根岸小春
「小春、小春」
小春の母、由紀子が、庭で縄跳びをしていた小春の元に、慌てた様子で駆け寄った。
「かず子ちゃんと、今日一緒に帰って来た?」
かず子は、小春と同じ通学路で通っている、同じクラスの友達である。集団下校の際も、いつも小春の家の近くまで一緒に帰ってくる。小春の家から先は、かず子は1人で自宅に帰っていた。
「うん、帰って来たよ」
「その後、一緒に遊んだ?」
「ううん、遊んでない」
「かず子ちゃん、真っすぐ家に帰った?」
「知らな〜い」
小春は子供心にも、母が慌てている様子なのを感じ、気になっていたことを話す。
「でも、今日かず子ちゃん、おじさんと帰ったよ」
「おじさん? 小春が知ってる人?」
「知らない人。学校からずっと一緒だったよ」
「何、それ! 小春も一緒に帰ってきたの?」
「うん」
「ちょっと……、変なことされなかった?」
「されなかったよ」
「分かった。お母さん、かず子ちゃんのお母さんに電話するから、外に出ちゃダメよ!」
それから、大人たちが大騒ぎになった。どうやら、かず子が5時を過ぎても家に帰ってこなかったらしい。それで、かず子の母親から小春の母親に連絡が入り、小春の言葉が大人たちを巻き込んで大きくなっていった。
ところが6時半になって、かず子がひょっこり帰って来た。警察に届け出る寸前のことで、皆大いに胸を撫で下ろした。
「かず子、どこいってたの!」
「どんぐり拾ってきたー! いーっぱい、あ……」
パチンッ、という乾いた音とともに、かず子が泣き出した。母親が、かず子の頬を叩いたのだ。
「何度言ったら分かるの! 5時には帰って来なさいって、何度も言ったでしょ!」
「お母さん、落ち着いて……」
「そうよ、無事に帰って来たんだから、良かったわよ〜」
泣きじゃくるかず子と、心配が爆発して、感情が抑えられなくなってしまった母親を、小春の母を含めた近所のママ達が必死になだめて、事は収まった。
しかし、それだけで騒動は済まなかった。小春の「知らないおじさん」が、今度は大きな問題になった。
「かず子ちゃん、1人で遊んでたの?」
ママ友の1人が、かず子に尋ねる。かず子もその頃にはすっかり小さくなっていて、囁く様にかすれた声で答えた。
「うん。大きい公園に、どんぐりが一杯あったから……」
「おじさんと、一緒にいたんじゃないの?」
「おじさん?」
「学校から、知らないおじさんが一緒に帰って来たって、小春が言ってたんだけど……」
由紀子も、心配そうに声を掛ける。
「ううん、そんな人いなかったよ。学校からも、小春ちゃん達と帰って来ただけだよ」
「……」
実は、この日は偶然、高学年の子供も一緒に帰る一斉下校の日だった。そのため、小春の家のすぐそばまで、6年生の女の子も一緒だったのだ。由紀子は、小春の言葉を確かめるために、真っ先にその6年生の女子の元に確認しに行っている。
「そんな人、いなかった。いつもの所まで、3人で帰って来ました」
と言われていたため、小春の母も少し不安を抱えていたのだ。それもあって、警察に届け出るのは1時間後にしようということになったのだ。
「皆さん、すみません。きっと小春が見間違えたんだと思います。本当に、騒ぎを大きくしてしまって、申し訳ありませんでした」
結局最後は、小春の母が何度も詫び、小春の勘違いということで事なきを得た。しかし、今度は小春が母親に叱られることになった。
「小春、どうしてあんな嘘ついたの!?」
「嘘じゃないよ。ホントに、おじさんいたもん」
「みんな、そんな人いなかったって言ってるの! もう少しで警察の人にまで、話すところだったのよ。どうして、あんなこと言ったの!」
「だって、ホントに、いたも……ん……」
小春は泣きたくなった。本当に知らないおじさんがいて、ずっと小春たちに付いて来ていた。小春は最初、学校の先生だと思っていたのだが、帰り道の途中一言もしゃべらないし、変だなとは思っていた。それに、いつもならもう少し手前で先生は帰っていくのだが、そのおじさんは、かず子の家まで付いて行ったので、変わってるなと思ったのだ。だから、話したのに……。
小春はこの小学1年生の頃には、薄々感づいていた。自分に見える人が、他の人には見えない時があるということ……。
「ごめんなさい」
それからは、もう誰にもそういうことを話さなくなっていった。それこそ「空気を読む」に徹し、皆が話していることを常に参考にしながら、自分との違いを1つ1つ検証していく。そういった地道な作業を、1人黙々と繰り返す日々になった。
ところが、この事件の半年ほど後の秋の日に、またかず子が帰ってこないという事件が起こった。今度は、一斉下校ではなく、低学年だけが先に帰る日で、最後に別れたのが小春ということになってしまった。
「……」
小春の母親は、春の日と同じことを小春に聞いた。けれど小春は答えなかった。
「知らない」
小春の母も、さすがにそれ以上追及してこなかった。その母の顔を見て、小春は思い知る。
母は自分の言うことを、信じてくれない。
その不信感は、小春の根っ子に住み着くことになった。
その日、小春がかず子と別れた時は、確かに他に誰もいなかった。けれど本当はその後、偶然、かず子が知らないお兄さんの自転車に乗って、どこかに行く姿を目撃していたのだ。
学校から帰って、外で遊んでいた時に見たから、4時頃だったのだろう。でも、小春はそれを話したくなかった。それが本当に、他の人にも見える人なのか、自分だけに見えている人なのかが、分からなかったから……。
行方不明と警察に届けられたのは、その日の夜7時になってからだ。すっかり周りは暗くなり、素人で探し続けても見つからなかった挙句のことである。小春の不安がどれほどのものであったか、分かるだろうか。怖くて、怖くて、自分の部屋に閉じこもっていた。
もしかしたら、あのお兄さんはみんなにも見える人で、かず子ちゃんはあのお兄さんに、連れていかれてしまったのかもしれない。けれど、あれが小春にだけ見える人だったなら、また前の様にすごく叱られてしまう。どうしよう、どうしよう……。
「小春ちゃん、晩御飯、おばあちゃん家で食べようね」
母や、会社から帰って来た父までも、付近の捜索に駆り出され、小春の面倒は誰も見られない。それで祖母が車で家まで迎えに来てくれた。
「小春ちゃん、どうしたの?」
小春の異変に気付いたのは、その祖母である。小春はこの祖母が大好きだった。小さい時からよく遊んでくれて、優しくて、今から思えばとても聡明な人だった。
「おばあちゃん、かず子ちゃん、知らないお兄さんと、自転車でどっかに行ったの」
そう伝えることができたのは、祖母の家に到着して1時間程してからだ。祖母は、小春を「どうして黙っていたのか」などと、責め立てることもなく、実に俊敏に動いてくれた。
小春から丁寧に話を聞き出し、目撃時間や、かず子の様子、男の様子を警察に伝えた。しかも、その情報が間違っている可能性や、小春の精神的ダメージを最小限に食い止めるために、他の大人には伝えないで欲しい旨も、きちんと伝えてくれた。
かず子が無事保護されたのは、深夜1時を回った辺りだった。小春の証言を基に、目撃時間と場所から防犯カメラを辿り、かず子の家から3km程離れた場所に住んでいた大学生の家で見つかった。この大学生は、以前からかず子を付け狙っていたと自供し、幼児誘拐で逮捕された。
小春は祖母の家で夕食を済ませ、祖母と一緒に入浴も済ませ、祖母にしがみつくように寝ていたのだが、祖母の静かな声で目を覚ました。
「小春ちゃん、かず子ちゃん無事見つかったよ」
その途端、ずっと我慢していた涙が溢れてきた。後から、後から、とめどなく流れる。
「怖かった、怖かったー、あぁー」
泣き続ける小春の背中を、祖母はずっと擦り続けてくれた。
「よく我慢したね。おりこうさんだったね。もう大丈夫」
「小春ちゃん……」
遥平は、ベッドの中で目を覚ました。体を起こせば、頬に涙が伝わっている。拭った掌を、じっと眺めた。
小春の恐怖と安堵と、抱え続けることになった母親への不信感が、まるで自分の事の様に心に沁み込んでくる。静かに呼吸を続けても、しばらくその悲しみから抜け出せなかった……。
ふと気が付けば、カーテン越しに朝の光が入っている。時計を確認すれば、5時45分を過ぎている。どんな季節でも、前の晩がどんなに遅くなっても、もう目覚ましも必要なく、遥平はこの時間に起きる習慣ができている。
そのままベッドから出て、ランニングウェアに着替えた。顔を洗う。このホテルは、設備が古いから、洗面所の高さも昔のままで随分低い。ランニングシューズを履いて、部屋を出た。
吐く息が、随分と白くなってきた。手袋を用意しなきゃな……と考えながら、大通りを右折する。今日は道行く人が随分少ない。あぁ、日曜日なんだなと気が付いた。
「ハッ、ハッ、ハッ」
公園が見えてくる。あれ……、あんなところに男の子がいる。こんな朝早いのに……。前にもいたっけ……? 毎日のことなので、どの日の記憶か分からなくなっている。そのままその子の方に向かっていけば、その子が遥平に気が付いた。
「あっ、田所さん」
思わず足を止めた。男の子がニコニコと遥平に笑いかけている。まるで、遥平のことを知っているかのような様子に、困惑する。
「えっ、僕?」
息を整えながら、もう一度よく見るが、やはり見知った顔ではない。いや、ランニング中にでもどこかで会った子なのかもしれないが……、記憶には全くない。
それよりも、もうこの格好では寒くないのだろうか。逆にそちらの方が気になった。男の子は、半袖に短パン姿なのだ。これ、夏の制服だよなぁ……。もう10月も半ばを過ぎている。
しかも通学時にかぶる、黄色い帽子もかぶっているから、やはり学校に行く格好だが、今日は日曜日だ。遥平はしゃがんで、男の子と目線を合わせた。
「どうしたの? ママはいるのかな? それより、……寒くないか?」
どの質問にも、男の子は首を振りばかりだ。どうしようか……。こんなところに1人置いておくのは、やはり少し心配だ。
「家まで送っていこうか? 今日は日曜だから、おじさん会社休みだから、大丈夫だよ」
男の子は、また、大きく首を振った。
「……待ってたの」
小さい声だった。……ん? 待ってた?
「誰を待ってるの? ママ? パパ?」
「田所さん……」
「……」
普段の遥平の周りには、小さな子供はいない。妹がいて結婚はしているが、まだ子供がいないため、甥や姪もいない。だから、子供をどのように扱っていいのか、戸惑ってしまう。
「ごめんね。もう一度、確認していい? 僕を待ってたの?」
自分を指差しながら遥平が尋ねれば、男の子は、大きくコクンと頷いた。
「……僕に用事があったの? 誰かに頼まれた?」
「ありがとうって、言おうと思って」
「えっ……」
ありがとう? こんな小さな子にお礼を言われることが、自分の人生にあっただろうか……。
「……ごめんね、僕、君のこと思い出せないんだけど、前に会ったことがあるのかな?」
また、大きく頷く。困惑した顔をいつまでも見せていては、子供を傷つけてしまうかもしれない。遥平は何とか言葉を捻り出した。
「きっと君が嬉しくなることを、僕はできたんだね」
「うん」
「じゃ、よかった。それなら、僕も嬉しい。わざわざそのために、待っててくれたの?」
「うん」
「ありがとう。それも、すごく嬉しい。1人で来たの?」
「うん」
「じゃ、お家まで一緒に行こうか。おじさんに、君のこと色々教えて。友達になりたいし」
「もう、行かなきゃいけないから……」
「えっ、どこに? また、1人で行くの?」
「ううん。迎えに来てくれるから。田所さんに、さよならしに来たの」
「……、そっか。じゃ、その人が来るまで、一緒にいるよ。それまで、お話しよう」
「もう、そこにいるよ」
そう言うと、自分の後ろを指差した。
「……!」
そこには、薄手のセーターを着て、ループタイをした、柔和な顔つきの老人が立っていた。
遥平は、思わず立ち上がった。いつの間にいたのか、全く気が付かなかった。男の子のそばまで来て、手を差し出す。その手を取って、男の子はゆっくりと歩き出した。
「春樹君!」
咄嗟に、名前が口から出た。どうしてそんな名前が出たのか、それが本当にその子の名前なのか分からない。それでもその男の子を、そう呼んで引き留めていた。
男の子は振り向いて、ニッコリと笑う。なんて優しい笑顔なのか。嬉しそうに、楽しそうに、小さく手を振った。
「バイバイ」
遥平の心が、張り裂けそうになる。どうしてそうなるのか、全く分からない。全く分からないが、でも、一気に涙が喉にこみ上げてくる。理性より先に、感情がせり上がってきて、抑えられない。
……行くな、行くな! 行くなー!
「春樹君!」
もう一度呼んだが、もう男の子は振り返らなかった。隣にいる老人と楽しそうに、何か話しながら、手を繋いで行ってしまう。今走っていけば、きっと追いつけるだろうに、体が動かない。呆然と立ち尽くし、先の角を曲がっていく2人が見えなくなるまで、遥平は身動き1つできなかった。
気が付けば、いつものランニングコースを歩いていた。走り出そうと足を前に出したのだが、気持ちが付いてこない。すぐに歩みに変わってしまっていた。
「どうして……」
周りの木々が、ザワザワと枝を鳴らす。とうとう止まってしまった遥平は、そこに立ちすくんだ。もう何をしても春樹が戻らないことだけは、何故だかはっきりと分かる。息ができない思いで、また歩き出した。
しばらく行けば、やはりヨークシャーテリアが近寄ってきて足元で尾っぽを振っているが、いつもの様に遊んでやれない。その頭をそっと撫で、抱き上げてギュッと抱きしめてしまった。
「きゅぅん……」
と小さく鳴いた声で我に返り、慌てて解放した。足元のボールを、いつもの様に飼い主に放り投げる。一生懸命走るその小さな後ろ姿に、春樹の後ろ姿が重なった。
心に湧いてくる絶望感ともいうべきものが、後から後から迫ってきて押しつぶされそうだ。そして繰り返す。
春樹君、どうして行ってしまった! 別れたくなかったのに……、こっちに一緒にいたかったのに……!
……こっち?
気が付けば、ランニングコースのゴールである防波堤に到着していた。休みだからか、釣りをしている人が遠くに見える。そして、そこに座っている見覚えのある後姿に、目が釘付けになった。
「小春ちゃん……」
その瞬間、ブワッと愛おしさが胸の奥からせり上がってきた。小春ちゃん!
自然と足が小走りになり、そのまま後ろから、遥平の顔の高さにある小春の腰を抱きしめた。
「わぁっ……!」
驚いた小春が上げた声が思いの外大きくて、遥平の気持ちがぐっと現実に引き戻された。
「ははっ、ごめん。驚いた?」
「あぁ、遥ちゃん。びっくりした〜」
遥平も階段を上り、防波堤に上がる。小春の横に腰掛けた。
「どうしたの? 今日、日曜日でしょ」
「うん……。海が見たくて」
昨日の雨をまだ引きずっているかの様な曇り空の下、それでも時々差す日差しに、波が輝いていた。
「小春ちゃん、昨日……」
遥平はそこまで言って、ふと気が付いた。昨日、キスをしたのは夢だったのだろうか……。そういえば僕、どうやってホテルまで帰ってきたのだろう。
「遥ちゃん、思った通り手が早い……ふふっ」
小春がそう笑ったので、慌てて顔を2度見した。
「あれは、夢じゃなかった?」
「あれ?」
「僕、小春ちゃんにキスした?」
「……うん」
小春が少し俯いて、顔を赤くしている。その横顔に、遥平は愛おしさと切なさが交差した。
「あの時……」
「うん……」
「小春ちゃんの小さい時の思い出が、一緒に流れ込んできた……」
「えっ……」
驚いた顔を上げ、遥平を見つめてくる。明らかに動揺したように、瞳の奥が小さく揺らいでいる。しばらく見つめ合って、遥平は海に目を移した。
「かず子ちゃんの時の思い出……」
隣で、小春が息をのんでいるのが分かった。
「小春ちゃん、辛くない?」
「……」
「今はもう、大丈夫なの?」
小春の目にみるみる涙が溜まってきて、溢れるかと思った瞬間、こちらに向けていた顔を正面に戻して伏せた。サイドの髪がフワリと前に落ちて、小春の表情を隠してしまう。
「変……でしょ……」
「変?」
「……みんなが見えないものが、……見えるって」
「そんな風に、言われてきたの?」
「……」
「僕は、変なんて思わないよ。そんな人も、いるんだなって……」
「私のこと……、怖くない?」
「僕が見えるわけじゃないんだから、怖くない。それより、小春ちゃんは怖くないの? もう、慣れたの?」
「……」
「怖いよね……。きっと、あのままなんだよね、色んな事……」
「……」
「自分の見ている世界が人と違うなんて、怖いよね」
弾かれるように小春が顔を上げた。遥平の目をじっと見るその顔は、今にも何かに引きずり込まれそうな恐怖の顔なのに、それを繕うような笑顔になった。
「私……、どうせ変わらないなら、楽しく受け止めようって思ってるの。色んな人達がいるから、面白いなぁって見てるんだよ」
「小春ちゃん……。そうやって気持ちを切り替えて生きてる小春ちゃんは、凄いって思うよ。でも、無理しなくていいよ。あれは、怖い。僕は小春ちゃんの気持ちもそのまま体験したから、よく分かる。せめて、僕の前では、怖いなら怖いって言えばいい」
キュッと唇を小さく噛んだと思った途端、その目からポロポロと涙が流れだした。小さな嗚咽と共に、絞り出すように小春の声が続く。
「……やっ……ぱり、突然出てきた……り、後ろから脅さ……れたり、追っかけら……れたり……し……たら、びっくりするし……、怖い……、ははっ……」
笑いながら、指先で止まらない涙を拭いつつ、一生懸命言葉を繋げている。
「もう、分かったから……。笑ってごまかさなくていいから……」
遥平は小春の肩を抱き、更に強く両腕で抱え込んだ。
「小春ちゃん、1人で本当によく頑張ったよ……」
小春は遥平にしがみついた。その胸を借りて、涙を我慢しなかった。遥平は抱いたその手で、そっと背中を擦ってくれた。
2人で一緒に帰るために公園を歩く。
あの後、海を見ながら1時間程話をした。遥平は、小春の日々の生活が、結構大変だと知る。他の人達に見えない「彼ら」は、やはり小春にとっては、見えなければ見えない方がありがたいと思わせる人々なのだと知った。
ほとんどの人は、会話が成立しないという。「彼ら」は、自分の言いたい事だけを言い、ブツブツと繰り返し、人々を驚かせて楽しんでいたりする者もいるらしい。
ごくたまに、「怨」を持った人に出会ってしまった時は、速やかに近くから離れるのだそうだ。「怨」を向ける相手は決まっているらしく、遠く離れれば関係のない者にまで害は及ばない。ただ、近くにいると、あまりのエネルギーの濁りに、体調が悪くなるらしい。
とにかく、どの「彼ら」とも、目を合わせない様にすることが肝心らしい。それでも、突然関わってくる「彼ら」はいつでもどこでも存在して、小春はずっとその「彼ら」と付き合いながら生きてきた。
「楽しく受け止める」と言った通り、遥平にはまるでお笑いのネタの様に話した。驚いたり笑ったり同情したり、遥平は小さな疑問を投げかけつつ、小春の人生の一部を共有した。話を聞いている間、体温がどんどん上がっていくような感覚を覚える。知るだけではなく、少しでも守ってあげたいという、小さな芽生えも自覚する。
あの悲しみの記憶と共に、小春に溢れている生命力の一部を、あのキスで受け取ったのだと分かった。
帰ろうかという頃には、小春の顔も元の様なふんわり笑顔に戻っていた。遥平は小春の手を掴んで歩く。
「あのさ……、変なこと聞くけど……。昨日、僕、どうやって帰った?」
遥平の手に引っ張られるようにのんびり歩いていた小春は、少し笑って遥平の横に並んだ。
「バスに一緒に乗って……、雨にもギリギリ降られなかった」
「……」
てっきり、そんなことを覚えていないのかと訝られるかと思ったが、含みもなく答えが返って来る。つまりそれは、僕が覚えていないだろうと、予測していたということなのか……。
「……でしょ」
ひょっこり、小春が覗き込んでくる。まるで、今の心の疑問を払拭してくれたかの様に同意を求めてくる。遥平は、不思議な気持ちになった。
このまま深く詮索するのはやめよう。小春にとって、大したことではないのだろう。それならば大丈夫だ。今の僕にも、大した問題ではない。……ん? 今の、僕?
あっ……。
ゆっくり止まった遥平が、前方の1点を見つめていた。一緒に歩みを止めた小春は、その視線の先を確認する。
「どうしたの?」
「……いや、何でもない」
そこは、あの交差点だった。今朝、春樹がいた交差点……。
「遥ちゃん、ちゃんと話して」
ぼぅっとしていた遥平の手を引っ張り、小春は強めに要求する。急に、遥平のエネルギーが小さくなった。
「うん……」
そのまま遥平は歩き出した。もう小春の手を繋ぐことはしない。ポツリポツリと今朝の様子を説明し始めた。
全ての説明が終わった時には、その交差点はかなり後ろになっていた。小春は振り向いて慎重にその場所を確認する。遥平は振り向かない。見るのが、……怖い。
「誰も、……いない」
ポツリと声にする。それを聞いて、遥平は改めて胸の奥に痛みを感じた。
「そうか……」
そう言ったきり、遥平は黙り込んでしまった。
「あっ、小春ちゃん会社に行くんじゃなかったね! ごめんっ!」
「ふふっ、いいよ。黙ってついてきたのは私だから」
いつもの癖で、駅の前まで来て遥平は慌てた。日曜日の9時前である。これから小春はどうするのだろう。
「小春ちゃん、このまま出掛けるの?」
「ううん。パンでも買って、帰ろうかと思って。お洗濯日和になりそうだから」
「あっ、そうか。じゃ、このままデートはできないか……」
「ごめんね」
「いいよ。じゃ、また今度。気を付けて帰って。お洗濯、頑張って」
「うん、遥ちゃんも早く着替えてね。風邪ひいちゃう」
「大丈夫。じゃ、また」
「遥ちゃん……」
小春が遥平の腕を引っ張り、そっと唇にキスをした。
「デートの、代わり……」
遥平は少し驚きながらも、途端に昨日の感覚が甦る。あの光の心地良さと、どこかムズ痒いような感触。できれば……、もっと、欲しい……。でも、こんな公道で、朝っぱらから……。
「大丈夫。誰も気にしてない……」
遥平の大人な抑制を取り払うように、小春の小さな声が心を後押しする。その頬に手を添えながら、周りの様子を視線の端で確認すれば、本当に不思議と誰もこちらを気にしていない。隣を歩くデート中のカップルすらも……。
小春ちゃん、見かけによらず大胆だ……。まぁここなら、知った奴もいないか……。遥平はそのまま唇を覆った。
やはり唇を合わせれば、エネルギーが体に満ちてくる。これは、小春の特殊な体質のせいなのか。それとも、単に僕が欲しているからなのか……。
あっ、また……。体が引っ張られ……る……。
小春は、遥平の後を追っていた。昨日の様に、一瞬で見えなくなってしまうかと思ったが、今日は意外にもゆっくりと進んでいく。小春は今日、このために来た。
「場所が近いと、ゆっくりになるってこと……?」
しばらく駅前の大通りを進み、斜め左方向の道に折れていく。
「こっちの方向ってことは……」
駅から歩いて10分程の所にある建物に、遥平は到着した。均等に並んだ窓、高さの違う四角い建物が、狭い敷地にぎっちりと並んでいる。その建物の一番手前の入口に、遥平は入っていった。
「ここか……」
小春は一旦止まって、建物の全貌を確認するように見上げていたが、慌てて遥平の後を追った。