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第2話

 午後六時を過ぎた空は、徐々に藍色へと沈みはじめていた。カーテンの隙間から覗く夕暮れが、薄暗くなった部屋を茜色に染めている。柊は自室の机に向かい、ペンを走らせていた。学校の課題でもなく、もちろん提出する予定もない。脳内の物語を文字に変えていく。それが日々の逃げ道であり救いだった。


 目を細めて文字を追っていたせいで、ペンを置いたときには目の奥がじんわりと重い。柊は無言で立ち上がり、ベッド脇の棚から眼鏡を取り出す。レンズを軽く拭いてからかけ直した。フレームの奥から世界が少し鮮明に見える。


『ピンポーン』


 インターホンの音が思考を遮った。家族は仕事で不在。こんな時間に訪ねてくる人間なんて滅多にいない。柊は警戒心を抱きつつも、階段を下りて玄関に向かった。玄関のドアを開けると、そこには蓮がいた。


「……よう。」


 どこか気まずそうな表情と共に、蓮は片手を軽く上げる。制服のままで少し乱れた前髪の間から覗く瞳が、普段よりもずっと落ち着いた色をしていた。


「…え…何で。」


 柊は眉を寄せ、声がかすかに揺れる。


 なぜここに?

 どうやって住所を?


 そんな疑問が渦巻く。蓮は気まずそうに笑った。


「いや、実はさ。お前、帰んの早かったから担任が柊に渡しそびれたプリント預かったんだ。……それで、お前んちの場所を教えてもらって来たんだけど。」


 言いながら、柊を正面から見るでもなく、なぜか視線を逸らした。僅かに顔をそらしながら視線を宙に泳がせている。柊はその違和感にすぐ気づいた。


「……何?」

「ん?いや、別に。何でもねぇよ。」

「こっち見ないで何でもないって……。」

「いや、だって……!」


 蓮はちょっとだけ、苦笑を浮かべながら言った。


「お前、眼鏡似合うんだな。」


 一拍遅れて、柊の胸に何かが跳ねた。


「……は?」

「あー……いや、変な意味じゃねぇよ?でも、いつもと違っててさ。ちょっと……。」


 言葉を濁す。耳の後ろがほんのり赤く染まっている。何かを誤魔化すように笑いながら蓮は目を逸らした。柊は混乱している。眼鏡をかけている自分を蓮がそんな風に……?しかも、あからさまに視線を逸らすなんて。


「お前、眼鏡フェチかよ。」


 ぽつりと呟いたら、蓮がびくりと肩を揺らした。


「ちげーよ!ちょっと好きなだけだって、そういうの……なんつーか雰囲気っていうか!」


 言い訳じみたその口調に、なぜか胸の奥がくすぐったくなって嫌ではなかった。むしろ、見られたくなかったはずの自分の一面を思いがけず肯定されたような、そんな気がして。柊は少しだけ眼鏡の位置を直し、うつむきながら玄関の扉を少し開いた。


「……中、入る?」

「えっ、いいのか?」

「外で突っ立たれても迷惑。」

「……はは、言い方よ。」


 蓮は笑ったが、どこか照れているようだった。靴を脱いで玄関を上がるとき、彼はもう一度だけ、ちらりと柊の横顔を盗み見た。その視線が、さっきよりも少しだけ長く止まっていたことに柊は気づいている。その一瞬の沈黙の中で、柊の鼓動だけが、やけにうるさく響いていた。


 柊の部屋は、想像以上に整っている。ベッドはきちんと整えられ、机の上には筆記用具とノート、あとは数冊の文庫本と一部が隠れるように置かれた手帳。その整然とした空間の中に、蓮は妙な緊張を覚えた。静かすぎる空気。お互いの咀嚼音と風に揺れるカーテンの音だけが耳に届く。柊が差し出した袋から、蓮は遠慮がちにチョコクッキーを一枚取った。斜め向かいに座った柊も同じものを口に運んでいるが目はどこか遠くを見ているようだった。


「ありがとな、お菓子。」

「別に。余ってただけ。」


 素っ気ない。けど、その言葉の裏に「追い返さなかった」という意思が含まれていることくらい蓮にもわかっている。けれど、言葉は続かない。どうしてだろう。普段、こんなに黙って向かい合うことなんてない。いつもは教室で、廊下で、もっと軽く言葉を投げ合って——でも今は妙に空気が重い。


 気まずいというより、近すぎてどこを見ていいかわからない感じ。蓮はクッキーの包みを弄びながら、部屋の中に視線を泳がせた。目についたのは机の横にある棚。そこに小さなフォトフレームが二つ並んでいた。片方は、明るく笑う女性と小学生くらいの柊が並んで写っている写真。もう一方は、同じ年頃の柊が一人で写っている写真。部屋のどこにも、いわゆる「家族写真」と呼ばれるものはない。


 ——父親、いないのか?


 蓮は、言っていいのか迷った。でも、たぶん聞かなきゃこの違和感は消えない。そういう時、柊の目をまっすぐ見て聞けるのは自分しかいない気がした。


「なあ、柊。」

「……何。」

「お父さん……って、いないの?」


 言葉を選んだつもりだったけれど、聞いてすぐに蓮は「あっ」と思った。ストレートすぎたかもしれない。けれど、柊の反応は意外なほど静かだった。


「お前って、ほんとストレートだよな。普通、そんなこといきなり聞かない。空気読めなさすぎ。」


 言いながらも、柊は怒っていなかった。むしろ、あきれたような声には少しだけ緩んだ響きが混じっている。眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけ蓮に向いてすぐ逸れる。


「まあ、いいけど。父親いないよ。ずっと前に離婚してどっか行った。」


「……そうなんだ。」


「別に、珍しい話でもないでしょ。世の中、父親いない家庭なんていくらでもある。」


「うん、そうだけど……。」


 蓮は膝の上で指を組みながら、しばらく黙っていた。何か言うべきか、言わないべきか迷った末にぽつりと呟くように口を開く。


「俺さ、親再婚して今は結構な人数だけど、小さい頃に実父が事故ったことあってさ。ちょっとの間だけだけど、うちも母ちゃんと二人だった時あんだ。だから、少しだけ……気持ちわかる気がして。」


 柊が少しだけ蓮の方を見た。目を細めるでもなく、見下すでもなく、ただ真正面から、素のままの表情で。


「優しいのか無神経なのか、わかんない。」

「俺も自分でわかんねぇよ。」


 二人の間に、ようやくほんの少しの笑いがこぼれた。それでも沈黙が完全に消えたわけじゃない。けれど、それはもう「気まずさ」ではなく、「まだ知らないことがある」というだけの静けさ。柊は再びクッキーをひとつ口に放り込み眼鏡のブリッジを指で押し上げた。


「まあ、言ってくれてありがと。」

「ん?」

「別に慰めが欲しいわけじゃなかったけど、今のは悪くなかった。」

「はは、珍しく素直じゃん。」

「……うるさい。」


 蓮はその小さな照れ隠しに気づきながらも、何も言わず、ただ笑った。その笑顔が、柊の胸のどこかをまた優しく掻き立てている。

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