第6話
静まり返った部屋の中。カーテン越しの光はすっかり夕暮れに溶け込み机の上の影が長く伸びていた。さっきまでの空気とは違う、どこか深く沈んだ重さが柊の胸の奥を満たす。蓮の腕の中で柊はぽつりと呟いた。
「今になって……少しだけ分かった気がするんだ。」
蓮は黙って耳を傾けた。その横顔に、もうおちゃらけた軽さはない。
「父さんの気持ち……“言えなかった”ってこと。本当の自分がどこにも出せなくて、だからって誰にも打ち明けられなくて。でも、いつか限界がきて壊すしかなくなった気持ち。」
柊の声が、かすかに震える。
「ずっとあの人のこと、勝手だって思ってた。自分だけが自由になって、母さんを裏切って俺を置いていって……。今なら、少しだけ……その孤独が理解できる気がするんだ。」
胸に湧いたその感情は、決して父親を許したわけじゃない。ただ、柊もまた「誰にも言えなかった気持ち」をずっと抱えて生きてきた。だからこそ、あのときの父親の心の深部が、ほんの少しだけ見えたような気がしたのだ。
「同時に母さんが感じた“絶望”も、今なら分かる。“母さんは父さんが好きなのに、父さんの心に母さんはいないんだ”って……。母さんはそう思ったんじゃないかな。」
その言葉を口にした瞬間、柊の声はほとんど囁きになった。まるで、壊れそうな何かをそっと撫でるように慎重に丁寧に綴る。
「自分の想いだけじゃ、届かない場所があるんだってこと。いくら好きでも相手の心に自分がいないことを知るって。きっと、あんなに強い人でも耐えられなかった。」
柊の瞳がじわりと濡れた。それでもこらえようとして必死に瞬きを繰り返す。泣きたくなんてなかった。今はようやく蓮とちゃんと向き合えたはずなのに。どうしようもなく胸の奥が痛い。それを見ていた蓮は、言葉もなくそっと両腕で柊の身体を抱きしめ直した。今度は、さっきよりもずっと強く、深く。
「ごめん、俺」
蓮の喉から漏れた声は低くて、どこか悔しげだった。
「俺が……お前の気持ちにちゃんと気づいて、すぐに応えられてたら。こんなふうに……泣きそうになることなんてなかったのかもって……思った。」
「ちがう……ちがうんだよ。」
柊は蓮の胸元に顔を埋めながら、小さく首を振る。
「俺が勝手に重ねてたんだ、あのときの気持ちを……お前は何も悪くない。俺が怖かっただけ。」
「怖がらせてたのが俺だったら、余計にやだよ。」
蓮の声が、静かに、でもまっすぐに降りてくる。そしてそのまま、耳元で言った。
「俺はちゃんと……お前の心にいる人になりたい。」
その一言が、柊の胸の奥に、深く深く染みこんだ。言葉の温度で心がじんわりと解けていく。
「今までは、自分が“女の子が好き”だからって思ってた。柊の気持ちに向き合うのが怖くて考えたこともなかった。でも、違った。俺はもう、柊のこと友達以上に見てる。……その意味が、ようやく今日わかった。」
柊は震える指先で、そっと蓮のシャツの裾を掴む。
「ほんとに?」
「うん。だから——泣くなよ。お前の涙見たら、俺どんな顔していいかわかんなくなる。」
「……っばか。」
そう言って、柊はふいに蓮の胸元を軽く叩いた。その手はすぐに握り返されて静かに繋がれたまま離れない。窓の外にはもう雨の音もなく静寂だけ。その静けさの中には、痛みも優しさもまるごと包み込むようなぬくもりがあった。抱きしめた腕の中で、ようやく安心したように柊は静かに目を閉じた。その胸の奥には、もう“あの頃の孤独”じゃない、名前のついた感情が小さく灯り始めている。
階段の踊り場に差し込む光はすでに夕暮れに溶け込み、廊下の先を淡く染めていた。彼女はふと足を止めた。洗濯物を取りにいくつもりだった。何気なく廊下を歩いて、あの部屋の前を通った、そのほんの偶然にすぎない。けれど、その偶然が彼女の歩みを凍らせる。柊の声だった。震えながら懸命に何かを伝えようとする声。
「……恋をしてみたいんだ。」
その言葉を耳にした瞬間、全身が何かに締め付けられるような感覚に襲われた。指先がわずかに震える。それでも扉に手をかけることも、声をかけることもできなかった。ただ、そこで立ち尽くす。続く会話のひとつひとつが、静かに、確かに、彼女の心に染み込んでいった。泣きそうになりながら、それでも誰かに向けてまっすぐ感情を届けようとする、そのひたむきな柊の声。そして、受け止めてくれる優しい声。
——ああ、あの子は、ちゃんと恋をしてるんだ。
思った瞬間、涙が込み上げそうになる。柊のあんな声を初めて聞いた。誰かを好きだと自分の心の深いところを吐き出すように伝えている。幼かった頃、毎日のように絵本を読んでとせがんできた小さな手。あんなに無邪気だった子が、恋をして、傷ついて、それでもちゃんと愛そうとしている。
胸の奥が、ぐっと苦しくなった。
彼女はそっと後ずさりする。声を殺して足音を忍ばせて。気づかれないように、誰にも見られないように。あの部屋の扉の前から、静かに離れていく。それはまるで、あの日の自分からもそっと背を向けるようだった。
——「俺――男が、好きなんだ。好きな奴がいる。ずっと。」
十数年前の、あの声が甦る。夕飯が冷めていく中、夫がぽつりと呟いた言葉。彼女はそのとき、一瞬理解ができなかった。冗談にしては重すぎて真実にしては突拍子がなさすぎた。ただ、その瞬間、目の前にいる男の心が、もう自分のそばにはいないことだけは、はっきりとわかる。
「ずっと昔から。……隠していた。ごめん。」
淡々と罪悪感に満ちた声で。それでもなぜ、今なのかと何度も心の中で叫んだ。なぜ、結婚して、子どもまで産ませてからなのか。なぜ、そんなにも残酷なタイミングで全てを壊すのか。
そして——息子が「おかえり」と駆け寄った、そのわずか数秒後。夫は目を背け、トイレに駆け込み何も言わずに吐いた。それを見て彼女は思った。
——なんて異常なんだろう、と。
同性愛に理解がなかったわけじゃない。テレビのニュースで流れるそれに眉をひそめたこともないし、友人に同性のパートナーを持つ人がいたこともある。けれど、あの日の光景だけは違った。理解しようとしても心がどうしても拒否した。
我が子の顔を見て、吐く。
それがどれだけの拒絶か。
自分が愛していた人が、自分の子どもに対して、そんな拒絶を向けたことが許せなかった。なおさら許せなかったのは、自分のことを好きだとさえ夫は言わなかったこと。
「私はあなたが好きなのに、あなたの心に私はいないんだ。」
その絶望は、今でも形を変えて胸に残っていた。彼女はあのとき、すべてを壊された。信じていた未来も、家庭という枠も、愛という形も。だから、柊が誰かを本気で好きになったこと。それをちゃんと声に出せるようになったこと。そして、その想いを受け止めてくれる相手がそばにいてくれること。
それだけで、もう十分だった。
あの夜の自分とは違う。息子はちゃんと、自分の気持ちを言えた。誰かに伝えて受け取ってもらえた。だから、母親としてそれを壊すわけにはいかない。あの子の想いに、もうこれ以上、傷をつけさせない。
階段を降りながら、そっと目を閉じた。涙は流れない。静かに胸の奥があたたかくなる。
——柊、あなたは大丈夫。私は、あなたが誰を好きでもちゃんと見ているから。
遠くからでいい。
言葉にできなくてもいい。
でも、いつかあなたがまた傷ついたときには、そっと背中を支えてあげられるように。
何も言わず、洗濯物を取りにいくふりをしてリビングへと向かった。何事もなかったように。あの扉の向こうの、今はまだ小さく始まったばかりの恋を静かにそっと守るように。




