表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

一でも八でも

作者: 氷月涼

第一回星々オンラインでの「描くことについて」というテーマで書いた作品を改稿しました。

星々オンラインでの作品よりもちょっとプラスしたことで、見え方が変わっているといいな、と思います。

寄り道してみようかな。校門を出た瞬間に思いついた。こんな時間に学校が終わることなんてめったにない。高校生になってから初めてのテストが終わった。結果はどうあれ。通学には自宅から電車で約一時間。学校の最寄駅は古びた商店街があるだけ。今日も夕方から塾があるのでそれまでなら大丈夫だ。どこへ行こう。学校への行き帰りの車窓から目にする大型ショッピングセンターの看板を思い出した。そこへ行ってみようか。

 一度も降りたことのない駅。でも、なんてことのない風景。飲食店やパチンコ店の大きな看板がいくつもあって、駅前はロータリーでバスが何台も止まっていた。ショッピングセンターへは駅から徒歩七分。直進して右へ曲がれと看板の矢印が示している。わたしはその方向へ歩きだした。人や自転車の往来が多く、わたしの住む町よりも活気があるように思える。制服を着た高校生ふうの女の子と何度もすれ違った。駅の方向へ向かっているのだからきっと下校途中なのだろう。このあたりの学校もテスト期間なのだろうか。目の前にまたさっき見たのと同じ制服の女の子がやってくる。すれ違うとばかり思っていた女の子が立ち止まって突然声をかけてきたので、わたしは肩を震わせてびっくりしてしまった。

「ハチケ……、小野さんだよね?」

 一瞬、中学生の時のあだ名で呼ばれた気がしたけれど、名字を呼ばれたので反射的にうなずいた。

 声をかけてきた女の子はよく見たら見覚えのある顔だった。中学校で同じテニス部だった尾高未知世さん。ちょっと中学の時と印象が違う。以前はそんなに目立つほうではなかったのに、今は明るくて垢抜けた感じ。中学のテニス部の中では彼女と私が常に一人でいるようなタイプだった。だからこそ一緒にされたくなくて、あえてわたしは彼女に近づかなかった。わたしは遠い高校へ進学したので、中学時代の同級生とはもう会うこともないだろうと思っていたから、偶然出会ったことに驚いた。

 当時から尾高さんはよく見れば可愛いほうではあったと思うけれど、今となにが違うのだろう。髪型?

「卒業以来じゃない? 学校この辺じゃないよね?」

 親しげに話しかけられて声が出てこない。こんな感じの子だったんだろうか。戸惑ってわたしはただうなずくだけだった。尾高さんとは一度も同じクラスになったことがないし、部活でも話したことがなかった。わたしも話しかけなかったけど、尾高さんもわたしに話しかけなかった。外見が変わったら中身も変わるんだろうか。

「部活やってる? あ、やってたらこんな時間にうろうろしてないか。今日は買い物?」

 うなずいてあいまいに笑った。そしてやっと出た言葉はどこかちぐはぐだったかもしれない。それがいちばん聞きたいことだったから。

「尾高さん、中学の時とは変わったね。髪型かな?」

 今の彼女はポニーテールで、結んだ髪は肩よりすこし上でゆれていた。中学の時はそもそもポニーテール禁止だったし、肩にかかるくらいの長さの髪を後ろでひとつに結んでいた。

「そうだね、あと、眉かな」

 そう言われてよく見ると、彼女の眉はやや太くナチュラルに整えられていた。

「バイト先のね、イメージに合わせてるんだ。あたしカフェでバイトしてて、今から行くところなんだ。買い物終わった後でもよかったら来てよ。バイト先の制服がすごくかわいいから見てほしいな」

 そもそもショッピングセンターへ行く目的は曖昧なものだったし、試験はお昼に終わってまだ何も食べてなかった。そしてなによりも「見てほしい」と言われたことに、わたしは舞い上がってしまった。誰かからそんなふうに言われたことがなかったから。

「じゃあ、今から行ってもいいかな?」

 尾高さんはちょっと驚いた顔をしたけれど、すぐにいいよ、と笑った。カフェまで一緒に行くことになった。

 カフェは駅の裏側にあって少しわかりにくいと尾高さんは歩きながら話してくれた。お父さんがそのカフェを好きで、よく家族で訪れているらしい。バイト募集の張り紙を見つけたのも家族で来ていた時で、その場で親に相談して了承してもらい、五月から働き始めたばかりだという。

 案内されたカフェ「MASA'S DINER」は映画のセットかと思ってしまうような雰囲気だった。一九五〇年代アメリカ。オールディーズと呼ばれる音楽の流行っていた世界観そのもので、窓から見えるテーブルや椅子、壁面に飾られているポスターまでそれらの雰囲気のもので統一されていた。

 カフェの正面入口まで案内してくれると、尾高さんは裏口へ行くからと足早に建物の裏手へと消えていった。

 一人でカフェに入るのは初めてだったので緊張した。案内された席についてメニューを見て、あまりに種類が多くて戸惑った。決めかねていると後ろから、ハンバーガーセットがオススメです、と声をかけられたので振り返ると、お店の制服に着替えた尾高さんが立っていた。制服といっても一九五〇年代アメリカのファッションなのだろう。映画で見たことがあるような気がする。スクエアネックの水玉の赤いワンピースを黒のベルトで引き締めて、ウエストからふんわりとボリュームたっぷりにドレープが膝下まで広がる。動くたびにワンピースの裾が揺れてきれいだった。白いフリルのついた腰下サロンエプロンをしているから店員とわかるけれど、そうでなければまるで今にもマイクを持って歌って踊り出しそうに見えた。ポニーテールにした髪には大きな赤いリボンをつけていて、メイクはほぼナチュラルなのに、はっきりと描かれた太い眉と赤いリップが可愛さの中にも格好よさを印象づけていた。さっき見た制服姿の尾高さんより大人びて見えた。

「制服かわいいでしょ?」

 尾高さんはとびきりの笑顔でワンピースの裾を両手でつまんでみせる。

「こういうの落下傘スタイルって言うんだって。くるっと回るとスカートの部分が円になるの」

 そう言いながらその場でくるりと一周まわってくれた。ワンピースのスカート部分が綺麗に丸く広がった。

「あんまりこれやると、はしたないって店長に怒られるんだよね」

 尾高さんは舌を出して笑った。とてもチャーミングで素敵だった。

 結局、彼女にすすめてもらったハンバーガーセットを注文してからお手洗いに立った。

 トイレもアメリカンレトロスタイルだった。白と黒のブロックチェックの床、アンティークなブリキ缶に植えられたサボテンが飾ってある。どこまでも抜かりない世界観だった。手を洗ったあと鏡に映る自分の姿を見てしまってがっかりした。今いる場所と自分との落差を嫌というほど感じた。代わり映えしない髪型。小学生の頃からずっとおかっぱあたま。いつも近所にある母の顔なじみの美容室で切ってもらっている。何したってどうせ何も変わらないと思ってきたから流されるまま何もしなかった。気が弱そうに見えるぼさぼさの下がり眉が元凶なのかもしれない。変われるものなら変わりたい。地味な雰囲気だったのが、垢抜けて可愛くなっていた尾高さんを見て、初めてそう思った。もしかしたらわたしも変われるかもしれない。

 トイレから席に戻ってくるとすぐに注文したハンバーガーセットが運ばれて来た。ファストフード店とは違う手作り感あるボリューミーなハンバーガーで、食べにくいことを考慮してフォークとナイフが添えられている。

 ウエイトレスは尾高さんの他にもいたが、わたしに気を使ってか尾高さんが運んで来てくれた。この機会を逃したら変われないと思った。だから勇気を出して訊いてみた。

「お、尾高さんは、ど、どこで、か、髪を切ってるの。よかったら教えてくれないかな」

 なんの脈絡もなく訊かれて尾高さんは驚いていたけれど嫌な顔はせず、あとでメモを持ってくると言ってすぐにその場を離れていった。

 まだ心臓は大きく跳ねた音を立てていた。水を飲み、ハンバーガーに添えられた厚切りボテトを口に運んでいるうちに、少しずつ気持ちは落ち着いていった。

 「お水どうぞ」

 尾高さんがテーブルにやってきて、置かれたコップに水を継ぎ足した後で、エプロンのポケットからメモを取り出し、伝票の下に滑り込ませた。

「これ、お店の名前と電話番号。あとでスマホで調べてみて。この近所だよ」

「ありがとう」

 どういたしまして、と尾高さんは穏やかに微笑んでキッチンまで戻って行った。

 メモをそっと開くと、あのキャラクターの絵。中学の時、一時期流行ってすぐに廃れてしまった犬のキャラクター。八の字眉がトレードマークの情けない顔をした柴犬「ハチケン」。テニス部の誰かがわたしに似てると言いだしてから、わたしはテニス部でハチケンというあだ名で呼ばれるようになった。あだ名に憧れはあったけれど、そんなあだ名は嬉しくはなかった。自分の下がり眉が嫌いだったから。そういえば尾高さんは当時そのあだ名でわたしのことを呼ばなかったような気がする。でもさっき声をかけてきた時に、あだ名で呼ばれた気もした。なんで尾高さんはハチケンのメモに書いてきたんだろう。単にハチケンを好きなだけ? 

 メモにはまるっこいかわいらしい字で店の名前と電話番号が書かれていた。ハンバーガーを一口ほおばって、スマホで検索をかけて地図を見た。本当にすぐ近くのようだ。

 もう心のなかでは決まっていた。ハンバーガーをやや急ぎがちに平らげて、レジへ向かった。気づいた尾高さんがレジで待っていた。

「軽い気持ちで誘ったのに、ほんとに店に来てくれてありがとう」

「こっちこそありがとう。おいしかったです」

「よかったらまた来て」

 「うん」

 うなずいたわたしは自然と尾高さんに微笑み返すことができていたように思う。顔の横で小さく手を振る尾高さんの表情を見て、わたしの気持ちを受け取ってくれたように思えた。

 カフェを出てすぐにスマホで地図アプリを立ち上げて、教えてもらった美容室の名前を入力した。ハルニレ。徒歩五分。

 美容室の前まで様子を見に行ってみるだけ。地図アプリを時々確認しながら歩いて店の前までやってきた。

 モノクロのインテリアを基調とした想像以上に都会的でおしゃれな雰囲気の美容室だった。道に面した部分はガラス張りで、お店の中がよく見えた。何人ものお客さんが美容師さんに髪を切ってもらっている。美容師さんもお客さんもみんな笑顔だ。楽しそうに会話しているように見える。

 とてもあの中には入っていけない気がした。

 わたしがずっと通っている母の顔なじみの店では、美容師さんはわたしの髪を切りながら、母とおしゃべりをしている。ただわたしは椅子に座って目を閉じて、切り終わるのを待つだけでよかった。

 せっかく教えてもらったのに、これ以上の勇気が出ない。

 店の前から立ち去ろうとした時、ドアが開いてロングヘアの女性のお客さんが出て来た。丁寧にお辞儀をしてお見送りする男性は美容師さんなんだろう。目が合ってしまった。

「ご予約の方ですか?」

 わたしは大きく首を横に振った。

「今日は空いてますので今からすぐに切れますよ」

 そう言われたが、そんな時間の余裕はなく、また来ますというのが精一杯だった。

「だったらご予約されますか」

 一瞬ためらった。でも、わたしはうなずいた。やっぱり変わりたい。その思いがここへ来た理由。まだほんの入口にさしかかったばかりだ。

 受付のすぐそばにあるソファに案内されて予約の時間を相談した。塾や習い事のない日は日曜だけなので次の日曜の朝に決めた。キャンセルが出たところらしい。運が後押ししてくれているような気がした。


 土曜日の午後、ピアノ教室から帰宅して、ずっとスマホで検索をしていた。どんな髪型にしたらいいのか、考えたこともなかったので、いろいろ探して見ていた。いいなと思う髪型はぜんぶ今の自分の髪型からでは長さが足りなかった。今の自分の髪型から別の髪型へのイメージがまったく思い浮かばない。そして今さら気になった。自分のぼさぼさの眉毛は整えていったほうがいいんじゃないか。きっとあんなおしゃれな美容室へ来る人はみんなきちんとしているはずだ。なぜ今まで気づかなかったのか。あわてて眉の整え方を検索する。ざっと見てから、財布をつかんで家を出た。眉を整えるのに必要な道具をドラッグストアへ買いに行くため、自転車に乗って三十分、懸命に漕いだ。眉毛コームと眉カットハサミ、毛抜きとアイブロウペンシル、そして折りたたみ卓上ミラーを買った。がむしゃらに漕いで汗だくになりながら帰宅すると、まだ母親はパートの仕事から帰宅してなくてホッとした。見つかってはいけない気がしていた。そんなことはまだ早いと言われそうだから、勉強机の一番下の引き出しに買って来たものを全部しまった。夜までおあずけだ。

 夕食、後片付け、勉強、入浴といつもどおりに過ごしたあと、買って来たものをごっそり机の上に並べた。動画で何度も見て確認して頭には入れたから、自分もできると思う。少しでも下がり眉を解消して、ちょっと太めのナチュラルではっきりした眉にしたい。カフェで見た尾高さんみたいな、かわいいけどかっこいい感じになりたいと思った。

 指で押さえてカットする眉頭はまずまずうまくいった。眉山から下の部分にコームを斜めに入れてカットする。こんなに毛がはみ出してるものかな、と思いながらカットしたらやっぱり切り過ぎていて、眉毛の真ん中部分の毛がすごく短くなってしまっていた。とりあえずペンシルで描けばごまかせるんじゃないかと思って、理想の形を目指して描いてみたけれど、どうにもおかしい。作り物の眉という感じで気持ち悪かった。とてもじゃないけどもう片方の眉をカットしようという気になれなかった。切り過ぎてしまった眉はもう見たくなかったから絆創膏を貼った。こんなとき、前髪が長ければ少しでもごまかせたのに。いつもの美容室では前髪は眉より上に切られてしまって、眉にかかる頃にはまた髪を切ることになるという同じことの繰り返しになっていた。

 ぶつけて怪我をしたという言い訳を、瞬時に頭の中で巡らせて、母親に、明日初めて会う美容室の人にどんなふうに言おうかシュミレーションして、落ち込んでいった。

 ベッドの上で眠れなくてもやもやしているうちに、いつのまにか眠っていて、気づけば朝は来てしまっていた。起きたら当然のように眉毛に貼った絆創膏は取れていた。家族と鉢合わせしないうちに顔を洗って、失敗した眉毛を新しい絆創膏で封印する。帽子をかぶれば美容室までの道中はごまかせる気がして、身支度を済ませたあとキャップ帽を目深にかぶってみた。本当は少しでもおしゃれな服を着たい気持ちもあったけれど、どうせ持っていないし、キャップ帽に合わせて無難にTシャツとジーンズにしておいた。

 友だちのところに行ってくると嘘をついて玄関を出た。

 

 外は雨が降り出していて、帽子のつばと傘で人の視線を避けることができたのは幸いだった。美容室までやってくると、深呼吸をしてからドアを押した。

 このお店では、初めての方は受付で美容師と髪型の相談をするらしい。わたしを担当してくれる女性の美容師さんがやってきて、野中ですと自己紹介した次に、わたしの眉の半分を覆う絆創膏のことを訊いてきた。ぶつけちゃって、とシュミレーションどおりに答えると、美容師さんはそれ以上訊いてこなかった。ホッとして髪型の相談をはじめた。こんなふうにしたいという髪型はないけれど、今の髪型を変えたいということだけを伝えた。美容師さんはヘアカタログとホワイトボードを持って来てわたしに訊いた。「どんな女の子になりたい? イメージを言ってみて」

 そう言われて頭に浮かんだのは先日見た尾高さんがバイトするカフェの制服、一九五〇年代のあのスタイルだった。

「かわいいけど、かっこいい」

「ちょっとボーイッシュってこと?」

 美容師さんはわたしの言葉からイメージをつかもうとしているみたいだった。

「そうじゃなくて、女性らしいけどキリッとしている感じ。一九五〇年代の……」

「ヘップバーン?」

「……でもいいけど、オールディーズの……」

「あー! レトロな感じ。この辺にカフェあるよね。知ってる?」

 わたしは大きくうなずいた。美容師のお姉さんも知っているくらいあのカフェは有名なのだ。

「そこでバイトしてる知り合いにここを教えてもらいました」

「そうなんだ。あそこはロカビリーだよね。小野さんはロカビリーって雰囲気じゃないけど、レトロな感じはアリだと思う」

 そう言って美容師さんはホワイトボードにさっと髪型の絵を描いた。眉の少し上でまっすぐに切り揃えた前髪、サイドは頬に向かって内側に丸くかかるショートボブ。全体的に丸いシルエット。何かに似てる。

「……こけし?」

 そのつぶやきを美容師さんはあわてて否定した。

 絵が下手なだけだから、と言いながらヘアカタログのページを開いて写真を見せてくれた。こけしには見えなかった。モデルが可愛いからそう見えるのであって、自分がこんなふうになれるとは思えなかったけれど、美容師さんが絶対似合うと何度も言うから、やってみる気になってきた。

「それでお願いします」

 美容師さんが大きくうなずいて、絶対に可愛くなるからね、と断定するのを、わたしは曖昧に笑うしかなかった。

 「こちらへどうぞ。シャンプーします」

 若い男性がやってきて、シャンプー台へ案内された。大きな美容室だと何人もの人が関わるものなのだと初めて知った。

「ぶつけたところ、痛かったですよね」

 シャンプーしながら若い男性は聞いてきた。嘘が心苦しい。吹き出物ができていることにすればよかったと今さら思いついたが、もう遅い。大丈夫です。そう言っておくしかなかった。

「小野さんは高校生なんですよね。メイクとかはしないほう?」

 突然そんなふうに聞かれたので、どう答えたらいいのか戸惑っていると、シャンプー係の男性は勝手に話しだした。

「しないほうだよね。眉、何もしないでナチュラルだもんね。眉カットとか興味ありますか?」

 眉カットと言われて、見透かされたように思えて、ますます何も言えなくなってしまった。それも気にせず男性はしゃべり続ける。

「僕、見習いで、髪切るのもなんだけど、メイクも勉強してて、練習モデルってことならお金かからないし、すぐ終わるから。まあ、店長に許可取らないとだめだけど、たぶんいいと言ってくれると思う。どう? やってみませんか?」

 本当のことを言うべきかどうか悩んでいる間にも、男性は話し続ける。

「あ、でも、片方の眉に傷があるんだよね。傷、深いの? 触ると痛い?」

「痛くないです。……嘘ですから」

 一瞬の間があった。男性にしゃべられる前にこちらから話さなきゃ、と本当のことを打ち明けた。眉カットに失敗したと。

「……そっか。そうかも、とは思ったんだ。もうすぐシャンプー終わるからちょっと見ていい?」

 わたしは小さくうなずいた。

 男性はシャンプーチェアを起こす前に、乾いたタオルでわたしの髪を拭って、顔の上にのせていたガーゼを外し、眉に貼っていた絆創膏をそっとめくった。

「カットしすぎちゃったんだね。全然大丈夫、なんとかなるよ」

 シャンプーチェアを起こし、タオルをわたしの頭に巻きつけて、男性はあちらへと手で示した。美容師のお姉さんが美容椅子の前でにっこり笑っていた。

「店長に了解もらえたらまた来るね」

 シャンプー係の男性はそう言って手を振った。

 わたしは美容椅子へ案内され、カットクロスをかけられて大きな鏡を前にした。美容院に必ずあるこの鏡が苦手だった。

「よろしくお願いします」

 鏡越しに美容師のお姉さんを見て会釈すると、わたしは目を閉じた。

「あ、眠い? 寝てていいよ。首ガクガクしたら起こすから」

 そう言って美容師のお姉さんは髪をブロックに分けてピンで止め、少しずつ切りはじめた。しゃべりかけるでもなく、淡々と髪を切っていくのが少し不思議でもあった。初めてこの店を見た時の、お客さんとの楽しそうな姿、あれは仲がいいお客さんとだからなのだろうか。一瞬だけ目を開けて鏡を見てみる。後ろの髪がずいぶん短くなっていた。こんなに短いのはいつ以来だろう。覚えていない。もうずっと肩にかからない長さのおかっぱあたまだった。

「あれ、起きてたんだ。ずいぶん短くなったでしょう。サイドと前髪は切ったあと乾かしてもう一度調整するからね」

 わたしはうなずいて目を閉じた。すこしワクワクしていた。さっき見たヘアカタログのかわいい女の子の顔を、自分に置き換えて思い描いてみた。変わった自分の姿。本当は少し怖い。母にどんなふうに言われるだろう。クラスで変な目で見られないだろうか。誰か褒めてくれるだろうか。

「じゃあ、ドライヤーで一度乾かすね」

 美容師さんのその言葉で再び目を開けたわたしの視界に、シャンプー係の男性の姿が目に入った。両腕で頭上に大きく丸を作って笑っていた。眉をカットしてもらえることになったみたいだ。

 髪が乾いた状態でハサミを入れて、思ったより多くの量を切ったあと、美容師のお姉さんはハサミをワゴンに置いた。

 「はい出来上がり。目を開けて、よく見て。すっごく可愛くなってるから」

 そう言われて鏡に映る自分を見た。やっぱり自分でしかなかったけれど、見たことのない自分だった。かわいいともかっこいいとも言えないけれど、明るくて新鮮な気持ちがした。前髪はいつもよりかなり短く切りそろえられていて、よけいに下がり眉が見えて少し焦った。

「じゃあ、この後は彼に交代します」

 鏡に映る美容師さんの後ろにはシャンプー係の男性がニコニコ笑って立っていた。

「今、絶対、眉どうしようと思っているでしょう? 顔に出てる。大丈夫。レクチャーするから自分でできるようによく見てて」

 彼はワゴンにトレーを乗せた。トレーの上には眉ハサミ、コーム、眉用の電動シェーバー、アイブロウペンシル、アイメイク用のブラシ、眉に使うパウダーが入っているのかコンパクト、ふわふわの小さなパフもあった。

 彼はパフを指に通して眉コームを私の小鼻にあてて、コームの柄を目尻まで三角の延長線上に伸ばした。

「眉の長さはこれくらいが標準。西洋の眉化粧が日本に入って来た頃はもっと長く伸ばしていたし、下がり眉ブームだったらしいよ。小野さん、その頃に生まれていたらめちゃモテだったかもね」

 次に眉山をペンシルで書き足した。そのぶん眉は太くなった。そのあと切りすぎてしまった眉尻まで毛を書き足すように描く。切りすぎで密度がなくなった眉にパウダーで濃さを足してスクリューブラシでなじませていく。眉頭の毛を1ミリ程度カットしてまっすぐなラインになるように調整して完成した。

 「もう片方はカットの仕方からやるから、よく覚えてよ」

 そう言われて頷いた。

 まず、眉山を描いた。そしてコームを小鼻から当てて眉尻の長さを決める。そのあとでコームと眉ハサミを持って、眉頭を指で押さえて上にはみ出した毛をカットした。それは動画で見てわたしがやったのと同じだ。眉頭から眉山までは毛流れが上になっているので、コームを斜め上に軽く差し込んで、はみ出している部分をカットした。眉尻の方はコームを上から斜め下にして同じようにカットする。

「ここで、コームを倒しすぎると切りすぎになってしまうから注意してね。とにかく少しずつカットすることが大事だよ」

 眉毛とまぶたの間の毛をハサミを肌に密着させるようにしてカットしながら、アドバイスをくれた。

「ここは毛抜きで抜くとダメージがデカいから、ハサミでカットするか電動シェーバー使うのがいいよ」

 そう言ってシェーバーを軽く当てた。もう片方の眉と同じようにブラシで毛流れを整えながら、眉山から眉尻までペンシルで一本一本描くように描き、パウダーをのせて濃さを調整した。眉頭の位置を調整するためにカットして、スクリューブラシで全体をなじませて完成。

 鏡に映るのは、ややまっすぐな眉になって、すっきりと垢抜けた自分の姿だった。すこしだけ自分のことを頼れそうな気がした。

「眉だけでずいぶん印象が変わるからね。お手入れ大変だけど、なりたい自分に近づくための一歩だから」

 そう言われてうなずいた。

「眉化粧って昔からあるものらしいよ。調べてわかったけど。ギリシャの一文字眉から無声映画とかの時代の憂いを表現する八の字眉。時代でも文化でも好まれるものは変わっていくんだよ。今はいちばんナチュラルなものが好まれてるんじゃないかな。僕は小野さんの下がり眉もいいと思う。でも人がなんと言おうと自分がいいと思うものを選んでいいんだ。今、真ん中がつながった一文字眉を選ぶのは危険だけどね」

 シャンプー係の男性はそう言って笑った。

 わたしは選んでいいんだ。変わることを、装うことを。眉を描くこと、ひとつでも。思い描くなりたいわたしのために。


 美容師さんとシャンプー係の男性に笑顔で見送られて、美容室の外へ出た。いつのまにか雨は上がっていた。外の光はまぶしくて一瞬手をかざしたけれど、キャップ帽はかぶらずに歩きだした。足は自然と尾高さんがバイトするカフェへと向かった。彼女にいちばんに見てほしかった。

 カフェのドアを開けて入っていった瞬間、すぐに尾高さんと目があった。彼女は目を輝かせてわたしのそばへ駆け寄って来た。

「すごく似合ってる。かわいい。モガみたい!」

 興奮気味にそう言って、まじまじと顔を見る。

「眉カットもしてもらったんだ。前の下がり眉もよかったけど、今のもいい」

 ちょっと待ってて、と尾高さんはせわしなくキッチンへ戻っていった。戻って来た時にはスマホを手にしていて、わたしにスマホを出してと言う。言われた通りにスマホを出すと、LINEやってる? とたたみかける。やってないというと、スマホ貸して、とわたしのスマホを手にして、アプリダウンロードするよ、と勝手にさくさくと操作した。

「なんで? なにしてるの?」

 わたしが尋ねると、尾高さんは「友だち登録!」と言って画面を見せてくれた。

 彼女の名前のついた写真は、あのキャラクターのハチケン。

「尾高さん、ハチケン好きなの?」

 聞いてみると、大好き、と尾高さんはくったくなく笑う。

「小野さんの下がり眉、ハチケンみたいで可愛いとずっと思ってたの。部活のみんなはバカにしたように小野さんをそう呼んでたけど、あたしは実は愛を込めてこっそりそう呼んでた。本当は中学の時、ずっと話してみたいと思ってたんだ。偶然、道で見かけた時、勇気出して声かけてよかった」

 そんな打ち明け話をされて、どうしたらいいのか。

「今度、一緒にお洋服買いに行こうよ。今の服も悪くないけど、その髪型に似合うもっと可愛いの見つけにいこう」

 さらりとそう言われて、戸惑いながらも大きくうなずいた。

 今日、出かける時に母親についた嘘が本当になった、のかな。

 今、友だちのところに来ている。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ