第7話
雨の前触れもない蒸し暑い六月の夕方。開け放したリビングの窓から庭の紫陽花が重たげに垂れるのが見えていたが、私はそれを眺める余裕もなく台所に立っていた。まな板の上に転がる新玉ねぎを薄く刻みながら、背中ではエアコンの送風が喧しく唸っている。
あの頃の私は、仕事を終えて保育園へ柊を迎えに行き、スーパーで特売の鶏肉と野菜を買い、汗を拭き拭き帰ってきては三十〜四十分で夕飯を整える。そんな慌ただしい毎日だった。だからこそ、その日の夫の異変に気づくのが遅れた。
包丁を置き、もう片手でコンロの火加減を確かめたとき背後のダイニングから椅子を引く微かな音がする。振り向くと、夫がうつむき加減にテーブルへ肘をつき指の節をぎゅっと握りしめていた。スーツの上着はハンガーに掛けず背もたれに投げられ、ネクタイは緩みシャツの第一ボタンは外れている。いつも几帳面な人が、きちんと着替えもせずに食卓に座っていることが、まず異常だった。
「お疲れさま。今日はちょっと遅かったね。」
そう言いながら味噌汁の鍋をかき回すと、夫は返事の代わりに小さく唇を噛んだ。蒸発する味噌の匂いと沈黙。私は一瞬だけ眉根を寄せたが、柊を先に風呂に入れる段取りを考えていたので一先ず椀を並べることを優先。次の瞬間、台所の床を伝う足音が止まり夫がゆっくりと私の名を呼んだ。
「――聞いてほしいことがある。」
その声は、いつもよりずっと低く呼吸が混じって掠れていた。私は玉じゃくしを止め、振り返った。
「何?」
夫は深く俯き影に沈んだ目をテーブルの木目へ落としている。その手がわなわなと震え拳を固く握りしめていた。既に胸騒ぎがした。悪い予感は、恋人未満だった頃に一度も抱いたことのない種類の途方もなく冷たい感覚で背骨を撫で上げた。
「俺――男が好きなんだ。」
最初の数語が私の耳の中で弾け、鼓膜に焼き付いた。鍋の味噌汁がふつふつと泡立つ音がやけに遠く世界が水槽の中みたいに歪む。
「……はい?」
薄く笑って聞き返したのは、きっと聞き間違いだと思ったからだ。夫はもう一度、搾り出すように繰り繰り返す。
「男が好きなんだ。ずっと昔から。……隠していた。ごめん。」
こめかみがひりつき、耳鳴りがした。味噌汁が吹きこぼれ始めているのに、私は身動きひとつ出来ない。
どうして今?
なぜ私と結婚して
柊を産んで育てて
それでこのタイミングなの?
言葉にならない疑問が胸を叩き、私は震える手でコンロを消す。湯気が立ち込め視界が白く曇る。
「冗談でしょ?」
かろうじてそう言うと、夫は初めて顔を上げた。目は充血し、唇は乾いてヒビ割れている。ああ、冗談などではない。
「職場の同僚に好きな奴がいる。ずっと、気づかないふりしてた。でも、今日このまま帰ったらもう耐えられないって身体が……。」
堪えきれず、このとき初めて声を荒げた。
「じゃあ、私と結婚したのは何?柊は?私たちを利用してきただけなの?」
声が震えている。怒りとも悲しみともつかない何かが喉を焼き唇が痺れた。夫は否定も肯定もできず、ただ「ごめん」を繰り返す。テーブルの隅に置いたグラスの水が反射し、揺れる涙を映している。その卑屈な姿が私の怒りに火を注いだ。
「あなたの“ごめん”には十年分の重みがあるのよ。結婚式で二人の未来を誓ったときの言葉、私の身体を抱いた夜、柊を抱き上げたときに流した涙……全部嘘だったって言うの!?」
ぐつぐつと煮えたぎる鍋の残り香よりも熱く、喉の奥が焼けるようだった。夫は拳を握り直し勢いよく立ち上がり椅子が倒れる。
「嘘じゃない。愛していた。……いや、愛しているつもりだった。でもどうしても……。」
語尾が震えて途切れる。私はその中途半端な台詞に限界を超えた。
「“つもり”!?私たちは“つもり”で作られた家族だったの?あなたの偽装結婚のために十年も費やしたの、私と柊は?」
夫は壁際へにじり寄り額を押さえる。その背が大きく波打ち喉が鳴った。次の瞬間、寝室の扉から小さな足音が走り込んできた。
「おかえり、パパ!」
五歳の柊が夕方のテレビアニメに飽きたのか、両手を広げて父に抱きつこうとした。私は咄嗟に口を開こうとしたが、言葉より早く夫が青ざめた顔で口を覆いトイレへ駆け込むのが見えた。水が流れる音。嘔吐のえずきが聞こえた。柊はぽかんと父の後ろ姿を見送り、やがて私のスカートの裾を掴む。
「ママ、パパお腹痛いの?」
私は震える膝をおさえ、しゃがんで柊を抱き寄せた。その腕の中で自分の鼓動が早鐘のように打っているのがわかる。
「大丈夫よ、きっと疲れてるだけ。」
自分の声が遠い。私は息子の背を撫でながら、トイレの戸を睨みつける。
夫は息子の顔を直視できず、匂いだけで吐き気を催したということなのか?
それを思った瞬間、胸を貫くような絶望が走り、視界が真っ赤に染まりそうだった。やがて夫が戻り青白い顔で立ち尽くす。柊を抱えたまま低い声でこう言った。
「この子の前で、もう一度でも同じことをしたら二度と会わせない。」
私の目は泣いていない。夫は声も出せず頷き、その夜のうちに書斎へ寝具を運び込んだ。翌週、離婚届を取りに区役所へ行った。仕事の昼休みに書類を記入していると、書類窓口の蛍光灯が滲んで歪んで見える。涙は出ない。怒りと屈辱で涙腺も凍りついていたから。
夫は離婚に同意。理由は互いに納得済みだが、世間体のために「性格の不一致」と書いた。家を出ていくとき、彼は玄関先で私と柊に頭を下げ最後に「ごめん」とつぶやく。私は返事をしない選択を選んだ。
そして、ドアが閉まった瞬間に私は初めて声を上げて泣いた。息子には決して見せられないと掌で口を塞いでもどうしても嗚咽が漏れる。胸をかきむしるような痛みの正体は、裏切りへの怒りだけではない。夫の苦しさに気づけなかった自分を責めた。愛していたはずの人が、十年間ずっと別の自分を隠し偽り続けていた。なぜ気づけなかったのか。気づけても、どうにもできなかったのかもしれない。それでも、私は妻として、母として、何かを変えられなかったのか。その夜、眠る柊の頬に触れながら誓う。
私はこの子の「すべて」を否定しない。たとえどんな姿でも、この子が「私はここにいる」と言える場所を奪わない。
だからこそ、さっき扉の向こうで聞いた柊の震える告白に決して踏み込まなかったのだ。白状すれば抱きしめてやりたかった。けれど、あの子が選んだ「言葉」と「相手」を信じたい。廊下の突き当たり洗濯機の蓋を開く。汚れたシャツを放り込みながら、私は胸の奥で静かに呟いた。
もう二度と、あの日のように怒らないと。
もう二度と、あの日のように絶望させないと。
洗濯槽が回り始める。水が流れ込み遠くの部屋からは二人の微かな笑い声が漏れ聞こえてきた。雨は、あの日も今日も同じように蒸し暑く同じように紫陽花を濡らしている。私はもう、声を荒げるだけの女じゃない。静かに、ただ静かに、息子の恋を祈り見守る母親として立っている。
夜の帳が下りる頃、リビングの時計が午後八時を回る。夕飯を遠慮がちに食べていった蓮が玄関で靴を履いていた。柊はリビングから離れず食卓に残ったコップを片づけるふりをして玄関をそっと伺っている。きっと、蓮が母親と顔を合わせるのがどこか気まずいのだろうと、そんな空気が柊の背中にも伝わってくる。蓮の右手には濡れたままの傘。左手はバッグの紐を握ったまま、落ち着かないように指をもぞもぞと動かしていた。彼にしては珍しく口数が少ない。
「今日は、ありがとうございました。ほんと、遅くまでお邪魔しちゃって……夕飯もごちそうさまでした。」
母親はそんな蓮の様子を、穏やかな表情で見つめていた。キッチンからふらりと出てくると蓮の斜め前に立つ。口元に笑みをたたえ、しかしその瞳は静かに彼を射抜いていた。優しさの奥にある強さ——母親の眼差し。蓮はその視線からほんの一瞬だけ目を逸らした。
「蓮くん」
「……はい」
「ひとつだけ、話してもいいかしら。」
少しだけ言葉を選ぶように、ゆっくりとした口調で話しはじめる。
「私、昔……家族のことで酷く心を乱されたことがあってね。大切な人に裏切られて自分自身の価値までわからなくなった。」
蓮はまっすぐ彼女を見た。話の意味を追うように真剣な顔つきになって。
「それでも、人を好きになる気持ちって一番嘘がつけないことなのよ。どんなに隠しても抑えつけても心が知ってるの。“この人といたい”って、そう思うことは何よりも強い力になるのよ。」
彼女の手がそっと蓮の傘の先に触れる。濡れたままの傘を一度見下ろし、それからもう一度、蓮の目を見た。
「柊のこと、どうか大事にしてあげて。」
その言葉は、とても静かだった。その静けさの中に蓮は確かに重さを感じる。
「俺、まだちゃんと自分の気持ちに自信あるわけじゃないです。それでも、柊と一緒にいるとすげぇ安心するんです。柊のこと知りたいと思ってる。あいつの顔を曇らせるようなことは、絶対にしたくないって思ってます。」
母親はふっと目を細めた。少し切ないようでどこか嬉しげでもある笑み。
「わかってるのよ。若い子の恋がいつもうまくいくとは限らないってことも。だからこそ、私は願ってる。蓮くんが、ただ“好きだ”とか“付き合いたい”だけじゃなくて、あの子の孤独ごと、過去ごと、全部受け止める覚悟があるなら。本当にありがとうって。」
蓮は何も言えなかった。けれど頷いた。その目は真剣で言葉に出すよりずっと力強く母親の願いを受け取って。
「それから……柊は不器用な子よ。無理しすぎるところもあるし、人の目を気にして平気なふりばっかりする子。からね、たまにでいいの。蓮くんがそばにいて、“そのままでいい”って言ってくれるだけで、あの子は救われるから。」
蓮の胸に、その言葉が静かに沈む。
“そのままでいい”
それは、まるで母親としての彼女が自分自身に向けてずっと言えなかった言葉のようにも聞こえた。それを託されているのだと蓮は背筋を伸ばす。
「わかりました。必ず俺がちゃんと守ります。」
「ありがとう。じゃあ、またいらっしゃいね。」
「はい!」
玄関の扉が開く。夜の空気がすっと入り込み、どこか清涼な香りを連れてきた。さっきまで降っていた雨はすっかり止んで路面の水が街灯をぼんやり映していたのに。蓮くんは深く一礼し、静かに夜の道へと歩き出した。その背中を見送りながら、誰にも聞こえないように小さく息を吐く。
あの日の自分にはできなかったことを、今、あの子はちゃんと始めてる。もう、ひとりきりで抱え込ませなくていい。やっと、やっと……あの子が自分の心で選んだ誰かと歩き始められる。静かにドアを閉め夜の静寂の中に、そっと祈るような気持ちを溶かしていった。




