松原信行
「ピロン」
今朝も松原のスマホが、LINEの着信を告げる。
小春は今日、久しぶりに会社で朝食を取った。遥平が心配で、随分この癒しの時間を過ごしていなかった。
「なんだ……。今日根岸さん会社で食べるなら、『チビまるコーン』買ってこればよかった」
などと松原に言われ、小春はさっきまでハートマークを噴出していたのだが、このLINEを合図に量産体制を終了する。食事を終えるため手を合わせ、給湯室に向かおうと松原の横を通過した所で、松原が声を掛けて来た。
「根岸さん。……この間さ、なんか変なこと言ってたけど、僕、社内でそんな噂になってるのかな?」
「……変なこと?」
「僕に彼女がいる、……みたいなこと」
小春はキョトンとする。いつ言った、私? まだ麦ちゃんにも言ってないし、噂にはなってないよねぇ……。
「あの……、噂には、なってないと思いますけど……」
「じゃあ、あれは根岸さんの考えなの? 冗談とかじゃなくて、ホントにそう思って言ったってこと?」
顔だけではなく、椅子まで回転させて、小春に正面から聞いてくる。
「あっ、はい……」
松原が、少し眉根を寄せた。
「……すみませんでした。あの、大丈夫です。私、誰にも言いませんから」
まだ訝しげに眉をひそめている松原に、小春は笑みで応える。
「本当に安心してください。それより早く、LINE返してあげて下さい。きっと、待ってらっしゃいますよ、彼女さん」
「えっ……?」
言われて、松原はゆっくりとスマホに視線を巡らした。そして何かに思い当たったかのように、慌ててその顔を小春に戻す。そのまま席を立って、小春の前に立ちはだかった。
「もしかして、このLINEの相手が、彼女だと思ったの?」
「えっ、はい……」
何、何!? どうした? 怒った? いやだぁ〜。
「だって、毎日だし……。松原さん、とても嬉しそうだから……。あっ、でもホントに、この事は誰にも言いません。大丈夫です」
「ちょっと、待って」
そう言うと、松原は慌てたようにスマホを操作し、小春の目の前にかざした。
「えっ、なん……ですか?」
「読んで」
苛立ったように言われ、小春は顔だけを後ろに引く。近い、近い……。近すぎて読めない。ホントに松原さん、どうしたっていうの……。私、誰にも言ってないよ〜。
小春は言われたままに、LINEの文書を目で追い始めた。
「えっ……」
−一昨日−
「パパ、おはよう」
「おはよう。気を付けて。寒いから風邪ひくな」
「了解。行ってきまーす」
−昨日−
「パパ、おはよう!」
「おはよう。昨日の小テストは、どうだった?」
「ふつう(-_-)」
「じゃ、禰豆子のキーホルダーはお預けだな」
「やだー、欲しい! 今度の休み、絶対買ってー」
「じゃ、次のテストは頑張れ」
グッのスタンプ
−今日−
「パパ、おはよう! 今日のテスト頑張るね。禰豆子よろしく!」
「パパ……って……」
小春は思いもよらないそのやり取りに、次の言葉が出なかった。おずおずと、松原の顔を見る。その顔を確認して、やっと松原もスマホを下ろした。
「僕、子供がいるんだ。今年10歳になる。離婚して、母親に親権渡したから、一緒には住んでないんだけど……」
「あっ……」
――松原さん、結婚してたって知ってます?
「根岸さんには、もっとちゃんとした形で話したかったんだけど……。まさか、彼女と勘違いされてるなんてな……」
最後の言葉は、半分独り言のように呟いた。
「すみません。てっきり……」
「おはようございまーす」
「あっ、おはようございます」
隣の課の社員が出勤してきた。そろそろ皆、出勤してくる時間である。松原は、まだ何かを言おうとしている小春の腕を掴んで、歩き出した。誰もいない打ち合わせブースに引っ張っていき、改めて小春の正面に立った。
「根岸さん。……よかったら今度の休み、一緒に食事でもどうかな?」
「えっ……」
「ダメかな?」
ええっ……。
「ダメなんて……。あっ、でも、さっきのLINE……。お子さんとの約束が……」
「あぁ、月に1度会えるんだけど、それは日曜日だから。土曜日、どうかな?」
えええー! 胸が一気にターボを掛ける。いいの!? 願ってもない……!
「はい……。よ、よろしくお願いします」
慌てて頭を下げた小春に、さすがの松原も、緊張した顔を綻ばせた。
「よかった。じゃ、改めてLINEするよ」
コクリと頷く時には、すっかり顔に血が上って、それを知られるのが恥ずかしかったが、必死に我慢して松原の顔を見つめた。やっと笑顔になれた。
その顔を確認して、松原は自席に戻っていく。小春は全身が熱くなった。
うそ、うそ、うっそー! どうしよう、私。わー、どうしよ〜!
当然、その日は仕事の能率は悪かったが、何とか平静を装い、誰にも咎められずに残業まで乗り切った。
途中何度か、松原をこっそり見ていた小春だったが、1度だけ目が合ってしまい、思わず固まってしまった。けれど、すぐさま松原にニッコリと笑顔で返され、またフルスロットルのアクセル全開モードになり、赤面症でもない顔が上気した。挙動不審極まりないが、何せ6年越しの相手である。そりゃ、現実とは思えず、右往左往するのも、お許しいただきたいものだ。
終業は、松原と麦子より先になり、会社を出たところでLINEが入った。
「前から気になってるイタリアンのお店があるんだけど、どうかな?」
「いいですね。大好きです、イタリアン」
「そうだよね。家庭的な雰囲気だから、そんなに気を使わなくていいお店だと思う」
「最高です。楽しみにしてます」
「じゃ、予約しとく。気を付けて帰って。お疲れ様」
「ありがとうございます。お先に失礼します」+ぺこりスタンプ
もう、こんなドキドキ、何年ぶりだろう。ほとんどセカンドバージンみたいなものである。「そうだよね」って、私がイタリアン好きなの、ちゃんと覚えててくれたー! リア充だ、私〜!
「根岸さん」
「うっ……」
後ろから、麦子に声を掛けられた。両手を天に突き上げて、1人喜びのポーズに浸っていたところを、現実に戻される。慌てて、腕を下ろした。
「……、何かいいことあったんですね」
探るように見上げてくる麦子に、小春は隙だらけのシールドを、徐々に強化していく。ゆっくりと瞬きをして、とりあえず「いつもの小春」セット完了である。
「何でもないよ〜。通販で売り切れてた商品が、再入荷されたって、今、通知がね」
と、慌ててスマホをバッグにしまった。
「何、買ったんですか?」
「バッグだよ〜」
「……今度、見せて下さいよ」
「うん。可愛いんだよ。楽しみだなぁ」
「……今日、なんか、浮かれてましたよね」
「うっ……、浮かれてなんかないよ。ちゃんと真面目に仕事しました」
やばい、松原さんのことばっかり気になって、麦ちゃんに見られてた〜!?
「……、根岸さんじゃないですよ。松原さんです」
はぁ〜、良かった。脅かさないで、麦ちゃん……。えっ、何? 松原さん?
「そっ、そうだった?」
「はい。気が付きませんでした? 松原さんって、普段は優しい顔なのに、パソコンの画面を前にすると、スーッと能面になるっていうか……。全集中ってやつで……。なのに、今日は何度かフッて、思い出したように1人笑いしたりして……。あれは、何かありましたね」
腕を組んでアゴに手を添えながら歩く麦子を横目に、小春の顔も緩んでゆく。
そうなんだ、松原さん。……そうなんだぁ〜。
「……根岸さん、どこいくんですか?」
気が付くと、地下鉄の入り口を通り過ぎるところだった。麦子が止まって、訝しげに小春を眺めている。慌てて戻って、一緒に階段を下りた。
「いやぁ、バッグがねぇ〜」
「そんなに、嬉しいんですか? 松原さんのことは、気になりませんか?」
「嬉しいよぉ。だってさぁ……。想いって、叶うこともあるんだなぁって……」
「もぉ、いいです! 松原倶楽部の会員から、脱会させますよ。これ以上、報告しませんよ」
「……いやいや、麦ちゃん、それは困る。ちゃんと聞くから、教えて……」
「じゃ、ちょっと根岸さんも気を付けて見てて下さいね。では、お疲れ様でした」
「……お疲れ様」
反対方向の電車に乗る麦子と別れて、やっぱり小春は、松原の言葉を思い出しながら、フワフワと帰途につく。新しいバッグ、買っとかなきゃな〜。デートに、持ってっちゃおっかな〜。
てな、具合で……。
翌日、小春は朝食を買いに、パン屋の前に到着する。扉を開けようとしたところで、この辺りでは嗅ぎ慣れない匂いに気が付く。
「この匂い、どこ……」
その元を辿れば、少し先のガードレールの根元に、それを見つけた。
そこには、1束のお線香が焚かれていた。そして、その横に、花束が添えられている。一昨日まで、あんなものはここにはなかった。先日、遥平が男の子を見たといった交差点である。春樹君……、だったっけ。目を凝らしてみてみたが、やはりそこには誰も……、他には見えない「彼ら」も含め、誰1人いなかった。
気を取り直して店内に入る。今日もクロワッサンと野菜ジュースを買う。一応、遥平の分も余分に購入した。
「いつも、ありがとうございます」
にこやかにお礼を言う店員の女性から、袋を受け取る。もう2人、店内にお客さんがいたが、まだレジに並びそうになかったので、小春は思い切って聞いてみた。
「あの……、あの角で交通事故でもあったんですか?」
「あぁ、花束のあるところですか?」
「ええ。最近、供えられたばかりですよね」
「ええ。あの交差点、実はよく事故があるんです。車から見ると、歩行者がちょっと見えにくいんですよね……。10日くらい前だったでしょうかねぇ……。小学生の男の子が、左折車に巻き込まれてしまって……」
「10日前、ですか……? でも、お花は、今日ですよね」
「ええ。私も噂で聞いたんですが、どうやら重体だったのが、先日亡くなられたみたいで……」
「あぁ、それで……。すみません、ありがとうございました」
お礼を言って、出口に向かう。ふと気になって、足を止めた。もう一度レジまで戻る。
「あの、もう1つお聞きしたいことが……」
パン屋を出て、遥平を待つ。今日も走っているのだろうか。昨日会っていないから少し心配ではあるが、あの状態であれば多分大丈夫だろう。もう会うこともないかもしれない。
小春は、一昨日の日曜日、遥平の後を付けていった時の事を思い出していた。
遥平が入っていった建物は、救急救命センターである総合病院だった。
遥平はエレベーターに乗り、病室に戻っていく。エレベーターに乗る時には視界に小春が入っている距離だったのだが、遥平は全く気が付かなかった。そのまま後ろについて病室を確認する。ICU(集中治療室)の扉の中に入っていってしまい、もう小春はそれ以上入るわけにはいかなかった。
ICUに入っている患者に対しての面会は、家族・親族しか許されていない。その家族でさえも、入室の際にはナースステーションに声を掛けないといけない。当然他人は入れない。たとえばそれが婚約者であったとしても、家族の同意がなければ面会することはできないのだ。
ナースステーションに行って、面会のお願いをしようと家族を呼び出してもらったが、まだ家族は来ていないという。
「あの、何時頃にご家族の方はいらっしゃいますか?」
「それはちょっと、分かりかねます」
「そうですか……」
どうしようかと少し思案していたら、看護師が予定表を確認しながら教えてくれた。
「あぁ、今日、転床の予定ですから、10時にはいらっしゃると思いますよ」
「あっ、ICU出られるんですね! 意識、戻ったんですか?」
返事をする代わりに、看護師はニッコリと笑った。病院では個人情報を大変慎重に扱う。家族の同意なしに、患者の病状を他人に教えることはない。だがこの笑顔で、十分答えになっていた。
「よかった……。では、また伺います。ありがとうございました」
転床とは、この場合、一般病室に移るということだ。つまり、心臓にしろ呼吸にしろ、緊急の状態を脱したということだ。小春は帰りのエレベーターの前まで来て、大きく1つ息を吐いた。
「よかった……」
パン屋の前で遥平を待ちながら、小春は改めて遥平のことを思う。そう。今まで小春が会っていたのは、体から抜け出した「魂」の遥平だった。
初めて会ったあの日、小春はあんな状態の人を初めて見た驚きで、足が止まった。
他の人には見えない「彼ら」は、さすがにもう見分けられる。体が半分透けているからだ。たまに、すごーく薄すぎて、煙の様に見える人もいるが、大抵は生きている時のまま、体が透けている状態で見える。
また、いわゆる「生霊」といわれる魂は、まるでそこに本人がいるかのように、そのままで見える。最初は普通の人だと思ったのだが、やっぱり他の人には見えていないと分かり、「あぁ、これが生霊か」と覚えた。
けれど今回の遥平は、そのどのパターンとも違い、小春は戸惑うことになった。その体はまるで「生霊」の様にしっかりしているのに、たまにその姿が揺れて半透明になるのだ。まるで、調子の悪いWi-Fiの通信で動画を見ているかのように、その姿が止まったり、流れたりするのである。オーロラの様に揺れ続ける時もある。あまりにも不思議な様子に、小春の足は自然に止まっていた。
そして以外にも、その揺れ続ける姿とは反して、遥平とは意思疎通が確実にできた。しかも遥平は、オートバイとの接触を防ぐために、小春の腕を掴んで引き留めることまでした。あの時、遥平は「走ったかな……」と言っていたが、あれは小春の所まで、瞬時に移動してきたのだ。しっかり見ていた。そして、私に手が届いた。
笑ってしまったのは、お腹が鳴ったこと。肉体から抜け出ている「魂」なのだから、本来は空腹や痛みは感じない。それなのに、お腹が鳴るなんて信じられなかった。
その時ふと思ったのだ。もしかしたらこの魂は、すでに肉体がなくなった人ではなく、生きている体から抜け出してしまった魂なのではないかと……。
でももしそうなら、魂が体に戻った時に、空腹を満たすことは自分でできるはずだ。ところが遥平は、現実に空腹なのだ。頭が混乱した。
そこで小春が導き出した推理が、「実際の肉体が、自分では自由にならない状態なのかもしれない」というものだった。
私達の体のエネルギーは、食事をしないと保てない。そこが、魂との大きな違いだ。それで思わず確認したくなった。
――食べますか、クロワッサン……。
遥平はそれを食べた。その光景は小春も生まれて初めて見るものだった。クロワッサンのエネルギーだけを、食べたのだ。しかも本人は、実際のクロワッサンを食べたかのように感じている。本当に面白かった。
以前、話には聞いたことがあった。神様や先祖にお供えしたものは、そのエネルギーを抜かれているから、後で食べると味が変わっていると。案の定、パンもほとんど味が無くなっていたし、野菜ジュースも、薄くて飲めたものではなかった。
だが食べることにより、明らかに遥平のエネルギーがしっかりしたものに変化したのだ。すごく驚いたが、嬉しくもあった。
次に遥平に会った時、そのエネルギーの増幅は大して長続きしないことを知った。3日しか経っていなかったのに、随分小さくなっていた。肉体の方が弱っているのかもしれないと思った。
何とかしなければと、小春は毎日様子を見ることにした。そして、必ず食べさせた。
実は食べ物というのは、愛情で本当にエネルギーが変わる。大量生産のものは、やはりエネルギーも小さいし、手作りのものは多くのエネルギーを蓄えている。そして何より1番エネルギーを持っているのが、食べる相手のために手作りされたものだ。だから、小春は手作りのお弁当を作ったのだ。
あの時言った、「子供の頃食べた物は元気が出る」というのも本当のことだ。エネルギーが溢れていた子供の頃の自分を思い出すことで、少し今の自分に補われるのである。
ところが、本人はまだ毎日会社に行っていると言っていた。あれは、良くない。移動することでエネルギーを無駄に消費する。不思議なことに、本人は本当に会社で仕事をしているつもりなのだ。たぶん、小春とのことも、全て本当のことと思っているだろう。実際には遥平は誰にも見えていないし、遥平が目にしているものは一切触れられないはずだ。だから、遥平が言った「停滞してて……」というのも、当然なのだ。
触れられないということは、当然、現金も使えない。それもあって、ランチを手作りにした。どこかお店に入ったところで、遥平は支払えないし、ご馳走はしてもらえない。
あと、他の「彼ら」と違った所は、ちゃんと着替えをするということだ。きっと出張先と思っている部屋には、本当にスーツとランニングウェアとスウェットしかなかったのだろう。だから、デートにスーツでやってきた。これは生きている人の魂ならではの行動で、新しい発見だった。
もう1つ、「彼ら」と違う、とても重要な点があった。それは、小春が遥平に触れられるということだ。
ただし、その感触は実際の1割にも満たない。抱きしめられた時は、真綿で包まれたような感触だったし、キスに至っては、ほんの少し唇が温かく感じる程度だった。それでも、他の「彼ら」には、こちらからは一切触れられないので、これも大変珍しい体験だった。
嬉しい誤算は、キスをすれば、小春のエネルギーを直接遥平に渡すことができると分かったことだ。そして、魂のエネルギーが満ちれば、自然に体との結びつきが強固になり、引き戻されるのだと理解した。
それを知ってからは、この効率のいい方法を使うことにした。どうせ、キスしていることは誰にも見えないし、ほとんど感触がない小春には、挨拶代わりのようなものだった。
「おはようございます。今日も友達の所に寄ります。定時までには出勤しますので、ご心配なく」
松原にLINEをした。直ぐに返信が来た。
「それは残念。気を付けて来てください」
残念だって〜。昨日までの小春なら、単なる挨拶と思っただろうが、今はもう、愛の告白にしか聞こえないー! 食事に誘われただけの私だけれど、敢えて勘違いしてしまおう。私、幸せ者―! きゃー! と1人ほくそ笑んだ。
20分待っても、遥平は来なかった。意識が回復したということは、今までの様に魂が体から離れて、活動することはもうないということだ。安堵の念と、少しの寂しさが胸をよぎる。
――1人で本当によく頑張ったよ……
遥平の声が、小春の胸にじんわりと響く。祖母が亡くなってからは、小春のこの体質を理解してくれる、この世でたった1人の人だった……。
もう会うことはないんだ……。改めて小春は遥平との時間を思い出す。あの時、分かってもらえて、泣くことができて、私は本当に楽になったんだよ。遥ちゃん、私は遥ちゃんのこと、きっと一生忘れない。
松原は会社の出口で足を止めた。今日は月に1度の「ノー残業デー」である。社員は皆、17時30分の定時に仕事を終える。その後、15分の休憩をはさみ、残業となる18時までには会社を退出する必要があった。社内の大勢が、一斉に動いていた。
「しまった、忘れた……」
小春達の会社は、出入りを非接触カードで管理している。それが出退勤も兼ねているので、勤務中の出入りとは違い、帰る際は必ずカードをかざす必要がある。1階の出口まで来て、それが首にぶら下がっていないことに気が付いた。そういえば、お昼に1度外したか……。
慌てて自席に戻れば、まだ小春がパソコンの前にかじりついていた。
「松原さん、どうされたんですか?」
「カード忘れて……。根岸さん、まだ帰らないの?」
「さっき、落ちましたぁ〜」
うぇ〜んとでも泣き出しそうな顔で、天を仰いでいる。
「えっ、どこまで保存できてる?」
「今、立ち上げてるところです〜」
情けない声に、松原が慌てて小春の席の後ろに立った。
小春たちが使用している流動解析ソフトは、大変メモリを食う。そのせいなのか、よく使用途中に、ソフトが勝手に終了してしまう。いわるゆ「落ちる」のだ。
それは突然起こる事なので、もちろん、データは保存していない。何度も経験していることなので、皆マメに作業途中にデータの保存はしているのだが、それでもやはり、直近に保存したところから「落ちた」時点までが、全て無になってしまうことに変わりはない。
メーカーも予め想定内の事なのか、「落ちた」時点の最終データを、自動的に保存してくれる救済措置が働く仕組みになっているのだが、100%保証されているわけではない。
それがさっき、小春が仕事を終わろうとする寸前に起こってしまった。2人揃って画面を凝視する。
「どう?」
「ダメだ……。30分くらいロスです」
「ふっー。どこが手間掛かる?」
「ここと、ここと……。あっ、大丈夫です。2回目の操作だし、なんとか6時ギリギリには終われると思います。松原さん、先に帰ってください」
「ん……」
手を動かしながら小春は答える。ところが少し経っても、松原が小春の後ろから動く気配がない。
「松原さん?」
小春は振り向いて松原を確認した。帰る様子もなく、じっと小春を見ている。ひゃっ……、何?
「今朝も会ってた友達ってさ……、女の子?」
「……」
突然そんなことを聞かれ、小春はキョトンとしてしまった。
「いいえ……?」
何故に今、その質問? 分からないまま、小春は首を小さく傾ける。
「……」
一瞬、松原の眉が歪められたが、それ以上の言葉がない。
「明日で、いいと思うよ……、それ」
「えっ、でも……計算掛けて帰らないと……」
画面に向き直り、小春は慌てて仕事の予定表を確認する。やはり、日程にそれ程余裕があるわけではない。
このソフトは、全ての条件を設定したところで自動計算に移るのだが、この計算時間が割と掛かる。大きなデータでは、半日掛かる事もある程だ。小春のデータも、2〜3時間は掛かると思われ、帰宅する際に計算を始動させておけば、翌日には計算が終了していて、効率の良い日程が組める。
「もう、待てないな……」
そう言ったかと思うと、松原が小春の後ろからふわりと小春のマウスに手を掛けた。
「……っ!」
小春の手に重ねられた松原の手は、とても大きい。そのままどんどん、小春の指ごとクリックを繰り返して、ソフトを終了させてしまった。
「松原さん……」
かがんだ姿勢で、小春の顔の横にある松原が、耳元で囁く。
「土曜日まで待てない。今から夕食、一緒に行こう」
「……」
ゆっくりと松原が椅子越しの背中から離れて、小春の顔があっという間に赤くなる。両手を揃えて口に当てながら、小春はコクンと頷いた。
「じゃ、下で待ってるから」
そのまま松原は、「お先に」と周りに声を掛けながら出ていった。
もぉ、何〜! 松原さん、意外にも肉食〜! ギャップ、やばい〜!
「こっち」
そう言うと、松原は小春の少し前に出た。会社から地下鉄で3駅移動した場所である。駅から少し歩くという。到着したのは、小綺麗な古民家風の店舗だった。
「ここですか?」
「うん」
「素敵なお店ですね……」
何の料理を出すのか、パッと見ただけでは分からない。看板もすぐには見つからない。一見、住宅かと思われる建物だが、よく見れば30cm四方の白い石板に、屋号が彫られていた。小さな照明が当てられ、「Coco」と浮き出ている。その横に、フランスの国旗が小さく揚げられていた。
「予約してないんですが……」
松原の言葉に、店員は笑顔で応えている。どうやら、空いているらしい。店内に足を踏み入れた。
細長く奥行きのある造りで、左手には格子戸の様な引き違い戸が3つ閉まっている。どうやらこちらは個室になっているらしい。格子状の建具にはちゃんと障子が張られており、中は見えない。
右手には土間造りに直接テーブルが置かれていて、壁に造り付けられた椅子がずっと続いている。テーブルが3卓と、造り付けとは別の椅子がいくつか置いてあり、その奥にオープンキッチンが設えてある。カウンター席も5席あった。見える範囲の席は、入り口近くの1つに「予約席」の札が立ててあり、あとは満席になっている。
小春達は1番奥の左手、個室に通された。格子戸を開けると、10cm程の小上がりになっており、靴を脱いで上がるのかと思ったら、以外にもそのまま土足で入っていいらしい。コツコツと音を立てながら、テーブルに着いた。上を見れば、やはり古民家風の梁見せ天井になっていて、圧迫感もなくゆったりとした空間になっている。
「中も素敵……」
周りを見渡しながら、初めての場所にワクワクが止まらない。
「お勧めでいい?」
松原に聞かれ、「お任せします」と答えた。壁には花が活けてあり、それはまるで茶室で見かける様な、野にある風情にしつらえてある。絵画もかかっているのだが、そちらは風景画で、カナダかスイスの牧場を思わせる丘の連なりに、ポツンポツンと牛の姿が小さく影を伸ばしている。58/150とナンバーがあることから、シルクスクリーンだと気が付いた。
出てきたワインで乾杯をする。深い赤の香りを口に含めば、癖のない芳醇な渋みと甘みが喉を通る。
「美味しい……」
「うん。美味しいね」
「松原さん、こんな素敵なお店、いつも来てるんですか?」
「まさか、特別な時だけだよ」
「特別な」という響きが、小春の酔いを増幅させる。こんな松原さん、知らなかったな〜。
「松原さんのこと、大抵知ってるつもりだったけど、まだ知らないこと一杯あるんですね」
「それは、根岸さんも一緒。色々知りたい」
いつもの優しい笑顔で言われるが、言ってることがいつもと違う。いちいち小春の呼吸が乱れて、何とも忙しい。日頃の「きゅんきゅん」とは桁が違う。
「この店ね、前に大学の友達と来たことがあってね。結婚式の2次会で……。もし来られるなら、根岸さんと来たいと思ってた」
「松原さん……」
「あっ、ごめん……。僕、ちょっと暴走してるね。嬉しくてさ……。それに……」
持っていたグラスをテーブルに置いて、フットに手を添えゆっくり円を描く様に回す。グラスの中で、ワインが空気と混ざっていく。それはまるで小春の今の気持ちを、可視化している様だ。さっきから大きく揺らされてばかりいる。
「お友達のこと、ちょっと気になってて……」
「お友達?」
「今朝も会ってたお友達。女の子じゃないってことは、男性でしょ。毎日だったし……」
松原が小さな不安を秘めた目で、小春を見つめた。
「……」
それで、急に夕食に誘ってくれたの? 気にしてくれてたなんて……。
「あの……、ホントにそういうんじゃなくて……」
何て説明すればいいのだろう。遥平のことを説明するのは、不可能だ。それを話したところで、理解してもらえないし、そんなことを話す勇気は、まだこれっぽっちもない。
「お友達……っていうのも、ホントはちょっと違うんですけど……。バイクにぶつかりそうになったのを助けてくれた人がいたっていうのは、お話ししましたよね」
「うん」
「実はその方、その時少しケガをされたんです。それで心配で、様子を見に行ってて……。随分よくなられたので、もうお会いすることもないかもしれないくらいで……」
小春は嘘をついた。ほんの少し真実を混ぜて、嘘をつく。そうやって、ずっと生きてきた。自分の見える世界をごまかして、誰にも告げずに生きてきた。
けれどもし……、もし松原が、そんな私を受け入れてくれると確信したならば、いつか本当のことを伝えてみたい……。
「ああ、そういうことか」
「はい」
小春は笑顔になる。その笑顔に釣られて、松原も安堵の表情になった。
「麦ちゃんが妙なこと言うから……」
「麦ちゃん?」
「うん。最近、根岸さん、『何かいいこと、ないかな〜』って言いませんねって」
「へっ?」
「『何かいいこと、あったのかもですねぇ』って……。少し焦った……」
照れたように視線をうつむかせる松原に、小春は一緒に顔が赤くなる。
むっ、麦ちゃん! 何てことを! 企業秘密の手段が、姑息だぞ! 知らない内に、排除されるとこだったー!
「あの……、それ……」
「ん? それ?」
「『麦ちゃん』って……」
「麦ちゃん?」
「うらやましいなって……、思ってました」
「……」
今度は松原が「へっ?」となった。探る様にこちらを見ながら、どうやらハイスピードで頭脳は回転しているらしい。小春はヒントを出さずに、じっと待つ。
「あっ……」
やっと思いついたらしい松原が、ゆっくりと微笑んだ。
「小春ちゃん……、でいい?」
「はいっ!」
2人で一緒に笑顔になった。これで、やっと出された料理も食べられる。
「小春ちゃん、お肉、少し食べてみる? ちょっとだけ、食べたいんだよね」
「松原さんこそ、白身のお魚好きですよね。こちらの舌平目、一口どうですか?」
お互いに、6年の間に知り得た相手の情報は、ちゃんと頭に入っている。料理をシェアしながら、そのことが改めて2人の胸を熱くした。
「……やっぱり、今日誘ってよかった」
松原がしみじみと言った言葉に、小春は最大級の笑顔で答えた。
明日も仕事なので、食事が済んだらそのまま帰ることになった。外に出れば、昼間の陽気が嘘の様に冷えている。
「寒くなってきましたね……」
と肩をすぼめた小春の手を、松原が歩きながらそっと握った。
「こんなに冷たいんだ。いつも冷たそうにしてたから、気になってたけど、想像以上だな」
「……」
もう高校生でもないのに、どうして直接触れられると、こうも心臓がうるさくなるのだろう。
「小春ちゃんの、そのエクボも、実はすごく気に入ってる」
掴んだ手を離さずに、人差し指で小春の右側にだけあるエクボに触れる。
「この髪も」
更に髪にまで触れられ、小春は堪え切れずに足を止める。もう、恥ずかしさが限界だ。
「松原さん、ストップ……。もう、ムリムリ……。恥ずかしい……」
「ははっ。可愛いなぁ、小春ちゃん」
よく見れば、松原の顔も少し赤い。
「もしかして松原さん、酔ってます?」
ワインのフルボトルを1本空けている。そういえば松原さん、そんなに強いというイメージはなかったなぁ。
「うん、酔ってる。ははっ、風が気持ちいいなぁ」
また歩き出した松原に、小春は少し文句を言った。
「はしゃぎ過ぎですよ。もぉ」
その言葉に松原がまた止まった。片眉を上げて、少し目を大きくしている。そんな松原を、小春は不満げな顔で上目遣いに睨んだ。
松原の笑顔がはじけたかと思ったら、そのまま抱き締められた。
「しょうがないだろ。何年越しだと思ってる」
「松原さん……」
ギューと噛みしめるように抱き締められて、小春の心が満たされていく。自然に小春も背中に手を回した。
「さぁ、帰ろう」
「はい」
松原は小春の手ごと、自分の薄手のコートのポケットに入れる。その手は、恋人繋ぎになっていた。
「明日はちょっと頑張らないとな。今日無理やり終わらせたから」
「あー、そうだった。もうっ! 頑張るのは私なんだから」
「ははっ、なんとかなるよ。頑張れー」
「松原さん、責任取って下さいよー!」