第3話
「ねぇ、蓮。」
クッキーの最後の一欠片を口に放り込みながら、柊はぽつりと呟いた。食べ終えた袋を手の中でくしゃっと丸めながら、蓮のほうを見もせず何気ない風を装った声。
「ん?」
蓮はベッドに浅く腰掛けたまま、半分眠たそうに柊のほうを見ていた。さっきまでの気まずさはやや和らぎ、部屋にはどこか静かな安心感が漂っている。けれど柊の次の言葉は、その空気をすこしだけ揺らした。
「同性同士の恋をどう思う?」
一瞬、蓮の表情が曇ったわけじゃない。ただ、言葉を受け止めるのにほんの数秒かかっただけ。彼のまぶたがぴくりと動き視線が柊を正面から捉えた。
「え?」
「いや、別に深い意味じゃなくてさ。蓮は、興味ないとは思うけど聞いてみたくなった。」
冗談っぽく笑ってみせる。その笑いは、自分でもわかるほど薄くて浅かった。蓮はしばらく黙ってる。軽く顎に手を当て、真剣とも、困惑とも、つかない表情で柊を見ていた。そして数秒の沈黙のあと口を開く。
「……んー、正直、よくわかんねぇ。」
「だと思った。」
「別に気持ち悪いとか、そういうのは思わねーよ。」
「……へぇ」
柊は小さく笑った。だが、眼鏡の奥の瞳はどこか試すように蓮を見ていた。自分の言葉がこの距離感を壊すのか、それとも——。
「俺さ、男が好きなんだよね。前からずっと。気づいたのは中学の頃だけど言えなかった。怖くて。」
蓮は表情を変えず黙っている。驚いてるのか、理解しようとしてるのかそれすら掴めない。
「別に、お前に何かする気はないし好きだとも言ってない。でも、正直に話せる相手っていなかったから。」
言葉にしてしまえば、もう戻れない気がしていた。でも、どこかで期待していた。いや、違う。ただ——
「お前には、なんか……理解してもらえたらって思った。」
その瞬間、自分の心臓の音が異様にうるさく感じた。蓮の顔が少しずつこちらに向く。柊は無意識に手を握りしめた。逃げられるなら、いまこの場からでも逃げたかった。でも、視線は逸らさない。蓮は、ぽつりと呟いた。
「……そっか。」
それだけ。その一言には、拒絶も否定もなかった。むしろ、少しだけ戸惑いを含んだ優しさが混じている。
「びっくりはしたけど……俺、別に、お前のこと変だとか思わない。でもなんか、お前がそれ俺に言ってくれたのちょっと嬉しいな。」
柊の指先がぴくりと震えた。
「は?何が?」
「だって、俺、結構信用されてんだなーって思って。」
また、くだらないことをさらっと言って気まずさを誤魔化そうとする。その言葉が、妙に優しくて嘘じゃないって思えた。
「……バカじゃないのか。」
「たまに言われる。」
蓮はそう言って笑った。さっきまでとは違う、肩の力が抜けたいつもの笑い方。柊も、ふと力が抜けて小さく息を吐いた。この部屋の空気はまだ静かだったけど、先ほどとは何かが違っている。秘密を分け合ったあとのやけに温かい沈黙。そんな気がする。柊の口元に、ほんのかすかな苦笑が浮かんでいた。あたかも誰か他人の話をするように、落ち着いた声で、それでいて微かに揺れる調子で話し始める。
「人ってさ、言えないこと沢山あるよな。」
蓮は、その言葉の重さに気づいたのか小さく頷きながらも何も言わず柊を見つめていた。
「俺の父親さ……」
そう言った瞬間、柊は少しだけ眼鏡を外して目元を指で押さえる。レンズ越しに揺れていた光が、裸の目で直接蓮を見据える時いつもの無表情とは違っていた。
「実は、同性愛者だったんだよ。たぶん、ずっと昔から。だけど誰にも言えなくて、言わずに母さんと結婚して俺が生まれた。」
蓮の目が微かに揺れる。何かを言いかけて口を閉じたが柊は続けた。どこか、遠くを見ているような目で。
「けどさ、ある日、俺の顔を見た瞬間……吐いたんだ。」
「……は?」
「俺が幼かった頃の話。記憶は曖昧だけど……でも、母さんから聞いた。ある日、父さんが突然、母さんにカミングアウトしたんだって。『本当は男が好きだ』って。で、なんで今さら?って……母さん、すごく怒ってさ。」
その声は、静かだった。激情の裏返しのように感情を押し殺した低い声。クッキーの甘い香りが妙に遠く感じる。
「母さんは、同性愛者そのものに理解がなかったわけじゃないんだ。実際、言ってた。『そういうのもある』って。でも……。」
柊は膝の上で手をぎゅっと握った。
「なんで今まで黙ってたのって。なんで、自分が納得するためだけに、俺と母さんを巻き込んだのって怒ったんだよ。それは当然だと思う。」
蓮は言葉が出てこない。唇を結び柊の語る過去に耳を傾け続けるしかなかった。
「それで、父さん出てった。『好きな人ができた』って、男の人と一緒に住むためにこの家を出た。何も置いてかずに、ほんとに、すっと。」
柊の笑いは、ひどく空虚だった。怒ってるわけじゃない。悲しんでるわけでもない。もう何年も前に剥がれ落ちた心の皮を誰にも見せたことがないだけ。
「今でもたまに思うよ。俺が男が好きになったのって父さんのせいなんじゃないかって。血なのか、呪いなのか……。」
「そんなの関係ないだろ。」
唐突に、蓮の声が入った。
柊は一瞬、目を見張った。
「血とか呪いとか、そういう言い方すんなよ。お前が誰を好きになるかなんて、お前が決めることでさ。親のせいにして嫌になる必要なんかないだろ。」
その言葉に、柊の中で何かが僅かに緩んだ気がした。胸の奥に、ずっと凍っていた部分がふっとひび割れていくような感覚。
「……俺にはわかんねぇよ、正直。親が出てったとか恋人と逃げたとか。そういうの俺の家じゃ考えられない。でも、お前が今ちゃんとここにいて、ちゃんと俺に話してくれてることは凄いと思う。普通、そんなこと言えねぇだろ。」
柊は何も言えなかった。言葉が喉の奥で詰まる。涙は出ない。胸の奥がぎゅっと苦しくて指先だけが震えていた。蓮は、机に置いてあった柊の手帳をちらっと見てから笑った。
「いつかその話、物語にしたらいいんじゃね?そのままじゃなくてさ。登場人物変えてもいいし、時代変えてもいい。お前の中の重いもん、ちょっとずつ外に出してけば楽になるだろ。」
ゆっくりと眼鏡をかけ直す。視界が戻りぼやけていた蓮の姿がはっきりと映る。
「それ、お前に読ませるためだったらやだな。」
「なんだよそれ。俺には見せらんないくらい恥ずかしいんだ?」
「……バカ」
けれどその声には、確かに微笑があった。長い間、誰にも言えなかった秘密を抱えたまま、それでも息をしていた自分。それを「変だ」と言わず、「ちゃんと話してくれて、すげぇ」と言ってくれたこの目の前の男が——少し、ずるいと思った。
ずるいくらい、優しい。
そして、そんなやつに惹かれてしまっている自分が、もっとずるかった。




