ランチ
麦子が、2日間の講習会から帰ってきた。
小春達が使用しているソフトの新バージョンが発表され、メーカーからライセンスの契約数に準じた人数に対して、無料の講習会が提供される。当社では、その講習を受けるのは新人の役割で、新しい機能を習得し、先輩たちに報告するという形を取っていた。
人に説明をするためには、そのことを十分理解していなければならない。そして、何度も説明することにより、それが確実に身に付いていく。それを体験させるため、新人が講習に行くのだ。まぁ、実際問題として、忙しい先輩達は、講習会なんぞに行っている暇はないのだが……。
「というわけで、今回のバージョンアップはマイナーチェンジに近いとのことです。ただ、クラウドにおけるデータの扱い方に、新機能が付きましたので、当社としては有用なバージョンアップだと思います。1度、テストデータでご確認下さい」
「この機能だけど、ウチが要望出してたのには、まだ足りないんだけど、何か言ってた?」
麦子に松原が質問をする。ソフトメーカーは、長年に渡る得意ユーザーの要望は、極力取り入れようとするが、残念ながらこのソフトはフランス産のため、日本発信の要望を、全て網羅してくれるわけではない。
「あっ、はい。私も担当者の方に確認したんですが、今回はここまでとのことでした。他のユーザーからも上がっている要望の様なので、販売店としても強く要求しているらしいです。今回はすみませんでした、とのことでした」
「だよなぁ。これは、みんな困るもんな。今回もダメってことは、よっぽど難しいんだろうな」
「そうでしょうか!? 直す気がないんですよ、きっと。もう3年も前から言ってるのに」
プンプンと怒りながら、小春は文句を言う。
「まぁまぁ、根岸さんの気持ちもわかるけど、石の上にも何とやらってね」
「松原さんは、気が長すぎるんです!」
「ははっ」
そんなこんなで、報告会が終了する。今日、3つの課に説明したから、麦ちゃんも慣れてきた。なかなか良い報告会でした。
「お疲れ様。講習会、楽しかった?」
「根岸さんに教えてもらったランチのお店、美味しかったです。もっと食べたかった」
「でしょ。あのお店の近くの人達は、幸せよねぇ」
そう話しながら打ち合わせブースから自席に移動する。それを聞いていた松原が、後ろから呆れたように会話に参加した。
「1番の感想が、ランチ? どうなの、それ」
「だって、今回はみーんな男性ばっかりで、一緒にお話しできる人いなかったんですよ。最悪です」
「あら、じゃ、モテたんじゃない? 麦ちゃんなら」
「もう、オタクみたいな人ばっかりで、女の子に声掛けられる人なんて、皆無です! 松原さんみたいな人がいれば、もっと楽しめたんですけどー」
と、口を尖らせる。
「僕も、オタクみたいなもんだよ。毎日毎日、画面とにらめっこでさ」
「じゃ、松原さんは、オタクの特権階級ですね。そんなオタクなら、ウェルカムです!」
「どうも、どうも」
松原は軽くいなしながら、席に戻って仕事を再開する。ちょうど、15時になったので、小春はそのまま、麦子と休憩コーナーに立ち寄った。
「でもね、根岸さん。1つだけ面白い情報、仕入れましたよ」
「何?」
「今回、大下工業さんが来てたんですよ」
「大下?」
「松原さんが、前いた会社ですよ」
「あぁ、そうだったね。確か……、人員削減で自分から辞めたんじゃなかったっけ?」
「それはそんなんですが〜」
「なーに!? 勿体つけないの!」
「松原さん、結婚してたって知ってます?」
「え……っ」
「前の会社で上司の娘さんと結婚して、その後離婚したらしいです。それもあって、会社辞めたって」
「……」
「どうですか〜。なかなか、いい情報でしょ! 私、お手柄です」
ふんっ! と鼻息も荒く、両手を拳に腰のあたりで引いている。そう、だったんだ……。
「これで、ライバルを1歩リードだ!」
「麦ちゃん……、その情報で、何かリードできるの?」
「根岸さん〜、これ以上は企業秘密ですよ。戦略は、教えません! 一応、武士の情けで、ここまではお教えしましたけど」
と、茶目っ気タップリの笑顔で席に戻っていく。
「……麦ちゃんには、かなわないわよぉ」
小さく後ろから声を掛け、小春も席に戻った。どこまで真剣なのか……。でも、彼女はどうやら年の差は気になっていないらしいから、その気になられたら、勝てそうにない……。しかしながら! 残念だけど、麦ちゃん! 松原さんには彼女がいるのよ。これはきっと、朝食を一緒に食べてる私しか知らない情報だろうから、お返しに教えるべきかもしれないなぁ。などと考えながら、マウスに手を置いた。
が、次から次と、頭だけは新しい情報に反応し続ける……。
なんで、離婚なんかしたんだろう。奥さんが、怖い人だったとか? 仕事バリバリで、家庭を疎かにした? それで、レスになっちゃったり……。あっ、実は松原さん、お姑さんがいて、上手くいかなかったのかも……。
いや、舅さんの介護が大変だったのに、姑さんまで介護になって、疲れ果てて奥さん出てっちゃったとか……! ひぇっ、それは大変!
思わず妄想の流れで松原を見てしまった。気の毒そうに見ていたのだろう。こちらの視線に気付かれてしまい、松原が「どうした?」と目で聞いてきて、慌てて小さく首を振って画面に視線を戻す。
私ったら、さっきから、奥さんばっかりが悪い想像してるな……。ひいき目もはなはだしいよね。
離婚なんて、1つの理由とも限らないし、お互いに悪いところがあったに違いないのだ。
は〜っ、何だか、切なくなってきた……。
あと少しで定時の終業時間という頃に、松原が小春の席まで来て、声を掛けた。
「根岸さん、今日、調子悪い? もしキツかったら、定時で帰っていいよ」
「へっ……?」
特に調子が悪いことはない。何だろうと、逆に質問する。
「大丈夫……ですけど……。調子悪そうですか? 私」
「うん。報告会の後から、少しボーっとしてるみたいだったから、熱でもあるのかなって……」
ぅわっ……! バレバレじゃん、私! 恥ずかしい〜。顔に血が上るのが自分でも分かった。
「すみません。ちょっと、考え事してて……。大丈夫です。今日の分の予定は終わらせます。能率悪くて、本当にすみません」
「それならいいけど……。考え事って……、もし僕でいいなら、聞くよ? 心配事?」
今日も休んでいる隣の津々木の椅子に座って、小春の話を本格的に聞こうとする松原に、小春はさすがに狼狽えた。原因は、あなたですからーっ!
「いえ、ホントにどうでもいいことですから。仕事にも関係ないことで……」
「お友達が心配?」
「あっ、いえ。今日は割と元気だったので」
「じゃ……、喧嘩でもした?」
誰と? 小春は小さく首を傾けた。
「彼氏さんと」
「……!」
両瞼の筋肉が、ここ数ヶ月で1番大きく動いたかと思う程、目を大きくして固まる。……いやいやいやいや。
「やだっ、松原さん! 松原さんと違って、彼氏なんていませんよ〜」
小春は笑いながら、大きく片手で松原の肩を叩いてしまった。ビックリするわ、もぉ。
「そう? ホントに何ともないんだね?」
「はいはい、大丈夫です。しっかり気合入れて、残業頑張ります!」
松原はやっと納得したらしく、席を立って自分の席に戻った。
「よしっ……」
松原の小さな独り言は、誰の耳にも届くことはなかった。
残業も無事終わり、松原は大きく伸びをする。
「んーっ」
既に小春や麦子達は先に仕事を終えており、松原はこの課で最後の帰宅者になる。仕事に没頭し始めると、松原の集中力は半端ない。しかも結構長い時間持続させられる。
「まだまだ30代だから、今が1番体力的に頑張れる時だぞー」
と、先日も40代の先輩に言われたばかりだ。言われたところですぐにはピンとこないが、先人たちがこぞってそう言うのだから、きっとそうなのだろう。だからこそ、自分自身の先々のことについても、少し考えることができるようになってきたのだ。やっと、その余裕が出てきたといっても、いいのかもしれない。
「根岸さんも忙しいからな……、どうやって誘えば、無理がないかな」
ここのところ具体的に少しずつ言葉にしてみたりしているのだが、いまいち小春の反応が小さいので、簡単なことで決心が揺らぐ。やはり嫌われてはいないと思うんだけどな……。
そもそも、同期として働き始めて、既に6年目になるのだから、本当にキッカケが難しい。万が一フラれた時の、対処の方法も悩ましい。
課のデスクの範囲の照明を消しながら、「はーっ」と大きく1つ溜息を吐いて、今日の小春の様子を反芻していた。
体調大丈夫なのかな? 無理してなきゃいいんだけど。
……ん? あれっ?
――松原さんと違って、彼氏なんていませんよ〜
急に小春の言葉が蘇ってくる。僕と違って……? えっ、何だその情報……。社交辞令?
「小春ちゃん」
約束の土曜日。パン屋のウィンドウの前で待っていた小春の所に、遥平が軽く手を上げながらやってきた。今日はいつもと違って、ランニングウェアではない。
改めてその姿を眺める。身長は175cmくらいだろうか。やはり松原と似たり寄ったりだ。ただ、さすがに毎日ランニングをしているらしい遥平の方が、身のこなしに機敏性がある。そういえば、遥ちゃんって幾つなんだろう。小春には判断が難しかった。
「お早うございます、遥ちゃん」
「お早う。もう、お早うっていう時間でもないけどね。待った?」
「いえ、さっき来たところです。……スーツですか?」
遥平は、ネクタイこそしていないが、カラーのYシャツにスーツ姿だった。靴だけはランニングシューズを履いている。
「ごめん。着替え、そんなに持って来てないんだ。まさか、デートできるなんて思ってなかったから、ランニングウェアとスェットしか持ってなくて……。ダメなら、ユニクロにでも寄ろうかと思ったんだけど……」
「遥ちゃんがいいなら、全然いいです。カッコいいですね」
「スーツ? 誰でもこんなもんじゃない? まぁ、小春ちゃんが気にならないならよかった。じゃ、行こうか」
遥平は先に立って歩き出す。
「小春ちゃん、何か食べたいものある? 僕、あんまりこの辺り詳しくないから、行きたい店があるなら教えてくれるとありがたい」
「ふふっ、そうだろうと思って、これ!」
小春は、手に持っていた大きめのバッグを少し持ち上げて、遥平に見せる。キャンバス生地の、ショッピングバッグの様な形である。
「何?」
「お弁当です。天気もいいし、作ってきちゃいました」
「えっ、そんな手間掛けさせちゃったの!? 今日は僕がご馳走しようと思ってたのに……」
「あっ、と、じゃあこれは持って帰ります。何が食べたいですか? 遥ちゃんは」
すぐにバッグを引っ込めて、ニッコリ笑った。
「いやいや、それ食べるよ。ごめん、驚いちゃって……」
遥平は一度肩の力を抜いて、改めてという風に小春に向き合う。
「わざわざ、ありがとう。お手製のお弁当なんて久しぶりだから、楽しみだ」
それを聞いて、ホッとしたように笑った小春が、少し前のめりに聞いてくる。
「私、行きたい所があるんです! 付き合ってくれますか?」
「もちろん! どこ?」
ゴーという爆音とともに、白い機体が平衡を保ったまま降りてくる。日に照らされて、時々キラキラと、その鉄の塊が光り輝く。あと少しで着地するというところで、小さく機体が左右に揺れる。
「……っ」「……」
知らず知らずのうちに、2人は一緒に息を詰めた。次の瞬間には、同時に小さく肩を撫で下ろす。無事にジャンボ機は、着陸を果たした様だ。2人顔を見合わせて、同時に笑った。
「ちょっと、ドキッとしたね」
「ほんとに〜」
この人口海岸には、車椅子でも来られるように、木製の廊下の様な道路が敷設されている。ボードウォークというのだが、そこには1ヶ所長いベンチも併設されており、2人はそこに腰掛けて、海の上を降りてくる旅客機を眺めていた。
ここは、城南島海浜公園。羽田空港の隣にあり、飛行機好きには有名な公園である。芝生広場もあり、バーベキューまでできるようになっている。ドッグランもあることから、犬を連れている人も多い。
「ここ、僕来るの初めてだ。小春ちゃん、良く来るの?」
「来たいんですけど、さっきみたいにバスしか通ってないし、私、運転できないから、なかなか1人では来られなくて。大丈夫ですか? こんなところで」
「いいよ、気持ちいいし。飛行機の離着陸を見るのって、飽きない」
「よかったー。でも今日は、離陸は近くで見れなさそうです。残念」
「えっ、どうして?」
「南風運行みたいですので」
「あぁ、風向き?」
「はい」
今日は比較的風も強くない。目の前の海には、漁船や、東京湾を出入りする大型タンカーなども見えている。波もほとんど立っていない。水鳥が、さっきから何羽か、エサを捕りに潜っている。
「ほんと、気持ちいいなー」
遥平が両腕を上げて、伸びをした。
「遥ちゃんの出張は、順調ですか? 今週は忙しかったですか?」
「う……ん。なんか、停滞してて……。ちっとも進まないんだ。出張先だから、勝手が違って、難しい」
「そうですか……。花形の営業さんですか?」
「いや〜、違う。金融系の内勤。ただ、成果が目に見える部署だから、結果が全てでね……」
「結果、ですか。大変そう……」
「なかなか、手応えがなくてね……」
それは……、そうだろな。仕事、行ってるんだ……。
「少し、会社休んじゃえ!」
少し驚いた顔をして、遥平は小春を見た。小春は、いたずらっ子の様な笑顔で、遥平の顔に微笑みかけている。
「いやいや、外資系だからね。そんなことしたら、あっという間に首が飛ぶ。それに、それは社会人としてどうかと……」
「遥ちゃんって、真面目〜」
そう言ったかと思うと、ポンとベンチから立ち上がり、歩き出す。行く先を目で追えば、黄色いボールが転がって来ていた。少し離れたところで遊んでいた子供達の、ボールだ。
「はーい、行くよー」
ボールを取りに、こちらに走って来る女の子に向かって、何度かバウンドしてから届くように、小さく投げ返した。
目に飛び込んで来たものに、すぐ反応するんだな……。のんびり屋さんかと思ってたけど、そうでもないのか。だけど「まじめ」って、やっぱりどこかピントが違う。
小春の様子を眺めながら、最初に抱いた感想を塗り替えていく。
「んっ? 何ですかー?」
言葉にしていないのに、心の声が聞こえたかと可笑しくなった。小春が戻ってくる。
「小春ちゃんって、仕事は? 営業系……じゃ、ないよね」
「ええ、技術系です。パソコン画面に、マウスでカチカチッっていうタイプ」
「そうなんだ……。何だか、驚きだな」
「えー、そうですか? 何だと思いました?」
「う〜ん、カフェの定員さん? 接客」
アゴに手を添えながら、ひと捻りする。特に「何」と想像していたわけではないので、見たままの印象から伝える。
「何ですか、それ〜。凄―く、ピンポイントな想像ですねぇ」
「だって、コーヒー美味しかったし」
「うわーっ、発想が貧困ですよ、遥ちゃん」
笑いながら「あっ、次、来たっ」と、ANAの機体に目を釘付けにしている小春の横顔に、また遥平は目を奪われる。この子のこの生命力は、なんだろうな……。今までこういうの、なかったよなぁ。やはり小春はキラキラと輝いている。特に、エネルギッシュなタイプでもないんだけどな……。
機体の着陸に合せて、こちらに顔が向いたところで、遥平は小春に声を掛けた。
「小春ちゃん……、お腹空いた」
「わっ、ごめんなさい。もう12時半過ぎてるじゃないですか。ここに来ると、ホント、時間が分からなくなっちゃって〜」
ランチバッグから、20cm四方のボックスが3つも出てきた。
「このお弁当箱、何だか久し振りに見るなぁ」
「そうでしょ。これも、実家からパクってきたものです。通気性があるから、私は好きなんですけど、今は使い捨ての紙ボックスが主流ですもんね。私も久しぶりに使いました」
遥平が手に取って見てるのは、プラスチック製の籠状に編まれたクリーム色のサンドウィッチボックスだ。これも昭和レトロな1品である。
「開けていい?」
「はい、どうぞ」
「おっ、うまそ!」
カツサンドに、卵焼きサンド、ツナトーストまである。次の1つには、唐揚げにウィンナーにゴボウとアスパラの牛肉巻き、イカとブロッコリーの炒め物が入っている。どれも1つずつピックが刺してあり、食べやすそうだ。最後の1つには、ポテトサラダとフルーツが入っていた。
「小春ちゃん、今日、何時に起きたの……」
「えへっ、内緒です」
遥平は、そんな小春の顔を見て、呆れたような笑顔になった。そのままそっと、小春の頭に手を置いて、お礼の言葉を口にする。
「ホント、ありがとう。じゃ、早速頂きます」
手を置かれた場所をサスサスしながら、照れたように小春は笑った。
「はい、召し上がれ」
カツサンドに手を伸ばし、パクリと頬張る。少し緊張しながら遥平の顔を見ている小春に向かって、「おいしい!」と告げれば、安心したようにパァッと笑顔が弾けた。小春もツナトーストを頬張る。冷めていても、表面の香ばしさは残っていて美味しい。
「おにぎりにしようかと思ったんだけど、いつも遥ちゃんパン美味しそうに食べてるから」
「うん。どっちも好きだし、これで十分」
「嫌いなもの、なかった?」
「大丈夫。ここに、セロリは入ってないよね」
そういいながら、サラダのバスケットをそっと見ている。
「あははっ、ないですよ。大丈夫」
「んっ、これは?」
サンドウィッチの端に、肉まんを平たくした様なものが入っている。これだけは、手に持てるように、半分紙に包まれている。表面は焦げ目がついていて、遥平はすぐに何だか分かったようだ。
「『お焼き』だ。懐かしー」
「よかった。嫌いじゃなかったんですね」
「おばあちゃんが、たまに作ってくれて。学校から帰ったらお腹減ってるから、旨くて」
「お焼き」は長野県の代表的な郷土料理である。小麦粉やそば粉で作られた皮で、野菜や総菜などを包み、焼いたものだ。長野では、今や専門店なども出店されているが、さすがに東京ではなかなか巡り合わない。
遥平はパクリとかぶり付き、納得の顔をする。そう、これこれ。
「わざわざ、これも作ったの?」
「今はスマホで何でも作り方が分かるから。でも作ったの初めてだから、大丈夫かなぁ」
小さく肩をすぼめて、申し訳なさそうな顔をしている。
「えっ、調べて作ってくれたの……? わざわざ?」
「子供の頃食べた物って、少し記憶が遡って、元気が出るでしょ。大切なんですよ、美味しかったものを思い出すっていうのは……。それに私も、食べて見たかったの。一応試食はしたけど〜、どれどれ……」
「……」
小春は、残りの1個を興味津々で手に取り、口に入れた。「美味しいですねぇ」と嬉しそうに同意を求めてくる。遥平は不思議な気持ちで、そんな様子を眺めた。
トクン、トクンと鼓動が胸を打つ。こんな気持ちも、久し振りな気がする。何もかも記憶の彼方かのようだ。僕、まるで年寄りみたいだな……。自然と言葉になっていた。
「小春ちゃん、彼氏はいないの?」
「うっ……」
唐揚げを口に入れたところで、固まっている。何とか飲み込んで、少し拗ねた顔をした。
「何ですか、突然。タイミング! 口に入れた時に聞かないで下さいよ〜」
と、暖かいお茶を紙コップに注いでいる。遥平の分も入れてくれて、小春は一口流し込んだ。そして諦めたように話し出す。
「私ね、もう6年も片思いしてるんです……」
「へぇ、職場の人?」
「なんで分かりました!?」
「う〜ん、なんとなく……」
「年上なんですけどね、彼は転職組で、入社が同じ年だったから、一応同期で……。でも彼には彼女さんがいるんですよ。LINE返してる時の、優しい顔ったら……。もうねぇ、すっかり諦めてるんです。何ていうか、アイドル化してるっていうか……」
「ファン?」
「そう、そう。でも、同じ職場に『推し』がいるのって、モチベーションが上がってすごくいいんです。分かります?」
「うん。分かるよ」
「だから今は、ありがたい存在っていうか、感謝の対象っていうか」
「ははっ、感謝か」
「……きっと、遥ちゃんの職場にも、私みたいな人、いっぱいいるんじゃないかなぁ」
小春が上目遣いで、遥平の顔を伺った。
「そう? まぁ、誰が誰を好きかなんて、目には見えないから、いるかもね」
「他人事だなぁ。遥ちゃんですよ、『推し』の対象は」
「……何?」
「だからぁ……。会社でモテるでしょ、遥ちゃん」
「えっ、僕?」
「独身だし。指輪してない……。あっ、しない人ですか?」
「いや、独身だよ。でも、そんなにモテないよ……。今、彼女もいないし」
「ほら! やっぱりきっと、遥ちゃんのファン、いっぱいいますよ。ホントにモテない人は、『全然モテない』って言うし、彼女がいないのも、『今』だけでしょ」
横目で見ながら、ドヤ顔でウィンナーを頬張っている小春に、遥平は「ぷっ」と吹き出した。
「小春ちゃんは、言葉遊びが好きだな。あんまり、上げ足取らないの」
人差し指でおでこを突いて、卵焼きサンドに手を伸ばす。不意を突かれた小春は、おでこに手を当てて、少し顔を赤くした。そんな小春を見ながら、遥平も楽しそうに笑う。
「じゃ、告白とかしないの?」
「はい。だって、フラれた時困るでしょ。今の会社辞める訳にいかないし……。昨日もドラマでやってましたけど、高校生って、よくあんな告白できますよねぇ。若いからメンタル復活、早いのかなぁ。フラれても、次の日にまた同じ教室って、地獄だわー」
「『だったわー』じゃないってことは、学生の時も告白しそびれたのかな」
「……」
流し目で、分かっているかの様に微笑む遥平に見つめられ、小春はもう一度固まった。
「図星らしい。ははっ。僕も上げ足、取ってみました」
「うわー、遥ちゃん意地悪だ―」
ポカスカと叩く振りをすれば、遥平は楽しそうに笑って身を避ける。もっと、一杯食べて……、遥ちゃん。
「余らない様に、もっと一杯食べて下さいね」
「うん。手作りは、やっぱり美味しいよ。小春ちゃんも、しっかり食べて。じゃないと……」
また魂が離れる。と口にしそうになって、遥平は慌てて言葉を飲み込んだ。
「じゃないと?」
「……じゃないと、痩せすぎで『推し』の視界にも入らなくなるから。小春ちゃんはもう少し太った方が、もっと可愛くなる」
「もぅっ! どうせ、マッチ棒ですよ。遥ちゃんに話すんじゃなかった」
「ははっ、頑張って。これも美味しいから」
と野菜の肉巻きを口に放り込まれる。遥平は自分も口に入れて、一緒にモグモグと食べた。よかった……。また少し、元気になった。小春は遥平の顔から、空に視線を移した。高い空に雲が流れている。心地の良い、小春日和である。
「少しこのままに、してあげようか……」
食事が終わり、片付けも済んで一息ついていた。気が付いたら、隣で小春がウトウトし始めていた。空になった紙コップを手に、目を閉じたまま動かない。きっと今朝、随分早起きしたに違いない。昨日も仕事で遅かったんだろうから、悪いことをした。
ゆっくり寝顔を眺めながら、遥平はそっとその頭を引き寄せた。自分の肩に乗せて、腕を低いベンチの背で支えた。そのまま、海を眺める。少し、風が出てきたかな、と思ったところで……、小春の魂が宙に浮いた。……まただ。
すぅっとそのまま上に上がる。まるで、悟空やフリーザの飛行の様に、なんの重力も感じずに移動している。もしかしたら鳥山明は、魂のこの動きを、見たことがあるのではないかと思うほど、アニメの動きそのものである。どうやら、着陸態勢の機体と同じ高さで飛んで、真横からそれを眺めているらしい。
「ふっ、ホントに好きなんだな」
もう少し遊ばせてあげたいが、どうやらゆっくりはしていられないらしい。天気が崩れるかもしれない。
遥平は小春を引き戻そうと、隣にいる小春の手首をクッと引いた。
小春が反応しない。あれっ、この間はちゃんと引き寄せることができたんだけどな……。あぁ、そうか。分かれてる時は、魂の方に働き掛けないといけないのか……。かといって、あんなに高いところにいる彼女に声を掛けても、届くかな……。取り敢えず、呼んでみた。
「小春ちゃん」
すると、不思議なことに小春はこちらを振り向いた。小さな声で呼んだのに……。小春の魂が戻ってくる。体に入る瞬間、キラキラした光の粒が周りに散らばった。これ、やっぱり綺麗だ。
君に片思いの彼がいようが、今はどうでもいい。僕のためにこんなに色々してくれた君に、「今」、僕は、触れておきたい。
そっと目を開けた小春は、小さな声で呟いた。
「今……、空飛んでる夢を……」
遥平は小春の頭を、支えていた腕で引き寄せて、そのあごを指で上げる。
「ん、飛んでたからね……」
そのままそっと、口づけた。甘く柔らかい感触……。ほんの小さな接点に、全身の感覚が集中する。その体温に、更に欲求が高まっていく……。
次の瞬間、閉じようとしていた遥平の目に……、光が……映った。
えっ! 体内に入って来る……!? 驚いて、唇を離した。
「小春……ちゃん?」
「……?」
小春は、不思議そうに小さく首を傾けた。
「今、光が……」
驚いて目を見開いている遥平を見て、小春は優しい顔になった。
「……そうなんだ。そうなるんだ……。じゃ、もっと……あげる」
そう言うと、驚いて動かない遥平の頬にそっと手を添えて、今度は小春からもう一度唇を重ねた。
あっ……、今度は本当に間違いなく、暖かい光のようなエネルギーが、体に流れ込んで来る。それはまるで、乾いた体に水が沁み込む様に、遥平の喉を通り、全身に行き渡っていく。全身が熱くなって、……。えっ、何だ!? 体が……、何かに引っ張られ……る……。まだ、もう少し、このまま……。
「遥ちゃん、またね……」
そんな声がしたような気がした。そのまま、遥平の意識はプツリと途絶えた。
完全に目が覚めた小春は、納得したように呟いた。
「引き戻されたんだね……。よかった……」
空を見上げれば、暗い雲が、早いスピードで流れ始めていた。
小春達から少し離れて遊んでいたあの子供達も、怪しくなってきた空模様に、帰り支度を始めていた。上の女の子が、父親に聞く。
「パパ、あのお姉さん、ずっと1人でお弁当食べてたね」
「ん? ホントだ、1人だな。その割には、随分お弁当バッグが大きいけど、大食いなのかな。ギャル曽根みたいに〜」
「パパ、女の人に、失礼だよ。ママ、パパひどいんだよ」
少女は腰に手を当てて、ガハハと笑っている父親のことを、母親に言いつける。いっぱしの正論ではあるが、父親は一向に気にしない。母親もサッと目で確認して、持ってきた荷物を片付け始めた。女の子に同意しながら、手だけはどんどん荷物をまとめていく。
「ほんとよね。あんなに細いんだから、そんなに食べられないでしょ」
「だからだよ。大食いの人って、みんな痩せてるもんな〜。きっと、あの人もそうだよ。間違いない」
「もう、どうでもいいから、早く片付けて。雨振ってくる前に、帰らないと」
「よーし、急げ―」
と子供2人を追い掛ける。キャッキャッ言いながら、レジャーシートを片付け始めた。