平民が、王子の婚約者にされた件
「僕が第二王子だなんて、この国は終わりだ……」
わたしの目の前には布団にうずくまって枕を抱きかかえ、ウジウジとしている十七歳の男子学生がいる。金髪碧眼で高身長、甘いマスクに甘い声、おまけに女の子に向けて柔らかい笑顔ができるモテ男である。まさに外見だけは完璧に王子のような彼であるが、今のこの姿を見るとただの大きな赤ちゃんだ。
「起きてください、朝ですよ。学院に遅刻します」
「いきたくない」
「無理言わないでください。ほら、出てこいバブちゃん」
わたしは容赦なく布団を剥ぎ取り、枕もその手からぶん取る。こうしないと、此奴はいつまでたっても起きないのだ。
第二王子相手に不敬じゃないかと言われそうだが、一応は婚約者であるため許されている。
布団と枕を取り上げられて不貞腐れながらも起き上がった王子は、目をこすりながら話しかけてくる。
「なんか君さ、最近思うんだけど僕の扱いに熟れてきてない?」
「そりゃあ、毎日これですからね」
「最初の頃は戦々恐々として、借りてきた猫みたいな態度だったのに」
「いや、いきなり王宮に連れてこられたかと思えば第二王子の護衛兼婚約者だなんて、誰だってそうなりますよ。
わたしは約半年前の出来事を思い出して遠い目をする。
平民の孤児であるわたしは当時、暇すぎて教会孤児院の他の子たち何人かと一緒に、パンを焼いては街のレストランで売るという事をしていた。
教会ですることと言えば、祈ったり基礎魔法の本を読んだり神父に剣術を教えてもらったり、たまに貴族がお金やものを寄付しに来るので、その対応に教養を仕込まれるくらい。魔法は魔力がある者限定だが、なぜ教会で剣術を習うのかは不明である。しかしどれも基礎的なものなので、十五にもなれば習得してしまい暇になるというものだ。その結果、他にできたことがパン作りだっただけである。
ある日、いつものように街一番の有名レストランにパンを届けに行ったら、店主と貴族が何やら揉めていた。
「こちらの娘を貸してもらいたいのだ。わが家の養子に入れ、三年したら解消してきちんと返す」
「いくら貴方様の頼み事とは言え、それはお受け致しかねます」
「しかし、魔力を持ち、戦闘ができ、教養の行き届いた娘など、ここしかいないのだ」
「貴族の家では駄目なのですか」
「駄目だ。貴族の令嬢たちでは王子の婚約者と護衛を両立できない」
わたしにはなんの話をしているのかはちんぷんかんぷんだったが、聞き取れた条件がわたしにも当てはまることだけは気付けた。
取り敢えず面倒臭そうだったので、パンだけ置いて帰ろうとした。代金は街の商人を通して貰えるので、伝票をパンと一緒に置いておけばいい。
しかし運が良いのか悪いのか、友人であり店主の娘であるララがちょうど帰ってきてしまった。最近は彼女が勉強で忙しくしていたので会えたことはうれしいが、如何せんタイミングと声の大きさが悪かった。
「あ、エレナ! 今日もパンの配達しに来てくれたの?」
言ってくれれば手伝ったのにー。と口を尖らせている姿は可愛いが、わたしはそれどころではない。彼女の声は男二人にも十分に聞こえる大きさだった。バッとわたしの方を振り返った二人とバッチリ目が合ってしまう。
何がマズイって、わたしが大量のパンを運ぶために浮遊魔法を使い、外着として教会のローブを着ていたことだ。
「お前、エレナといったな」
貴族の男はわたしの姿をじっくりと見て、フムと考え始めた。いやな予感に汗が背筋を伝う。
「まぁ、及第点か。魔法の扱いは未熟だが、あそこの教会の躾なら戦闘も教養も十分だろう」
ヒィ、と声に出さなかっただけ褒めて欲しい。なぜ教会の教育がこの貴族に筒抜けなのかは甚だ疑問だったが、今はそんなことを考えている場合ではなさそうだ。
「第二王子の婚約者としてお前を私の家に貰い受けたい。話をつけたいので教会に行くぞ」
どうやら拒否権はないらしい。パンを置いたわたしは半ば担がれるように貴族の男に抱えられ、教会まで戻ることになった。
それからの話は早かった。人柄は良いが金の亡者である神父は喜んでわたしを売り飛ばし、わたしは貴族の男の養女として第二王子の婚約者に据えられた。
そしていざ王子と会ってみたら、不幸体質・弱々メンタル・女運最悪の三重苦だし、よく死にかけるくせに死んだらわたしの責任で打首死刑とか訳わかんないこと言われるし。
登校中の馬車に揺られながら、わたしは目の前で眠そうにしている王子を見る。
「よく生きてますよね、王子って」
「何? 急に刃突き刺してきたね。死んだほうが良いってこと?」
「いや、そうじゃなくて。それだけ事故やら女性やら己の自責思考やら、いろんなもので死にかけてるのに、よく生きてますよねって意味です」
「あぁ、たしかに」
王子は納得といった表情で頷く。わたしとしては困ったものだが、王子自身もつらいだろう。
「周りに迷惑かけて生きてるなんて、本当に駄目なやつだよね……」
「なぜそうなる」
なぜそうなる。今のはいつも可哀想だね、生きててすごいねという話だったのに、弱々メンタルネガティブ思考極まりないこの人には、かなり曲解して伝わったようだ。
「て、ちょちょちょっと待ってください。早まらないでください!!」
「もうむり、つらい、死にたい」
そう言って馬車から身を乗り出そうとした王子を、わたしは全力で掴み引き戻……この人力強いな!!
流石王宮出身の鍛え方は違う。体幹が一切ブレない。
「僕なんて、死んで鳥の餌にでもなった方がマシなんだ」
「なんてこと言うんですか。もしそうなったらこの世の女子が皆泣きますよ」
主にその顔面が無くなることに。
「そんなわけない」
「ありますって!」
だから戻ってこい!
わたしは全力でそう願いながら、体重をかけて引っ張った。いつも通りならなんとかこれで引き戻せる。
しかし、今日は何を思ったか王子は急にフッと体から力を抜いた。体重を支えていたものがなくなって、わたしは情けない声を上げながらバランスを崩して倒れ込む。
「いたたたた……」
腰を馬車の床面に思い切り打ち付けた。骨まではいっていないだろうが、軽い打撲痕は残りそうだ。
「本当に?」
「え?」
何が? と顔を見上げる。そこには思っていたより至近距離に王子の顔があった。危ないじゃないかと肩を掴んで文句を言おうとしたが、逆に体重をかけられてこちらが押し倒されているような状態になってしまった。
「ねぇ、本当に僕が死んだらこの世の女子は皆泣くの?」
「はい?」
そこかよ、と思わずツッコミそうになる。そんなことを言っているから変な女に目をつけられるんだろう。しかしいつになく真剣な顔をして聞いてくるので、こちらも真剣に考えてしまった。
「まぁ、多少は大げさに言いましたけど、王子のことを知っている人ならそうなんじゃないですか?」
「じゃあ君も泣く?」
「はい、確実に泣きますね」
こちらを伺うように聞いてきた王子に、わたしは堂々と言い切った。死なば諸共を強制的に義務付けられている身なのだから、当たり前だろう。
「死体の上で泣き叫びながら、禁忌魔法に手を出します」
「それは困るな」
王子はあははと笑いながらわたしを抱きしめてきた。何がツボに嵌ったのかは分からないが、この様子ならもう馬車から身を乗り出すことはしないだろう。
わたしは王子の腕をすばやく解いて抜け出し、いつもの定位置に座りなおした。
「なんか冷たい」
王子は床に寝そべりながら、不満げな顔で見上げてきた。わたしは呆れたようにそれを見返す。気分はさながらお菓子をねだって床に寝そべるわが子を見る母そのものだ。
「バブちゃん、そんなとこで寝たら風邪ひきますよ」
「バブちゃんじゃない」
「今のご自分の状態をもう一度見直してから言ってください」
「……バブちゃんじゃない」
「まったく……」
ため息を吐きながら床から起きようとしない王子を叩き起こし、身なりを整える頃には学院についていた。
馬車から降りるとちょうど、王子と仲がいいジュリーローズ侯爵家のご子息と出会う。
「おはようエレナちゃん」
「おはようございます、エルハルト様」
「ジェイクはいつも通りだね」
エルハルトは苦笑しながら不貞腐れた顔の王子を見る。
彼は王子が素を見せることができる数少ない友人の一人だ。わたしなんかよりもずっと前から一緒にいる二人なので、安心して後を任せることができる。今日の一限目は男女で違う教科なのだ。
「王子、とっととシャキッとしてください。もう魔術学院の中なのですから、誰が見てるとも分からないんですよ」
「婚約者が辛辣すぎてつらい」
「腑抜けたこと言ってないで離れてください」
なおも腕に絡みついて肩に顎を乗せようとしてくる王子の手をつねる。そのままエルハルトに預けて、わたしはさっさとその場を離れた。
一限目は男子は剣術、女子は護身術の授業だ。今日は応用も踏まえて、魔法を用いながら術を使う訓練をする。
わたしは相手になった女の子に礼をして、先生の説明通りにナイフで襲いかかる真似をする。
女の子は見事な風魔法でナイフを手から叩き落とし、次いでわたしの手をひねり上げて地面に押さえつけた。わたしは降参のポーズをして、終わりの合図を告げる。
しかし、女の子はなかなか手を離してくれない。そればかりか、体重をかけてより強く拘束してくる。わたしは合図に気づいていないのかと、声をかけた。
「あの、終わりです」
「……あなたなんて、こんなに弱いのにどうして」
聞こえてきた声からは、はっきりとした悪意が読み取れた。状況を飲み込んだわたしは、あぁまたか、と心のなかで呟く。
多分、この人は王子が死んだら泣く側の人だろう。何処とも知らぬところからひょっこり現れたわたしが王子の婚約者の座に居座っているのが、心底気に入らないといった顔だ。
しかし、わたしだってなりたくてなったわけじゃない。
捻られた腕の関節を外して体勢を変え、逆に押し倒す形に持ち込む。筋は良いが、詰めが甘い。
「随分と自信をお持ちなようですけど、こういうこともありますよ」
「っ!」
軽々と形勢逆転されるとは思っていなかったのだろう。痛めないようにかける力は弱めているが、関節が動く限界をきちんと押さえているため身動き一つできないはずだ。
女の子は驚き半分、憎しみ半分の表情で見上げてくる。その顔が、すごくもったいないと思う。
「王子は幸せ者ですね。貴女みたいな素敵な女の子に愛してもらえて」
「何よそれ、嫌味のつもり?」
いや、どこを取ったらそうなるのだろうか。純粋にあのポンコツ三重苦な男を愛せるだけで素晴らしい女の子だと思っただけだ。わたしには到底無理である。出会った初日で幻滅したのだから。
「強くて、自立していて、ちょっと感情に正直すぎるところはありますけど、貴女は十分すぎるくらいにいい人ですよ。むしろあの王子には勿体ないです」
「そんなこと言って、わたくしに諦めさせようって魂胆でしょ?」
「いや、そこまで言ってませんよ。諦めたくないならわたしが婚約者の座を降りた時にアタックすればいいんじゃないですか?」
「どういうこと?」
女の子はわたしの言葉に目を丸くした。この件に関しては口止めされていないので言ってもいいだろう。
「わたし、魔術学院に通う間だけのお飾りの婚約者なんですよ。男子生徒としてはエルハルト様や他の方々がお守りできるけど、パーティーや男女でペアになる必要がある場所ではそういうわけにもいかないでしょう? だから、そんな時に王子を守れるようにという女子生徒としての護衛要員です。体裁のためだけの婚約というわけですね」
だから、あと二年半後には婚約解消です。と付け加える。わたしとしては納得してもらうための言葉だったが、女の子には何とも言えない顔をされた。
「その、それは辛くないの?」
「別に好きでも何でもありませんし、地位にも興味ありませんし、王宮の料理はおいしいので嬉しいことのほうが多いですよ」
むしろわたしと婚約解消した後にきちんとあの王子の面倒を見てくれる女の子を探すほうが大変そうである。なんだかんだエルハルト辺りが手伝わせてきそうで嫌なのだ。
そうだ、今のうちにこの子にその気にさせておけばいいのでは?
護身術もできるし、顔もスタイルもいい。わたしを思って骨を折るまではいかない理性や優しさもある。
「ごめんなさい、そんな身に置かれているとは知らずに、わたくし……」
なんだか同情されているような気もするが、気にせずにわたしは女の子を起こして乱れた赤毛を整えてあげた。
「謝らないでください。そんな優しい心をお持ちなところも素敵です。貴女さえその気になれば、王子なんてイチコロですよ」
軽くウインクして笑う。女の子は一瞬驚いたような顔をして、クスリと上品に笑った。
「あなたがどうして王子に好かれているのか、よくわかったわ」
「?」
言われた意味はよく分からなかったが、とりあえず満足そうな晴れた顔になったので良かった。この立場にいると恨まれやすいが、たいていは事情を説明すれば分かってくれる。根は良い人たちなのだ。
後片付けをして、二限目の準備に向かう。次は男女共に魔法薬学の授業だ。
王子とエルハルトと実験室で合流し、わたしはまず王子の惨状にため息を吐く。
「どうしてたった一限の間にそうなるんですか……」
「俺も見てたけど未だに信じられない」
綺麗な濃緑髪を揺らしながら無傷で朝と変わらぬ姿のエルハルトは笑っている。それとは対照的に、王子は顔に大きな打撲痕を残し、ボサボサの髪でエルハルトの肩を借りて立っていた。
「痛い……」
メソメソとした顔で目を潤ませながら泣きついてくる。わたしは仕方がないので軽く治癒魔法をかけて氷魔法で患部を冷やしてやった。
「なんで僕っていつもこうなるんだろうか……」
「ほんとにですよ」
王子の金髪を水魔法と風魔法で整えながらため息を吐く。今日はこれ以上何も起きないで欲しい。
そう思った時、エルハルトが窓の外を見て声を上げる。
「あ」
「え?」
「うわっ」
つられて見れば、大きなボールが剛速球でこちらに向かってくるところだった。わたしはすぐさま氷魔法でバットを作り、エルハルトは周辺全体に防御結界を張る。
ガシャーン、と大きな音を立てて窓ガラスが割れ、降り注ぐガラスの破片とともにボールが部屋に飛び込んできた。
「おらぁ!!」
おおよそ貴族の女子生徒にはあるまじき声を上げながら、わたしはバットを振り上げた。ボールは綺麗にホームランを描いて飛んでいく。
他の生徒たちはその様子をポカンと眺めていた。
「ナイスバッティング」
「ありがとうございます」
わたしとエルハルトは流れ作業で復旧作業を行い、部屋を元通りにしていく。「また僕のせいで……」とウジウジし始めた王子は、邪魔なので隅の方に追いやった。
「もうむり、生きてたってどうせ邪魔にしかならないんだ。つらい、死にたい」
「ほら、自意識過剰バブちゃん元気になってください。ただの事故ですよ」
「そうだよ自意識過剰バブちゃん」
わたしは右腕を、エルハルトは左腕を持ち上げて席に座らせる。サイドをそのまま二人でガッチリと固め、なにがあっても対処できるようにした。
その後はなんとかつつがなく授業が終わり、昼食の時間となる。食堂に行き、今日は何を食べようかとわたしは全力で悩む。この時間が一日で一番好きだ。
「本当に食べるの好きだよね、エレナちゃん」
「そりゃ、生きてて一番幸せ感じる時間ですからね」
「僕は今日は魚だな」
「じゃあ俺も魚にしよ」
二人はさっさと決めて注文してしまう。わたしはその後も悩みながら、結局二人と同じ魚のムニエルにした。
座る席は授業のときと同じで、二人で王子を挟む。もはや学院で過ごすときはこれが定番になっている。
「いただきま~す」
わたしはマナーの範囲内で精一杯料理を頬張る。口の中でソースと魚がホロホロと混ざりあって、思わず口角が上がる。
「んん~、おいしい」
「君が食べてるの見ると、なんかこっちまで幸せな気分になってくるんだよな」
王子はわたしのグレージュの髪を一房すくいながらそう言ってきた。
わたしは驚いて食べる手を止めた。
「普段バブちゃんかネガティブな発言ばっかなのに、そんな言葉どこで覚えてきたんですか……」
わたしの反応に王子は不満げに口をとがらせ、エルハルトは横を向いて口を押さえながら笑っている。
「いや、ごめんなさい。ちょっと意外すぎて」
「ふ、ふふふ。エレナちゃんっ、最高すぎる」
「どうせ僕はバブちゃんですよ」
完全に王子のへそを曲げてしまった。もしかしたら彼なりの精一杯の褒め言葉だったのかもしれない。
「いや、とてもいい褒め言葉でしたよ。ちゃんと嬉しかったですよ」
わたしはどうにかおだてまくる。しかしそっぽを向いたまま料理を口に運び出し、一向に反応してくれない。
こうなったら長いんだよなぁ。
お手上げだ。エルハルトに執り成してもらいたいのに、ツボに入ったらしくずっと笑い転げている。
そこへ一人の女子生徒が近づいてきた。水色の髪をツインテールにした姿はどことなく見覚えがある。
誰だっけ? と思い出していたところに、パシャリと音を立てながら頭上から水が降ってきた。
「え?」
「!」
「私の王子様から離れなさいよ!!」
キンキンとした金切り声で女子生徒はわたしに向かって叫んできた。その声で思い出す。彼女はハイデマリー・ブランツェルン公爵令嬢、第二王子の婚約者候補の一人だった子だ。たしか王子への異様な執着の上に媚薬を盛ろうとして接近禁止命令を下されていたはずである。
「ハイデマリー嬢、今すぐこの場を離れるか警備隊を呼ばれるか選んでください」
エルハルトはすぐさま立ち上がってわたしたちとハイデマリーの間に立った。その声はいつもの穏やかな彼からは想像できないほどに冷たい。それほど彼女は危険な相手なのだ。
「嫌よ! なんで私がだめで、この女が許されるのよ!! 可怪しいわ、こんな何処から出てきたのかも分からない女!」
「ハイデマリー嬢」
「そうだわ、きっと平民の出なのよ。こんな下賤臭い見た目の女、そうに違いないわ!!」
「ハイデマリー!! そこまでだ。それ以上僕の婚約者を侮辱するなら、たとえ君だとしても許さない」
彼女の明らかなライン超えの発言に、珍しく王子が射抜くような冷たい声を上げる。しかしハイデマリーは落ち込むどころか余計に顔を赤くした。
「何よ! どうしてあなたはその女の味方をするの!!」
「ハイデマリー嬢、警備隊を呼ぶぞ」
エルハルトは言葉を強めて再度注意する。だが、それを聞くことなくハイデマリーは回り込んで王子の方、ではなくわたしの方に向かってきた。
あ、と声を上げる間もなく腹部に鈍い痛みが走る。
「グッ……」
「っ、エレナ!」
ドクドクと血が流れる感覚がする。だんだんと遠のいていく意識の中で、叫ぶ王子の声とエルハルトがハイデマリーを押さえつける姿が見えた。どうやら王子は無事なようだ。
「よか、た……」
絞り出すように呟いたことばを最後に、わたしの意識は途切れた。
柔らかな光と小鳥が囀る声で目を覚ます。
「……? ここは、っ痛」
起き上がろうとして、腹部の痛みでぼんやりとしていた意識がはっきりとした。どうやら保健室まで運び込まれたらしい。軽い貧血を起こしているのか頭痛と倦怠感がひどい。
「あ、エレナちゃん起きたんだ。良かった」
ホッとしたような顔をしてカーテンをめくったのはエルハルトだった。どうやらちょうど様子を見に来てくれたところだったらしい。差し出された水を受け取り感謝を告げる。
「エルハルト様が運んでくれたんですか?」
「いや、ジャックだよ。起きるまで離れないって言ってたんだけど、どうやら寝ちゃったみたいだね」
そう言ってエルハルトはわたしの足元を見た。横になったままだったので気づかなかったが、そこにはスヤスヤと眠る王子の顔があった。
わたしはエルハルトに手伝ってもらいながら上体を起こし、寝コケている王子を起こそうとした。
「起きてください」
「んん……」
寝起きが悪いのは朝も昼も同じようだ。身動ぐだけでなかなか目を覚まそうとしない。こうなったらデコピンで起こしてやろうか、と前髪を右手で避けてはたと止まる。
「……何泣いてるんですか」
王子の目から真っ直ぐに、涙が顔を伝った跡がある。既にカピカピになりひどい顔だ。わたしが驚いていると、窓から差し込む光で目が覚めたのか、薄っすらと青い瞳が現れた。
「エ、レナ?」
わたしの名前を呟いた王子は、一瞬目を見開いて、それからガバリと起き上がった。
「エレナ!!」
「うわぁ!」
勢いよく抱きついてきた王子を受け止めきれずに、わたしは後ろに倒れ込む。腹が痛いし頭はグラグラするし、文句を言おうと口を開くが言葉はその直前で止まってしまう。
「よか、よがっだ!!」
到底人に見せられないグチャグチャの顔で、王子が泣いていた。わたしは怒る気が失せてしまい、代わりにポンポンと王子の背中を優しく叩いた。
「大丈夫です。生きてますよ」
「でもっ、僕のせいで、ヒック……」
「王子のせいじゃないですよ。運んでくれてありがとうございました」
「う、うぅ〜」
そっと王子の頭を抱えてわたしの肩に収めてやる。その様子に柔らかく笑っていたエルハルトにもお礼を言う。
「エルハルト様もありがとうございました」
「いや、俺は感謝されることしてないって。ハイデマリー嬢がまさかあんな行動に出るとは思わなかったから、結果的にエレナちゃんに怪我させちゃってむしろ謝らないといけないよ」
「でも、あそこでエルハルト様が間に入らなかったらわたし死んでたと思いますよ。水をかけてきたときには、既に手に魔力を込めていたようですから」
あの犯行は、魔法攻撃を直接腹に当てられるという防ぎようのないものだった。彼女が何をしようとしているのかはすぐに気付いたが、場所は食堂で人が多かった。もしも結界魔法を張ったら周りへの被害がどうなるか分からない。そのため、わたしは身体強化魔法で体を自身の魔力で飽和させ、攻撃をどこに当てられても最小限の損傷で済むようにしたのだ。
もしあそこでエルハルトが入ってこなければ、わたしは事前準備も分析もできずに爆散して死んでいただろう。
「だから、ありがとうございました」
「そっか、怪我させただけじゃないならよかった。今日は疲れただろうから、そのままゆっくりしてて」
エルハルトはそう言って保健室を後にした。
後日、エルハルトからハイデマリーは学院を退学になり、修道院に送られたことを聞いた。徹夜で処理に当たってくれたらしく、目の下に隈を作り、とても疲れた顔をしていた。
そんな事件はあったが、わたしたちの関係はとくに変わることなく過ごしている。
「ほら、起きてくださいバブちゃん」
「バブちゃんじゃない……」
今日も今日とて王子から布団を取り上げて叩き起こす。
相変わらず王子は死にかけるし、その度にわたしは助けるはめになる。今日も朝見に来たら布団が首に絡みつき、息ができなくなっていた。
身支度を整えて、まだ何やら言っている王子を引っ張って二人で馬車に乗る。面倒くさいのは変わらないし、そんな姿に幻滅したままなのも変わらない。
でも、まぁ。
「わたしも、少しくらいなら本気で泣いてあげますよ」
馬車の外の景色を見ながら、いつしか話したあの内容を思い出してボソリと呟く。万が一の場合には、死なば諸共のせいではなく、このポンコツ三重苦の王子を思って泣くのも少しはありかもしれない。
まぁ、そんな万が一は絶対に起こさせないんだけど。
「え?」
「なんでもないです。ほら着きましたよ、行きましょう」
わたしは王子を置いてさっさと馬車から降りた。ちょうど出会ったエルハルトに挨拶をして、三人で一緒に教室へ向かう。今日の一限目は魔術戦闘学の実践授業である。
さぁ、今日はどんな一日になるだろうか。
ちょっと可愛いほのぼの温めの恋愛でした。愛すべきポンコツ三重苦なバブちゃん王子と、無自覚王子様ムーブなオカン系ヒロイン。そしてそれを見守るビッグファーザー・エルハルト。
この子たち今まででダントツに好きなキャラクターで、調子に乗れば魔術学院でのイベントとか他の話も書きたいくらいです。良かったらブクマ・高評価ポチッとお願いします。