2.幸せをつくる
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時計の針が、6時半を過ぎた。
「ふむ」
あの人は昨夜また、目覚ましのスイッチを入れ損ねて眠ってしまったようだ。
カリカリに焼いたトーストが好きな人じゃなくて本当に良かった。
目玉焼きもターンオーバーで両面を焼いて黄身が蕩けた状態が好きな人で、良かった。
焼き上がるまで時間が掛かるカリカリトーストだったら、彼が目を覚ます前に焼き始めないといけない。
丁度いいカリカリ加減に焼き上がった状態でトースターの中で冷めてしまうなんて目も当てられない。
ぺしゃんこに潰れて焼き直しもできないし。不味いトーストで始まる朝なんて最悪だ。
目玉焼きも、ひっくり返さず白身にしっかり火を通してあって、けれども黄身は絶対に半熟でないと許さないような人じゃないのは最高だと思う。
どちらもちょっと焼いたらいいだけなのは、とてもいい。素晴らしいことだ。
起き出した気配を確認してから、トーストと目玉焼きを焼きだしても間に合う。
「さて。期待にお応えしに行きますか」
できるだけ、そっと。足音を立てずに階段を上った。
ゆっくりと近づいて、肩を揺する。
「おはようございます。いいお天気ですよ」
起きて欲しいけれど、すぐには起きて欲しくないような。
不思議な気分だ。妙なくすぐったさが胸を満たす。
長い睫毛が覚醒を示して揺れるのを見て、けれど瞼が開かなかったことを確認して、口元が弛む。
「もう。起きないと、こうですよ」
最初の頃は、ただ起こしていただけだった。
普通に目覚ましの掛け忘れや、鳴った目覚ましを寝ぼけて止めて二度寝してしまった。そんな極々普通の理由だった。
けれど、寝返りを打った弾みで、近寄り過ぎていた私が体勢を崩し、頬と唇が、触れた。
あれからだ。時折、寝坊の理由に狸寝入りが混じるようになった。
目覚ましをセットし忘れたのではなく、わざとそうしている事があるような気がする。
そして多分だけれど、今朝の寝坊も、それだろう。
心の中でせーのと掛け声をあげて、心に弾みをつけて顔を寄せる。
夫の温かな肌の感触を味わい尽くすように、ちゅっ、ちゅっ、と派手に音を立ててそこかしこに唇で吸い付いていく。
形の良い鼻筋。ちょっと丸まった耳朶。無精ひげが伸びている顎。
赤く染まってきた、首筋。
悪戯心が湧いてきて、唇の間から舌でぺろりと嘗めれば、身体の下にある女性とは全然まったく完全に違う、硬くて温かな身体がびくりと跳ねた。
くすくすと笑いが止められなくなったのは、私か狸寝入りのこの人か。
「ようやく起きましたね。朝ごはん、用意して待ってますね」
声を掛けて身体から離れる。
これ以上は会社に遅刻してしまうから引き際が肝心だ。
キッチンに向かって、トースターのスイッチを入れて、目玉焼きを焼き始めた。
階段を下りる音に合わせて、珈琲とスープを注いでダイニングへと運ぶ。
「おはよう」
「二度目よう。珈琲どうぞ」
幼い頃からずっと思い描いていた結婚とは違うけれど、これはこれで幸せな朝だと思うのだ。