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井口さくら

「ねぇノブ、今日は何時になる?」

 さくらは、随分目立つようになったお腹を無意識に擦りながら、松原を玄関まで見送る。

「う〜ん、遅くなるよ。まだ当分、覚えることばっかりだから」

「えぇ! もうずっと2人で出掛けてない。今度の休み、どっか行こ」

「……多分、土曜日も出勤しなきゃならない。もう少しだから……。それに、お腹の子も心配だから、あんまり歩き回ってもダメだろ」

「もぉ! もう少し、もう少しって! 何のために結婚したの!? 安定期に入ってるんだから、赤ちゃんは大丈夫だよ。仕事、もっと楽になる様に、パパに文句言う!」

「ちょっと、ダメだって。ただでさえ、常務の娘の婿っていうので、みんなから距離置かれてるんだから……、頼むよ……」

「何よ、不満? ホントのことだから、しょうがないじゃない」

「……何とか、日曜日に出掛けられるように頑張るから……」

「絶対だよ! 約束だからね!」

 松原は朝から大きな溜息と共に家を出た。まだ朝だというのに、ドアノブに触れるのを躊躇する程、今日も朝から日差しが強い。やっぱり昼間は、猛暑になりそうだ。エアコンの温度を下げながら、会社に向かって車を走らせた。


 松原は、従業員80名程の創業41年目を迎えた部品製作会社「大下工業」に勤めていた。

 大手プラスチックメーカーに就職が内定していた大学4年生の春、友人がバイトしていたカウンターバーで、妻の、井口さくらと出会った。さくらは松原と同じ大学に通っていると分かり、しかも同じ学年。少し気は強いが、とても綺麗で、すぐに付き合う様になった。

 卒業も間近という時に、さくらが妊娠していることが分かった。松原としては、予想外の事だった。もちろん、自分の子だとすぐに認めたが、その夜は「今日は安全日だよ」とさくらに言われての事だったため、何の心構えもなかったのだ。

 さすがに当初は、動揺もした。しかし、責任を取ることに不満はなく、籍を入れることはすぐに同意した。ただ、結婚式に関しては、貯蓄もなく、同居するための準備もあることから、さくらには我慢してもらおうと思っていた。もちろん、何年後かには式を挙げるとの前提でだ。

 しかし、これを不憫に思ったのが、さくらの両親である。さくらは、父の(のぼる)が48歳の時に生まれた「遅い子供」だったため、目に入れても痛くない程の溺愛ぶりで、もちろん1人っ子だ。式の費用を全て負担するから、挙げてやって欲しいと言い出した。

 松原も、松原の両親も随分困惑したのだが、「大下工業」の常務をしていた登は、押しの強い性格で、結局全てを花嫁側の井口家に、取り仕切られることになってしまった。

 そして登は更に、松原をその「大下工業」にヘッドハンティングしたのだ。

 

 「大下工業」の今の社長の息子は、会社の跡を継ぐ意思はなく、このままいくと、今の役員の中から、次期社長が誕生することになる。しかし年齢的に、皆70歳を超えていて、世代交代をすることが最重要課題とされていた。

 そこで松原に白羽の矢が立った。登の後継者として、すぐにでも役員待遇とするので、入社しないかというのだ。中堅とはいえ、年々成長を続けている、その分野ではシェア3位の年商を誇る会社だ。そこの役員という条件が、若い松原の気持ちを奮い立たせた。

 結局、内定していた就職を辞退し、「大下工業」に入社したのである。

 

 しかし、入ってみて経営の実態を見ると、その1年前に起こった「リーマンショック」の煽りを受け、仕事が激減していることを知る。それから、松原にとって過酷な生活が始まることとなった。

 

 朝8:30始業で、夜17:00までは、現場の作業を覚えるために工場勤務をした。その後、毎日22時頃まで経理の業務を覚える。と同時に、帳簿を見られる立場を利用し、徹底的に分析した。

 個人経営から始まった会社にありがちな、どんぶり勘定に、トップ陣達への利益の高配当が、かなり経営を圧迫しており、どこから手を付けていいのか見当が付かない状態で、頭を抱えた。

 経理の実務をしていたのは社長夫人であり、専属の会計事務所は、その婦人の兄が経営する個人会計事務所という、一族でがんじがらめになった経営は、とても「大不況」を乗り切るだけのノウハウがない。それでも松原は、大学で学んだ知識を必死に駆使し、何とか乗り切ろうと日々奮闘していたのだ。

 

 そんなことを全く意に介さないさくらは、昼間は近くの実家に入り浸り、母親と一緒に食事や買い物を楽しむという、大学時代と変わらない生活を送っていた。当然、松原とは生活がズレる様になる。松原も、とてもそこまで気持ちが回りきらなかった。毎晩、倒れ込むようにベッド潜り込み、甘い新婚生活は、用意してやれなかった。

 

 そして、年が明けて直ぐに、娘の芽衣(めい)が生まれた。さくらに似た大きな瞳が、まっすぐに松原を見つめるたび、仕事へのモチベーションが上がった。どんなに社内でベテラン社員達に怒鳴られようが、その寝顔を見れば心が安らいだ。夜泣きはさすがにきつかったが、それもなんとか2人で交代して乗り切った。

 芽衣が歩き始めた1歳を過ぎた頃には、地道な松原の営業の甲斐もあり、仕事の量も回復してきて、やっと従業員に以前と同じ給料が払えるようになった。

 しかし、その頃には10人程の社員が退職しており、現場の技術がかなり低下し始めていた。やはり辞めていくのは、他の会社でも欲しがる、中堅のヤリ手技術者ばかりだったからだ。

 目に見えないデススパイラルは、確実に始まっていた。主要顧客からのクレームがほんの少しずつ入る様になり、半年後にはA査定だった当社のランクが、D査定にまでなっていた。当然、その会社からの仕事は激減した。

 それに合わせるように、現場での「誤作」という失敗が増えていく。利益は、どんどん削がれていった。

 それでもトップ陣は、以前の配当を欲しがった。登は専務となっていて、約束通り松原も取締役になっていたのだが、松原の手取りは、入社した頃とほとんど変わらない状態だった。責任だけが、どんどん肩にのしかかる状況と、全く先が見えない不安にさいなまれていた。


「何だ、これ……」

 そんなある日、松原は妻からのLINEに言葉を失った。芽衣は3歳になっていた。


「今日、旦那が出張だから、たっくんまた泊まりに来る?」


 ハートマークを飛ばすウサギ……、さくらが好きなスタンプが付いている。

 偶然、仕事のLINEをしようとサービスエリアに入り、スマホを手に取った時だった。たっくん……?

 次の瞬間には、そのメッセージはさくらによって削除された。息が、止まった。


 誤送信だ……。すぐさま、さくらがフォローしているインスタを確認する。さくらは全てを非公開にしていない。逆に、そういう無防備な性格を松原は分かっていて、隠し事はできないタイプだと思っていた。……つもりだった。

「たくま……。こいつか……!」

 自分やさくらより随分若い、大学生らしい。写真には、サーフィンやフェスを楽しんでいる様子がUPされている。女の子との写真も多く、いかにも大学生活を満喫している人物のようだ。ざっと見れば、さくらとの写真はなく、一応安堵した。

 こいつではないかもしれない……。ママ友の子供かもしれないし、友達そのものが「たっくん」というあだ名の女性かもしれない。

 

「……っ!」

 写真の中の1枚に、室内での撮影と思われるものがあり、隅に本人とは別の誰かの足の先が、本当に僅かだが写っていた。それは紛れもなく、芽衣の靴下の一部だった。子供の靴下なので、その大きさや色で、すぐに判別できる。

 松原の心臓は、はち切れんばかりに鼓動を繰り返す。心臓の音が耳にまで達した。

「くそっ!」

 停めていた車のハンドルを、思いっきり殴っていた。


 その日は、東北への納品の途中だった。通常であれば、運送会社に依頼するのだが、仕事が薄い中、無理矢理受注した初めての取引相手の仕事で、データ部門から現場まで、全てが予定より時間が掛かってしまい、運送会社に頼んでいては納期が間に合わなくなってしまった。

 そこで、松原が今後の挨拶も兼ねて、直接配達することになったのだ。往復16時間。1人で移動していた。

 納品は明日の朝1番で、このまま行っても到着は夜になるため、取引先の営業時間が終わってしまう。だから、今日は納品できない。結局、当初の予定通り、車中で1泊し、翌日納品してから帰京することになった。


「さくら、『たっくん』って誰だ」

「……」

 会社に寄ることなく、トラックでそのまま帰宅した。LINEの既読が付いただろうから、さくらはある程度予測していたのか、大して驚かなかった。

「たっくんなんて、知らない。何、それ」

 だがやはり、さくらは偽装工作ができる性格ではない。笑っているつもりだろう顔が、十分に分かり易く引き攣った。

「こいつだよ」

 インスタの画面を、見せつける。そして、靴下の部分を大きく拡大した。

「これ、芽衣のだろ。違うかっ!」

 嫌でも、芽衣まで一緒だったことが胸に湧いてきて、抑えていようと思った怒りが、言葉に出る。一瞬、さくらの顔が恐怖に怯えた。それでもさくらは、白を切るらしい。

「はぁ? この人は、同じ大学の後輩だよ。ただ、フォローしてるだけ。これだって、芽衣のなんかじゃないわよ。何言ってるの?」

 もっと、しっかりと証拠を見せないとダメなのか……。1番したくなかったことを、松原は実行した。

「芽衣、ちょっとパパに教えてくれる?」

 さくらの後ろで、子供ながらに様子を伺っていた芽衣を、手招きした。

「なっ、何、するつもり。ちょっと、やめてよ!」

 さくらは、芽衣を抑えようと手を伸ばしたが、それより先に松原が抱っこして抱え上げた。

「芽衣、たっくんのこと、好き?」

 スマホを見せて、優しく聞いた。

「ううん。好きじゃない……」

「何で?」

「だって、あんまり遊んでくれないもん」

「芽衣!」

 さくらが、叫ぶ。

「昨日、ウチに来た?」

「ううん。来てないよ」

「……ほ、ほら、芽衣も知らないって言っ……」

 その言葉に、芽衣が不満そうな顔をした。知らないと言われたことに、意義を申し立てる。

「ちゃんと知ってるよ。昨日は来てないけど、この間お泊りしたよね、ママ」

 自慢げに胸を張った。

「……芽……衣」

 明らかに動揺しているさくらを尻目に、松原は芽衣を腕から降ろした。怒りが声に出ないように、大きく1つ息を吐いた。

「芽衣、パパまだお仕事残ってるから、会社に行ってくるね」

「えー」

「今日は、すぐ帰ってくるから。芽衣、一緒にお風呂入るか?」

「わーい、入るー」

 機嫌が直った芽衣の横で、松原はさくらに1歩近づいた。さくらはその気配に押され、1歩後退る。

「一旦会社に戻る。今日は、早く帰ってくるから、話をしよう」

「……」

 玄関まで追いかけてくる芽衣を一度抱きしめて、そのまま外に出た。


 その日、会社から家に戻ると、さくらと芽衣はいなくなっていた。


 実家に戻ったさくらは、松原との話し合いに、全く応じようとはしなかった。当初は松原も意地があり、自分から実家に迎えに行くなどということは全く考えていなかった。

 しかし、2週間過ぎても戻ってくる気配がないばかりか、昼間に少しずつ荷物を取りに来ている様子で、家にあるものがどんどん無くなっていくことに不安がよぎった。仕方がなく、会社で登に話をした。それまで一切、登の方からは話はなかった。

「お義父さん、今日、さくらと話をしに伺ってもよろしいでしょうか」

 何を言われても行くつもりで、「専務」ではなく、「お義父さん」と呼んだ。

「芽衣はウチで面倒を見る。さくらとは、縁がなかったと思ってくれ」

 帰ってきたのは、予想を超えた返答で、一瞬言葉に詰まったほどだ。

「はぁ!? ち、ちょっと待って下さい。話もしてないのに、何勝手に決めてるんですかっ!」

「さくらは、もう別れると言っている」

 さすがに頭に血が上った。壁の薄い専務室での会話は、他の社員へ筒抜けになる。そんなことも忘れて、声を上げた。

「裏切ったのは、さくらだ! 話もしないで、一方的にそんなこと……。ふざけるなっ!」

「まぁまぁ、落ち着け……。君はまだ若い。いくらでも出会いはあるだろう」

 登の顔が、ニヤけているようにしか見えなかった。まるで、子供さえこちらの手にあれば、お前なんかは必要ないと言われているようで、頭が真っ白になる。

「芽衣は渡さない。僕が引き取る!」

 裁判になった。


 調停の場で、さくらは不貞を認めた。しかし、親権をどうしても譲らなかった。

 さくらの主張はこうだ。松原は、芽衣が生まれる前から、家庭を顧みることなく常に仕事を優先させ、子育てもほとんど手伝ってこなかった。そんな中、さくらはずっと1人で芽衣を育ててきたというのだ。

 これには、松原も反論ができなかった。確かに、会社の再建に明け暮れ、芽衣の顔を見るのは、寝た後か、起きる前の寝顔ばかりだった。だがしかし、松原としては、家庭を、()いては、芽衣を守るために頑張っていただけで、子育てを放棄しているつもりはなかった。

 けれども、さくらのそんな苦痛を、調停の場で初めて知ることになった松原は、不本意ながらも自分の非を認めることとなった。もっとさくらに、心を掛けるべきだった。結局は、自分の気持ちがもう離れていたのだと、その時初めて気が付いた。

 

 それでも、松原も芽衣と離れることは、身を割かれる思いだった。あの笑顔をもうそばで見られないのかと考えるだけで、心がぎゅっと締め付けられる。引く訳には、いかない。

 しかし、この時4歳になったばかりの芽衣を育てるとなると、さすがに男1人では誰かを頼らざるを得ない。実家をあてにするつもりだったのだが、松原の実家は群馬県にあり、引っ越しをしない限りそれも無理だと判断された。公共の支援も検討したが、当然芽衣に寂しい思いをさせることになる。母親とその実家に任せるのが、最善策であると判断された。

 結局、松原は芽衣を手放すことになった。2人の共有財産である貯蓄は折半し、住居は元々賃貸だったので解約した。家具等は、実家では必要がないさくらが所有権を放棄し、松原は養育費を払うという取り決めになった。


 もう1つ、大きな問題が残る。仕事である。「大下工業」は、銀行から指導を受け、社員をリストラしなければならないところまで、追い込まれていた。取締役である松原は、当然最後まで責任を負う立場ではあったが、希望退職を募る段になり、松原にもその権利を与えてくれた。退職金が通常の2倍支払われた。「手切金」のつもりだったのだろう。

 この時、松原は27歳。必死に守ってきたもの全てを失った、最悪の1年である。


 半年後、偶然大学時代の友人と会った。毎晩の様に1人で外で飲んでいた時期で、久し振りに、大学の頃の馴染みの店に入った時だった。それが三宅である。同じ経済学部で、当時何気ない話をよくした仲だった。向こうから声を掛けられた。

「あれ、松原……、じゃない?」

「あっ、久し振り。……確か、三宅?」

「そうそう。ぅわー、懐かしいな。元気か?」

「……まあ、何とかな」

「確か、井口と『できちゃった結』したんだよな。奥さんも、元気?」

「……」

 答えないままグラスに手を掛けて、ウイスキーをあおる松原を見て、三宅もさすがに口籠った。

「離婚した」

「……そうか。……松原って、井口の親父さんの会社に入ったんだよな」

「ああ……、会社も辞めたよ」

 気まずい沈黙が流れる。しかしその沈黙が逆に、松原の口を開かせた。

「お前は、どう? 仕事は順調?」

「散々だよ。リーマンから、やっと何とか立ち直ったところだ。でもお陰で、小さい会社が淘汰されて、ウチはかなり忙しくなってる。言葉は悪いが、独り勝ちさせてもらってるよ」

「そうか……。体力がある会社が、更に大きくなるチャンスってことか……」

「まあな。でもさ、設備は増やせても、人がな……。急に技術者は育たない。問題は山積みだよ」

「……なるほどな」

 そこで、一旦話は途切れた。


 情けないことに、松原は最近、「もしあのまま内定していた会社に入っていたら、自分はどうなっていたんだろう」という思いから、離れられないでいた。気を緩めると、「後悔」という渦に、引き込まれそうになる。

 三宅が隣で新しい酒を注文した。このまま帰っても、きっとまた寝られない。松原も一緒に同じものを頼んだ。

「……今だから話すけどさ……」

 三宅が言いにくそうに、声を出した。

「ん?」

 新しいグラスに目を落としたまま、そこまで言って三宅が黙った。

「何だよ。そこまで言っておいて、逆に気になるだろ」

「松原さぁ、まだ井口に、未練ある?」

「……随分切り込んだ質問だな。三宅って、もっと気配り上手じゃなかったっけ?」

 笑いながら考える。未練か……。さくらにはないが、芽衣のことは、思い出さない日はない。

「嫁にはないよ。ただ、娘は……、今でも取り戻したいけどな……」

 その返事を聞いて、三宅がじっと松原の目を見つめてきた。

「何だよ。男に見つめられても、嬉しくないぞ」

 身を引きながら、冗談交じりにそんな風に答えた。意を決した様に三宅が話し出した。

「井口がさ、友達と話してるところ、俺聞いちゃったんだよね……」

「……何?」

「学食にさ、テラスがあっただろ。寒いから、誰も外には出てなかったんだけど……。俺、ちょっと外にいたんだよね。研究データ、取ってたんだけどさ……。ちょうど柱の陰で、俺がいるって分からなかったみたいで……。井口達、ガラスの近くで話してたから、聞こえちゃってさ……」

 あまりにも三宅が話しづらそうにするので、気楽に促した。

「ふ〜ん、それで?」

「『上手くいっちゃった』って」

「何が?」

「『安全日だって言ったら、簡単に信用した』って。『パパの言う通りだった。これで、後はウチの会社に入ってもらうだけよ〜。計画通り〜』って」

「……」


 ゆっくりと、持っていたグラスを置いた。グワングワンと、記憶と思考が頭の中を巡る。

「ノブ、子供ができたらしいの……。どうしよう……」

 あの時のさくらの顔が、瞬時に蘇った。

「責任は、取ってくれるんだろうね」

 すごんだ登の顔も、蘇る。

「私の後継者として、確実な席を用意しよう。すぐに、役員への昇格を約束する」

 胸が躍ったあの時の自分の高揚感が、最後にやってきた。

 内臓が、ぎゅうぅと締め付けられるかの様に、苦しくなる。

 全ては、自分が選択した結果だ。


「もう、全部忘れてくれ。僕は、芽衣が生まれたことが間違いだとは、思いたくない」

「あっ……。そうだよな……。無神経で、ホント、ごめん」

 三宅は、意識がなくなるほど飲み続ける松原に、最後まで付き合ってくれた。



「では時間が参りましたので、全員順番に入ってください」

 秘書の女性の声で、松原は意識を現在に引き戻した。今日は、辞令交付の日である。松原は「主任」に昇格する。社長室の前に並んでいた。

 今、松原と小春のいる会社は、従業員430名程いる。これぐらいになると、主任クラスの辞令まで社長から手渡ししていては、キリがない。普通は文書の回覧で終わってしまうものだ。しかし当社の社長はそれを良しとせず、どの役職でも、必ず辞令交付は直々に行うことを信条としている。今日も、20名程が並んでいる。

「松原信行君、これからも、会社の発展のために頑張ってください」

 社長から一人ずつに、言葉が掛かる。「ありがとうございました」とお辞儀をし、社長室を辞す。そのまま自席に戻った。


「松原さん、おめでとうございます」

 真っ先に、小春が声を掛けてくれた。

「ありがとう」

 笑顔で笑い合えば、麦子や津々木、熊谷も同時に祝福してくれた。津々木は、なんとか出勤できるようになり、部署異動はせずに済んでいる。

「これから主任って呼ばないと、ですね〜」

 と麦子に言われ、

「今まで通りでいいよ。気にしないで」

「いえいえ、そういうわけにはいきません、主任〜」

 と、一連のやり取りを交わす。辞令の季節には、あちこちで見られる風景だ。

「……はは、これからもよろしく」

「はーい」

 と解散になった。


 何がキッカケになるのか、人生は分からない。あの後、松原は三宅に声を掛けられ、この会社に中途入社することになった。中途採用枠は少なかったが、学歴と前職で手にした「技術」が役に立った。中途採用は、即戦力が求められる。あの4年の苦労は、無駄ではなかったらしい。

 三宅は既に「主任」になっている。4年以上後の入社だから、当然の時間差ではあるが、やっと追いついた形になって一安心した。そろそろだと三宅にも課長にも言われていたので、これも小春に気持ちを伝える、1つのきっかけになっている。できることならば、このまま順調にサラリーマン人生を過ごしていきたいと思っている。

 辞令と共に受け取った、新しい役職の入った入管カードを、首に掛け直した。

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