第5話
蓮は借りたタオルで髪を拭きながら、ふとベッドの端に腰掛けた。柊は床に座り、テーブルの上に置いたクッキーの箱を開けて黙っている。
「これ、めっちゃ美味いな。柊、お菓子作んの得意?」
「買ったやつ。」
「手作りかと思った。絶対うまいと思ってたのに。」
なんでもないやり取りのはずだった。蓮が軽く笑ってそう言うだけで柊の胸は少しだけきゅっとなる。たぶん、この人は無自覚なんだ。その何気ない言葉に、どれだけ相手が揺れるかなんて知らないままでいる。蓮は、無造作に自分の髪をかき上げ部屋を見渡した。そして、棚の上に置かれた一冊の本に目を止める。
「これさ……前に柊が書いてた短編?」
「うん。」
「すげーよな。俺、小説なんて最後に読んだのいつだっけってレベル。でも、柊のは読めた。読んだ後は余韻が残るっていうか。、」
「……ありがと。」
「将来作家とかなるんじゃね?」
「わかんない。」
「なったらサインしてくれよな。俺、めっちゃ自慢するから。“こいつ、俺の友達なんだぜ”って!」
その「友達」の一言に、柊の指が少しだけテーブルの縁を強く掴んだ。ああ、やっぱりこの人はそういう人なんだ。まっすぐで、悪気がなくて、相手の心をまるごと射抜くような言葉を平気で口にしてくる。
友達——。
そこには、深い意味も、期待も、下心もない。ただの、信頼と好意と友情の言葉。それだけで充分幸せなはずなのに、どこかで痛みが走った。不意に蓮が声を落とす。
「俺さ、お前といる時間がすげー落ち着くんだよ。なんか、家族でもないし親友って言うにはちょっと違う。……大事っていうか。」
柊は俯いたまま、何も言わなかった。声を出したら、どこかが崩れてしまいそうで。蓮は気づかない。その言葉の一つ一つが、柊にとってどれだけ希望で、どれだけ残酷かなんて。
「お前がさ、もし俺に“好きだ”って言ったら、俺どうすりゃいいんだろな?」
——やめてくれ。
それは、冗談みたいなトーン。あくまで“もしも”の話。ノンケの蓮が言うちょっとしたおふざけの延長。
「言わないよ。……そんなこと。」
「え?」
「俺がそんなこと言うと思う?」
柊はようやく顔を上げた。けれど、その表情はどこか凍ったように無表情。
「お前、ノンケでしょ。だから、言わないよ。安心して。」
蓮は一瞬、驚いたように目を見開いた。
「いや、俺は——」
「……いいんだ。お前が悪いわけじゃない。ただ、俺が勝手に期待したり、勝手に傷ついたりしてるだけだから。」
静かな声だった。その言葉の奥には、確かな棘がある。
「なあ、柊……ごめん、俺、なんか……。」
「気にしないで。俺も慣れてるから、こういうの。」
部屋の空気が一気に冷えたように感じた。蓮は言葉を失ったまま、ただ柊の横顔を見ている。強がって見せているけれど、どこか儚くて何かを守るために鋼のように固めている表情。
窓の外では、まだ雨が静かに降り続いていた。
本当は、もっと近づきたい。でも、近づいたら壊れてしまいそうなその距離感に柊は手を伸ばすことができなかった。心だけが、すぐそばで濡れたまま黙って俯いて。
その時、不意に掴まれた。
柊が立ち上がろうとした瞬間、蓮の手がその腕をぐっと掴む。それだけで、柊の身体は一瞬で強張る。何かを悟らせまいとする無表情が崩れそうになるのを歯を食いしばって堪えた。蓮はそのままの勢いで柊の体を自分の胸元に引き寄せる。
蓮の胸に柊の額が触れる。生地越しに感じる体温。湿った雨の匂いと汗の混じった男子の匂い。いつも教室で何気なく隣にいる“ただの友達”の体温が、こんなにも近くて、こんなにも真っ直ぐだったことに息を忘れた。
「お前が何考えてっか分かんねぇーけどさ。」
蓮の声は、静かで、けれどいつになく真剣で。低くて胸に響くその声が、頭のすぐ上で落ちてくる。
「俺、そういうの全部気づかないフリしてたかもしんねーけど、最近ずっと違ぇなって思ってた。お前が俺のこと、どう見てるかも……多分、薄々はわかってたんだよ。怖くて気づかねぇフリしてた。」
柊は目を見開いたまま、動けない。蓮のシャツが少し濡れていて、そこに触れる額が冷たくて内側から火がついたみたいに鼓動だけが騒いでいた。
「でもな」
蓮は少しだけ、柊の背中に腕を回してぐっと距離を詰める。まるで、逃がさないとでも言うように。
「お前が“言わない”とか“期待してない”とか、そんな風に自分だけ引いた顔するのクッソ腹立つんだよ。」
「……っ、俺は……」
「俺がノンケだろうがなんだろうが、関係ねぇだろ。“好き”って言うのが悪いことみたいに扱うなよ。柊がそうやって勝手に諦めた顔すんの、俺がめちゃくちゃ嫌なヤツになったみてーで、マジむかつく。」
柊の喉がぎゅっと締めつけられる。まるで言葉を封じられたように、なにも出てこなかった。
それでも、腕の中の蓮は決して強くはなかったけど確かにそこにいて、離す気なんてこれっぽっちもなさそうに言葉を重ねてくる。
「俺、お前のこと“友達”って言ったけど。たぶん……もう、そういうだけじゃねぇんだと思う。どうしてお前が笑ってたら安心するのかとか、どうして他のヤツと話してるとイラつくのかとか。全部、今ようやくわかった気がする。」
柊の胸が、ぎゅうっと痛くなる。それは、苦しさじゃない。ようやく気づかれた痛みに心が追いついていないだけ。
「俺も、わかんねーことだらけだし、自信ねーけどさ。でも——」
蓮は、柊の耳元に顔を寄せて囁くように言った。
「“俺のこと好きになってくれて、ありがとな”って。今、それだけはちゃんと言いたかった。」
その一言に、柊の目から、ぽろりとひと粒の涙が落ちた。黙って、必死で耐えてきたのに。“言わない”って決めてたのに。心のどこかで、ずっと欲しかったその言葉があまりにも優しく届いたから。抱きしめられたままの胸の奥がじんわりと熱くなる。蓮は何も言わず柊の細い背を抱きしめていた。言葉では足りない想いが身体の温度でゆっくりと伝わっていく。今、やっと、傘の下だけじゃないちゃんとした“二人だけの場所”に辿り着けた気がした。
「言ってくれなきゃ分かんないよ。」
ぽつりと落ちたその言葉は、蓮の胸元に小さく響いて消える。柊は顔を上げないまま蓮に抱かれる体勢のまま呟く。
「ずっと、ひとりで考えて……勝手に苦しくなって……。でもお前が、何考えてるのかなんて俺には分かんないから。お前が、“友達”って言うたび、俺は“好き”って言えなくなる。“女の子が好き”だって、何度も聞かされるたび、諦めなきゃって自分に言い聞かせて。本当は、蓮がどう思ってるのかちゃんと聞きたかったんだ。」
蓮は何も言わずに、柊の背中をそっと撫でていた。それが、ちゃんと聞いてるよという合図みたいに感じて静かに息を吸い込んだ。
「恋をしてみたいんだ。」
柊はようやく顔を上げた。目元はほんのり赤くて、でも真っ直ぐに蓮を見つめて。
「蓮と」
その瞳の奥には、曇りがない。怖くても、傷つくとわかっていても、それでも――この想いを差し出したいと思うほど。きっと柊は、ずっとずっと、蓮のことを好きでいたんだ。
蓮は一瞬だけ目を見開いた。そのあと、ふっと苦笑のような、でもどこか照れたような顔をする。ぽん、と柊の頭に手を置いた。
「マジで、お前って……」
「……なに?」
「可愛すぎんだろ。そういうことサラッと言うなって、マジで困る。」
「……じゃあ、困って。」
「は?」
「困ればいい!俺は本気で言ってるから。“好き”って言葉がどれだけ怖くて、どれだけずっと飲み込んできたか知らないだろ。」
少し怒ったような、でもどこか悲しげな声に蓮は思わず視線を逸らしそうになる。柊の言葉の重さをそのまま受け止めようとぐっと堪えた。
「俺も、怖ぇよ。お前が俺のこと本気で好きって言ってくれるの嬉しい。でも、今の俺じゃ、ちゃんと返せるかどうか正直自信ねぇんだ。」
柊のまなざしが、少しだけ揺れる。
「でもな」
蓮はそっと手を伸ばし、柊の頬にかかった前髪を指で払う。その指が耳に触れるか触れないかの距離で優しく撫でた。
「それでも、俺……お前のこと、もっと知りたいって思った。どんなのが好きで、どんなことで笑って、何に傷ついて。どうすれば、俺が“恋”ってやつを返せるようになるか知りてぇ。」
柊の唇が、ほんのわずかに開いたまま言葉を失う。
「お前と恋してみたいって思ってんの、俺も同じだ。」
その言葉は、まっすぐに柊の胸に落ちる。胸の奥で、静かに灯っていた小さな希望に火がついたみたいに。
「ほんと?」
「ほんと。めっちゃ怖いけどな。でも、柊が相手ならいける気がすんだよ。」
そう言って、蓮は照れ隠しのようにふっと笑う。その笑顔は、どこかぎこちなくて、でも心からの本音だった。柊は、少しだけ口元を緩め目の奥に熱が滲んでいた。
「じゃあ」
「ん?」
「ちゃんと、恋してよ。」
「おう!」
二人の距離が、もう一度静かに近づく。今度は逃げない。誤魔化さない。まっすぐに見つめ合って、少しずつ手探りで近づいていく、その距離を確かめながら。まだ“付き合う”とか“好きだ”とか、そんな言葉は交わしてないけれど、きっと上手くいくんだ。




