第10話
その日は、妙に静かな夕方。冬休みに入って間もない少し早い年末。母は仕事の都合で泊まり出張に出ていて、柊はひとりきりの家にいた。カーテンの向こうから、暮れかけた空の光が差し込んでいる。ストーブの前で読みかけの本を手にしていたけれど、ページをめくる手はいつしか止まっていてぼんやりと時間だけが過ぎていた。
「おーい、来たぞー。」
陽気な声。インターホンも鳴らさずに玄関を開けて入ってくるのは、もはやお馴染みの存在——蓮だ。
「鍵開けっぱなしとか無用心すぎ〜。彼氏が来なかったらどうすんの。」
「来るって分かってたから、開けといたんだよ……それに、うるさい。」
「んだよ、もう。そんな顔して。今日オレと二人きりなのそんなに不満?」
「別に不満とは言ってない!」
蓮はにやりと笑いながら、上着を脱ぎ捨て当然のように柊の部屋へと上がり込んだ。ベッドの端に腰掛け、布団の感触を確かめるようにポンポンと叩き柊を見上げる。
「何すんの?ゲーム?お菓子?……それとも」
その先を言いかけて、蓮はわざと悪戯っぽく口を閉ざした。柊はため息混じりにベッドへ倒れ込む。
「何もしないよ。ただの冬休みの昼寝。」
「ふーん。じゃあオレも寝る〜。」
唐突に、ベッドにごそりと潜り込んできた蓮の気配。柊が身体を起こそうとしたその時だった。蓮がその上に覆いかぶさるようにして乗っかってくる。
「……なにしてんの、重い。」
「いや、なんとなく。お前、めっちゃ気持ちよさそうに寝転がってるから。」
蓮の両腕が、柊の両脇の枕元を囲うようについていた。膝も、太腿も、まるで逃げ道をふさぐように。その顔がすぐ目の前にある。蓮の明るい髪が、カーテン越しの光で柔らかく揺れていた。
「ちょっと、どいて。見すぎ」
「ん〜〜〜、いや。だって、めっちゃ見たくなるんだもん。柊の顔、ちゃんと近くで見るのあんまりないし。」
「いや、毎日見てるだろ……。」
「でも、こうやって、ベッドの上で近くで独占して見るのは別じゃね?」
蓮の瞳が、真剣だった。冗談めかした言い方をしても、その視線はまるで本の活字を追うように一途で、真っ直ぐで、まるで探るようにこちらを見つめて。
「……っ、だから、そんな見んなよ。」
「見てるだけじゃ足りねーくらいなんだけど。……つーか、ほんとにさ。」
「なに」
「なんでそんな綺麗な顔してんの。」
その言葉に、柊の目が揺れる。軽いようでいて、でもどこか真実味のある声音。
「……蓮」
「なに」
「お前、バカでしょ。」
「うん。でもバカなりに、好きな人のことちゃんと見てたいって思うのは普通でしょ?」
蓮はそのまま、額をそっと柊の額に重ねてくる。呼吸の音が混じり合う距離。ふいに、柊のまつ毛が震える。
「目、閉じてんの可愛いな。キスしていーい?」
「……うるさい。黙ってて。」
「え、じゃあしていいってこと?」
「……うるさい。」
そのまま、蓮がゆっくりと顔を寄せてくる。柊は目を閉じるでもなく、見つめるでもなく受け入れるように視線をそらさなかった。ふたりの間にあった“恋”という名前の温度は、言葉を超えて静かに交わされている。
誰にも見られない、誰にも邪魔されない。
この部屋のなかだけの“今”に、二人はそっと沈み込むように寄り添った。やがて、柊の肩に額を預けた蓮が小さく呟く。
「なあ……お前のこと大事にしていい?」
「“いい?”って聞くのおかしいよ。最初から、ずっとしてんじゃん。」
蓮の口元が綻ぶ。その笑顔を見て、柊の胸が少しだけ甘く痛んだ。心臓の音が、やけにうるさい。
——この人に“見られる”ことは、怖いことじゃなかった。むしろ、それがいちばん嬉しいことなのだと、今、改めて思った。
恋をして、抱きしめられて、じっと見つめられて。照れくささも、不器用さも、全部まるごと肯定してくれる相手がそばにいる。柊は目を閉じた。静かな部屋。ぬくもりを閉じ込めたベッドのなかで、ふたりの時間が深くやさしく続いていく。
きっと、この冬はまだ長い。
でも、そのぶん、あたたかい瞬間を重ねていける——そんな気がしていた。




