第14話
柊は机の上で課題をやっていた。ノートを閉じようとして、何気なくスマホを取ったその瞬間——指が滑った。
「っ……あ」
ビデオ通話のボタンがタップされる。慌てて切ろうとしたが、映し出されたのは蓮だった。濡れた髪をタオルで拭きながら、Tシャツ一枚。肩や首筋にまだ湯気が残っている。頬が火照っていて、浴室の明かりの余韻が白い肌にやけに生々しく映っていた。
「……ん?柊?」
蓮が軽く目を瞬かせる。画面越しなのに、距離が近すぎて呼吸が乱れた。
「ま、間違えた!!切る!」
「は?待て待て待て!なんで切んだよ。」
「今のはミスだから!てか……なんで出んの!風呂上がりだろ!」
「出るだろ、彼氏からの通話なんだから。」
さらりと、当然のように言ってのける。画面越しの蓮は、濡れた髪をガシガシ拭きながらニヤついている。
「なに?俺のこと覗きたかった?」
「バカ!!ちが……っ」
顔が一気に熱を帯びた。否定しているのに映像が消せない。むしろ視線が絡んでしまって余計に恥ずかしい。
「なーんかさ、お前、赤くなってね?」
「なってねーよ!」
「なってるよ、めっちゃ。……ほら、可愛い。」
挑発混じりの声。蓮の瞳は余裕たっぷりで、まるで相手を完全に掌に乗せているようだった。柊は咄嗟に枕を手に取り画面に向かって投げつける。
「うるせぇ!!バカ!!」
枕がスマホを直撃して画面が揺れた。だが切れてはいない。布越しに聞こえる蓮の笑い声。
「はいはい、照れてんのバレバレ。……ありがとな、事故でも繋いでくれて。」
心臓がまだ早鐘を打っている。通話を切りたいのに指が動かない。自分でも気づかないほど、ほんの少しだけ“見ていたい”と思っているから。蓮はタオルを首にかけ、画面の向こうでわざとらしく覗き込んできた。
「なあ、また間違えて押していいから。切んなよ?」
柊は耳まで真っ赤にして、布団に潜り込みながら小さく呟いた。
「分かってるよ……バカ。」
通話は、そのまま切れずに夜更けまで続いてしまった。まるで、それすら当たり前のように。
放課後の帰り道。
日はすっかり落ちて、街灯のオレンジが歩道を染めていた。白い息がふたりの間で交差し、ゆるやかな寒さに包まれながら柊と蓮は並んで歩いている。本当はここで別れるはずだった。「じゃあな」と手を振る予定だったのに、気づけば蓮は何も言わずに柊の隣に歩調を合わせていた。
「ついてきてんの?」
「だってこのまま帰したくない。」
「意味わかんない。」
「意味わかんなくてもいい。俺が帰したくないから一緒に帰る。それだけ。」
さらりと放たれる言葉に、胸の奥がきゅっと掴まれる。ツンとした顔を作っても、視線の端に映る蓮の笑顔がずるすぎて頬が熱を帯びるのを隠せなかった。やがて自宅の前に辿り着く。玄関灯がぼんやりと灯っていて、静かな住宅街に影を落としていた。
「ほら、着いたから。帰れ。」
柊は鞄を持ち直し、強引に切り上げようとする。しかし蓮は一歩も引かない。
「帰んない。」
「は?」
「玄関まで来たから、ついでに家の中まで。……な?」
いつもなら即座に枕を投げるところだ。今日は、長い道のりを一緒に歩いた温度が心に残っていた。柊は玄関の鍵を開ける手を止め、ほんの少しだけ逡巡する。
「勝手に来て後悔すんなよ。」
「しない。むしろ自慢する。」
「バカか……。」
ドアが開いた瞬間、温かな空気が二人を迎え入れる。靴を脱ぎながら蓮が小さく囁いた。
「なあ。こうして家まで来ちゃうとさ、もう親に“彼氏”って隠せない感じするな。」
「最初から隠す気なかったくせに。」
「うん。でも、隠さない方がずっと気持ちいい。」
柊は答えず、玄関のドアをそっと閉めた。その音が心の奥にまで届く。リビングに入ると柊は鞄を置いてため息をつく。
「ほんと……なんで蓮って気づいたら俺の隣にいるんだろうな。」
蓮は笑って、当然のように言う。
「そこが俺の席だから。」
その瞬間、胸がじんわり熱くなる。拒めなくて、むしろ嬉しくて、でも素直に言えないからツンと顔を作った。
「ほんと、バカ。」
「知ってる。でも、お前のバカでいたい。」
柊は何も言わずクッションを投げつけた。けれどそれは、いつもの拒絶じゃない。ただ「ここにいていい」と伝えるための不器用なサイン。こうして、ふたりの距離はまたひとつ縮まっていった。
蓮は、壁際に追い込むようにして柊に顔を近づける。呼吸の音だけがやけに響いた。柊は抵抗するでもなく真っ赤な顔で目を逸らす。
「……おい。」
「そう言うわりに逃げねぇじゃん。」
唇が触れた瞬間、時間が止まる。
——その時だった。
「ただいまー……って」
ドアが開き母の声が響いた。柊と蓮は驚いて飛び退く。しかし距離が足りず、柊は慌てて壁に背中をぶつけ蓮は吹っ飛ばされてバランスを崩す。柊の母親は、買い物袋を両手に下げたまま固まっていた。数秒の沈黙。視線は、火照った顔の柊とすぐ隣にいる蓮を交互に行き来する。袋からネギの葉先がのぞいているのが、やけに滑稽で逃げ場のない緊張を増幅させていた。
「……あら」
母はそれ以上言わず、ほんの少しだけ口元を緩めて台所に。柊の心臓が耳鳴りのようにうるさい。
(終わった……死にたい……)
隣の蓮はといえば、動揺する柊をよそに何故か余裕の笑みを浮かべていた。
「こんばんは。お邪魔してます。」
「……ち、ちがっ!こ、これは、その……!」
柊が必死に言い訳を探す間に、母は「ふふ」と含み笑いを漏らした。
「夕飯、二人分にしとけばいいわね。」
その一言に、柊は崩れ落ちそうになる。蓮は肩をすくめ柊の背中にそっと手を添えて囁いた。
「バレたな。……でも、悪くない。」
顔を覆う柊の指先は、羞恥で震えている。けれど心の奥底では、ほんの少しだけ安心が灯っていた。隠していたものが母の目に触れても壊れなかったことが、不思議なくらい温かかったから。柊は小さく呟いた。
「全部、お前のせいだ。」
「うん。だから、これからも俺のせいでいい。」
蓮の声が、今度は静かに胸の奥に沈んでいった。夕飯は、落ち着かないまま過ぎていく。母は何も追及せず、あえて普段と同じように鍋をつつき、柊と蓮に「もっと食べなさい」とお玉を差し出す。その自然さが、かえって胸を締めつけた。
蓮が「ごちそうさまでした」と帰っていったあと、玄関の戸が閉まる音がやけに大きく響いた。家に残されたのは柊と母だけ。台所から聞こえる水音が途切れた瞬間、柊は堪えきれずに声をかけた。
「母さん、あのね。」
母は振り返り、静かに視線を合わせた。
「蓮くんのこと?」
「……うん。」
胸の奥がぎゅっと痛んだ。だけど今度は逃げない。
「俺、蓮が好きなんだ。……男同士なのにって思うかもしれないけど、どうしても嘘つけなくて。隠したくもなくて。」
言葉にしてしまった瞬間、全身の力が抜けて情けないほど指先が震えた。母は短く息をつき、それから椅子に腰を下ろした。
「そうなのね。」
「嫌……?」
「嫌じゃないわよ。ただ……思い出したのよ。あの日のこと。」
母の目が遠くを見ていた。
「“男が好きなんだ”って、お父さんが言った日。あなたを抱きしめるどころか、顔を見て吐いた人。あの時の絶望と怒りは今でも忘れられない。」
柊は言葉を失う。その記憶は、母にとって傷そのもの。だからこそ、自分が「同じ」だと伝えるのが怖かった。けれど母は、ゆっくりと柊の方を見る。
「でも、あなたは違うのね。蓮くんを見てる顔は、あの日のお父さんとは全然違う。逃げてない。ちゃんと向き合ってる。」
母の声は震えていたけれど、そこには怒りではなく柔らかな熱があった。
「私は、もう嘘で家族を壊されるのは嫌。正直に好きだって言えるあんたなら、大丈夫かもしれない。……そう思えるのよ。」
柊の視界がじんわりと滲む。母の手がそっと自分の肩に触れた。
「……母さん。」
「泣かないの。泣くとお父さんに似るんだから。」
冗談めかした声に思わず笑ってしまう。笑いながら涙が頬を伝った。
「ありがとう。」
「礼なんていらないわよ。私はただ、柊が幸せになるのを願うだけ。」
その夜。布団に潜り込み天井を見つめながら柊は思った。父の言葉と母の絶望を背負ってきた自分。それでも、蓮に出会って“好き”を隠さなくなった自分。母に「大丈夫」と言ってもらえた今——ようやく、過去から一歩抜け出せた気がした。
父と母の物語とは違う、自分たちの物語を歩ける。その確信が、夜の静けさの中で静かに灯っていた。
この物語に最後まで付き合ってくださったあなたへ。ページの向こうで息を潜めたり、声にならない笑いをこぼしたり、時には自分の昔話を思い出して胸の奥がちくりとしたり——そんな時間を、ほんの少しでも共有できていたなら、書き手としてこれ以上の幸せはありません。
はじまりは、とても小さな絵でした。雨の昇降口、傘を忘れた少年、そして肩をずらして自分の右肩を濡らしながら傘を差し出すもう一人の少年。そこに「眼鏡」というピースを置いた瞬間、人物の輪郭が急に生き物みたいに動き出しました。蓮の“眼鏡好き”はクセとして描きましたが、実はそれは「視線の言い訳」です。好きだとまだ言えない時期、人はしばしば“わかりやすい理由”を欲しがる。髪型でも服でも癖でもいい、そこに目を留めているふりをして、ほんとは相手そのものを見てしまっている——そんな未熟で愛おしい手つきを、軽さと照れの間に挟み込みたかったのです。
柊という語り手を通して描きたかったのは、「言葉にする」と「言葉にしない」のあわいです。彼は父の出来事を抱えて、「言えなかったこと/言ってしまったことで壊れたもの」の両方を知っています。だからこそ、彼の“沈黙”は怠惰でも逃避でもなく、祈りに近い慎重さであり同時に恐れでもある。その沈黙を、蓮のまっすぐで不器用な言葉が少しずつ温めて溶かしていく。ふたりの距離は、告白という一点で突然縮むのではなく、季節の移ろいのように、気づいたら肩が触れる、気づいたら呼吸が重なる、そんな微差の連続にしたかった。
季節を強く意識したのは、十代の恋が“世界の色”を替える力を持っているからです。春の眩しさは「はじめまして」のぎこちなさ、雨の匂いは秘密の重み、秋の落ち葉は言えなかった日々の積層、冬の白さはやっと見つけた居場所の明度。歩道橋、玄関、図書室、台所——舞台はどれも狭くて、生活に近い場所です。大きな劇場ではなく、靴の砂を払い落とす音が響く現場に恋の決定的瞬間は落ちてくる。家でのキスと「ただいま」がぶつかる衝突は、その象徴でした。扉の内と外、子どもと大人、過去と未来が重なる場所で二人はようやく「見つかっても壊れない」ことを知る。母の視線に“裁き”ではなく“段取り(夕飯二人分)”を置いたのは、世界を変えるのは宣言ではなく、お玉の一すくいかもしれないと思っているからです。
父の描き方については、最後まで迷いました。彼を悪役として閉じれば物語は簡単に正義を得るけれど、それでは柊が抱えてきた“説明のつかない痛み”の複雑さが薄まってしまう。吐き気という生理反応の残酷さをそのまま置いたのは、誰かの真実が善悪の尺度からこぼれ落ちる時があるという恐さを逃したくなかったからです。同時に、母の「嫌いなのは嘘で壊された家、あなたの恋そのものじゃない」という線引きを、静かに、しかし確かに置くこと。彼女は“理解しようと努める大人”ではなく、“生活を続ける大人”であってほしかった。だから台詞は多くしない、台所の水音と買い物袋に、彼女の歳月を背負わせました。
嫉妬の回は、蓮側の「やだ」を真正面から書くための章です。嫉妬は未熟の証拠でもあり、関係を壊す火種にもなり得る。でも同時に、「どこが好きで、どこが怖いのか」を可視化する、誠実の入口でもある。蓮の「やだ」を“支配”ではなく“願い”に変える鍵として、柊の「わがままはお前に見せる」を置きました。二人の間だけの合図を作ることも、恋が世界と折り合う具体的な技術の一つだと思っています。
軽口やじゃれ合いの温度は最後まで高く保ちたくて、ベッドの上の小競り合いやスマホの背景、誤発信のビデオ通話など、笑ってしまうほど日常的な甘さを散りばめました。十代の恋は往々にして過剰だけど、それは“危うさ”ではなく“余白のなさ”から生まれる。余白がないから、袖を掴む。余白がないから、言い過ぎる。余白がないから、世界でいちばん小さい家(玄関、リビング)が世界でいちばん広い舞台になる。そんな、過剰で愛しい季節を出来るだけ汚さずに瓶詰めにしたい。それが、本文全体の書き心地でした。
読者としてのあなたが、どこに居たのかも想像していました。教室の隅で目だけ動かす人、傘立ての前でため息をつく人、台所で鍋のふたに映る自分の顔を見る人。もしもあなたがかつて言えなかった言葉を持っていたなら、柊が少し遅れて確かに言い直すことで、どこか一行でも救われていたら。もしもあなたが誰かの「やだ」を受け止めた経験があるなら、蓮の拙い直球が苦笑とともに胸に落ちていたら。物語は、書いた人間から離れて初めて体温を持つのだと信じています。
最後に、このふたりの“その後”について。彼らはたぶん、これからも何度も些細なことで拗ねて、何度も笑って、何度も季節を数え直すでしょう。大事件は起きなくていい。代わりに、鍋の味が少し変わったことに気づける日々であればいい。スマホの写真が互いの顔で増えていき、消す/消さないでくだらない言い合いをできる未来であればいい。いつか過去を語る時、父や母の物語を“他人事にも自分事にもできる”だけの距離を手に入れて、なお「好き」を毎日選び直している。そんなふたりでありますように。
ここまで読んでくれて、本当にありがとうございました。あなたの“今”が少しでもやわらかくなりますように。次にページを開くときも、そのやわらかさを持ってきてくれたら、またどこかで会いましょう。




