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第13話

 夜の帳が静かに落ちる頃。


 柊の部屋には、ぼんやりとした間接照明の明かりが灯っていた。カーテンの向こうには街灯が揺れ、冬の夜気が窓を淡く白く曇らせている。そんな空間の中、柊と蓮はベッドに並んでいた。少しだけ距離を空けていたはずなのに、気づけば柊の方からじわじわと蓮に寄る。


「なぁ、さっきからちょいちょい肩当たってんだけど。わざと?」


 蓮が笑いながら肩越しに覗き込むと、柊はむすっとした顔で枕に頬を沈めていた。そのくせ目だけは、きらきらと悪戯っぽく光っている。


「当たってねーし。」

「いや、肩当たってる。」

「じゃあ、当ててるって言ったら?」


 不意を突くような柊の言葉に、蓮の笑みが止まる。一瞬ぽかんとしたが、すぐに吹き出した。


「どうした?今日はやけに積極的じゃん。」

「別に。お前が最近、構ってくんないから。」


 拗ねた声だった。心のどこかを掻きむしられるような甘えた響き。そのあと、柊は体をくるりと回して蓮の胸に腕を乗せてきた。まるで猫のようにするりと入り込んで、目を伏せたままぽつりと呟く。


「俺、蓮にならずっとくっついててもいい?」


 蓮は驚きながらも、黙って片腕で柊の背を撫でた。柊はそれに甘えるように体を預け喉元に顔を押し付ける。


「なに。キスでもしてほしいの?俺から。」


 それは煽っているような声色。指先は少し震えていて、唇の端も照れでぴくりと引きつっていた。


「そんなこと言うと、ほんとにするよ?」

「いーよ、……してみろよ。」


 挑発的な目で見上げる柊。けれど、耳まで真っ赤。そんな彼を見た蓮は、もう我慢ができなくなった。ゆっくりと体を覆いかぶせるように重ねて囁く。


「ほんと、今日の柊やばい。かわいすぎる。」

「……うっせ。言うなって言ってんだろ。」

「でも言わないと死ぬ。マジで、柊が甘えてくるとか都市伝説レベル。」


 柊は枕をぎゅっと握りしめたまま、顔を逸らそうとする。逃げ場がないとわかったのか、ぽつりと呟いた。


「たまには、こういう日があってもいいだろ。」

「ずっとその日でもいい。」


 柊の肩に額を押し付けながら、蓮は携帯を手に取ると、意識にシャッターを押した。くしゃっと照れた笑顔のまま枕に埋もれる柊。


「は?なに勝手に撮ってんだよ。」

「俺の精神安定剤。」

「消せって言ってんだろ!!」

「消さない、消さない。死んでも消さない。」


 柊は頬を赤らめながらも、最後には小さな声で言った。


「俺にも撮らせろ。」

「やば。今日の柊、まじで好きが爆発してる……!!」


 布団の中でじゃれ合いながら、笑いがこぼれる。世には出せない。だけど、誰よりも大事な夜。甘く、甘く、溺れるような時間。「好き」のかたちが、こんなに柔らかくて愛おしいなんて。柊のデレ期は、誰にも見せない裏アカウントのように、たった一人だけに向けた奇跡だった。


 空はすっかりと群青色に沈んでいた。部屋の中はさっきまでの余韻を残すように、温かくとろけるような空気に包まれている。柊はまだ頬を赤く染めて横になっていた。さっきまでの甘々な空気――頬に、首筋に、胸の奥にまで触れられた感触が残っている。


「なあ、風呂入ってこよっか。一緒に。」


 蓮がそう声をかけたのは、まるで何気ないことのよう。その瞬間、柊の目つきが変わった。


「はあああああ!?!?誰が入るか!!」


 言うが早いか、柊は隣の枕を手に取り遠慮なしに蓮に向かって全力投球。


「いてっ!?なに、いきなり!?今の流れならアリでしょ!?」

「ねーよ!どんな流れだよ!!!」


 怒鳴ってるくせに、耳まで真っ赤。


「さっきまであんなに……すり寄ってきてたじゃん……。」

「それは!そ、それは別だろ!今は、……クールダウンの時間!」


 自分でもなにを言ってるか分からないのか、柊は目を逸らして毛布に潜り込む。けれど背中がぴくぴくと震えているのを、蓮は見逃さなかった。笑いをこらえてそっと近づくと柊の耳元でささやく。


「ほんとは、入りたいんでしょ?」


 その瞬間、毛布の中から枕が第二弾として飛んできた。


「帰れ!!出禁!!!」

「えぇ!?俺の彼氏んちなんのに!?」


 毛布にうずくまりながらも、柊の声はどこか震えていた。それは怒っているというよりも、照れているという感情に近い。柊にとっては、あまりに甘くなってしまったあとの反動。あれ以上、さらけ出してしまったら自分が自分でなくなる気がして、反射的に“いつもの調子”に戻ってしまうのだ。


(……ったく。ちょっとだけ、心の中で好きって思っただけなのに。)


 柊は頬を枕に押しつけながら、ぼそりと呟いた。


「さっきのは……特別だからな。」

「ん?なに?聞こえなーい。」

「聞くなバカ!ばかばかばか!!」


 そのやりとりに、蓮はふっと笑って枕を拾って柊の背中にそっと戻してやった。


「風呂あがったら、また隣来ていい?」

「しょーがねーな。早くして来い、アホ。」


 それはつまり、断っていないということだ。柊の“拒否”は、蓮にとってはもう――とびきり甘い“招待状”と同義。たまにだけ訪れる、ツンツンと甘々の交差点。そこにいる柊は、誰より不器用で、誰より誠実で、誰より愛しかった。


 昼休みの教室。蓮は弁当箱のふたを閉めながら視界の端で柊を見ている。


「相良、これプリント。あと、ここの問題さ……。」


 細い影が柊の机にスッと差し込む。隣のクラスの綾瀬が、解きかけのワークと自分のシャープペンを柊の手元へ滑らせた。ペン先が触れそうな距離。自然に肩が寄る。息が混じる。


(近い)


 蓮の胃の底で炭酸が静かに弾けた。音は誰にも聞こえない。でも確かに、そこにあった。柊はいつもの無表情で、けれど丁寧に質問に答えていく。横顔は淡々としているのに、説明になると目が少しだけ柔らかい。その“少し”を蓮は知っている。自分に向くときの、特別な柔らかさ——だと思っていたのに。綾瀬が思い出したように笑う。


「やっぱ説明うまいな。塾でもさ、この前——」


(塾?)


 初耳の単語が引っ掛かる。蓮の箸が止まった。


「……塾、行くって言ってたっけ。」


 何気ない風を装って口にした声が、思ったより低く落ちた。柊がふとこちらを見て、瞬き一度。


「言ってない。」


(言ってない、ね)


 喉奥に乾いた熱が溜まり、蓮は水を一口で流し込む。流れない、胸にひっかかる。


 放課後の図書室。紙の匂いと暖房の音。窓の外は、早い夕暮れがグラウンドの端から濃くなっていた。返却期限を過ぎた参考書を手に入口で立ち止まる。中ほどの机、柊の向かいには綾瀬がいる。二人の間には表紙の擦れた文庫本。栞の位置を指で確かめ合って低い声で笑っている。


(笑ってる)


 肺のどこかが、きゅっと縮む。別に、笑うことぐらいある。友達だ、分かってる。分かってるけど——。


 柊が髪を耳にかける仕草をした。その些細な動きに綾瀬の視線が引っ張られていくのを蓮は見た。


(見るな)


 心の中でだけ無数に呟く。柊がこちらに気づいて軽く手を上げる。蓮は近づいて、机の縁に肘をついた。


「帰る」


 短く言って、柊の目をまっすぐ捕まえる。


「今?」

「今」


 綾瀬が空気を読んで席を立った。


「じゃ、また明日。」


 “また”の二文字に、内側の炭酸がふつふつと泡を増やす。図書室を出ると廊下は夕焼けで長く伸びていた。沈黙が靴音に混ざって、二人の影を揺らす。


「……何。」


 柊が先に口を開く。蓮は笑おうとした。うまくいかなくて口角が引きつる。


「別に。」

「別に、の顔じゃない。」

「塾の話、聞いてない。」


 柊はほんの少しだけ歩幅を落として、横を歩く蓮の指先を見た。


「言わなかった。たまたまだよ。」

「たまたまが増えるの嫌なんだけど?」


 思ったよりも素直な言葉が出て、自分で驚く。柊のまぶたが、わずかに震えた。風が曲がり角から抜けて冷たさが頬を撫でる。蓮は呼吸を整えた。


「昼も図書室も、ずっと近かったから。やだなって思って。」

「“やだな”」

「うん。やだ。」


 嘘のない言い方に、自分で救われる瞬間がある。柊は立ち止まって蓮のマフラーの端を指でつまんだ。


「バカ。そういうとこ、すぐ顔に出すなよ。」

「出るよ、無理。お前のことだと。」


 柊はマフラーの端を離して、そっぽを向いた。頬が薄く染まって、夕焼けとどちらの色か判別がつかない。


「……帰る。」


 歩き出す肩が、ほんの少しだけ蓮のほうへ傾いた。それだけのことで胸の泡が一段落ち着く。けれど、完全には消えない。


 週が明けてすぐの朝。昇降口で、文学部の先輩が柊に声をかけるのを、蓮は遠目に見た。


「原稿ちょっと見てほしくて。相良、こういうの得意だろ?」


 差し出されるクリアファイル。肩が、また寄る。


(また)


 自分の中に、積み木のように小さな「また」が積もっていく。高く、高く。崩れないように笑ってきたけど重みで指が震え始める。昼休み、教室の扉を開けるとクラスの女子が柊のスマホを勝手に使ってあるアプリを向けていた。


「相良くん、このアプリの語彙テストやってみてよ。点数バケモン出そう。」

「いや」

「お願い、スクショ撮らせて〜!」


 蓮は席へ向かいながら、何気ないふりで間に体を滑り込ませる。


「こいつのスマホ貸出禁止。予約制。」

「何それ。」


 女子が笑う。蓮は笑って見せて、柊のスマホをひょいと奪い机の上で自分の手に重ねる。柊のロック画面の背景——ラーメン食べている蓮——が一瞬覗いた。女子が目を丸くする。


「え、待って、それ——」

「見るな。」


 柊が速攻で取り返し、耳の先まで赤くなる。女子は「ひえ〜!」と面白がって去っていった。放課後。灰色の雲がちぎれて冷たい陽が歩道を斜めに切っている。柊が缶ココアを両手で包み白い息を吐いた。隣のベンチに腰を下ろした蓮は、ほとんど反射で言っていた。


「ごめん。」

「何が?」

「いちいち、やだった。」

「知ってる。」

「知ってるの顔してた。」

「してた。」


 柊が缶の口を見つめたまま、少しだけ笑った。


「お前、言えばいいのに。“やだ”って。俺のことになると、なんで回り道すんの。」

「言ってる。」

「心の声でな。」


 図星で肩が小さく跳ねる。蓮はポケットの中の指先を握った。冷たい鉄のような嫉妬は、言葉に出した途端、不格好な粘土になる。形にしにくい。でも、渡したい。


「俺、さ」


 蓮は視線を落としたまま、吐く息に言葉を乗せた。


「お前に向いてる顔、全部俺が見たい。……それ以外の誰かが“知ってる”の普通に無理。わがままなのは分かってる。友達いるのも、頼られるのも、いいって思いたい。けど、今日みたいに思えない時がある。」


 缶を持つ柊の手が止まる。やがてそっと、蓮のポケットの口へ柊の指が潜り込んだ。中で蓮の手を探し当て握る。それだけで、積み木の塔が音もなく低くなった。柊は正面を向いたまま、ぽつりと言う。


「お前のそういうとこ、嫌いじゃない。」

「どこ?」

「ぜんぶ。」


 柊は続けた。


「俺、あんまり“すごい”とか“優しい”とか、そういう言葉は軽いから好きじゃない。でも、”やだ”は重い。お前の“やだ”は、俺にしか向いてなくて、ちゃんと俺の形してる。だから、嬉しいよ。」

「……っずる。」

「知ってる。」


 蓮は胸の圧を飲み込むみたいに息を吸った。


「じゃあもう一個、言うよ。」

「うん」

「俺、お前が誰かに頼られてるのやだ。頼るの俺であってほしい。」

「お易い御用だな。」


 柊の返事は短い。けれど、その一語がすべてだった。柊は立ち上がる前に蓮のマフラーを引き寄せた。近い距離で誰にも見えないように落とす声。


「今度から、俺に“やだ”って顔したらキスする。」

「は?」

「黙らせる。」

「暴力的解決?」

「甘いやつだから安心しろ。」


 蓮は笑いながら、どうしようもなく救われた。


(やっぱり、この人は反則だ)


 嫉妬の粘土は、指の間でゆっくり丸くなる。ポケットの中で絡んだ指はもう離れない。


 週末、柊の家。机の上に開かれた原稿、赤ペン、二人分のマグカップ。柊のスマホが一度震えて画面に「先輩」の文字が出る。視線が一瞬だけそちらへ流れ——止まって戻る。柊は通知をスワイプで消しロック画面を蓮に向けて傾けた。


「今は、蓮の画像を見てる。」


 それは、静かな宣言。蓮の胸に波紋が広がる。外からの音をやわらげ内側だけを温める波紋。


「……なあ。」

「何?」

「俺、たぶん嫉妬深い。」

「知ってる。」

「直らないかも。」

「直さなくていい。」


 柊はペン先で原稿の余白をとん、と叩いた。


「そのかわり約束。」

「なに?」

「俺が誰かに“優しく”してたら、お前にだけは“わがまま”見せる。」


 蓮は答える代わりに、柊の後頭部へそっと手を回して額をこつんと合わせた。嫉妬の温度と、安心の温度が、ちょうど同じくらいで混ざり合う。


「——人に優しくしないで、やだ。」


 小さく言ってみる。柊が「はいはい」と笑って、唇を近づけた。“やだ”を、ほんとに甘く黙らせるキス。神サーブみたいにタイミングが完璧で嫉妬の粘土は跡形もなく溶けた。窓の外、風が街路樹を揺らす。部屋の中、紙の擦れる音と二人の呼吸だけが静かに積もっていく。最高のシチュエーションなんて、本当は外側に用意されてるんじゃない。嫉妬も、安心も、ぜんぶひっくるめて“二人で整える”から好きになる——蓮ははっきりとそう思った。


 指がまた絡む。積み木はもう塔じゃない。横に広く。二人で座れる形に積み替わっていた。そこに座ったときだけ世界は甘くなる。どうしようもなく。救いようがないくらい甘く。

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