大学デート
「小春ちゃん、明日10時の待ち合わせでいい?」
「はい。大丈夫です」
「寒くなりそうだから、暖かくして来てね」
「はーい」と、雪だるまスタンプが笑う。
土曜日は、冷たい雨になった。電車を降りた松原は、改札を出た少し先に、小春の姿を見つけた。こちらに気が付いた小春が、ふわりと笑顔になる。これが自分にだけ向けられているものだと思うと、たまらなかった。自然に小走りになった。
「早いね、待った?」
「いいえ。来たばっかりです」
という割には、指の先が冷たそうにピンクに染まっている。松原はその手を取って、ゆっくり歩き出した。
「雨になっちゃったから、映画でもどうかと思って」
「……あの」
小春が言いにくそうに、松原の目を覗き込んできた。
「ん?」
「あの、実は、暗いところが少し苦手で……」
「えっ、そうなの?」
映画館は、「あちらの人」が結構いる場所だ。暗いから彼らがいるわけではない。実は彼らも皆、映画を見に来ている。だから、生きている人に悪さをするだとか、脅かしてやろうとして来ているわけではない。
ところが残念なことに、彼らは大人しく座席に座って見ているわけではないのだ。空中にいたり、スクリーンの真ん前にいたり、座席の背に座っている人もいる。
他の人には見えないからいいが、小春はこの人たちが邪魔で、映画が見られない。透けていても、邪魔なことに変わりはない。
「……ごめんなさい」
「全然いいよ、知らなかったなぁ。じゃ、ショッピングにする? 美術館があるところもあるし……」
松原はスマホを取り出した。操作するために小春の手を離そうと、指の力を抜く。すると小春がその手を掴み直してきた。
「あの、私、松原さんが行ってた大学……、見てみたいです」
「へっ?」
キラキラした目で、松原の手を両手で包み込む。……君は「豆柴」か……。
「ちょっと、ここから遠いよ」
「大丈夫です」
「面白いかなぁ……」
「ダメですか?」
子犬の様なその目は、ホントずるい……。
「分かった。じゃ、行ってみようか」
「わぁ、ありがとうございます!」
電車を乗り継いで、小1時間掛けて到着した。土曜日の雨降りだが、結構人がいた。
「わぁ……」
喜んでいる小春を横目に、久し振りに来た松原も、変わらない景色に懐かしさが込み上げてきた。
「変わらないなぁ」
「どの教室で勉強してたんですか?」
「1番多かったのは、こっち」
小春を先導しながら図書館の前を通る。多くの学生が勉強しているのが外からも見えた。
「土曜日なのに、みんな勉強してる。すごいですねぇ」
「いや、ここ、大学だからね。勉強するところ」
「へぇ、初めて知りましたぁ」
小ボケに笑いながら、濡れた路面を進んで行く。あの会社に入るには、それなりの学歴がいる。そこに新卒採用された小春も、決して偏差値は低くないはずだ。
「小春ちゃんは、勉強苦労しなかった口?」
「まさかぁ、ギリギリ合格の、ギリギリ卒ですよ。あの会社も、まぐれ合格でーす」
「小春ちゃん。それ会社で言うと、呪い掛けられるよ」
「だって、ほんとだもん」
小さな声で口を尖らす小春は、それでもやっぱり楽しそうで、松原は不思議だった。
「ここでホントに楽しい? 大学なんて、どこも同じようなものでしょ」
そう言われて、小春は笑顔に花を咲かせる。
「実は、すごく楽しみにしてたんです。頼めば連れて来てもらえるかもって……。会社に入ってからの松原さんは良く知ってるけど、それまでのことは、全然知らないから……。松原さんのことは、何でも知りたいです」
少し照れるが、こんな風に言われて嬉しくない男はいない。
やっと本館に到着し、傘を傘立てに入れるかどうか迷う。学生時代、ここに入れて何度も盗まれた。そんな躊躇を見て取ったのか、小春が横から聞いてくる。
「盗まれませんか?」
「だよねぇ」
「どこの大学でも、一緒なんですね」
と何故だか嬉しそうに笑う。「一緒」だということが、嬉しいらしい。
それにしてもどうしたものかと考えていれば、なんと小春が、傘用のビニール袋をバッグから取り出した。スーパーで、1枚余分にもらって常備しているのだとか。小春の傘も一緒に入れて、無事手に持って歩き回れることとなった。
「ここかな」
松原が案内した部屋は、50人位が入れる教室で、昔ながらのひな壇式に机が並んでいる。その机も、割と年季が入っていた。
「へぇ」
小春は真ん中辺りの椅子に座り、周りをゆっくり見渡した。
「この景色で、勉強してたんだぁ」
また嬉しそうに笑った。松原も、隣の椅子に腰掛けた。
「割と前の方だったかな。いつも座るのは」
「真面目ですねぇ」
「そう? どこで聴いても一緒じゃない?」
「いいえ。やっぱり、大学生の時も『松原』さんは、『松原』さんだったんですねぇ」
「何、それ?」
「ううん、何でもないです」
また嬉しそうに笑った。
「そんなに、楽しい?」
「はい! すごく楽しいです!」
手放しで喜んでいる小春を見て、釣られるように松原も嬉しくなる。よく分からないが、君が楽しいなら、それでいいか……。
「松原さん、お腹すきません? もうすぐ12時です」
「そうだね。じゃ、この近くのお店、案内しようか」
「あの……、学食は? 部外の人は、食べられないですか?」
「食べられるけど、学食でいいの? 特別なメニューなんて、何にもないよ」
「いいです! 学食がいいんです。松原さんの食べてた学食、食べたいです!」
どこまでも可愛いことを言ってくれるので、取り敢えず食堂に案内することになった。メニューを見て気が変われば、別の所に行けばいい。
「うわぁ、変わったなぁ」
食堂は、大きく改築されていた。開口面をガラスで大きく取り、壁材も木材がふんだんに使われ、天井などは各々の柱の所でアーチ型になっている。まるで都心のカフェのように、オシャレで明るい空間になっていた。もちろん、椅子やテーブルも新しくカラフルなものに変わっていた。
「全然、変わっちゃったんですか?」
「うん。前はもっとこう、今の会社の食堂みたいな感じだった。天井も低くて、あっちの方にテラスがあって……」
――安全日だって言ったら、簡単に信用した〜
景色と共に、突然、さくらが言ったという言葉が蘇ってきた。
「……」
「そっかぁ、松原さんが食べてた頃と、違うんだ……」
少し残念そうに言う小春の声に、松原は我に返る。
「でも、昔食べたメニューは、ちゃんとあるよ」
「ホント!? どれですか?」
キラキラとした目で、小春の笑顔が戻ってくる。昔の僕を知りたいという人の、なんと愛おしい事か……。もう、さくらを思い出す食堂の記憶は、この新しい食堂の様に、小春との楽しい記憶に塗り替えてしまっていいようだ。ポンッと、小春の頭に手を置いた。
「カツカレーとか、牛丼とか、からあげ定食」
「わー、ド定番。じゃ私、カツカレーにします」
そう言って、トレイを手に取った。
他のメニューにも目を向ければ、なんとオシャレなものが並んでいることか。インドカレーはナンが付いているし、フォーに、ロコモコ丼に、トッポギまである。国際化が進んでいて、華やかだ。
「小春ちゃん、デザートとか、いいの?」
「はい。きっと、多くて食べられないと思うので……」
「じゃ、僕が取るか」
「わぁ、ありがとうございます!」
松原は敢えて、食べたことのないメニューを選び、小春とシェアをした。懐かしい味と新しいメニューに、会話は盛り上がった。最後にと、プチケーキを半分ずつに分けたところで、少し離れたテーブルから声を掛けられた。
「あれ、松原君じゃないか?」
「あっ、篠崎先生」
松原が専攻していた学科の教授だ。身長は小春くらいで、ひょろひょろと痩せているのは昔と変わらない。温和な性格で、就職の際お世話になった教授である。食べ終えたらしいトレイを手に、こちらに向かって歩いてくる。慌てて松原は席を立って、篠崎の前まで歩み出た。
「ご無沙汰しています」
「元気そうだね」
「先生こそ、お変わりなく。お元気そうですね」
「ははは。卒業して、何年になるんだったかな」
「11年です」
「では、君も私もそれだけ歳を取ったということだ。君と私では、11年の意味が違う。私にとって『お変わりなく』という言葉は、11歳若くなっているという意味になる。とても健全な褒め言葉で、気持ちがいいね」
「……先生は、相変わらずですね」
この教授は、物事を常に別の視点から見る大切さを教えてくれた人物でもある。講義の間でも、よくこういった日常の出来事の違う視点を話して聴かせていた。
松原は、篠崎は既に退官していると思っていた。確か、今年70歳くらいになるのではないだろうか。とっくに定年退職の年齢は超えているので、退官後の再雇用ということかもしれない。
篠崎は、松原が在学中に、最愛の奥様を亡くされている。元々子供がいないと聞いていたので、家で1人でいるよりは、働ける場がある方が若さが保てるのかもしれない。土曜日まで大学にいるとは、いかにも篠崎教授らしい。
「確か、松原君が就職したのは……、大下工業さんだったね」
「よく覚えてらっしゃいますね」
「いや実はね、つい最近、大下工業さんのことが話題に上ったから、君の話も出たんだよ。大変だそうだが、大丈夫かね?」
「……」
大変とは、どういう意味だろう……。
「あぁ、済まない。安易に内情を聞いては、いかんな」
「いえ、実は、大下工業は6年前に退職したものですから……」
「あぁ、そうなのか。それは失礼した」
「いえ……」
聞きたそうな顔になる松原を見て、篠崎は少し説明をした。
「噂で小耳に挟んだだけだから、大した情報ではない。『情報のネタ元を確認しろ』って、常日頃言っているのにな。つい、懐かしい顔に気を緩めたな。じゃ、今は?」
「日豊工機の技術部門です。全然違う分野になってしまって……」
「いやぁ、こだわることはないよ。人生に無駄はない。学んだことが、いつか生かされる日もくるだろうから……。それにしても、大手じゃないか」
「はい、お陰様で。大下工業での経験が、役に立ちました」
「そりゃ、よかった。本当に何が幸いするか、人生は分からんな」
「はい。……あの、先生。大下工業が、危ないっていう噂なんですか?」
「ああ……、あくまで噂だ。まぁ、君が関わってないなら何よりだ」
「いえ、先生……。僕、離婚したんですが、娘は母親と暮らしているので……」
「……そういうことか。じゃあ、娘さんは、確か……井口さんだったか、と一緒にいるわけか」
「ええ。彼女の父親は、まだ大下工業の専務のはずです。何かあったら、娘に影響が……」
「1度、確認したほうがいいかもしれないな。私の耳にまで入るというのは、あまりいい状況ではないだろうから……」
「そうですか……」
「まぁ、そうだとしても、君ができることは限られている。その時が来れば、必要なら助けを求めてくるはずだから……。それより……」
すこし思わせぶりな様子で、小春の方を見た。
「今度の子は、上手くいきそうかな」
松原も一緒に見れば、小春は半分にしたプチケーキをもう一度綺麗に合わせて、スマホで写真を撮ったりしている。松原はその様子に、少し笑ってしまった。
「今の職場の子で……」
「それで、今日はデートなのか? わざわざ出身大学とは、珍しいな」
「彼女が、僕が通ってた大学を見たいっていうもんですから」
「ほぅ……。君のことを、知りたいんだな。どうやって、今の君になったか。実に、可愛いじゃないか」
「……はい」
今の僕に……か。小春ちゃん、僕も、知りたいんだよ。
「人生は、何度でもやり直しできるよ。実は私も再婚してね」
「えっ、いつ……ですか?」
「5年程前にね。二回り以上年下の女性でね」
「……すごいな」
「はっはっ、君もまだまだこれからだから、頑張りなさい」
「はい」
篠崎と別れて、更に大学内を回る。雨がまだ続いているので、なるべく屋内を見学した。
以外にも松原は、フットサル部に所属していたとの事で、体育館も見に行った。
「すごい〜。意外です」
「いや、大学卒業してから全くやってないからね。すっかり鈍っちゃったよ」
「また始められたら、どうですか? 応援に行きますよ」
「無理だろうなぁ。あの残業の量ではね」
「あぁ〜、そうだった〜。楽し過ぎて、仕事の事忘れてました〜」
「ははっ、ごめん。思い出させちゃったか」
「そういえば、あのウェルドの件、どうなりました?」
「今、テストでもう一度確認してもらってる……って、仕事の話していいの?」
「ああー! ダメダメ! 何やってるんだろ、私……」
「ははっ、小春ちゃんらしいや」
「何ですか? 私らしいって!」
ちょっと怒って、確認してくる。
「意識を向けるものが、コロコロ変わる」
「そう……、ですか? ダメですね……」
すぐ小春はシュンとしてしまう。やっぱり、コロコロと表情も変わる。でも……、
「ダメじゃないよ。そこが楽しいし、そこも僕は好き」
「……」
分かりやすく、小春の顔が赤くなった。
「小春ちゃん、僕も君のことを知りたいんだよ。これから、教えて欲しい。僕の知らない小春ちゃんのこと」
「……はい!」
小春は、今日一番の笑顔になった。
結局、大学を出るのが4時過ぎになった。あちこちで立ち止まっては昔話をした。それは松原の事ばかりではなく、小春の大学時代のことも話題に上った。今度は、小春の大学を案内してもらうと約束をして、2人は松原の思い出の地を後にした。
「さぁ、次はどこに行く?」
「夕飯には早いですか? ここから、どれくらい掛かりますか」
「う〜ん、そうだね。小春ちゃんの足だと、やっぱり小1時間くらい掛かるから、途中ブラブラしながら、イタリアンのお店に向かおうか」
「はい。楽しみです」
夕食を無事終え、外に出た時には雨が上がっていた。松原は、小春と手を繋ぎ歩き出した。
「おいしかった〜。いっぱい食べましたね。ごちそうさまでした」
「うん。ネットでも評価高かったけど、奥さんの感じがよかったよね。いろんな種類が一度に食べられる様にしてくれて、小食の小春ちゃんにピッタリだ」
「ホント! 優しいご夫婦でしたねぇ。でもぉ、松原さん、ブルーチーズがダメなんて、子供だぞ」
人差し指をフリフリしながら、小春が笑っている。
「……」
うっ……、これ、ダメなやつだな。急にタメ口は……、可愛すぎる。
「そういう小春ちゃんは、随分美味しそうに食べてたけど、大人だね」
そう言って、横から腰をグッと抱えた。そのまま、その手を、服の上で上下に滑らす。ショート丈のブルゾンだったので、ウエストの辺りは直接セーターに触れられる。その手の動きに、小春は思わず体に緊張が走った。
「松原さん……」
小春の戸惑いに、松原が顔を向ける。
「このまま、帰る?」
「……」
「僕の家に、来ない?」
「……」
「ごめん。僕、急ぎすぎ?」
「あっ、……いいえ」
緊張した顔が更に可愛くて、松原はもっと続けたいが、そんなに急ぐこともないか……。
「また、……今度にしようか。うん、今日はこのまま、駅まで送るよ」
そう頭を撫でられて、松原は手を繋ぎ直した。小春は言い訳の様に呟く。
「松原さん、イメージと違くて……」
「どんなイメージだったの?」
「もっと……」
言いにくそうに口籠ってしまった小春を横目に、松原は口角を片方だけ上げて笑う。
「草食系?」
「……」
小春が横で、口を尖らせた。当たりらしい。
「ははっ、言っただろ。何年越しだと思ってるのって」
「……私は、6年です」
「えっ」
ボソッと答えた小春に、今度は松原が小さく驚く。足が止まった。
「最初……から?」
「……はい」
「言ってくれれば……」
「だって、彼女さんいるって思ってたから……」
「あぁ、そうだった」
ゆっくり笑い出した松原の顔を確認して、小春も少し残念な気持ちが顔に出た。それを見た松原は、小春の顔を覗き込む。
「やっぱり、今日は連れて帰る。イヤ?」
きゅっと唇を結び、今度こそ小春は首を横に振った。その顔に、松原も笑顔になる。繋いでる手を、またギュッと握り直した。
松原の部屋は、4階建てのアパートの、2階の1番端にあった。エレベーターは無く、階段を上る。通りより1本奥に入っているので、割りと静かな環境だと思われた。
「どうぞ」
「……おじゃまします」
小さく挨拶をして玄関を上がる。キッチンがあり、その奥に洋間が続いていた。
「座って」
お茶を入れてくれるらしく、キッチンから声を掛けられ、小春はそのままテレビやソファがある部屋に入った。綺麗に片付いている。これはイメージ通りだ。会社のデスクも、いつもきちんと片付けられている。
「寒かったから、暖かいのにしたよ」
そうマグカップを渡されて、お礼を言いながら受け取った。両手で包んで、指先を温める。部屋は少し、松原の匂いがした。やはり、男性の部屋である。小物はあまりなく、本やCDやゲームなどが並んでいる棚の上に、写真立てを見つけた。
「お子さんですか?」
「うん。芽衣って名前。新芽の芽に、衣って書く……」
「芽衣ちゃん……」
棚の所まで行って、手に取って眺めた。目元がパッチリしていて、可愛い顔をしている。きっとクラスでもモテるんじゃないかなと思った。周りの事ばかり気にしていた、自分の小さい時とは、きっと全然違うんだろうな……。
「小春ちゃん」
松原が後ろに立ち、小春の腰から両手を回す。そっと抱き締められた。そのまま振り向かされて唇を重ねた。
何度も何度も触れ方を変え、キスを繰り返す。それだけで冷えていた体が暖かくなってくる。松原の丁寧なキスに、小春は全身の力が抜けていく。
「ん……」
松原の唇が首に移動していき、セーターの下から大きな手が小春の肌を確認する。背中のホックを外されて、小春は思わず声が出た。
「ぅん……」
閉じた瞳のまま、松原の大きな手の感触を、全身で受け止める。女性の感じる場所を、丁寧に攻めてくるその手は、やはり元妻帯者ならではの扱い慣れているテクニックを感じる。逆に、そのことに全てを預けられる安心感があった。
「小春ちゃん、柔らかくて、気持ちいい……」
セーターを脱がそうとする松原に、小春は両腕を上げて素直に従う。もう一度キスから始まる。
「ちょうだい」
と小さい声で言われ、小春は遠慮がちに舌を預ける。それを受け取って、新たな柔らかい快感を確認し合う。一気に頭の中から言葉が消えていく。ただ、その感触に酔いしれる。
「はぁ……」
「ベッドに……」
松原が寝室にと小春の手を引いて誘う……。
「ピンポン」
その時、部屋のチャイムが鳴り響いた。