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殺されたけど、私はとっても幸せです。

※本作品にはセクシャルハラスメントの描写があります。トラウマやPTSDがある方は読まないことを推奨します。

※本作品でフラッシュバック等の症状が起きても、責任は負えません。


 ノワール帝国の首都クランビュールから遥か辺境の地、ジャンストン領。その領地の最奥の森で、サーシャ・ジャンストンは、まだ肌寒い早朝に水浴びをしていた。

 森の真ん中にある湖は人通りがほとんど皆無であり、お風呂にろくに入れていないサーシャには藁にも縋る思いで身体を洗う場所だった。


―あぁ、やっと髪を洗える。


 真っ白い髪を水面につけて手櫛を通す。といっても長さは大してなくて、屈んでいるのがだんだん面倒になってざぶんと潜ってしまう。しゃがめば全身が水に浸かる深さはあるので、潜ったまま髪や頭皮をわしわしと洗う。

 息が限界になったところで勢いよく立ち上がる。早朝の朝靄に白い肢体が浮かび上がって、ルビーのような真っ赤な瞳がきらりと光る。

 肩につくぐらいのセミロングの白髪をぎゅっと手で絞って、身体の水滴を払う。ほとりに置いておいたぼろの雑巾で拭いて、服を着ようとしたその時。


―バキバキッ


 森の奥の方で木々がなぎ倒されていくのが見えた。


(もしかして…魔物?)


 急いで服を着て向かうと、大きな角が生えたサイに似た魔物が、何かに突進しようとしているところだった。


(普段は大人しい子なのに暴走してる…⁉)


 とっさに詠唱してサイの魔物を宙に浮かせる。それから眠りの呪文を唱える。

 効果はあったようで、ゆっくり地面に下ろすとすやすやと眠っていた。茂みの奥から子供と思われる小さな魔物が3体出てきて、寄り添うように一緒に眠り始めた。


(子供がいたから気が立っていたのね。何かを襲おうとしてたみたいだけど…もしかして人じゃないわよね)


 この遥か辺境の地の、魔物も生息する森に入ってくる人間は滅多にいない。だからこそサーシャも水浴びができるわけで。


(そろそろ皆が起きる時間だわ。行かなきゃ)


 サーシャは人ではない事を祈りつつ、その場を後にした。









「あんたどこ行ってたの?」


 ぞわり。

 もう身体は寒くないはずなのに悪寒がはしる。

 

「み、水浴びに」

「誰にも見られてないでしょうね?」

「…えぇ」


 実の妹であるハーニャ・ジャンストンはいつもより早い時間に起きていた。

 煌びやかなパステルオレンジのドレスにシャンパンゴールドの瞳、一際目立つ桃色の長い髪は使用人の手によって見事に縦ロールにされている。最近16歳になったばかりだが、身体は立派に女性として成熟し、最近デビューした社交界では歳上の令嬢に全く引けを取らない溌剌とした美貌を放っている。

 対して年齢は18歳でも、質素なワンピースで自分で髪を切り、最低限の衣食住で過ごしている為貧相になってしまったサーシャ。同じ辺境伯家のご令嬢でも雲泥の差だ。


「魔力の制御はできるようになってきた?」


 2階からゆっくり階段を下りながら尋ねてくる。


「えぇ。だいぶコントロールできるように」

「じゃぁやってみて」


 言い終わらないうちに指示を下される。サーシャは押し黙ると、意識を集中させて以前から言われていた通り髪の色を白から亜麻色に、瞳の色を赤から琥珀色に変えた。


「それを一日中維持できるようになったのよね?」


 品定めするように睨め付けながら妹が言う。


「えぇ、問題ないわ」

「それは朗報だわ。お父様を呼んでこなきゃ」


 使用人を呼び出して指示をする。今やこのジャンストン辺境伯家に使用人は2人しかいない。

 この家の主、ヘンリー・ジャンストンが現れるとハーニャは使用人からナイフを受け取り、カツカツとサーシャに近づいてくる。


(い、一体なにを…!)


 刃物を持って近づいてくる妹に身を固くすると、手に持っていたナイフを握らされる。

 どういう意味か分からず問うように妹を見ると、


「あんたは今から死ぬの。」

「―は?」


とっておきの提案をするような顔で言われる。


「森に行って今着てる服とあんたの血を魔物の顔にでもかけてきて。それであんたを死んだことにするから」   

「」


 何を言われているか分からない。


「…ど、どういう事」


 数秒かかってそれだけ絞り出すと、ハーニャは笑みを深めてさらに歩み寄ってくる。


「今日、サーシャ・ジャンストンは死んで、これからあんたはジャンストン辺境伯家に引き取られた"養子"として王城に奉公するのよ。この髪と瞳でね?」


 ほぼ引っ張るように亜麻色に変えた髪をぐいと掴まれる。


「あんたは今から魔物に襲われて死ぬ。無残に食い荒らされて死体も残らず、悲しんだジャンストン家は養子を迎える。それが今の髪と瞳のあんた。"悪魔の子"は、この家から消えて無くなるのよ」


 ナイフを握らされた手が震える。


「なぜ読み書きを覚えるのを許可したか分かるか、サーシャ。この為だ」


 ほとんど言葉を交わした事がない父親が口髭を撫でながら言う。


「生まれたお前の姿を見た時は絶望した。すぐに処分しようとした私をアイリスが止めたのだぞ。本来ならこの世に生を受ける事すら許されないお前をここまで育ててやった恩を返せ」


 アイリスは母の名。優しくて、大好きだった、唯一の人。6年前に亡くなってから、この家からサーシャの居場所は消え失せ、家畜同然の生活になった。

 馬屋で寝泊まりをさせられ、食事は1日1回のパンとミルクのみ。風呂を使う許可が下りず、水で濡らしたぼろ布で身体を拭く日々。

 ヘンリーが言った恩を返せと言うのは、王城に奉公して稼いで家にお金を入れる事。そんな事は分かっていても、頭では理解していても、身体が納得しない。唇がわなわなと震えるだけで返事ができない。

 なぜこの家の使用人が2人だけになったのか。それは妹が湯水のようにドレスや娯楽にお金を遣うから。父はそれを「娘が大人になる為に必要な事」とし、使用人を次々と解雇して、自分で身の回りのことをするようになった。ハーニャ付きの一人と、料理をする一人の使用人2人。そして掃除をするのが"辺境伯家長女の"サーシャ。


「良かったじゃない。これであんたは"人"として生きられるんだから。感謝して欲しいぐらいだわ」


 言いながら、ハーニャが新しい服を押し付けてくる。魔物に食われる偽装工作のために今着ている服はなくなるから、代わりの"養子としての"服だろう。簡素ではあるが今まで着たことがない煌びやかな刺繍が施された水色のワンピースだった。


「これで私も安心だ。アイリスも天国で喜んでいるだろう」

「―っ!」


 そんなはずがない、と言いかけて唇を噛み締める。拳を握り、今にも叫びたい衝動を抑えて、固く目を閉じる。

 一呼吸おいて、大きく息を吸いながら。


「…分かりました。こんな私をここまで育てて下さり、ありがとうございました。」

 

 深々とお辞儀をして、返事を聞く間もなく出ていく。



 ―その後の事は、よく覚えていない。

 幼い頃から慣れ親しんでいた森とそこに住まう魔物たちに別れを告げ、サーシャ・ジャンストンは戸籍表であるノワール帝国原初録から消された。

 実の家族の手によって、存在を殺されたのである。













 …それから1年後。


 私、"アリス"・ジャンストンは、王城内にある貴族しか入れない図書館で、見習い司書として奉公していた。

 国中の貴重な文献が集まる図書館で、貸出や返却の管理、新しく入る蔵書の仕分け、そして全ての本の場所の把握もある。その量は10万冊以上。

 覚えることが多すぎて最初は戸惑っていたけれど、今はなんとか自力で全ての業務が行えるようになった。顔見知りになった利用者も増え、挨拶をしたり世間話をする余裕がでてきて、今度本の趣味が合ったご令嬢と伸びてきた"亜麻色の髪"を纏める為のリボンを買いに行く予定だ。

 確実に、"アリス"の生活は充実したものだった。


「アリス、Y873の棚の整頓しといてくれないか。さっき使った人がごちゃごちゃにしたまま出てしまったから」


 閉館時間まであと30分程になった頃、カウンターでオリーブ色の短髪と深い森のような瞳をした上司、ハンスさんが顎髭をさすりながら声をかけてくる。ここの司書を10年以上勤めているベテランで、丸い眼鏡が似合う中年男性だ。


(そんな奥の棚に今日は人がいたかしら…。まぁいいわ。)


 指示に従って言われた棚まで行くと、無理矢理詰め込んだと思われる本が一冊、棚に収まりきらずにはみ出していた。

 身長よりも少し高い位置にあるそれを取り出そうと背伸びをして、背表紙を掴む。引っ張るもなかなか抜けず、思いっきり引いた瞬間―


「危ない!」


―バサバサバサッ


 他の本も一緒に抜けて落ちてしまった。顔に直撃しそうだったのをハンスさんが私を押して防いでくれる。


「ありがとうございます。助かりました。」


 私を覆うように抱きしめて、背中で庇ってくれたハンスさんにお礼を言うと、背中に回された手が、下へ降りていく。


「…本当に君は、僕がいないとだめだねぇ」

「―っ」


 その手がお尻を撫でて、背筋が凍る。

 …まただ。これで何度目だろう。

 最初は気のせいだと思った。でも、頻度が確実に増えてきていて、よりあからさまになっている。

 仕事を覚えた私に、雑務を与えては接触してきて、最近はこういう人気のない奥の棚まで行かされる。偶然本当にその棚を利用した人がいたのか、ハンスさんが自分でわざと利用したように本を仕掛けたのかは、分からない。

 どちらにしろ、今のこの状況は絶対に良くない。

 私はハンスさんを軽く押しのけて「それでは、仕事に戻りますので…」と切り上げようとすると、ハンスさんはより強い力で腕を身体に巻き付けて密着させてくる。


「そんなに焦らなくても良いじゃないか…君の仕事ならもう僕が終わらせておいたよ…本当に世話が焼ける子だねぇ」


 丸眼鏡の奥からねっとりとした目を向けられ、今度は撫でるのではなく、揉み込むようにお尻を鷲掴まれる。司書の制服のスカートは生地がそこまで厚くないから、指の感触が顕著で身震いしそうになる。


「この僕が部下にここまで目をかけてあげる事なんて、滅多に無いんだよ?…君は分かっていてこんなに手間をかけさせているのかな?」


 耳元で囁かれ、喉が震えて声が出せない。頭が真っ黒に塗り潰されて、逃げ出したくても、身体が言う事をきかない。全身から血の気が引いて、視界がぐにゃりと歪み始める。

 抵抗できないまま手がスカートへ伸びた時―


「すまない、この本を借りたいのだが。」

「…!あ、あぁ。ハウラント卿」


 朗々とした声が割って入り、漆黒の髪と瞳を持つ長身の男性が視界の端に写る。ハンスさんは素早く私から離れ、ごまかすように人の良い笑みを浮かべて肩を叩いてくる。そこで私は自分が呼吸していなかった事に気づく。


「ほらアリス。体調が悪いなら今日はもう帰りなさい。あとの仕事は僕がやっておくから」

「………はい、そうさせて頂きます」


 酸素を一気に吸い込みながらかろうじて遅れて返事をして、ふらふらと立ち上がる。ハンスさんは「さぁ、ハウラント卿はこちらへ」と先に足早に去っていく。この状況では『部下の体調を気遣い、仕事を代わりに請け負う良い上司』に見えるだろう。思えば前回もそうだった。そうやって、あの蛇のような男は確実に私だけを追い詰める。


「―君。大丈夫か」

「!」


 震える足で立ち上がって俯いていた私に、一緒に立ち去ったとばかりに思っていたハウラント卿の声が降ってきた。

 顔を上げると、端正な顔が気遣わし気に見つめていた。


「私は医療の心得がある。今の君は、顔が真っ青で帰るのも辛そうに見えるが」

「だ、だいじょうぶです。お手を煩わせてしまい申し訳ありません」


 顔色を隠すようにぺこりと頭を下げ、「失礼します」と早口に告げて立ち去る。深呼吸をして身体を無理矢理落ち着けて、更衣室まで早歩きで一気に向かう。


(まさか第三王子様に声をかけられるなんて…)


 ジークバルト・ハウラント。ここノワール帝国のすぐ隣、ハウラント王国の第三王子で、現在治癒魔法を学ぶために留学している方だ。

 ハウラント王国は小国ながらも鉱山や農地などの資源に恵まれ、資源に困窮しているノワール帝国と協定を結んでいる。資源の供給の代わりに、ノワール帝国は魔法の知恵を与える。ノワール帝国は比較的魔法が発展しているが、ハウラント王国はまだ途上なのだ。

 そのハウラント王国の第三王子、ジークバルト様は誠実で知的な佇まいとあの端正な顔立ちで留学からひと月も経たないうちに噂の的になり、図書館で彼を見かけたご令嬢方が黄色い声をあげているのを何度も見かけた。


(確かに、間近で見たら吸い込まれそうな迫力があったわ…)


 更衣室に辿り着いて、長い息を吐く。

 今までも図書館で何回か顔を会わせたことがあるし、本の貸し出しや返却で言葉を交わした事もあるが、あの距離で黒曜石のような漆黒の瞳と目が合った時は、心臓が止まるような心地だった。あの目力に高く美しい鼻梁、男らしく引き締まった口元や長身の体躯は、ほとんどの女性がときめきを覚えるのではないだろうか。

 

(あっ私、お礼を言ってないわ…。次にお会いした時ちゃんと言わなきゃ)


 着替えを終えて、私は帰りに何かお礼の品を買おうと決めた。








 翌日。

 街で流行している洋菓子店のショコラを持って出勤した私に、ハンスさんは丸眼鏡をきらりと光らせる。


「あれぇ?それはもしかして僕にかい?たまには気が利くんだねぇ…」


(どうしてそう思うのよ…!)


 思わず目を剥きそうになるのを堪えて、「いえ、これはハウラント卿に…」と苦笑いをすると、ハンスさんの目が一気に細くなった。


「へぇ…どうして?」

「昨日体調が悪い私に、お気遣い頂いたので」


 蛇のような視線に縮こまりそうになりながら、なんとか愛想笑いを浮かべていると、ショコラが入った袋をひょいと取り上げられる。


「…ハンスさん?」

「じゃぁこれは僕から渡しておくよ。君のようなまだ見習いの司書が、隣国の第三王子殿に接触するなんて…」

「ほぅ。ラ・リエールのショコラか」

「「―!」」


 振り返ると、ジークバルト様が本を携えてカウンターに来ていた。肩につくかつかないかぐらいの黒い艶髪が、窓を開け放たれたカーテンと共にゆらゆらと揺れる。


「君が、それを私に?」

「は、はい」

「今頂いても?」

「も、もちろんです。昨日はありがとうございました」


 ぺこりと頭を下げて、ハンスさんは取り上げていたショコラを渋々といった様子でジークバルト様に渡す。

 そこに他の利用者から探して欲しい本があると申し出があり、ハンスさんはその対応に向かった。

 袋から煌びやかな缶の箱を取り出して、ゆっくり開けていく。上品な所作でショコラを口に運ぶと、初めて私に微笑みかけてくれた。


「なるほど、甘さが控えめで美味しい。人気が出るのも頷ける」

「―……。」

「…君?」

「あっ、すみません…!」


 微笑に見惚れて何を言っていたのか分からない。目が泳いでしまう。そこに追い打ちをかけるようにジークバルト様が私の顔を覗き込む。


「今日は、顔色が悪くないようだな」

「…!はい。昨日は本当にありがとうございました」

「聞くところによると、君はもうすぐ司書の試験があるのだろう?」


 なぜをそれを知っているのか、と思うが私がそんな質問をして良いはずがないので、素直に返事をする。


「はい、このまま何事もなくハンスさんの推薦が頂ければ…」


 見習い司書から、本当の司書になれて、給金もかなり上がる。

 ―上がったところで、私が使えるお金の額は、変わらないが。


「…なるほど、そういう事情か」

「え?」


 ジークバルト様は顎に手をあてて何か考えるようにしていたが、ショコラを一つつまむと、


「君も一つ食べるか?」


私の口元に差し出してきたので、思いもよらない事態に「そんな!恐れ多いです!」と後ずさりしてしまう。

 そこでジークバルト様は何かに気づいたようにはっとした顔をすると、


「…そうだな、昨日の今日で気安くしすぎた。すまない」


ショコラを缶にしまって、丁寧に蓋をして袋に入れる。"昨日の今日"というのがなんのことだか

分からない私をよそに、


「試験、君なら受かるだろう。応援しているよ」


また心臓をざわつかせる微笑みを残して、颯爽と去っていってしまった。






 お昼の休憩後。

 今日はハンスさんに声をかけられないようカウンターにはあまりいないようにして、利用者が近くにいる棚の整頓や掃除をしていた。棚の近くにある窓もついでに磨いたりしているうちに、夕方になってくる。

 今日は何もされずに帰れそう、とほっとしながら開け放っていた窓を閉める作業に入った時。


「…へぇ、元気そうじゃない。"アリスお姉さま"」


 ―ここで聞こえるはずのない声が、した。


「な…んで…、ハーニャ…」


 特徴的な桃色の髪を相変わらず見事な縦ロールにした妹が、クスクスと面白そうに口元に手をあてて立っていた。


「驚いたぁ?あんたごときがもう少しで司書見習いから本当の司書になるって手紙もらったから、どんなもんかと思って来てみれば、大したことないじゃない。社交界の方がよっぽど大変だわ」


 ひらひらと手を振って期待外れだと言わんばかりに溜息を吐く。1年ぶりに見た妹は、宝石をこれ見よがしに身に着け、化粧が濃くなり、胸元をより強調するドレスになっていた。


「司書になるには直属の上司の推薦が必要っていうじゃない。あんたもしかして、あの緑の髪のおじさんに色目でも使った?さっき挨拶したら、鼻の下伸ばしてあんたの上司だって言ってたわよ。さすがは"悪魔の子"ね!やり方がそれらしいわ」


 カツカツと高いヒールの音をたてて距離を詰めてきたハーニャからは、つんと鼻につく香水の香りがした。

 そして、微動だにしなくなった私の顔を覗き込んで、


「あぁ、間違えた。悪魔の子なんてもういないんだったわ。…ね?、アリスお姉さま?」


あざけるように笑って私の髪を触ってくる。


 ―呼吸が、うまく出来ない。

 気づけば私は、胸を押さえて浅い呼吸を繰り返し、身体中の感覚が無くなっていた。


「あらぁ、だいじょうぶ?アリスお姉さま。もしかしてこんなところで、"悪魔"になったりしないわよね?」

「―!」


 にやりと唇の端を釣り上げて揺さぶりをかけてくる妹。制服のポケットに常に持ち歩いている手鏡を確認すると、髪は亜麻色のままだった。が、瞳が琥珀色からうっすらと赤みがかってきている。


―まずい。集中しなければ。


「わたし、お手洗いに…」


 駆け出そうとした私の腕をハーニャが逃がさないとばかりにがしりと掴む。


「そうそう、ここに来たのはね、もうすぐ私、結婚するの。相手はあのヴァテュール家のご長男よ。お屋敷が王城から近いから、ここには頻繁に来ちゃうかも?」


―ドクン。


 心臓が異常に脈を打つ。身体の全てがシャットダウンされたかのように、視界が、頭の中が、真っ暗に、真っ黒になっていく。意識が遠のきそうになり、魔力がざわめきだす。

 膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えて、力を振り絞ってしたり顔の妹の手を振りほどいて駆け出す。後ろからアハハハハ!と女の高笑いが聞こえた。


 向かったのは更衣室。

 全速力で走ってバタン!と静謐な図書館に似つかわしくない音を立てて閉める。

 更衣室の鏡を確認すると、もう瞳は完全に赤色に戻っていて、髪も白み始めていた。


―集中。集中するのよ、"サーシャ"。こんなの、1年間毎日ずっとやってきたじゃない。


 扉に背を預けて座り込み、胸を押さえて深呼吸をしようとする。が、過呼吸になっていてうまく息が吐けない。全身がガタガタと震え始め、暴走し始めた魔力が溢れ出す。


(違う!どうして⁉どうして毎日やっていたことができないの⁉)


 身体は全くいう事をきかず、それに呼応するように全身が熱くなり、髪が逆立っていく。

 ピキピキ…と何かにヒビが入る音がして、立ち上がって見たら鏡だった。

 そこに写っているのは、もう"人"であるアリスではなく、"悪魔の子"のサーシャだった。


「アリス、大丈夫かい⁉尋常じゃない様子で入っていったけど、妹さんと何かあったのか⁉」


 コンコンと追い打ちをかけるように扉がノックされる。


(―いや!)


 更衣室の扉の内鍵を閉めて、「ハンスさん…!私は、大丈夫ですから…!」となんとか応答する。


「息も絶え絶えじゃないか…!悪いけど…」


 しかし、扉の向こうから何か詠唱する声が聞こえる。


(この詠唱はまさか…鍵を開ける魔法!!!)


 そこで何かが、プツンと切れる音がした。


―ドォォォォン‼


 爆発音と共に、気づけば更衣室の扉が吹っ飛んでいた。周りの壁には亀裂が入り、パラパラと粉塵が落ちる。

 目の前には頭から血を流したハンスさんの、怯えきった表情。

 吹っ飛んできた扉に身体を強打したらしく、丸眼鏡は割れ、廊下に這いつくばったまま、私を指差す。


「それ…、その、真っ白い髪…!血のような瞳…!悪魔だ!悪魔の子だ!!」


 それを私は、ただ無機質に見下ろしていた。

 

「誰か!悪魔の子がここに!国が滅ぼされてしまう!!誰かー!」


 パニックになったハンスさんが、おぼつかない足で廊下を駆け出す。

 それを目で追うこともせずに、誰もいなくなった更衣室をゆっくり歩く。

 鏡は砕け、床に破片が散らばっていた。気にも留めずパキパキと踏み歩き、洗面台に備えついている銀製のハサミを取り出す。


―もう、終わりにしよう。


 ずっと、ずっと我慢してきた。

 家族から家畜同然に扱われても、"サーシャ"を殺されても、愛する母が最期に遺した「生きる事を諦めないで」という言葉だけを胸に、命を投げ捨てずに必死に生きてきた。

 アリスという養子としての名前も、母アイリスから一字だけを取った名前で、私が希望して許可をもらった名。亡き母の言葉通り、生きることを諦めない為に、"サーシャ"を捨ててでも人として生きる為に希望した名。

 それが、どうだ。妹が職場に来ただけで、全てが瓦解した。

 初めから無理だったのだ。私が普通の人として生きるなんて。あの日、あの偽装工作の時に、そのまま本当に魔物に食われて殺されてしまえば良かったのだ。 

 うまくやっていけると勘違いしていた。アリスとして、人と普通に接せられる事に、これ以上ない喜びを感じていた。一緒に買い物へ行ける友人も出来そうだった。

 あの男…ハンスだってそう。私が"普通の人"だから、彼は私に執着してきた。"アリス"の身体をさんざん貪ろうとしていたあの男ですら、"サーシャ"を見た瞬間、こうだ。

 司書にはもう、なれないだろう。王城内に悪魔の子がいるともなれば、排除しようとするに決まっている。私の居場所は、また消え失せたのだ。

 妹がここへ来たのは、広大な土地と莫大な資産を持っているヴァテュール家との結婚が決まり、私の奉公の仕送りなど必要なくなったから。用済みになった私を、潰しにかかったのだろう。


―馬鹿らしい。もう、全てがどうでもいい。


 ハサミを掲げて、刃先がギラリと鈍く光る。


―アイリスお母さま。ごめんなさい。頑張ったけど、もう、無理だわ。辛くて、辛くて仕方がないの。…ごめんなさい。


 グッとハサミを握る力を一層強くする。


―今、お母さまのところへ、私も…


「待て」


 心臓へ一直線に突き刺そうとしたハサミが、胸の前で止められる。

 さらに力を入れても、ハサミは虚空で止まってびくともしない。魔法で止められている。


「…やはり君だったのだな。サーシャ」


 振り返れば、艶やかな黒髪。長身の体躯。そして、強い意志を宿した黒曜石の瞳。


「…ジークバルト、第三王子…」


 彼は片手を挙げて私に魔法をかけていた。全身が動かせなくなっている。


「お願いです。私を止めないで頂けませんか。もう、終わりにしたいのです」


 私は身分の違いなど無視して口答えした。どうせもう死ぬのだ。どうだっていい。


「それは私が困る」

「…どうして?」


 ジークバルト様がコツコツとゆっくり歩み寄ってくる。


「私がずっと、君を必要としていたからだ」


―なるほど。そういうことね。


「私などを?それはつまり、この"悪魔の子"の膨大な高い魔力で、滅ぼして欲しい国があるという事でしょうか?それはお断りします。」

「驚いた。君は賢いのだな。しかし、そんな事で必要としているんじゃない」

「それ以上近づかないで下さい。今の私なら、この魔法を無理矢理解いて辺り一体を吹き飛ばす事だってできるのですよ」

「けれど君は、そんな事しないだろう?」

「―!」


 そこですぐ側まで辿り着いたジークバルト様が私の右手首を掴み、ハサミを取り上げる。


「そんな君だから、好きになったんだ」


 そう言われた瞬間、頭に靄がかかり、私の意識は強引に閉ざされた。














 ここは…


 ―あぁ、いつもの家だわ。使用人がたくさんいて、お母さまもいて、ハーニャがまだ小さくて、お父さまはほとんど口をきいてくれないけれど、とっても幸せな日々。

 お母さまが手ずから作ってくれる料理が、本当に美味しくて、みんな笑顔で食べていたわ。

 そして、今日は天気がいいから庭で食べようって、お母さま特製のサンドイッチを持って、庭へ出て…


 森から出てきた魔物に襲われた。

 それも、魔物は私だけを襲わず、家族や使用人に飛びかかり、お母さまが亡くなった。

 使用人たちの悲鳴。腕から血を流して泣き叫ぶハーニャ。

 そして、私を指差して錯乱している、お父さまの、『やはりお前は、悪魔の子なんだ!!』という怒号―…


「―いやぁ!!!」


 そこで覚醒して飛び起きた。

 はぁはぁと荒い呼吸をしながら、自分がベッドにいる事を確認する。

 久しぶりに見る過去の記憶。消せない悪夢。身体は汗でびっしょりで、手が震えている。

 周りの知らない景色が視界に入ってきて、部屋がとても広く、美しい調度品や洗練された家具からして、ここはとても身分の高い人の部屋で、窓の外が真っ暗なので今はもう夜中だという事は分かった。


「大丈夫か。叫び声がしたが」


 ギィと軋む音と共に、扉を開けたジークバルト様が部屋に入ってくる。


「…!あなたは…ここはどこですか」

「留学先の俺の自宅だ。"まだ"ノワール帝国だから、安心しろ」

「…まだ、とは?」

「そう焦るな。悪いようにはしない」


 思わず眉間にしわが寄ってしまう。


「強引に気を失わせて拉致しておきながら、悪いようにしないと言われても、全く信用できません」

「ふふっ…」

「何がおかしいのです?」


 相手は隣国の第三王子だというのに、口調がきつくなってしまう。


「"アリス"の時は、とても謙虚で控えめだったのに、本来の君はそうなのだな。新しい一面が知れて嬉しいよ、サーシャ。」


 …サーシャ。

 もう死亡しているはずの名。


「…どこまでご存知なのですか」

「ジャンストン家の事は徹底的に調べたよ。娘が2人いるが、長女であるサーシャは病弱でほとんど敷地内から出ない。妹のハーニャは元気に育ち、社交界でも有名になった。7年前に母親であるアイリス・ジャンストンが魔物に襲われて亡くなり、それから長女サーシャはさらに引きこもりがちになり、その姿を見た者はいない、と」


 そこでジークバルト様が私に水差しを差し出してくる。押し黙って見つめていると、「毒など入っていない。安心してくれ」と言うが、そもそも生きる気が無いから、飲む気が起きない。


「表向きはこうなっているが、本当はその容姿のせいで、人目にさらされないようにされていたんだな。…愚かなことだ」


 水差しを渡すことを諦めたようで、ジークバルト様はベッドサイドの椅子に腰かける。


「そして1年前、私が君を"見つけた"時、サーシャ・ジャンストンは森で魔物に殺された。そう、君の父から聞かされたし、この国の原初録にもそう記載されていた。」


―見つけた…?一体、いつ?


 しかも、父から話を聞かされたと。

 父に会ったことがあるのか。

 聞きたいことが一気に増える。

 しかし、その思いは次の言葉で吹き飛んだ。


「聞いた時は絶望したよ。人生で初めて結婚したいと思った女性に出会えたのに」

「………は?」


 慌てて手で口を覆った。今のはあまりにも無礼だ。それをジークバルト様は「気にしなくていい」と微笑んでさらっと流してしまう。


「あの…聞き間違いですよね?今、結婚と…」

「間違いではないよ。私は君を妻にしたいと思っている。」


 ―愕然とした。

 まさか、"悪魔の子"の魔力欲しさに、結婚までしようとするとは。もはや呆れそうだ。


「君を見つけたあと、居ても立っても居られずジャンストン家を訪ねたよ。そこで君の父から聞いた」

「…見つけたというのは、いつどこの事ですか?」

「あぁ、それは君が森の湖で水浴びをしていたのを、覗き見してしまった時だ。」

「………は。」


 また言ってしまった。しかしこれは唖然とせざるを得ないと思う。口をポカンと開けてしまっている事にも気づかないうちに、ジークバルト様が話を続ける。


「私は治癒魔法と共に薬草で治療薬も作っているのだが、その材料の採集で森に入っていたんだ。書状で君の父の許可も取ってあった。魔物がいるのも承知で入ったのだが、護衛とはぐれて湖まで迷い込んでしまって、そこで私は魔物ではなく天使に会ったんだよ」

「……」

「信じられないという顔だね。まさか裸を見て結婚したいなんて思ったわけではないよ。まぁ、見惚れてしまうほど美しかったのは確かだったが。その後、君が華麗に私を魔物から救ってくれたのが決め手だ」


 魔物から、救った?

 そんなこと…―あっ


「思い出してくれたようだね。突進してくる魔物を短い詠唱で宙に浮かせ、眠りの魔法まで唱えて穏便に双方を救った。あまりにも鮮やかな手際でしばらく呆然としてしまったよ」


 そう、その後すぐ、私は、"サーシャ"は殺された。

 まさか、あの時人がいたなんて…


「その素晴らしい魔法の才能、この国では拒絶されているが、ハウラント王国は歓迎する。是非とも、国の魔法発展に力を貸して欲しい」

「ご自身が何を言っているのか、分かっているのですか。貴方は、悪魔の子を自国に招き入れようとしているのですよ」

「その"悪魔の子"とやらが何だというんだ?それはノワール帝国の都合であって、我がハウラント王国では何の障害にもならない。むしろ惜しい人財だ」


 なんということだろう。今までの自分の常識が打ち砕かれた気分だ。悪魔の子が忌避されるのは、世界共通だと思い込んでいた。ずっと迫害されてきたし、そもそもノワール帝国の歴史には、悪魔の子によって国が滅ぼされかけたという記録がある。その特徴が白い髪と赤い瞳、そして高く膨大な魔力で、100年に一度産まれてくる災厄と言われているのだ。

 ふいに手を握られ、びくりと肩が揺れる。

 両手で包み込むように握られ、不快では無いが、くすぐったく感じる。


「私と一緒に、ハウラント王国に来て欲しい。」


 真っ直ぐに目を見つめて言われる。黒曜石の瞳が、さらに輝きを増したように見えた。


「…この髪と瞳でも、良いのですか」

「当たり前だ。むしろ胸を張って歩くといい」

「私が、その魔法の才能とやらで貴方の国を滅ぼしてしまうかも」

「優しい君が、そんな事できるはずがない。実の母の死の原因になった魔物すら殺さない君なのだから」

「…生きていても、いいのですか」

「生きて欲しい。私と共に。」


 そこで視界が歪み、手で顔を覆った。ベッドの白いリネンに、ぽつぽつと涙が落ちて染みができていく。

 ジークバルト様がゆっくり肩を抱き寄せて、さすってくれる。


 "生きて欲しい"。そんなこと、言われたことがなかった。

 たとえ"悪魔の子"としての才能で認められたとしても、死んだことにされ、生きる事すら許されなかった私には、必要とされるのがたまらなく嬉しかった。


「…分かりました。この国を出て、ハウラント王国で、生きます。」

「―!良かった。それでは婚約発表を…」

「しかし貴方の妻としてではなく、従者としてでよろしいでしょう」

「………ん?」

「私の魔法の才能が欲しいのは分かりました。御国の魔法発展の為なら、悪用でなければいくらでもご助力します。どなたかと子作りをさせて才能ある子孫を増やしたい思惑も察しがつきます。ですから、貴方が犠牲になるのではなく、もっと吟味して…」

「待て。…なにを言っている?」

「ですから、魔法の才能がある子供を作る為に、貴方が無理をして私と結婚する必要は無いと言っているのです」

「……………なるほど。」


 それまで冷静で穏やかだったジークバルト様の声が、一気に低くなった。

 なにか間違った事を言ってしまっただろうか。不安げに見上げると、ジークバルト様は私の後頭部に手を差し入れて、白い髪を梳くように指で解いていく。

 穏やかだった空気が、一変したように思えた。


「君は何か大きな勘違いをしているね。私が"女性としても"、君を必要としていると言ったら、どうする?」

「じょ、せい…?」


 首を傾げて、考えがそこに至りそうになった時、ジークバルト様がベッドサイドテーブルに置いてあった水差しを口に含んで、私にキスをした。


「―⁉んっ…」


 あまりにも突然の事で目を見開いたまま、ごくりと口移しで水を飲まされる。生きることを放棄していた身体が、生の喜びを味わうように一気に飲み下していく。熱い身体に冷たい水が気持ち良くて、目を閉じてされるがままに飲み干していく。

 互いの唇が離れた時にはもう、先ほどのジークバルト様の言葉の意味を理解していた。


「…本気で、言っているのですか」

「もちろんだ。"アリス"を一目見た時から、気になっていた。留学期間を無理矢理伸ばすくらいには」


 そういえば、留学に来てから2週間ほどは、護衛が常に何人か付いてきていて、それもあって図書館でも目立っていた。それが、ここ最近1か月を過ぎたころには、一人で行動している。


「君の事が気になって無理を言って留学を伸ばしたから、他の者は先に帰国させたんだ。まぁ、一人だけは残っているが」


 そう言いながら、髪から頬に手を滑らせて、武骨な親指が私の唇をなぞっていく。


「…アリスのどこが気になったのですか?」

「まずジャンストン家の養子として来たという話と、顔つきがサーシャにあまりにも似ているところだ。死んだと聞かされていたからまさか同一人物とはその頃思っていなかったが…髪と瞳が違うのと、少し肉付きが良くなったぐらいではないか」


 そこで私の身体をまじまじと見てくる。そういえば服が着替えさせられている。制服から簡素な白いワンピースになっているのだ。

 私は顔を真っ赤にして両手で身体を覆った。


「み…、見たのですか!」

「ははっ残念ながら私の従者が着替えさせたよ。女性だから安心してくれ」


 それでも恥ずかしくて睨みつけていると、


「それと、謙虚で控えめな立ち居振る舞いも気になっていたが…どうやら本性はなかなか手厳しいようだ」


そう言って私の髪を撫でつけるように頭に手を滑らせてくる。本人は楽しそうだが、揶揄われている気がしてならない。


(だけど…あれほど忌み嫌われている白い髪を、こんな風に触ってくる人なんて…)


 今までにない体験が一気に押し寄せて、頭がついていけなくなってきている。その証拠に、今もジークバルト様に髪をいじられているが、されるがままで考えることに集中している。

 …本当にこの人は、私と結婚する気なのだろうか。この、悪魔の子と。

 いまだに信じられない気持ちの方が勝ってしまう。やはりただ魔法の才能が欲しいだけなのでは。

 考えているうちに、扉からノックの音が聞こえてくる。「入れ」とジークバルト様が答えると、小柄な女性の従者が銀のワゴンを押して入ってくる。同時に香ばしい匂いが漂ってきた。


「いろいろあって大変だっただろうが、腹が減ってきただろう。食べるといい」

「―!!」


 …そこにあったのは、サンドイッチ。

 表面に軽く火を入れて焼き目がつけてあるそれは、私にあの悪夢を思い出させた。


―庭で、お母さまが作ったサンドイッチを皆で食べていた…あの惨劇が。


「いやぁぁ!!」

「⁉どうした!サーシャ、」


 髪を振り乱して頭を抱える。また魔力が昂ってきて、全身から汗が噴き出してくる。


「―やはりいけません!私は死ぬべきなのです!あの日…魔物は私だけを襲わなかった…!私は"魔の使いの者"…悪魔の子だから…魔物も庭までやってきて…お母さまを!!」

「サーシャ、落ち着け!魔物が君だけを襲わなかったというのは、本当か?」


 こくこくと頷いて痙攣しだした身体を両手で抱きしめる。ジークバルト様が背中をさすりながら従者にワゴンを下げるように命じる。


「…これは推測に過ぎないが、それは君の高い魔力ゆえに、魔物は始めから敵わないと分かっている君の事は襲わないんじゃないか?今まで、一度だって魔物に襲われたことは?」

「ありません。威嚇すらも。むしろ懐いてくるものもいました」

「それはやはり、自分より強い魔力を持つ者に挑むほど魔物は馬鹿ではないという事ではないか?」


 そこまで聞いて、ようやく少し落ち着いてくる。嵐のように昂っていた魔力がさざ波のように凪いでいき、深呼吸をして意識を確かなものにする。

 背中をさすっていたジークバルト様が私を寝かせるように促して、白いリネンに横たわる。

 そこに添い寝するようにすぐ隣でジークバルト様は片方の手で私の手を握って、もう片方は自分の腕枕にする。


「君の事について、まだ分からないことはたくさんありそうだな」

「……」


 自分の事など知っても、絶望しかないから知ろうとしなかった。悪魔の子について知りたい人もいないと思っていた。少なくともこのノワール帝国では。


「……もし君さえよければ、研究・検証を重ねて、記録を後世に残していかないか?」

「え…」

「また同じような子が生まれた時、困らないように。」

「―!」


 考えたことも無かった。"後世"なんて。今を生きるだけで精一杯で、"また同じような子が生まれたら"なんて、そんな発想が浮かぶ余裕は皆無だったし、この国は悪魔の子の事を排除こそすれ研究しようなんてまず思わない。悪魔の子は存在してはいけない、それが常識なのだ。


「…貴方は、すごい御方です」

「できれば、ジークと呼んで欲しいのだが」

「……、ジーク、さま」

「ふふっ」


 そこで初めて、花が綻ぶような甘い微笑を見た。不本意にも胸がトクンと高鳴る。


(本当に嬉しそう…呼び方が、変わっただけなのに…)


 ほぼ無意識に、ジーク様の髪に触れる。


(なんでだろう、黒いのに、透き通るように見えて、とっても綺麗…)


「君は、私を誘っているのか?」


 私の手を握っていたジーク様の手が、髪を触っていたもう片方の手をパシリと握る。心なしか手が熱い。


「…そんなつもりは、ありませんでした。」

「無自覚でこれか。困ったな」


 言いながら、私の手を握る手が頬に滑り、顎を持ち上げる。そのまま黒曜石の瞳が近付いてきて―…


「待ってください」

「なんだ。」

「なぜ口づけようとしているんですか」

「君を愛しているからだ」

「っ」


 ド直球に想いを伝えられ、さすがに狼狽えた。目を逸らして、顔を押し退ける。彼の不満そうな視線が突き刺さる。


「先ほどは受け入れてくれただろう」

「あれは急に…!それに、み、水を飲ませて下さったのでしょう?ありがとうございました」

「ふはっ」


 今度は破願して思いっきり笑われた。

 でも、少し眉を下げて少年のように笑う姿に、目が釘付けになってしまう。

 このまま一緒に寝ていたら、まずい気がしてくる。でも、一人になりたくない気持ちもある。

 歯がゆい天秤で揺れていると、ふいにジーク様が起き上がる。


「さて、私はそろそろ別室に行くよ。このままでは君を襲いかねない」

「―!」


 思わず顔が真っ赤になる。掛けられていた布団を首元まで引っ張ってジーク様を見上げる。


「け、結婚前の男女がそんな事…王子である貴方はなさらないでしょう…⁉」

「どうかな。正直君に手を出そうとしていたあの上司に触られていたところは、消毒したくてたまらないよ」

「…!気づいていたのですね…」

「司書の試験にあの男の推薦も必要と聞いて、止めるに止められなかった。すまない」


 ジーク様が謝る必要なんて全く無い。やろうと思えば本気で抵抗できたかもしれないけど、私が"人"として、アリスとして生きていたかったからそうしなかっただけだ。

 それに、頭の片隅で存在することすら許されなかった家庭と比べたら、まだ求められるだけいいのかもしれないとさえ思っていた。


「そのこともあって、君は異性に触れられるのが苦手だろう?今日はこのあたりにしておくよ」


 言われてから、ジーク様に触れられることに関しては、全く嫌悪感が無い事に気づく。


「明日の朝、改めて食事を用意しよう。パンとスープなら平気かな」

「は、はい」

「分かった。ではサーシャ。おやすみ」


 ちゅ、とおでこに口づけを落とされ、くすぐったい気持ちになる。「おやすみなさいませ、ジーク様」と返事をすると、嬉しそうににっこりと微笑んで、扉をゆっくり閉じていく。


―わたし、本当に生きていて良いのよね?ハウラント王国なら。


 夢のような事だった。サーシャとして、この白い髪と赤い瞳で堂々と外を歩ける。

 布団の中でこれが現実だと確かめる為に頬を思いっきりつねってみたが、しっかり痛いので、やはりここは現実のようだ。

 いつこの国を出るのだろうか。家族とは、話すべきなのだろうか。見慣れない天井を眺めながらいろいろな考えが巡る。

 また明日ジーク様と相談しようと心に決め、私は目を閉じた。











 次の日は、けたたましい轟音で目が覚めた。

 ―より正確に言うと、お父さまの怒声で飛び起きた。

 寝ていた部屋から出て声のする方へ行くと、ハーニャも連れてお父さまが玄関でジーク様に怒鳴り込んでいた。


「隣国の第四王子だか第五王子だか知らんが、娘を拉致するとはいかがなものか!」

「第三王子のジークバルト様よ、ヘンリーお父さま」


 ハーニャが小声でフォローしているが、その視線はジーク様の体躯を舐めるように凝視している。視線がその端正な顔で止まると、胸を見せつけるように突き出して歩み出てくる。


「お父さまがごめんなさい。少し動揺しているの。なんらかの事情がおありで、アリスお姉さまを保護して下さっているのでしょう?心から御礼を申し上げますわ」


 綺麗な所作で煌びやかなドレスの裾を摘まみ上げて礼をする。妹は、こうして資産家のヴァテュール家の長男も射止めたのだろうか。つい身を隠して立ち聞きしてしまう。

 しかし、事態はジーク様の一言で一変する。


「"アリス"とは、誰の事かな?」

「…はい?」


―はい?


 私まで心の中で同じ返答をしてしまった。

 ジーク様は何を言っているのだろう。

 ハラハラして手に汗を握りながら物陰にかじりついてしまう。


「王立図書館の司書見習いをしていた"アリス・ジャンストン"嬢の事を言っているなら、すまないが私は分からない。行方が分からないのかい?」

「貴様!しらばっくれるな!ここに娘がいることは調べがついている!!」


 お父さまが激昂する。その声が苦手な私は耳を塞ぎたい思いで成り行きを見守る。

 

「娘とは、アリス辺境伯令嬢の事でしょう?一人目のご息女が亡くなられた際に引き取られたと聞いているが」

「そのアリスがこの家に拉致されているから、引き取りに来たんだ!!」


 はぁと短い溜息を吐いて、ジーク様がこちらを振り返る。


―まさか。


「…でておいで。そこにいるんだろう?」


 ジーク様が、にこやかに手招きする。

 つまり、今から家族と話し合って、この国を出る日程を決めるという事だろうか。

 それとも、このまま一度家族に引き渡されてしまうのだろうか。


―嫌だ。


 手が震え出す。

 家に戻りたくない。

 わがままを言っているのは分かっている。でも、身体がここから一歩も動かない。


「早く出てきなさい!アリス!いつまで人様に迷惑をかけるつもりだ!!」


 お父さまの怒号が飛んできてびくりと肩が上がる。冷や汗が止まらない。


「ヘンリー卿。私は良いですが、彼女にはこれ以上圧をかけないでもらえますか」

「何を言っている!これはうちの問題だ!部外者が首を突っ込むんじゃない!だいたいなんだその真っ黒い髪と瞳は!ハウラント王国は金髪碧眼が一般的だろう⁉本当に王子かどうかも怪しい!!身分を偽ってこのノワール帝国に来ているんじゃ―」

「やめて!!」


 気づけば私は、玄関に飛び出していた。

 自分でも驚くほど、自然に足が動いた。


「ジーク様の事を乏しめるのは、やめて!!」


 あんなに怖いはずのお父さまに、口答えをしている。

 自分が自分でないようだった。

 ハーニャが隣で唖然としている。

 お父さまが顔を真っ赤にして私に食って掛かる。


「お前―っわざわざお前なんぞを引き取りに来てやったこの父になんて―」

「そこまでだ。」


 手を振り上げた父の腕をジーク様ががしりと掴む。

 …今までで聞いたことがないくらい、低い声だった。


「今あなたの目の前にいるのは、ご息女のアリス辺境伯令嬢ではなく、()()()()()()()()()()だ。手を出すことは許されない。」

「なっ…何を言っている!同じだろう!」

「同じ?なぜです?アリス・ジャンストン嬢は髪が亜麻色で瞳は琥珀色でしょう。今目の前にいるサーシャは違う。」

「だから!そのサーシャもうちの―」

「"サーシャ・ジャンストン"は魔物に殺されてしまったと、ご自身で言ったではないですか」

「貴様…まさか…!!!」


 何が起こっているのか分からない。私も、ハーニャまでも、茫然と立ち尽くすしかなかった。

 ジーク様が懐から紙を取り出して見せつける。

 そして。

 すぅっと、限りなく鋭く細められた目。

 見たことないぐらい殺気立った笑顔で。


「これはこの国の原初録の写しだ。1年前に"サーシャ・ジャンストン"は魔物に食われ死体も残らず死亡、と()()()()()()()()のだから、ここにいるサーシャはあなたの娘ではないし、アリス辺境伯令嬢でもない。()()()()()()()()()()()()()。今私の隣にいる、美しい白い髪とルビーのような赤い瞳を持つ彼女は、私の婚約者である"サーシャ・ハウラント"だ。ジャンストン家とは一切関係ない」


 そこで言葉を切り、作り笑顔すら消え失せる。

 ハーニャがぶるりと震えた。


「…まさか、原初録にすら書いて殺しておいて、娘が生き返ったなんて言わないよな?」


 氷点下に凍り付いた視線が"父だった人"に突き刺さる。

 その男は、わなわなと震えながら、拳を握って「くそ!」と地団駄を踏んだ。

 ハーニャが「も、もう行きましょうお父さま。そもそもなんでそんなに引き取りたいのよ」と小声で尋ねている。


「決まってるだろう。王城に奉公できなくなったのなら、どこぞの好事家にでも売り飛ばすなり嫁がせるなりすれば良い。あれにはまだ利用価値が―…ひっ!」


 …その時のジーク様の顔を、私は一生忘れないだろう。

 この人だけは、本気で怒らせてはならないのだ。














 ―二か月後。

 私はハウラント王国の首都、サヴァールの大聖堂教会で、無事に婚約の儀式を終えた。

 純白のドレスに身を包んで、ジーク様と教会の庭を歩く。

 ジーク様は黒髪がより際立つような白い婚礼衣装で、何度見ても一瞬心が奪われてしまう。


「やはり白にして良かった。シルクのような白い髪に、雪のように白い肌、そして純白のドレス、そこにルビーの輝きを持つ赤い瞳が本当によく映えて美しい。」

「そうでしょうか。幽霊みたいになっていないか心配なのですが」

「何を言う。天使…いや女神にしか見えない」


 ふふ、と心から笑みがこぼれる。朝日が祝福するようにより眩しく庭に降り注ぎ、小さなダイヤが散りばめられたドレスがキラキラ輝く。


「…本当にこんな少人数での儀式で良かったのですか?ご両親とご兄弟のみなど」


 後ろからハウラント王国の宰相様であるペイズリー卿が声をかける。今日の儀式は誓約書に名前を記入をして愛を誓うもので、本格的な結婚式はさらに半年後に、凱旋パレードを行う予定なのだ。


「あぁ。妻はまだ、大勢の人前に出るのは慣れないからな」

「ご配慮いただき本当にありがとうございます。」


 この容姿ではまだ街を歩くこともジーク様同伴でなければ不安なのだ。ハウラント王国はこの見た目を全く気にしていないのはもうこの二か月で分かっているのだが、どうしても身体が怯えてしまう。

 そしてただでさえジーク様の父であるこの国の王様に謁見するだけで心臓が破裂しそうだったので、国王と王妃、そして王族である名立たるご兄弟に見守られて行うこの儀式も、私にはかなりハードだった。


「ゆっくり慣れていこう、サーシャ。私がそばにいる」

「…はい」


―きっと大丈夫。この人がいるから。


「まぁともあれ、これでお世継ぎの心配がなくなりましたな。一安心ですわい」

「―っ⁉」


 いい感じに感慨にふけようとしていたのに、爆弾を放り込まれて落ち着きつつあった鼓動がまた速くなってしまう。

 ジーク様は余裕の表情で、「もちろんだ、任せろ」などと言っている。ご兄弟である第一王子や第二王子は、まだ妻を娶っていないのだ。

 慌てる私に追い打ちをかけるように、ジーク様が小声で囁く。


「…まぁ、もう"消毒"はしたからな。今晩その続きをしようか」

「~っ!!」


 おそらく私は今、首まで真っ赤になっているだろう。

 ジーク様がにっこり微笑んで、私の頬にキスをする。

 くすぐったくて、でも嬉しくて。


―殺されたけど、私はとっても幸せです。




読んで頂きありがとうございました。


ムーンライトノベルズの方にR-18加筆修正版を6月に更新予定です。


2024.6.1

※間違えてノクターンと書いていたので修正致しました。

R要素を加筆した結果文字数がかなり多くなってしまったので、前編と後編に分けて連載として掲載させて頂きます。


18歳以上でご興味がある方は遊びにいらしてください^^

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