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第8話

 机に肘をついたままノートに文字を走らせていたが、ペン先が止まる瞬間をずっと待っていた。蓮が帰ってから数時間しか経っていないのに、家の中がやけに広くて、静かで、どこかぽっかりと穴が空いたように感じる。


 空のグラス、二人分の皿、ソファの端に置きっぱなしのクッション。残されたそれらが妙に存在感を増していてまるで、俺の心をなぞるようだった。彼の背中が玄関から見えなくなったとき、俺はやっと息を吸い直せた。代わりに胸の奥に溜まった空気は、言葉にならない熱としてじんじんと疼く。


 この気持ちに名前をつけるとしたら、何になるだろう。不安でもない、希望とも違う、ただ、静かに沈んでいく感情。まだ形が定まらないまま、熱を持ってゆらゆら揺れている。


 ——もし、偉人達ならこの気持ちをこう言い換えるのだろうか。


「私は、君を一人の世界に預けてみたくなった。」


 それは、「好き」と言葉にするよりも、もっと深くて静かな想い。相手の存在を尊重しながら、それでも心のどこかで触れ続けていたいと願う矛盾した愛情。言い過ぎたかなと思った瞬間もあった。だけど、蓮が「ありがとう」と言ってくれたとき、胸の奥に積もっていた雪が少しだけ溶けた気がした。


 “俺のこと、好きになってくれてありがとう”


 あの一言に、どれだけ救われたか彼はたぶん知らない。ずっと、自分の感情が正しいのかどうかわからなかった。本当に恋なのか、それともただの執着なのか。「男が好きなんだ」と言った父の言葉と自分の心がどうしても切り離せなくて。その全てを引きずりながら歩いていた俺にとって——。


 蓮は、真ん中に立ってくれる人だった。


 遮るものも、踏み込みすぎることもなく、俺の声がちゃんと届くところに立って聞いてくれる人。


 “君の笑い声をもう一度聞きたい”


 そう思ったあの日から、


 “君と笑っていたい”に変わるまで


 ずいぶんと時間がかかった。


 そして今日、それをやっと口にできたんだ。もしある人がこの光景を見ていたら、きっと苦笑しながらこう言うのかもしれない。


「恋というのは、言葉にすれば崩れるほど、無防備な詩なのです。」


 それでも、俺は言葉にした。崩れてもいいから届いてほしかった。自分の存在を、隠さずに誰かに差し出す勇気を持ってみたかった。


 ……それが、きっと、恋というものなんだろう。


 窓の外で風鈴が鳴る。カラン、と軽やかに何かを祝福するように。その音に、ふと蓮の笑い声が重なった気がして思わず目を閉じた。これから、どれだけ傷つくことがあってもいい。たとえまた誰かを嫌いになる日がきても。それでも、自分の気持ちをごまかしたくない。君のとなりにいたいと、そう思えたあの瞬間をずっと大事にしていたいから。ページの端に小さく文字を書いた。


『恋をするということは、ひとりの夜に、自分を許すことから始まる』


 その文字を見つめていると、どこか懐かしい誰かが「それでいい」と囁いたような気がする。


 あれから、季節がほんの少しだけ進んだ。


 太陽は変わらず眩しいのに、空気には秋の輪郭が混じり始めている。蝉の声も日に日に遠くなり、代わりに木々の葉が少しずつ色を変えはじめてた。人は、気づかぬうちに移ろうものなのだと季節を追いながら柊は何度も思う。


 それは、心も同じだった。


 あの日、蓮とお互いの気持ちに触れてから世界は少しずつ変わった。目に映る景色も、感じる風も、そして自分の呼吸の仕方すら——微かに、けれど確かに変わっていた。朝の教室で蓮と何気なく視線が合うだけで胸がわずかに跳ねる。お昼に買ったパンを分け合っているとき、指がふと触れるだけで体温がそのまま伝染する。別に「付き合おう」と、明言されたわけではない。誰にも見せびらかすような関係でもない。


 でも——確かに、特別で。


 放課後の帰り道、並んで歩くとき蓮が時折ちらりと自分を見ることがある。そういうとき、柊はそっと心の中で言葉を選ぶ。伝えるのは苦手だ。言葉にすれば、自分の気持ちが誰かに見透かされるようで怖い。伝えなければ何も始まらない。あの時、勇気を出したからこそ、今の二人があるのだとしたら。また一歩、踏み出さなければいけない。


 その日は、少しだけ陽が落ちるのが早かった。校門の前に並んで立ち自転車を押しながら、蓮は何かを思い出すように空を見上げていた。


「空、高くなったよな。」

「うん。……秋だね。」


 そんな他愛ない言葉を交わしながら、歩き出す。ふたりだけの静かな時間。部活の喧騒も、クラクションの音も、遠く霞んで聞こえる。ある信号待ちの瞬間だった。柊は、少しだけ顔を上げてぽつりと尋ねる。


「ねえ……今の気持ちどう?」


 蓮は振り返る。驚いたように瞬きして、それから、いつもの茶目っ気のある笑みを浮かべかけ途中でやめた。真剣な問いだと、すぐに分かったのだろう。柊の目が冗談を許さない光を宿していた。返事を急がず蓮はしばらく空を見上げる。車のエンジン音が通り過ぎる間、ほんの小さな沈黙が流れた。


「正直、まだ手探りって感じかな。」

「……うん。」

「前と違って、自分の気持ちを隠してないっていうか……今の俺、すげぇちゃんと“お前のこと考えてる”って感じがしてるんだよ。」


 柊はその言葉を、ゆっくりと胸の中に落としていく。


「たとえばさ、朝、校門でお前の姿探したり、

 休み時間に柊が隣の席で何書いてるのか気になったり。帰り道で、手を繋いでみたいなって思ったり。前は、そんなこと思う自分が気持ち悪いんじゃねーかってビビってた。今は、お前と一緒にいる時間が心地いいって思える。これが“恋”ってやつなら、俺はちゃんと始まってんだと思うよ。」


 柊は小さく息を呑んだ。期待していたわけじゃない。ただ、どこかで知りたかっただけだった。自分が選んだこの気持ちが、ちゃんと誰かの心を動かせていたのかどうかを。


「俺はね」


 柊は歩を止めて、少しだけ蓮の前に出る。


「最初は、“好き”って気持ち勝手なものだと思ってた。好きになって、苦しくて、言えなくて、諦めて。それでも好きなままでいるしかないんだって、そうやって生きていくしかないんだって。でも、蓮があの日“ありがとう”って言ってくれたとき、俺、初めて“報われる”っていう意味を知った気がしたんだ。」


 言い終えたあと、胸の奥が少しだけすうっと軽くなる。自分の言葉で、少しずつこの想いを編んでいく。まだぎこちなくても構わない。蓮はそれを黙って聞いていたが、ふっと笑って柊の肩をぽんと叩いた。


「じゃあさ。次は俺の番だな。ちゃんと、“好きだ”って言えるように頑張るよ。お前に、ちゃんと伝えたいから。」


 柊は驚いたように蓮を見つめる。彼の顔は、真っ赤だった。照れ隠しのようにうつむいて、でもどこまでも真っ直ぐで。風が吹いた。乾いた風が夏の匂いをさらっていく。二人の影が並んで路面に落ちていた。


 言葉にしなければ、伝わらない。伝えようとする勇気こそが、きっと恋を育てていく。変わることを恐れない。変わったあとに残る“今の気持ち”を大切に育てていきたい。柊は笑った。蓮の隣で風に目を細めながら、小さくでも確かな声で言った。


「そっか。じゃあ、楽しみにしてるよ。」


 蓮も笑った。その笑顔が、またひとつ新しい夏の終わりの思い出に。

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