」
歓声が広がり、涙が溢れる。
アルノルトは剣を地に突き立て、深く息を吐いた。
「……本当に、やってのけたのね……」
後方では、イリスが負傷者の傍らに座り込み、涙を流していた。
「……守れた……この国を……」
だが、イグナドの肉体は完全に消え去る前に、赤黒い炎を残していた。
その炎は歪み、声を発する。
「……ザハリエル……俺は……約束を……果たせなかった……」
その名を聞いた瞬間、戦場にいた兵たちは息を呑む。
ディランは目を細め、低く呟いた。
「やはり……裏で糸を引いていたのは、お前か……ザハリエル」
紅蓮の残滓は崩れ、虚空に消えた。
遠く、誰の目にも届かぬ場所で。
仮面を被った魔族――ザハリエルは、静かにその様子を見届けていた。
「イグナドが倒されたか……。だが、それもまた計画の一部に過ぎぬ」
仮面の奥で、目が赤く光る。
「魔王復活のためには、この世界を大いなる混乱に沈めねばならぬ……」
その声は冷酷で、しかし楽しげでもあった。
⸻
ヴァルトレイン防衛戦は、こうして終わりを迎えた。
だが――戦いは、これで終わりではない。
夜が明けた。
瓦礫の上に射し込む朝の光は、まるで焼け焦げた街を優しく撫でるようだった。
バルゼナ王国首都――ヴァルトレイン。
かつて華やかな市場が並んでいた大通りは、今や灰と血と煙の匂いに満ちていた。
アルノルトが瓦礫に腰を下ろし、鎧の隙間から滲む血を拭う。
ディランは黙って周囲を見回していた。
魔力の流れは乱れている。地脈が歪み、何かがまだこの地に“残っている”。
「……これで終わりじゃない」
ディランの声に、アルノルトが顔を上げる。
「そうね。イグナドが最後に呼んでた……ザハリエル。あの仮面の魔族、でしょ?」
「奴の名だ。すべての影はそこに繋がっている」
そのとき――崩れた商館の前で、見慣れた声が響いた。
「おーい! お二人さーん! こっち、生きてる人まだいる!」
振り返ると、埃だらけのマントを翻してセリナが駆けてきた。
髪は乱れ、袖は焦げ、けれどその瞳はまるで火よりも強く輝いていた。
「セリナ、怪我は……?」
「ちょっと焦げたくらいよ。あんたたちに比べたら全然! ほら、こっち手伝って!」
彼女は倒れた建物の隙間を覗き込み、瓦礫をどけながら、下敷きになった商人を助け出す。
周囲の兵士が息を呑んだ。
戦場の中で、最も泥まみれになって動いていたのは、誰でもない――彼女だった。
「商人ってのはね、取引相手が生きててこそなの。お客さんが燃えたら儲けも吹き飛ぶわ」
軽口を叩きながらも、セリナの手は震えていた。
それでも止めない。
助けを求める声がある限り、彼女は前を向いて動いた。
一方、神殿の跡地ではイリス王女が負傷者の手当てをしていた。
その姿を見つけたセリナが駆け寄る。
「……王女様まで泥まみれとはね。うちの国の王族にも見せてやりたいわ」
イリスは驚いたように顔を上げ、それから柔らかく笑った。
「あなたがレグナントの商人の方ですね。……ありがとうございます」
「へぇ、知ってたの?」
「ディラン様が話していました。“頼もしい取引相手がいる”って」
セリナが苦笑した。
「ふふ、それは照れるわね。……でも、よかった。あなたが無事で」
イリスは頷く。
「まだ助けを待つ人たちがいます。……それが終わるまでは、泣くのも休むのも、後にします」
その言葉に、セリナは一瞬だけ目を見張った。
この少女は――王族である前に、人の痛みを知る人間だ。
ディランが気にかける理由が、少しだけわかった気がした。
同日、王城。
玉座の前に立つのは、ディラン、アルノルト、セリナ。
傷を包帯で覆った国王バルゼン四世が、深く頷く。
「――諸君。王国は貴殿らに救われた。心より感謝する」
「礼には及びません。俺たちはただ、守るべきを守っただけです」
ディランの言葉に、バルゼンは微笑んだ。
「レグナント王国との同盟を、ここに正式に結ぶ。……願わくば、両国が共に闇へ立ち向かわんことを」
そのとき、セリナが進み出た。
「一つ、商人として言わせてもらいますね。
国と国が手を取り合えば、戦よりも取引のほうが増える。
つまり……お互い、得しかしないってことです!」
謁見の間に、わずかに笑いが生まれた。
イリス王女が口元に手を当て、静かに微笑む。
「あなたのような方がいてくださるなら、この同盟は本当に強くなりますね」
セリナが照れくさそうに肩をすくめる。
「ま、ディラン様が命を張るなら、あたしも商売魂で張らせてもらうわ」
同じ頃――王城の地下深く。
ザハリエルが、封印の石碑に手をかざしていた。
「イグナドの魂、炎の核……。これで“鍵”はひとつ」
仮面の下で、唇が歪む。
「次は“奈落”の王。闇の契約を司るもの――それを取り込めば、魔王の心臓が目を覚ます」
石碑の奥から、鈍く赤黒い光が揺れた。
まるで何かが呼吸しているかのように。
夜が明ける頃、ディランは瓦礫の上で一人、空を見上げていた。
隣にはアルノルト。少し離れて、セリナが焚き火の番をしている。
空は静かに朱を帯び、東の地平が輝き始めていた。
「……次はどこへ行く?」とアルノルト。
「レグナントに戻る。報告と――次への備えだ」
「そう。……また、戦いになるのね」
ディランは黙ってうなずく。
するとセリナが笑いながら言った。
「でもさ、ディラン。今度は勝てる気しかしないね。だってさ――」
火の明かりに照らされながら、セリナが指を一本立てる。
「この最強商人、同行中なんだから!」
アルノルトが吹き出し、ディランの口元にもわずかな笑みが浮かぶ。
朝日が昇る。
その光は、戦いの果てに立つ者たちをやさしく包んでいた。
見ていただきありがとうございます。
次回も楽しみにしていただけると嬉しいです!




