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15/16

おばあちゃんの言葉

 後ろの広場から、肉を焼いた香ばしい匂いが漂ってくる。昼の11時を過ぎ、そろそろキャンプ場ではバーベキューが始まる時間だ。桜が終わり、藤の花が満開を迎えたゴールデンウイークの中盤、小春は城南島海浜公園の長いベンチに座り、降下してくる飛行機を1人眺めている。


 昨日はいきなり真夏日を迎え、春と梅雨はどこに行ったと、夕方の天気予報の話題を攫っていたので、今日も暑くなるかと心配したが、昨日よりも随分温度は下がり、過ごしやすい天気になった。

 ファミリーやカップルが大勢来ていて、デートや犬の散歩、目の前の人工砂浜では潮干狩りを楽しんでいる人達もいる。今日も半透明の人達はあちこちにいて、小春はその人たちと視線を合わせない様に、ゆったりと休日を楽しんでいた。


 小春はこの4月、部署を異動した。自分から願いを出し、常に人の足りない設計部門に転属になった。新入社員たちと一緒に教育を受け、ゼロから技術を学び直している。

「この音は、ANAだなぁ」

 飛行機の轟音を聞きながら、目は遠くの大型輸送タンカーを見つめていた。霞む様に船影が動いていく。あれは、どの国からやってきたのだろう。はるばる赤道を越え、東の端の小さな国に大量の燃料を運ぶ。人類はいつまで化石燃料に頼らないといけないのだろう……、などと漠然と考えながら、視線はANAに戻って、着陸の無事を見守った。


 あれから松原とは、普通の上司と部下という立場で仕事を続けた。6年もの間片思いをしていた相手である。以前の状態に戻ったと思えば、意外と身の処し方はすぐに思い出すことができた。仕事が忙しいことも、感情をコントロールすることの助けになった。

 しかし、1ヶ月程過ぎた頃、それは、不意に起こった。


 15時の小休憩を終えた小春は、自分の席に戻ろうとしていた。フロアの入り口は松原の後ろ側にあるので、小春は自然に、その背中を視界の中に捉えていた。周りのメンバーは皆、席を外している。

 松原が、机の下の自分のカバンから書類を取り出そうとしていた。その書類に引っ掛かったのか、「カシャッ」と小さな音がして、何かが床に落ちた。それを見た小春は、全身に一瞬に血が巡り、息ができなくなり、歩みが止まった。

 それは、色んな鍵がまとめられているカラビナだった。小さなキーホルダーが付いている。小春とお揃いの「PANDORA」のキーホルダー……。

 動きが止まったのは、小春だけではなかった。松原もそれを拾おうとして、動きが止まる……。しかし、逡巡したのはほんの一瞬で、すぐにそれを拾い上げ机の上に置いた。

 松原はしばらくそれを見つめていたが、小さく1つ嘆息すると、おもむろにカラビナからそのキーホルダーを外し、ゴミ箱に捨てたのだ。

 小春は、息ができなかった。

 あのカラビナは、家の鍵なども付いていたものだったのを、小春は知っている。だから、きっと毎日手に取っていたはずだ。それなのに、今の今までそれを付けたままでいたこと……。けれども、とうとう今、それを外したということ……。そして、その姿を、他の誰でもない自分が見てしまったということ……。全てに、息ができなかった……。

 

 この1ヶ月、苦しかったのは私だけではなかった……。ならば今、私が松原さんのためにできることは、ただ1つ。

 小春は急いで自席に戻り、自分も着けたままにしていたキーホルダーを外し、松原の机の上にそっと置いた。

 驚いた松原は、小春の顔を見上げる。2人の視線は絡み合った。次の瞬間、松原はぐっと奥歯を噛みしめた。小春の瞳から、涙がすぅっと溢れだしてしまったからだ。小春はそのまま廊下に走り出ていった。

 残された松原は、小春が置いていったキーホルダーを1度グッと握り締め、やはりそのままゴミ箱にそっと捨てた。松原もまた、仕事には暫く戻れなかった。


 それからが、小春にとっての本当の地獄だった。松原の席は、どうしても小春の視界の隅に入ってしまう。たったそれだけで、涙が込み上げてきてしまう。今までの1ヶ月、どうやって冷静を保ってきたのか、もう分からない。キーホルダーを捨てられたことで、もう1度、自分も捨てられた様な気持ちになってしまったのかもしれない……。

 小春は必死に考えて、1つの決断をした。


「松原主任、少しご相談があるのですが」

 そう小春から切り出し、打ち合わせ用のスペースで2人になった。

「根岸さん、これ……」

 小春から受け取った書類を見て、松原の顔は困惑しきっている。

「異動をお願いできないでしょうか」


 異動願いは、直属の上司に提出しなければならない。そしてその理由は、今の仕事が気に入らないだとか、人間関係が嫌だからとかではあってはならない。実際はそうであっても、書類上は別の理由を記入する。小春の場合は、

「今の仕事で得た知識を基に、更なるステップアップを図りたい」

 としてある。希望先の部門に異動できるかどうかは、全く分からない。だが、当社の今までの傾向でいけば、異動先の希望が叶うかどうかは別として、異動そのものの願いは受け入れられていた。

 

「設計か……」

「新入社員の配属前が、いいチャンスだと思いまして……」

「6年のキャリアが、無駄になるかもしれない……」

 異動は、思い通りになるとは限らない。むしろ、ならないことの方が多いと言っていい。今とは全く関係のない部署に異動させられる可能性も、大いにある。

「そんなことは、承知の上か……」

 松原が、独り言のように呟いた。小春はここで、1つ気になっていることを口にする。

「ただ、部下が異動願いを提出すると、上司の査定に悪影響が及ぶと聞いたことがあります。それは避けたいのですが……」

「もし、避けられないって言ったら?」

 松原が、挑発的な言葉を口にした。

「異動願いを取り下げる?」

 たとえそうだとしても、取り下げることはない。

「……いいえ」

 松原も、その答えは分かっていた。その程度の覚悟で、小春がこんな行動をするはずはない。

「……大丈夫。僕のことは、気にしなくていい」

「申し訳ありません……」

 お互いに、次の言葉は出てこなかった。松原も気持ちは同じだ。これ以上一緒にいることは、2人に苦しみしかもたらさない。……沈黙が訪れた。


「小春ちゃん」

 松原が、その沈黙を破った。いつぶりだろう……、「小春ちゃん」と呼ばれたのは……。小春は、松原が敢えてそうしたのだと分かる。今からの時間は、上司と部下との時間ではない。

「僕は、君に幸せになってもらいたい」

「……」

「是が非でも、だ。僕にはしてやれなかったことだから……」

「松原さん……」

 胸が、一気に何かに握られたかのように苦しくなる。痛みが、どんどん広がる……。

「これは」

 机の上の異動願いを指差して、松原は小春の目を強く見た。

「それに繋がっていることなんだね?」

 小春は、溢れてくる想いを必死にこらえた。

「はい」

 小春も松原の目を見て、小さく頷いた。それを確認した松原は、ひとつ息を吐いた。

 これで特別な時間は終わる……。もう2度と、「小春ちゃん」とよばれることはないだろう……。

「分かった。僕も設計の課長に、推薦しておくから」

「ありがとうございます」

 無事、4月中旬に小春は設計部門に異動した。


 小春はサンドウィッチを袋から取り出した、今日は、ハムとチーズとレタスが挟まれている。今朝、わざわざパン屋に寄って買ってきた。ステンレスボトルも取り出して、一口コーヒーを口に流し込んだ。

「あの……」

 突然、後ろから声を掛けられた。小春は上半身を後ろに向けながら、その声に応える。

「……はい」

 その途端、時間が(さかのぼ)った……。背の高いその人の、足から順に視線が移り、顔まで到達した時には、懐かしさで時間が止まった。


 そこには、遥平が立っていた。


 病院で会ったのが最後だから、半年以上経っている。髪が伸び、魂だけだった時の遥平の姿に戻っていた。白いTシャツに長袖の白シャツを羽織り、下はジーンズ姿だ。裾を少しクシュクシュとたくし上げてあり、筋肉質な足が覗いている。その右足には、もうギブスはなく、頭のケガも良くなった様子に、小春は心底安心した。

 それが顔に出ていたのだろう。遥平が釣られるように笑顔になった。

「あの、もし知ってたらでいいんですけど、教えて欲しくて……。この飛んでる飛行機、朝からずっと着陸ばっかりで、離陸は近くでは見られないんですかね?」

 轟音と共に、また1機着陸態勢で入ってきた。2人一緒に、その機影を見送った。

「……今日は無理かもしれません。南風運行みたいですので」

「あぁ、風向きですか?」

「はい」

「なるほどなぁ。……お詳しいんですね、飛行機」

「詳しいという訳でも……。見るのが好きなだけです」

 そう笑う小春の、一瞬浮かんだ寂しそうな顔に、遥平は少し興味が湧いた。

「あの……、お隣、空いてます?」

 ベンチの小春の横を指して、遥平が笑う。

「あぁ、はい……」

 その返事を聞いて、遥平は芝生から50センチ程ある段差を、ひょいっと飛び降りた。足は、大丈夫なのか……。

「もう、大丈夫なんですか? そんなことしても……」

 心配そうに小春は遥平の右足を見る。

「えっ……?」

 小春は不思議な顔で立ち止まった遥平を見て、ハタと気が付いた。マズい、マズい……。遥ちゃんは忘れてるんだったな、私の事……。

「いえ、何でもありません。……どうぞ」

 遥平は少し戸惑いを残したまま、隣に座った。

「あの……、僕、あなたに会ったことがありますか?」

 不審そうに、顔をまじまじと見つめられる。本当のことを言うわけにもいかず、小春はなんとか否定した。

「……いいえ。私は、覚えていませんが……」

「そう、ですか……」

 まだ訝しそうな顔をしているので、小春は全力でごまかしに掛かる。

「古い、ですよ」

「え?」

「『会ったことありますか?』って、言い回し」

 ジョークと取ってくれるだろうか。遥ちゃんは、こう見えて意外とやり返すタイプだ。

「あ……。ははっ。ホントですね。古いナンパ文句だな」

 小春はニッコリと笑う。はっきりと声を聞くのも、初めてだ。やはり、声も実物の方が断然伝わりやすい。こんなにイケボだったのね。

「いや実は僕、事故で頭を怪我して、記憶が飛んでる期間があるんです。もしその時にお会いしていたなら、失礼になるかと思って」

 そうか……。私の事だけではなく、他にも記憶から消えてしまったことがあるのかもしれない。

「それは、大変でしたね。もう、お怪我は大丈夫なんですか?」

「ええ。すっかり良くなりました。幸い、後遺症もありませんでしたから」

「よかった……」

 話が一区切りする。小春はまた、コーヒーボトルを手に取った。

「さっきから、いい香りがしてますけど、それインスタントじゃないですよね?」

 遥平が7か月前と同じことを聞く。たしか遥ちゃんは、インスタント派だったな……。

「はい。そんなに手間でもないので、ほんの少しの贅沢です」

 やはり、話がそれで終わってしまう。いつも初対面の人には、小春は大抵こんな感じだ。元々社交的な方ではない。初めて遥ちゃんに会った時の方が、特別だった。見たことのない遥平の姿にあんまり興味が湧き過ぎて、色々こちらから話し掛けたっけ……。懐かしい……。


「おーい、田所。そろそろ、食べるぞー」

 背後から男性の声が掛かった。どうやら、遥ちゃんには連れがいるようだ。

「今行く!」

 遥平はスッと立って、小春に笑顔を向けた。

「そこで、バーベキューをやってるんですよ。じゃ、行きますね。教えてくれて、ありがとう」

「いいえ。楽しんでください」

 仲間と合流しながら、「分かった?」「南風運行なんだって。今日は見れないらしい」などと戻っていった。

 小春は、また空を見上げる。残りのサンドウィッチとコーヒーに手を付けた。遥ちゃんと会ってからすぐだったなぁ。松原さんに子供がいるって分かったのは……。


 小春は最近、祖母のことをよく思い出す。


 ――よく我慢したね。おりこうさんだったね。もう大丈夫


 かず子の事件以来、小春は事あるごとに祖母を頼るようになった。祖母にだけは、他の人には見えない人が見えるのだと告白し、相談や愚痴に付き合ってもらった。祖母は別段小春を疑う事もなく、かといって、それほど怖がるわけでもなく、ただ静かに小春の人生を見守ってくれた。

「難儀なことだねぇ」

 と祖母が言ってくれるだけで、何だか小春は心が救われた。共感してもらえる、唯一の人だった。その祖母が、よく小春に言って聞かせた言葉がある。

「小春ちゃん、人生は自分でどうにかできることなんて、本当に少ないんだよ。大抵は、どうしようもできないことばっかりだからね。頑張って、無理して、努力を重ねても、『縁』のない物事は、思う様には行かない。だから、そういう時は、任せちゃうのがいいの」

「何に任せるの?」

「自然の流れに」

「自然の流れ?」

「そう。そうした方が、よっぽど早く願いは叶うんだよ。あれこれ自分で考えて作戦を練った所で、ダメなものはダメなのよ。流れに身を任せなさい」


 松原とのことは、祖母に言わせれば、「縁」のない物事だったのだろう。

 彼女がいると勘違いしたことから始まり、子供の存在に、大下工業の倒産。そして、元嫁の再婚。全て、小春がどうにかできることではなかったし、松原も必死に考えて動いてくれたけれど、結局「ダメなもの」だったのだと、やっと受け入れることができるようになった。

 とはいえ、そう簡単に忘れられるものでもない。未だにこうやって思い出しているのだから、まだまだ自然の流れに身を任せられてないんだろうなぁ……と、小春は自嘲している。


 15時頃、遥平が小春の元にやって来た。

「よかった、まだいて……」

 ん? 今度はなんだろう……。少し眠気に襲われていた小春は、目が覚める。

「コーヒー淹れたんです。よかったら、一緒に飲みませんか?」

「えっ……。いえ、私はいいです。皆さんで、どうぞ……」

「そう言わずに、是非来てください。美味しいですから!」

「えっ、でも……」

「さあ、さあ!」

 小春の肘を掴んで、結構強引に引っ張り上げる。確かに遥ちゃんは、積極的なタイプだったけど……。半ば引きずられる様に、キャンプ場に連れて行かれた。


 キャンプ場には、遥平の他に男性1人、女性3人がいた。まるで合コン状態である。小春の1番苦手な集まりだ。すぐに腰が引けた。

「やっぱり、おじゃまだと思うので、遠慮しておきます」

「そう言わずに、どうぞ! 田所のコーヒーは、美味いんですよ」

 もう1人の男性が、そう言って小春を引き入れる。この男性もイケメンの部類である。背は遥平より少し低いが、その分ガタイがいい。肩幅が広い。きっと、モテるに違いない。今日は、麦わらのテンガロンハットを被っているが、子供っぽくならず、気取った感じにもなっていない。ワイルドさが増して、遥平とは違った魅力を放っている。2人が並べば、最強コンビの様な気がする。

 一方、女性陣の顔を確認すれば、皆、綺麗な人ばかりだ。身長は、1人小さい人がいるが、後の2人は小春と同じくらいと思われる。どちらにしても、3人共小春の様子を()()している感、満載だ。ごめんなさい、邪魔ですよねぇ……。すぐに、失礼しますので……。

「じゃ、コーヒーだけ……」

 それを聞いて遥平が笑顔になった。小春がなぜ強硬に遠慮しなかったかと言うと、テーブルの上にはサイフォンが乗っていたからだ。

「わざわざサイフォン、持ってらっしゃったんですね」

「すごいでしょ。こいつ、少し前からコーヒーにこだわり始めましてね。会社でも、今まで散々飲んでた缶コーヒーを、マズいとか言い出して」

「マズいだろ、実際」

 遥平がカップに注ぎ分けながら、自分は間違ってないと主張した。芳醇な香りが、辺り一面に広がった。

「久し振りに、こんな良いコーヒー頂きます」

「へぇ、香りだけで分かるんですか?」

 テンガロンハットの男性が、少し感心する。

「これは有名ですから……。ブルーマウンテンですよね」

「そうです!」

 遥平は、満面の笑みになった。その様子に、女性陣が目配せし合ったのを目の端で捉える。やっぱり、誰かが遥ちゃんの彼女なのか、狙っているかなのだろう。気を付けないと……。

「家に色んな種類が沢山あるので、消費するのをみんなに手伝ってもらってるんですよ」

「沢山、ですか? でも、開封しなければ酸化しないんじゃ……」

「全部開封してあるもんですから」

 遥平の返事に、小春は少し驚いた。何で全部開封なんかしちゃったんだろ。贅沢だなぁ……。

「……じゃ、早く飲まないと、もったいないですね」

「ええ」

 皆にコーヒーが行き渡ったところで、「頂きます」と一口飲む。やはり、鼻からいい香りが抜けていく。しかも、多分、水も水道水ではない。雑味がない。

「おいしい……。水まで、こだわってますか?」

「分かります? うれしいなぁ」

 1番端の女性が、ピクリと反応した。……ひぇっ、また女性陣をザワつかせてしまった。マズい、マズい……。

 テンガロンハットが1口飲んだところで、ニヤリと笑う。

「こいつね、あるコーヒーを探してるんですよ。それを見つけるために、豆を買い漁ってるんです。まぁ、お陰で、僕らは美味しいコーヒーを頂けるんですけどね」

「あるコーヒー?」

 小春が尋ねれば、遥平は静かに答えた。

「甘い香りがするコーヒーなんです。酸味はそれ程なくて、苦みが程よくあって、まろやかだった。ブレンドかもしれない……」

「分からんでしょう? 宝探しみたいなもんだって僕らは笑ってるんですよ。お前、もういい加減、諦めろ」

 遥平は「うるせぇ」と口を尖らせる。

「私達も主任に何度か差し入れしたんですけど、どうやら違ったらしくて。スタバとかコンビニとかでもないんですよねぇ……」

 やっと女性陣が参加する。「主任」と呼んだということは、会社の仲間か……。皆が知っている話なのね。

「ま、きっと見つかるよ。まだ、始めたばっかりみたいなもんだ」

 遥平はさらりと聞き流して、ブルーマウンテンを堪能している。

「どこで飲まれたものなんですか?」

「……怪我して入院していた時に、頂いたんです。誰に貰ったのか、分からなくて……。看護師さん達にも、散々聞いたんですけどね……」

 小春は目を見張る。思いもしない話に、動きが止まった。それって……。いや、決め付けるにはまだ早い……。

「記憶が飛んでるって言ってらっしゃった頃ですか?」

「はい。術後目覚めて、初めて口にしたものだったんです。本当に、美味しかった……」

「……」

 小春は胸の奥が温かくなるのを、久し振りに感じていた。松原と別れた後、はじめて感じる温かさだ。そうか……。あれが、初めてだったんだ。

「誰かに飲ませてもらったらしくてね。コーヒー探してるっていうより、その飲ませてくれた『コーヒーの君』を探してるんだろ〜?」

「だから、そうじゃないって……」

 テンガロンハットにからかわれて、照れたように笑った遥平の顔を見た途端、女性陣が嫌そうな顔をした。確かに、「推し」のこんな話、聞きたくないよね……。

「美味しいコーヒーは、ホントに記憶に残るから……」

「そうだぞ!」

 遥平は小春の言葉に相槌を打つ。小春も純粋にそうだろうと思った。

 あの時の様子を考えれば、やはり記憶に残っているのは私のことではないだろう。体から抜け出してまで、コーヒーを飲みたいと伝えに来たくらいなのだから、心から美味しいと感じたのだと思う。だから、変なことでこういった美しい人達の機嫌を損ねるものではない。……やっぱり、コーヒー飲んだらとっとと帰ろう。


「そういえば、これ食べませんか? 余りものですけど」

 遥平が白く丸いものをお皿に乗せて差し出した。表面に焼き目が付いている。

「あら、懐かしい……。『お焼き』ですね。皆さんは、食べられたんですか?」

 女性陣に向かって小春は問う。余りものと遥平は言うが、実は遠慮の塊かも知れない。

「いえ、お肉でお腹一杯で……」

 と1人が言えば、他の2人も小さく首を振っていた。美味しいのに……。

「というわけで、余りものです。よければ温めますよ」

 遥平が残り火の上に網を置く。私が作ったのと、どう違うんだろう……。小春は興味が湧いた。

「じゃ、遠慮なくいただきます。野沢菜ですか?」

「そう、定番をね。……懐かしいって言ったけど、もしかして地元?」

「あっ、いえ、私は東京なので。以前、1度だけ作ったことがあるんです。他の人が作った『お焼き』はどういう味なのかなって」

 それに少し驚いたのは、遥平である。

「作ったって、自分で? すごいな」

「今は、どんなレシピもスマホで探せますから」

 懐かしそうに笑う小春に、テンガロンハットの男性が割って入る。

「こいつ、面白いんですよ。この公園では『お焼きだ!』って言って、わざわざ専門店で買って来たんですよ。どんな繋がり? って聞いたんですけどね……」

 そう暴露する。小春は、やはり驚いて動きが止まった。

「だから、何となくだよ、何となく!」

 遥平が、バツが悪そうに笑った。

「主任にしては、珍しいですよね。何となくって……。いつももっと、理路整然としてるのに」

 先程、ピクリと反応した小さい彼女が会話に混ざる。小春は、また胸のあたりが温かくなった。

 自分の意識下にはなくても、どうやらちゃんと感覚として記憶に残っているらしい。人とは、そうした生き物なのかもしれない。「何となく」という感覚は、本当はとても大事なのかもしれない。

「しかし、それの中身、野沢菜なんだ。肉まんかと思ってた」

 テンガロンハットが横から興味を示した。

「ついでに、お前も食べろよ。よし、僕ももう1個食べよ。3つ温める」

「じゃあ、私も……」

 首を振っていた女性の1人が言えば、他の2人も当然参加する。

「主任、3人で分けますから、1つお願いします」

 結局4つ温めることになり、遥平は満足そうだった。


 さて、そろそろ、コーヒーの正解を教えてあげよう……。いつまでも「コーヒーの君」に気が向いていては、女性陣もいい気はしないだろう。

「コーヒーは、どのあたりを試されましたか? 甘いなら、グァテマラとか?」

「それも試したんですが、違ってて……。ブラジルとか、コロンビアとか、あと、モカも試しました。もちろん、キリマンジャロも」

 う〜ん、惜しい……。

「……ハワイ産は?」

「えっ、まだ試してない。ハワイですか? 有名なの?」

「生産量が少ないから、ブルーマウンテンの様には有名ではないんですけど、世界3大コーヒーの1つと言われています。最近、ハワイのお土産でチョコ以外のものでは、『コナコーヒー』ってよく聞きませんか。トロピカルフルーツのような甘い香りが特徴なんですよ」

「トロピカルフルーツ……。そう言われてみれば」

 遥平はアゴに指を添えて、考える風情になる。よく、覚えていること。大したものだと小春は感心した。

「どうせ試されるなら、『エクストラファンシー』という最上級のグレードがお勧めですよ。間違っていたとしても、皆さんが喜ばれます」

「そりゃいいや。田所、それにしろ」

 テンガロンハットがハッパをかける。

「あっ、うん……。試してみる……」

 真面目な顔で遥平が答えたところで、香ばしい香りが網の上から立ち上る。早速皆で食べ始めた。

「どうですか?」

 遥平に問われて、小春は笑顔になった。

「美味しいですね。私が作ったのとは、レベルが違います。申し訳なかったなぁ……」

「あれ? その口振りだと、誰かのために作ったんですか? 彼氏さん?」

 何気なく口をついて出た言葉に、すぐさま問われて小春は慌てる。思わず、遥平の顔を見つめてしまった。

「え……」

 見られた遥平の方が驚いた。あぁ、もう、ややこしい!

「あっ、いえ、家族です。おばあちゃんに……」

「そうなんですねぇ」

 女性陣も「以外に美味しい」などと、誉めてるんだか、けなしてるんだか分からない感想を言い合い、皆完食した。丁度良い頃合いである。そろそろ、小春がお暇(いとま)する時間だろう。何か、お礼を……。そうだ!

「本当にごちそうさまでした。そろそろ、私は帰ります。皆さんは、まだいらっしゃるんですよね?」

「ええ、もう少し」

「ここ、夜景が綺麗なんですよ。夕焼けもお勧めです。天気がいいから、きっと今日は良い写真が撮れるんじゃないかな」

 女性陣にそう話し掛ければ、彼女達は喜んだ。映える写真は、何枚あってもいい。

「あぁ、そうか。ドッグランの方ですね」

「ええ。レインボーブリッジもスカイツリーも見えます」

 遥平の言葉に返事をしながら、小春は椅子から立ち上がる。パン屋の袋から、ミニクロワッサン5個入りの袋を取り出して、テーブルの上に置いた。

「色々ご馳走になってしまって、ありがとうございました。これ、良かったら皆さんでどうぞ。日暮れまでには、まだ時間もありますので……」

「あら、美味しそう」

 と女性の1人が袋を確認しようと手を伸ばしたところで、遥平が惹きつけられるようにその袋を手に取ってしまった。そのまま、じっと見つめている。あぁ、そういえば最初に会った時、遥ちゃんこれペロッと平らげたんだっけ……。ふふっ。じゃ、今度こそ本物を召し上がれ……。

「じゃあ皆さん、失礼致します。ご馳走様でした。とても楽しかったです。ありがとうございました」

 その声に、遥平が我に返る。

「名前、聞いたのか?」

 遥平にだけ聞こえるような小さい声で、テンガロンハットが遥平の腕を小突いた。慌てたようにスマホを手に、もう歩き出していた小春に声を掛ける。

「あのー、君、名前は……?」

 小春は振り向いて、笑顔でゆっくり頭を下げた。何も答えることなく、そのまま公園出口に向かって行ってしまった。

「いいのか、追いかけなくて」

「ああ……。写真は撮ったから……」

 振り向いた瞬間、遥平は写真を撮った。何故だか分からないが、今1番必要なことの様に感じたから……。

「ちゃっかりしてるんだか、してないんだか。写真だけでいいのかよ〜」

 テンガロンハットに小さく笑われながら、遥平は考える。まずは、確認したい。あれも、これも……。

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