第4話
「……っていうかさ、お前さ。」
柊はようやく落ち着いた呼吸を取り戻しながら、机の上の空のクッキー袋を指でくるくる回していた。まだ少しだけ胸の奥にしこりのようなものは残っていたけど、それでも——蓮がここにいて、ちゃんと話を聞いてくれて、自分を否定しなかったことが、少しずつその重さを溶かしてくれている。
「え?」
蓮はベッドにひっくり返って、頭の後ろに手を組んだ。天井を見上げていたその顔に、柊はじっと視線を向けながら独り言みたいに呟く。
「なんで眼鏡すきなの?」
「ぶっ——!」
蓮が盛大に吹き出す。勢いよく跳ね起き目を丸くして柊を見た。
「な、なっ……何の話だよいきなり!」
「いや。俺が眼鏡かけてるときだけ視線そらしてたからさ。お前って、無駄にわかりやすいよな。変に目逸らしたり口ごもったり。」
「ち、違っ……!」
蓮は慌てふためいた。顔が、見る見るうちに耳まで赤く染まっていく。柊が冷静に見れば見るほど、その照れっぷりが面白くなってくる。
「へーえ。やっぱ図星?」
「図星じゃねーし!っていうか、普通そういうこと言う!?俺、こういうのマジで慣れてねぇからな!」
「だから面白いんだって。」
柊は口元に笑みを浮かべながら、机からそばに置いていた枕を手に取りちょいと蓮の顔に向かって投げた。ぽふっという音と同時に蓮の頭にクリーンヒット。
「うおっ、何すんだよ!」
「照れてる顔があまりにテンプレすぎてさ。ドラマみたい。眼鏡男子に反応して顔真っ赤になる男子ってやつ?」
「お、お前なぁ……!」
蓮はベッドの上で枕を掴んで投げ返そうとして、でも結局力なくそれを膝の上に置いたまま頭を抱える。
「柊って時々、すっげー性格悪くない?」
「うん、知ってる。」
さらっと返す柊の顔はどこか得意げで、けれどその目の奥にはほんのわずかに照れが混じっていた。本当はこんな話、誰にもできなかった。相手が蓮じゃなきゃ、こんなふうに茶化して話すことなんてできない。蓮はうつむいてぽつりと漏らす。
「昔、近所のお兄さんがさ。眼鏡かけてたんだよ、ずっと。歳が結構離れてて、俺、小っちゃい頃はずっとお兄さんに遊んでもらってたから……なんか、憧れだったんだよな。頭よくて、優しくて、ちょっと怖くて、でもすげー頼りになって。」
「……ふーん。」
「そんで気づいたら、眼鏡かけてるやつ見るとちょっと……こう、ドキッとするっていうか、変なスイッチ入るっていうか……!」
言いながら蓮はまた頭を抱え膝に顔を埋めた。
「うわ、俺今、人生で一番恥ずかしいこと言ったかもしんねぇ……。」
そんな蓮をしばらく見つめた後、ふっと優しい声を漏らす。
「ありがと。話してくれて。」
「お、お前が言わせたんだろーが……。」
「でも、言ったのは蓮だから。」
「ぐっ……!」
蓮が枕に顔を埋めて悶えているのを見て、柊はまたクスクスと笑う。その笑いは、教室でも図書室でも見せたことのない柔らかであたたかいもの。知らなかった蓮を、また一つ知った気がする。
そして、知られたくなかった自分を受け入れてくれた気がした。部屋の窓から、風がふわりとカーテンを揺らす。二人の間の空気が、少しだけ柔らかく優しくなる。眼鏡越しに見た世界の輪郭が、いま、少しだけ滲んで見えた。けれどそれは、決して悪いものじゃない。
ざあああ、と途切れる気配のない雨が校舎の屋根を激しく打ちつけていた。放課後のグラウンドにはもう誰もいない。傘を忘れた生徒たちがちらほらと昇降口で雨宿りしている中で、柊は一人、傘立てのそばに立っていた。カーディガンを羽織り肩にかけたカバンの端がじっとりと湿っている。
「……最悪。」
思わず小さくつぶやいた声は、雨音にあっさりかき消された。今日は気圧のせいで朝から調子が悪く授業にも集中できなかった上に、うっかり傘を教室に置いてきた。教室は遠いし、取りに戻る気力もなく無表情で立ち尽くしている。
そんな彼の横を、部活帰りの生徒たちが通り過ぎていく。陸上部、サッカー部、吹奏楽部——皆、ずぶ濡れになりながらも仲間と笑い合っていて、それが柊にはどこか別世界の出来事のように思えた。ぽつぽつと、生徒の数が減っていく。昇降口は次第に静けさを取り戻し、ついに柊だけになったかと思ったそのとき——。
「……よっ、柊。」
びしょ濡れの蓮が、昇降口に滑り込んできた。いつもの調子でにやりと笑いながら柊の隣に立つ。
「雨宿り?」
「……見てわかんない?」
「おー、今日はちょっと機嫌悪いな。雨のせいか?」
柊はため息混じりに視線を逸らしたが、蓮はまったく動じない。
「傘ないのか?」
「教室に置いてきた。取りに戻るのも面倒。」
「そっか。」
蓮はふと、自分の手に持っていた折りたたみ傘を広げた。小ぶりな黒い傘。そして、柊の方にちらと目をやる。
「じゃ、相合傘する?」
「……は?」
「いや、俺の家柊んちの方向だし。ついでってことで。」
「濡れるだろ。」
「いーよ。俺はちょっとだけ、こういうのしてみたかった。」
「はあ?」
蓮は柊の呆れた視線もどこ吹く風といった様子で傘をすっと彼のほうへ傾けた。
「お前さ、濡れると風邪ひくだろ? 頭いいくせに、そういうとこ抜けてんだよな。」
「善意にしては距離が近すぎる。」
「善意と好きは別に矛盾しねーし。」
「……っ」
あっさり口にした「好き」という言葉に、柊の目の奥が一瞬だけ大きく見開かれた。
「なに、今の。」
「ん?聞き間違いじゃない?雨音うるさいし。」
とぼけたように笑う蓮の頬には、ほんのり赤みが差している。心なしか、傘の下でふたりの距離がさらに狭まっているような気さえした。
「俺さ、お前が時々、無表情のまま人を観察してるとこ嫌いじゃないんだよ。」
「どこ見てんの、それ……。」
「あと、眼鏡かけてるときの柊の横顔がさ、ずるいくらい綺麗で。」
「おま、な……っ!」
「好きだよ。」
「……っ、バカ。」
ついに柊が顔を逸らす。耳の先まで赤く染まっていた。
「はい、決定。今日の俺、勝ちね。」
「勝ち負けの話してない!」
「いや、した。俺のターンが成功したから。ほら、傘もうちょい寄れって。」
ぐいっと肩を引き寄せられ、強引に傘の中に収められる。蓮の右肩は雨に濡れていた。自分を守るために、ほんの少し傘をずらしてくれていたその優しさに柊は何も言い返せなくなる。
「ほんと、バカだろ。」
「はいはい、知ってる。でもお前がそう言うと、ちょっと嬉しいんだよな。」
照れ隠しの文句も、どこか満更じゃなさそうな柊の声に蓮は満足げに笑う。雨はまだ降り続いていたけれど、二人の下だけ別の季節が流れているような気がした。じんわりと熱を帯びた距離。肩が触れそうで触れない。だけど、どこよりも近くて、あたたかい場所。
玄関のドアを開けた瞬間、温かい照明の光が外に漏れた。
「あら、柊?」
柔らかな声と共に、スリッパの音が玄関先に響く。柊ははっとして振り返った。そこに立っていたのは仕事帰りの母親。手にはスーパーの袋を提げエプロン姿だった。
「ただいま。」
「おかえりなさい。……あら?」
視線が柊と隣に立つ蓮へと移る。細い傘の下、ぴったりと肩を寄せ合うようにして立っているふたり。柊の髪には雨粒がひとつも残っていないのに蓮の右肩は濡れている。そのコントラストを見て、母親は一拍遅れて目を細めた。
「——相合傘かしら?」
「っ……いや、ちが、ちがっ……!」
「ちがわないけど?」
隣の蓮が即座にそう返す。にやりと笑って、何のてらいもなく傘を閉じた。彼の制服の肩から水が滴り落ちる音が玄関の石畳に小さく響く。
「蓮くん……だったわよね。こんばんは。柊がいつもお世話になってます。」
「いえ、俺こそ柊に助けられてます。どうも、こんばんは。」
丁寧に頭を下げる蓮の礼儀正しさに、母親は少しだけ目を丸くして、それから微笑んだ。そのまま、ゆっくりと靴を脱ぎながら中に入ろうとする息子に向かって小さく問いかける。
「今日は傘、持って行ってなかったの?」
「……教室に置いてきた。」
「じゃあ、蓮くんが助けてくれたのね。」
「……まあ、そうだけど。」
「そっか。いいお友達ね。」
母親は軽やかに言って、玄関を通り過ぎようとした。だがその直前——彼女はふと立ち止まり後ろを振り返る。その目には、ほんの少しだけ探るような、それでいてどこか確信めいた優しさがにじんでいた。
「柊」
「なに?」
「柊は、覚えてないかもしれないけれど小さい頃、よく言ってたわ。“大人になったら、男の子と結婚する”って。」
突然の過去の話に、柊の顔が一瞬にして固まった。
「今でも、そう思ってる?」
蓮が隣で驚いたように目を見開く。柊は何も言えず俯いたまま唇をきゅっと引き結んだ。
「ふふ、答えなくてもいいわ。……でもね、雨の日に誰かと相合傘をするのって特別なことだと思うの。柊が誰かとそうして帰ってきた日を私はきっと忘れないわ。」
「……母さん……」
「さ、冷えるでしょ。早く中に入りなさいな。蓮くんも、タオル持ってくるから上がっていって。」
そう言って、彼女は本当に何事もなかったかのように階段を上っていく。残された玄関には、気まずさとほんのり甘い空気が混ざり合っていた。
「お前の母さん、なんか、強ぇな。」
蓮が小声でつぶやく。柊は顔を真っ赤にしながら、しばらく何も言えず、ただじっと立ち尽くしていたが——。
「……嫌じゃなかった。」
ぽつりと、呟いた。蓮が驚いた顔で柊を見る。
「相合傘。……蓮が、一緒にいてくれたの。嫌じゃなかった。だから、母さんに何か言われても、俺は平気だった。」
「……柊」
その名を、そっと呼ぶ蓮の声には、さっきまでのからかいはない。
「俺も。傘の下にお前がいてくれて、なんか、すげー嬉しかった。」
柊は顔を隠すように玄関のドアの影に立ち、蓮を見ようとしなかったが——蓮はそんな彼にそっと寄り添い優しく笑って言った。
「これからも、何回でも相合傘してーな。」
その言葉に、柊の耳がまたほんのりと赤く染まった。玄関の向こう、雨はまだ降り続いている。その音さえも、まるで祝福の拍手みたいに二人の耳に優しく響いていた。




