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初めての会話

「松原さんの分は、3個でしょ。ふふん」

 翌日、早速小春はパン屋に寄る。松原の為と思うと、ただの買い物がイベントになる。出勤でこんなにワクワクできるなんて、本当に「ありがたい」。

「ついでだから、お昼もパンにしちゃお」

 そう言いながら、昨日とは違う調理パンをトングで挟む。スクランブルエッグにハムに、なんとアスパラまで入っている。それと、これこれ。

「明日のために、ミニクロワッサンも買っちゃお」

 1袋5個入りのミニクロワッサンも、トレイに乗せる。明日は土曜日なので、ブランチに丁度いい。

「ありがとうございました」

 チリンッと音をさせながら、意気揚々と外に出た。


 あれっ……、またいる。

 パン屋のショーウインドーの前で、男性が佇んでいる。昨日も、この人に会った。今日もまた、足を止めて中を見つめながら、何か考えている。

 年齢は松原と同じくらいだろうか。髪は短髪で、長年走っている人に良く見る、硬そうなふくらはぎをしている。ランニングウェアで、少し上気した様子なので、きっとこの前にある公園でランニングを終えた人なのだろう。追い越しながら、昨日の様子と同じなのか、確認するために顔を見た。あぁ、やっぱり……。自然と目が合った……。

「危ないっ!」

 突然、腕をクイッと引っ張られた。その直後、目の前をバイクが通り過ぎていく。顔にバイクが残していった、切り裂かれた短い風を感じた。

「……ッ!」

 息を詰まらせて、小春は立ち尽くした。心臓が、後からバクバク言い出した。

「大丈夫?」

「……ビックリした」

 心配そうに声を掛けられ、1つ息を吐く。動悸が静まるのと並行して、やっと相手の顔を間近で見ることに、意識が向いた。

「あっ、ありがとうございました」

 小春は昨日から気になっているその人に直接触れられ、やはり興味が止められない。こういう人、ホント珍しい……。今まで会ったことない〜。不躾とは思いつつも、更に見つめてしまった。

「クゥ〜」

 と、小さく、その人のお腹が鳴った。

「……」「……」

 一瞬2人は固まって、同時に「ぷっ」と笑い出した。小春の手首を握っていた彼は、その手を離して頭を掻きながら、大笑いし始めた。

「やっ、お恥ずかしい。あんまりいい匂いがしたもので……」

「……」

 白い歯を見せて、屈託なく笑う。その笑顔があまりに爽やかだったので、小春は思わず言葉にしてしまった。

「あの……、食べますか、クロワッサン……。助けて頂いたお礼です」

 驚きつつ戸惑いながらも、彼、遥平は、笑顔で小春に答えた。

「喜んで、頂きます」


 小春が通勤途中であることを話せば、遥平の戻る方向も駅の方だというので、行儀は悪いが「歩きながら頂きますよ」と言ってくれた。これで、松原の朝食に遅れずに済む。小春は、小さく胸を撫でおろしていた。

「君、疲れてる?」

 2個目のミニクロワッサンを食べながら、遥平がそんなことを言う。

「えっ? どうしてですか?」

 魂が分かれてるから……、とも言えず、遥平は言葉を選んだ。

「少し疲れた顔してるから」

「やだっ、顔に出てます? はぁ〜、ダメですねぇ。女も25を超えると……」

 遥平は、くすっと笑いながら、クロワッサンを楽しむ。サクサクとして、バターの香りが香ばしい。

「何だか、久し振りに美味しいものを食べてる気になるよ。……しまったな。さっきの自販機でコーヒー買えばよかった」

「……あの、野菜ジュースで良ければ、どうぞ」

 そう言って、小春はお店で買ったパックジュースを取り出した。

「えっ、いいの? 君の分、なくなっちゃうでしょ」

「大丈夫です。会社に行けば、自販機ありますから。それに、喉渇いてるんじゃ……」

「あっ、そうだった。あんまりパンが美味しいから、忘れてた」

 小春からジュースを受け取って、一気に飲み干す勢いだ。肺活量も大きいらしい。

「はーっ、美味しい。生き返った!」

「……。どれくらい、走ってらっしゃるんですか? ここのコースは」

「2週間位前からかな」

「そうなんですね……。私よくあのパン屋さんに寄るんですけど、あんまりお見掛けしなかったので……」

「そうだよね……。それにしても君、早いね。出勤でしょ?」

「同じ課の1人が、長期休暇になってしまって……。その分も仕事、少し大変なんです」

「それでか……。あんまり、寝てないんじゃない?」

「……えぇ。4〜5時間」

「良くないなぁ。土日に寝溜めしても、ダメなんだよ。……って言っても、事情が事情だから、何ともできないか」

「寝溜め、ダメなんですか?」

「うん。確かに溜まった疲れは取れるけど、今度は体内時計が狂う。寝溜めしたとしても、最悪、いつも起きる2時間後には起きないとね」

「えぇ!? もっと寝てます……」

「ははっ、若いからしょうがないかな」

 笑った顔が、やっぱり爽やかだ。こんなにきちんと意識がしっかりしているのに、どうしてこんな状態になってるんだろう……。知りたい……。

「あの……、そちらも本調子ではないんじゃないですか?」

 遠慮がちに言われ、遥平は一瞬言葉に詰まる。

「……そう、……思う? どうして?」

「少し、足を(かば)って歩いてらっしゃる様に見えたので……」

「ああ、そんなに分かるかな。少し……、ほんの少しなんだけど、右足がね……」

 遥平は立ち止まり、右足の(すね)に手を当てた。自覚は、あるんだ……。小春はそんな遥平を気遣うように、努めて明るく声を掛ける。

「まだもう少しあるので、パン、もっと食べませんか?」

 キョトンとした顔で、遥平は小春を見る。手に持っていた、空になったミニクロワッサンの袋とジュースのパックを、もう一度眺めた。

「ありがとう。美味しかった。もう充分だよ。それより君、良く寝てね。じゃないと、また事故になる。1回10分でも構わないんだよ。何回かに分けて、1日のトータルで考えればいいから。お昼休みにでも、少しでもいいから寝てね」


 駅の前まで一緒に歩いて、遥平と別れた。「ごちそうさま」と手を振って去っていく後ろ姿に、小春はどうしても興味が隠し切れない。

「あの人、大丈夫なのかな……」



「久し振りだな。やっぱりここのクロワッサン、美味しいなぁ」

 松原の笑った顔を見て、小春は胸がホンワカとなる。小春の手には、約束通りの「生姜おにぎり」が乗っている。

「こちらも、美味しいです〜。きゅうりの浅漬けまで、すみません」

「こちらこそ、3つももらっちゃって。しかも1つ新作。メープル?」

「そうです。甘過ぎましたか?」

「いや、朝は脳にカロリー必要だからね。コーヒーと合う。でも、食べ過ぎだな。眠くなりそうだ」

「大丈夫ですって。パンなんて、ギュッて潰したら、こんなんですよ」

 と拳を顔の前に掲げた。それを見て、松原は笑う。

「それは、太る人の言い分だよ。危ない、危ない。我々中年は、腹に来るから気を付けないと」

「松原さんが中年って、課長が聞いたら、マジで怒りますよ。33歳なんて、1番素敵な年齢じゃないですか」

「ははっ、ありがとう。根岸さんとの朝食は、楽しいよ」

 ドキッと胸が鳴る。「根岸さんとの朝食」って〜、色々想像できるワード、ほんとに「ありがたい!」。もう、神だ。拝んでおこう。と心の中で、手を合わせた。


「ところで、津々木君のことだけど」

「あっ、はい」

「異動になるかもしれない。もしまた、正式に診断書が出るようなら、部署を変えた方がいいだろうって、昨日課長から相談された」

「……、そうですか……。残念ですね」

「目の前で倒れられたからね、あれは効く。上も動かざるを得ない」

「そうですよね……。人員の補充は、あるんでしょうか」

「ああ。派遣を探してくれるって。でもまぁ、即戦力は難しいかも……」

「じゃ、5階の設計部門に、数値設定までのお手伝い、お願いするわけには……」

「うん、僕もそう思ってね。いま打診してもらってる。もう少し、頑張れる?」

 松原の言葉に、さすがの小春も即答ができない。ふーっと1つ、大きな溜息を()いた。

「……実は今日、ボーっとしてて、バイクとぶつかりそうになっちゃって……」

「えっ、危ないな。大丈夫だったの?」

「ええ。助けてくれた人がいて、ギリギリ」

「良かったな……。睡眠時間、やっぱりきついよね」

「まぁ……。でもそれは、松原さんも一緒ですよね」

「ん……。僕は元々、どちらかというとショートスリーパーだから、何とかなってるけど」

「へぇ、そうなんですね。羨ましい……」

「ホントに、大丈夫? 根岸さん、弱音言わないから、心配だよ」

「へ……?」

 小春は、割と愚痴を言うタイプだと自分では思っているから、少し驚いた。

「いえいえ、私、そんなに頑張り屋さんでは……」

「頑張り屋さんだよ。見てれば、分かる」

「松原さん……」

 松原に優しい顔で見つめられ、小春は無条件に心がトロトロになる。もぉ、何、これ! 惚れてまうやろ〜! って、もう惚れてますが〜!

「それに、今、根岸さんに休まれたら、もうお手上げだ」

「……」

 急に現実に引き戻され、小春は溢れだしたハートマークを地道に回収した。

「麦ちゃんに簡単な仕事を回してるから、息抜きできないですよねぇ……。あっ、それは私も一緒か。松原さんが1番面倒な仕事、してますもんね。すみません」


 麦ちゃんは、同じ課に昨年入った後輩である。麦子といって、本人からの要望もあり、皆から麦ちゃんと呼ばれていた。まだまだ基礎的な仕事しか分担させていないため、彼女には1番簡単な仕事が回る。次に大変そうなのを小春と津々木と、もう1人熊谷という1年下の男性社員でこなし、ややこしくて経験値がいる仕事は、全部この松原が担当している。

「確かにな……。難しいのばっかりやってると、嫌気もさすからね。サクサクっと簡単に終わる仕事が、恋しくなるよね」

「はぁ、何かこう、パーッと楽しい事、ないですかねぇ」

「皆で飲みに行くにも、こんなに忙しくちゃな……」

 また、松原のスマホが「ピロン」と鳴った。朝の挨拶の時間になったらしい……。

「もぉ〜、いいですよね、松原さんは」

「ん、何が?」

 何がって……。可愛い彼女さんがいてってことですよっ!

「なんでもありませーん」

「……根岸さん、……彼氏はいないの?」

 珍しく、松原がスマホに返信する手を止めて、小春に聞いてくる。無言で恨めしい目で見れば、

「あぁ、こういうこと聞いちゃいけないんだよね。ごめん、ごめん」

 と謝られた。何が悲しいって、幸せそうな顔してLINEを返信している、リア充な片思いのメンズから、いかにも彼氏いなさそうだよねって目で見られるくらい、悲しいことはない……。

「早く、LINE返信した方がいいですよ」

 と、知らず知らずに冷たい口調で返せば、松原は慌ててスマホに気持ちを戻していく。

 あ〜、ホントに何か楽しいことないかな〜。ふと、朝会った不思議な彼の顔が頭をよぎった。


 松原はスタンプを選びながら、小春が給湯室に向かったことを気配で確認する。

「勇気、出したんだけどな……」

 と小さい声で呟いた。


 翌日の土曜日、やっぱり小春は朝寝坊をした。一旦、いつもの時間に目は覚めたのだが、敢えて2度寝と決め込み、9時まで寝てやった。ザマァである。……一体、何に対してのザマァなのか……。

「でも確かに、頭痛いわぁ」

 寝過ぎたことによる頭痛で、これが1番「損した」感が強い頭痛だ。のそのそとキッチンに置いてあったパン屋の袋から、小さい袋を取り出した。

「マズいだろうなぁ。……ま、でも、このまま捨てるのは、もったいないからね」

 パクリと、()()ミニクロワッサンを頬張る。

「やっぱり、味ないわ……」

 それでもモソモソと、食べ続ける。同じく野菜ジュースをコクコクと飲んで、「うー、うっすーい」と漏らした。まぁ、でも……。

「あんなに美味しそうに飲まれちゃ、ね」

 と、改めて遥平の顔を思い出す。久し振りっぽかったから、少しはエネルギー補給できたかな……。

 小春は味のないパンとジュースを食べ終えて、部屋の掃除に取り掛かった。



「あぁ、おはよう」

「おはようございます」

「今日も、クロワッサン?」

「はい。今日も走られたんですね」

 月曜日、小春はやはり今日も朝食をパンと決め、ついでに遥平の様子を確認しておこうと店の前で少し待ってみた。前と全く同じ時間に会うことができて、遥平のランニングは年季が入っているのだと、改めて確認する。小春はパン屋の袋からペットボトルを取り出した。

「はい、どうぞ」

「えっ、いいの?」

「まずは、水分補給して下さい」

「ありがとう。悪いね、貰いっぱなしで」

 小春から受け取ったスポーツドリンクを飲みながら、一緒に駅に向かって歩き出した。

 遥平は一目見て、小春の疲れが随分抜けていることに気が付く。歩いていても、魂が分かれることもない。

「少し疲れが取れたみたいだね。週末、よく寝られた?」

「はい、お陰様で。……どうして分かります?」

「顔色がいい」

 そう言いながら微笑む遥平を、小春は気付かれない様に盗み見た。

 アスファルトに視線を落としながら歩くその姿は、先日と少し印象が違う。顔の精悍さに比例するような、骨格がしっかりとしたエネルギーの持ち主だと感じたのだが、今朝は予想に反して体全体から放たれているそれが小さくなっているように見える。金曜日に別れた時には、随分しっかりしていたのに……。

「そちらは少しお疲れのようですが、ちゃんとお食事、召し上がってます?」

「……」

 驚いた顔をして、遥平が歩みを止めた。

「よく……分かったね……。誰にも、気づかれないのに」

「誰にも?」

「……いや、何でもない。……あんまりお腹が減らなくて」

 食事を、していない……? どういう状況に置かれているのだろう。小春は探る様に遥平の顔を見る。

「少し、座りませんか? すごく急いでます? 遅刻しちゃう?」

「……いや、大丈夫。でも、君は急いでるんでしょ? 早く出勤して、仕事しないといけないんじゃ……」

「大丈夫です。ここで、一緒に朝ごはん食べちゃいます」

「朝ごはん?」

「はい。実はこのパン、私の朝ごはんなんです。いつもは、会社で始業前に食べてるんですけど。……どこか、……座れる場所、ないかな」

 小春はキョロキョロと辺りを見回しながら、朝食場所を探す。

「……あぁ、それなら、あそこ」

 遥平が示した先には、駅前の小さな広場の角に、石造りのベンチがあった。木製の角材が格子に組まれていて、雨は防げないが日差しは何とか遮れる、そんな屋根が掛けられている。

 遥平はいつもランニングをする時、座れる場所を確認しながら走る。ストレッチしたい時とか、靴紐の確認や、単純にしんどい時の為に、座れる場所を習慣の様に目で確認している。小春も毎日の様に使っている駅だが、通ることが少ない方角にあったため、失念していた。

「あっ、そうだった。いいですね、行きましょう!」

 嬉しそうに笑いながら歩き出す小春に、遥平は戸惑いながらも付いて行くことになった。

「ねぇ、気を使ってもらって嬉しいけど、ホントにいいの?」

 到着した小春は、ベンチの上が意外と綺麗なことを確認して、サッと座ってしまった。

「何がですか?」

「だって、これから通勤の人も多くなるし……。恥ずかしくない?」

「恥ずかしいですか?」

「いや、僕は平気だけど……」

「じゃ、平気です。早く、座って」

 小春は右手で、隣の席をトントンとした。膝の上でパンの袋を開ける。サンドウィッチを取り出し、遥平に渡した。

「……ありがとう」

 小春はクロワッサンを手に取る。「いただきます」と小さく言うと、サクリと音を立てながら頬張った。

「のんびり屋さん」という第一印象とはかなり違う小春に、()き立てられるようにここまで来たが、やはりクロワッサンのいい香りが辺りに漂い、遥平も急に空腹を覚えた。

「じゃ、遠慮なく」

 そう告げてサンドウィッチにかぶりつく。山形の食パンの柔らかさと、フワッと鼻に抜けるほのかな小麦の香り……。たっぷり重ねられた薄いハムが、少し香辛料が利いたマヨネーズと薄切りのキュウリと一緒になって咀嚼されていく。まだそれが口の中に残っているのに、次の一口を止められない……。やっとゴクンと飲み込んで、ハーッと息を吐いた。

「……うん、旨い」

 その言葉に小春は笑顔になる。大きめのバッグからステンレスのボトルを取り出して、遥平に手渡した。蓋を開ければコーヒーのいい香りがフワッと鼻孔をくすぐる。その香りに誘われるように、一口流し込んだ。

「ふーっ……」

 ゆっくりと息を吐いて、もう一度噛みしめるように言葉が洩れた。

「ホントに……、美味しい」

 その横顔を見ていた小春は、遥平の目に光が少し戻ってきたことを確認し、胸を撫で下ろした。

「よかったです」

「これ、インスタントじゃないでしょ」

「気が付く……さんは、コーヒーにこだわってる派ですか?」

 「……」のところで、小春が遥平のことを手の平で示したので、遥平は慌てて名乗った。

「僕、田所です。田所遥平といいます。その逆だよ。僕はインスタントしか飲まないから、こんな香り高いのはすぐ分かる。」

「根岸小春です」

「小春さん……。可愛い、名前だね」

「舞妓さんみたいでしょ」

「京都なの?」

「いえ、東京です」

「ははっ、そっか。でも、見た目は京都っぽい……」

 笑いながら遥平は、もう一口コーヒーを飲む。

「……それって、どういう……」

 小春は褒められたのか、そうでないのか分からないまま、クロワッサンの残りを食べきる。手を伸ばし、遥平の手にあるボトルを要求すれは、遥平は慌ててそれを小春に渡した。そのまま小春は躊躇することなくコーヒーを流し込む。見ず知らずの男と、同じボトルの飲み物を共有してしまった小春に、遥平は少し目を見開いた。

「……いや、何となくだけど。でも、どうやら違うらしい」

「?」

「君、天然って言われない?」

「……私は今、失礼なことを言われていますか?」

 キョトンとしながらも真面目に聞かれて、遥平は思わず食べ掛けていた残りのサンドウィッチを口に入れるのを止めた。

「ははっ、面白い。いや、僕としては褒めたつもりです」

「……」

 何となく納得していないらしい小春を横目に、遥平はもうひとしきり笑った。そしてやっとサンドウィッチを食べきり、やっぱり何の躊躇もなく、もう一度渡されたステンレスボトルのコーヒーを飲み干した。その様子を見ていた小春が、何故だかホッと安堵した様子を見せる。

「小春さん、時間はいい?」

「あっ、そろそろ行きますね。元気になって、よかったです」

 そうか、やっぱり僕のために……。

「ごちそう様、美味しかったし、楽しかったよ。ありがとう」

「いいえ」

「じゃ、……また」

「はい。また」

 「また」という言葉が正しいのかどうか遥平は迷ったが、それでもまた会える様な、……会いたい様な、そんな気持ちで選んだ。

 小春は小走りで駅に向かい、すっかり通勤時間で混みだした雑踏に紛れていく。あっという間に見えなくなってしまったが、それでも遥平は、その後ろ姿をずっと見送っていた。



「根岸さーん、今日はお昼何ですか?」

 ランチの時間になり、麦子が小春の所にやってくる。

「今日は、サンドウィッチ」

「え〜、またですか? 最近、パンが多いですね。食堂には行きませんか?」

「うん。ここで食べちゃうわ」

「そっかー。じゃ、しょうがないから、魚定食にしよっかなぁ……」

「ごめんねー」


 我が社の昼休憩は、11時30分からと12時30分からの2交代制になっている。一斉に休憩になってしまうと、食堂が満席で機能しなくなることを避けるための策である。時間はフロアごとに1ヶ月交替で入れ替わり、今月は小春たちのフロアが後半の昼休憩になっている。

 基本的に定食には肉と魚があり、その他にも蕎麦やうどんといった麺類も毎日用意されている。あと、カレーと日替わり丼もある。会社から福利厚生の補助もあり、低価格で飽きない工夫がされている。

 麦子が「しょうがないから」と魚定食にするのは、後半組の一部が、少しフライング気味に休憩を取り始め、肉定食があっという間に無くなってしまうことを言っている。前半組は、さすがに早めに食堂にいると目立つため、フライングはできないのだが、後半組は、まだ前半組が残っている食堂に行くので、割とルーズなスタートになっているのだ。

 ただし、そんなことができるのは、やはり「おじさん組」で、新人同然の麦子ができる技ではない。小春も時々食堂を利用することはあるのだが、ほとんど自席で済ませているため、めったに麦子には付きあってあげられていない。麦子の同期の友達はフロアが違うため、いつも昼食休憩の時間が一緒にならない。可哀想だが、仕方がない。きっと、違う誰かを見つけて、仲間に入れてもらうだろう。


「あれ、今日パン屋に寄ったの?」

 食事を始めた小春に、松原が声を掛けて来た。これから食堂に行くらしい。

「はい」

「朝遅かったから、寄らなかったかと思ってた……」

「あっ、パン屋に寄って、少し寄り道したんです。それで……」

「そうだったんだ。寝坊したのかと思ってた。ははっ」

「お陰様で、土日ゆっくりできたので、睡眠不足も随分解消されました。松原さん、今朝は何でした?」

「きょうは僕もパン。フレンチトースト」

「『プティット・フランス』だ! 久々ですね。美味しかったですか?」

「……今日は根岸さんいなかったから、美味さも半減だったな」

「へっ……」

「やっぱり、1人で食べるより、2人で食べた方が美味しいからさ」

「……そう、ですよね」

 平静を装いながら、小春は小さく息を詰まらせる。うわーっ、何! い、いや、落ち着け! 特別な意味はない……ハズ。一般論、そう、一般論だわ。もぉっ、松原さん、女子の心を翻弄しすぎ〜。これぞ、モテ男のなせる(わざ)ってやつだわ!

「明日は大丈夫そう?」

 えっ……。

「は……い」

「よかった。じゃ、お昼行ってきます」

「行ってらっしゃい……」

 よかった、って……、何、それー! その笑顔はずるい……。はーっ、もう、彼女さんごめんなさい。我らが推しメンは、無意識に女子の心をエグっていきますぅ〜! 小春は両手で顔を覆って、天を仰いだ。


 廊下に出たところで、松原は知った声に呼び止められた。

「あれ、松原、風邪でも引いた?」

 松原と同い年の、3つ隣のグループの三宅である。仕事は同じ流動解析だ。ただ、三宅は新卒で入社しているので、松原の先輩になるのだが、大学時代の顔見知りなので、会社での立場とは別に、同期のような付き合いになっている。予定が合えば、いつもお昼は一緒に食事をしている。

「……いや」

「少し顔赤いけど、大丈夫?」

「根岸さんと……、な」

「おっ、何かあった? 教えろよ」

「……いや、いいよ。ハズイ」

「松原はさ、見かけによらず純情だからなぁ。その顔なら、もっと遊んでてもいいはずなんだけどなぁ」

「……からかうなよ」

「ほーら、また赤くなって。社内の女子が、ヤキモキするはずだ。誰にでも優しいのは、いいことだけどさぁ」

「誰にでもって……。別に、そんなことないと思うけど」

「ほらほら、そういう自覚のなさが、女子をヤキモキさせるわけだ。まぁ根岸さんも、まんざらでもないと思うんだけどなぁ。お前の話を聞いてる限りじゃ、同僚以上の感情がありそうなんだけど。もっと、ガッツリ押してみたら」

「うん……」

「奥手かよ!」

「……」

 バシッと三宅に背中を叩かれ、松原は小さくごちる。

「僕の場合、少し遠慮もある。これでも、頑張った方だ……」

「あぁ、事情が事情だから、遠慮も分かるけど……。何年だっけ? 一緒に働いて」

「6年だよ。逆に、キッカケもムズイしな……」

「まぁ、そうか……。それならさ、いっそ、若い新人に乗り換えるか?」

「あのさぁ、麦ちゃんは、三宅の好みだろ。あんまり、問題起こさないでよ。今メンバー減ると、困るの。津々木君がどうなるか、分からないんだから」

「分かってるよ。別に、近場で間に合わせなくても、俺は間に合ってるから」

「はぁ、相変わらずドヤ顔だなぁ。ま、少し前に進めようとは思ってるよ」

「少しじゃなくて、ガーっと行け!」

「はいはい」

 食堂に到着して、やっぱり魚定食しか残っていない列に2人は並んだ。

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