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父親

「気を付けるんだぞ」

「……」

 いつもの様に芽衣と駅で別れる。松原が声を掛けても、芽衣は無視して自分の乗る電車のホームに向かって行ってしまった。

「ふぅ……」

 松原は溜息を吐きながら、自分も通勤の人混みの中に埋もれていく。芽衣が来てから2ヶ月以上が経ったが、やはりピークの満員電車は、いつまでも慣れることができない。


 あの日以来、芽衣は必要最低限しか話さなくなった。松原が何気ない日常会話をしようとしても、無視を決め込んでめったに返事をしない。「ちゃんと返事して」とか「挨拶だけはしなさい」とか、注意はしているのだが、機嫌が悪くなった理由が分かっているだけに、強く叱ることができない。10歳の女の子というのは、こんなに強情なのかと驚いている。


「おはようございます」

「おはよう」

 今日も小春は明るく挨拶をくれる。あの後、小春と顔を合わせた時、安易に自分の部屋を使ったことを、真剣に謝った。

「大丈夫です。それより、芽衣ちゃんの方は大丈夫ですか?」

 そんな風に言ってくれて、ホッとした。なのに、明らかに小春の態度が変わった。薄い壁が1枚、2人の間にあるかのような距離感になった。夜のLINEも、万が一芽衣の目に留まることがあるかもしれないから、できるだけ控えよう、と言われてしまい、会社で会う以外、ほとんど連絡が取れなくなってしまっている。

 

「根岸さん、次のシリーズ、日程が2日早くなった。大丈夫そう?」

 松原が自分の席から、小春に声を掛ける。すぐに進捗状況を確認して、返事をくれようとするのだが、一瞬、本当にコンマ何秒かの一瞬、言葉に詰まるかのように返事が止まるのだ。そんなことが、何度も何度も続いている。

「根岸さん?」

「……あっ、すみません。今の予定だと、3部品完全にオーバーフローします」

「津々木君のシリーズを一旦止めて、先に根岸さんの分を終わらせて。機械の修理が予定より早く終わったらしい。現場が、口開けて待ってる」

「分かりました」

 津々木も自分の席で返事をすれば、「よろしくお願いします」と小春は資料を手渡している。松原も、主任になってからスケジュール管理などの仕事が増え、前にも増して忙しくなっているので、会社での小春の様子に、細かく気を配っていられなかった。会社で会っていても、やはりそれは、会っていることにはならないのだ。

 先に退社した松原が、迷った挙句、夜、小春にLINEをした。


「仕事終わった?」

「まだ、会社です」

 時間を確認すれば、21時を回っている。

「今日何時頃になる?」

「ラストまでです」

「昨日も10時だったよね。大丈夫?」

「津々木さんもいるので、頑張ります」


 仕事中だという事は分かっている。必死にデータを作っているのだ、無駄な会話はしたくないだろう。それでもだ……。それでも前なら、ほんの一言だけでも気持ちのやりとりがあった。それが、ほとんど見られなくなった。

「小春ちゃん、頼む……」

 スマホを握り締めながら、思わず祈る。後片付けを終えたキッチンで、流しに腰を預けて大きく息を吐いた。



 あの日、クリスマスのイルミネーションで撮った写真に写った、子供の影が何だったのか、小春はやっと気が付いた。あれは、芽衣だ。

 人の感情の中で、1番「念」として飛ばしやすいエネルギーは「怨み」だ。これは、死して尚、人を縛り付けることができるほどの力になり得る。最初に会ったあの日に、芽衣はちゃんと小春を「敵」として、認識していた。


 そしてクリスマス・イブの夜以降、松原の側にはいつも芽衣がいるようになった。もちろん「念」としてだ。いわゆる「生霊」である。それはまるで松原のボディーガードのように、その目的である「松原から小春を遠ざける」という役割を、十分に果たしている。

 でもそれは、芽衣にとって決して幸せなことではない。「恨み」は全て自分に戻ってくる。どんな感情も、人に向けたものは、全て自分に戻ってくる。いい感情も、悪い感情も、全て別の言葉になって自分に戻ってくる。そして、相手を呪縛したつもりが、自分をがんじがらめに追い詰めていくのだ。


 昨日も松原にスケジュールの確認をされた時、やはり芽衣のエネルギーは側にいた。その姿を確認するたびに、小春は息が止まる思いをする。こんなに自分のこと以外にエネルギーを使っていては、小さい芽衣なら間違いなく実生活に支障が出るはずだ。大丈夫なのだろうか……。

「松原主任、少し、いいですか?」

「あっ、うん。どうした?」

「すぐ終わりますから、……LINE」

「……うん」

 お昼休み、最近の松原のルーティンである、パンをかじりながら仕事をする時間に、小春は声を掛けた。近くの席の人達は皆、食堂か外食に出払っている。LINEなら、遠くから見られても2人が会話をしていることはバレないだろう。


「芽衣ちゃん、最近どうですか?」

「まだ機嫌が悪い」

「勉強とか、体調とか、影響ありませんか?」

「実はね、口をきいてもらえない」


「えっ」

 思わず声を出した小春だったが、松原は何食わぬ顔でスマホを触っている。


「勉強は、塾に通ってるから、大丈夫だと思うけど」

「家の中、ギクシャクしちゃってるんですね……」

「まあ、そこは親子だから」


 小春は「ふー」と1つ、溜息を()いた。手が止まってしまったところに、LINEが届く。


「小春ちゃんとのこと、今のままでいい訳がないし、芽衣にはちゃんと説明しようと思ってる」


 説明するって言っても……。小春は返信することができない。連投が来た。


「だから、待ってて欲しい」


 スマホの画面を見たまま、小春は険しい顔が緩められなかった。

「小春ちゃん」

 小さいけれど、確かな声音で、松原が小春を呼んだ。思わず顔を上げて、松原を見る。松原が、こちらをじっと見つめていた。

 戸惑いと切実な思いが浮かんでいる目で、小春の返事を待っている。

 そんな顔をしないで……。小春は小さく、頷いた。それを確認した松原は、すぐにスマホを操作する。


「ありがとう」


 画面を確認した小春は、もう1度松原を見る。松原も同じように、小春を見ていた。その目は、安堵したというよりも、まだ不安や焦りを含んでいる。小春は何とか笑みを作って、もう一度小さく頷いた。それを見て、松原もやっと小さく微笑んだ。



「芽衣、今日はちゃんとしててね」

「……」

 今日、芽衣はさくらと一緒に出掛けていた。昨日急にさくらに呼び出されたからだ。


「芽衣に会わせたい人がいるんだけど」

 芽衣はなんとなくそうじゃないかと思っていた。この間、久し振りに会ったママは、何だか「エネルギッシュさくら」状態で、私にフリフリの洋服を買おうとしたし、おじいちゃんにも結構ケンカ腰だった。こういう時は、大抵ママに彼氏がいる。結婚する気、満々なのだ。だから、もう実家に頼らなくてもいいという開放感から、強気になる。

 そして、しばらくするとフラれる。

 まぁ、そんな時の落ち込みは、大抵2〜3日で収まって、また直ぐにおじいちゃん達の言う事を、嫌々ながらでも聞いたりし始める。分かりやすい親で、助かってる。


 さてと、今まではスマホで写真を見せられるくらいだったけど、「会わせたい」なんて言い出したのは初めてだから、どんな人なのか少しは興味が出てきた。どうせママのことだから、操縦しやすくて、そこそこお金のある人を選ぶだろう。怖い人かなぁ。パパって呼ばなきゃ、ダメかなぁ……。嫌だな。


 ――パパなんて、大嫌い!


 パパのことはまだ許してないけど、私のパパは、パパだけ……、だよね……。


「向井さん、芽衣です」

「向井です。はじめまして」

「こんにちは」

 ファミリーレストランではなく、ホテルの中の、オムライスやハンバーグがあるお店で、その人に会った。こんなところで食べるんだから、きっとそこそこお金は持っている人だと思う。でも何か、今までとは違う感じ……。普通の人だ。ママ、こんな人で大丈夫なのかなぁ。

「芽衣さん、小学校は楽しいですか?」

「普通です」

「……、得意な教科は?」

「国語と算数。あと、社会と英語は好きじゃない」

「芽衣、『好きじゃない』じゃなくて、『得意じゃない』って言いなさい」

「……」

 何だかママが、こんなこと言うなんて不思議。なに格好つけてるんだろう。変なの。

「芽衣さんは、お父さん似ですね」

 カチャッと音がして、ママがフォークをお皿に落とした。

「はい。おばあちゃんは、いつもそう言います」

「あっ、でも、目元は私に似てるでしょ」

 ママが慌てたように付け足している。変なの……。

「……そうですね。目元はさくらさんに似ている」

 そう言われて、初めてじっくり目の前の人の顔を見た。何!? じーっとこっち見て。そう言えば今日、会った瞬間、この人、私の顔見てすごく嫌そうな顔したんだよね。別に私、何にも悪い事してないけど! 嫌な感じ! ママ、こんな人がいいの!?

「ママ、トイレどこ?」

「やだ、芽衣。だからさっき聞いたじゃない」

 もう帰りたい。一緒にトイレに行って、ママにそう言おう。

「お店を出て、左の方に行けば、すぐ分かるから、行ってらっしゃい」

 えっ……。ママ一緒に行ってくれないの……。

「早く行かないと、洩れちゃうわよ」

 芽衣は大して行きたくもないトイレに向かった。すぐハンカチを忘れたことを思い出して、Uターンをする。自分のテーブルに近づいたら、ママと相手の人の話し声が聞こえてきた。

「芽衣は……」

 何やら、私のことを話しているらしい。自然に忍び足になって、衝立の陰に隠れた。


「ダメ……、ですか?」

「ええ。私は彼女を愛することはできません。……美しくない」

「そう……ですか……」

 なんか、失礼なこと言ってる。ママったら、なにしょげてるんだろう。怒ってよ!

「でも、あなたを手に入れるためなら、我慢しますよ。いずれ大人になれば、彼女は家を出ていく。私の手元には、あなたが残る。それで十分です」

「本当に!? いいのね!」

「ええ」

 どういうこと……? 何? 芽衣はその場にいてはいけない気がして、そのままそっと後ずさって、トイレに向かった。向かいながら考える。今のって……。


 ママはあの人と、結婚するってこと!?


 私、あの人嫌い。私がヤダッて言ったら、ママは止めてくれるんだろうか……。ダメだ! ママは私のいう事なんか、聞いてくれない。どうしよう……。やだよぉ、どうしよう……。どうしよう……。パパ!


 向井が車で駅まで送ってくれた。芽衣が先に降りて、さくらも降りようとしたら、

「さくらさん」

 と向井が声を掛けた。じっとさくらを見つめるその瞳は、欲望の色を宿している。さくらはその目に、一瞬で体が火照った。

 あれからさくらは、何度も向井とベッドを共にしている。向井は、驚くほどさくらを快楽の渦に巻き込んでいく。自分の快感よりも、さくらの快感を、とことん(むさぼ)りつくす。さくらは、もう、この向井から離れられない。

「芽衣、ここからなら、パパの所に1人で帰れるわね?」

「……うん」

「じゃ、ママもこのまま送ってもらうから」

「分かった……」

 芽衣は、訳が分からない不安に襲われた。2人が乗った車を見送りながら、その不安はどんどん芽衣を呑み込んでいってしまう。


 置いて行かれた……。


 急いで電車に乗って、松原のアパートに向かう。とにかく早く、パパの所に戻らないと!パパの所に戻れば、大丈夫だ。早く、早く……、早く!


「お帰り、芽衣。早かったね」

「パパ!」

 芽衣は、帰ってきていきなり、部屋の掃除をしている松原の腰にしがみついた。

「ん、……どうした? 走って来たのか? ママと喧嘩でもした?」

 背中を擦られて、優しい声を聞いたら、芽衣の気持ちが治まっていく。全身に入っていた力が抜けていくのを確認して、松原は芽衣をゆっくり腰から離した。しゃがんで目を合わせる。

「話してごらん。何があったの?」

 いつも通りの優しい松原の顔を見たら、胸の辺りが温かくなった。やっぱり、パパの所に戻ってきて良かった。……これで、もう、怖くない。

 ホッとしたと同時に、まだ喧嘩していることを急に思い出した芽衣は、むぅっ、と顔が変わる。

「何でもない!」

 そう言い捨てると、さっと松原から離れてソファに座り込む。松原はふっと笑って、溜息を()いた。

「芽衣、掃除が終わったら、ちょっと話があるから、宿題やっちゃえよ」

 そうだった。冬休みの宿題が、あと少し残っている。やばい〜。


「芽衣、宿題終わったなら、パパの話を聞いて」

 そう言うと、松原は芽衣が見ていたTVを消してしまった。

「何すんの。今、見てたのに〜」

「いいから」

 松原がテーブルを挟んで、芽衣の正面に座った。何なの、もぉ〜。

「芽衣がパパのことをまだ怒ってることは分かってる。だから、その話をしたいんだ」

「……その話って?」

「クリスマスの時にいた、女の人の事……」

 急に、芽衣が緊張した顔になった。子供でも大人でも、警戒心を露わにした顔というのは同じなんだなと、松原は変なところで感心する

「芽衣には違うって言ったけど、あの人は、パパの彼女だ」

「……」

「パパは、彼女が好きだから……」

 黙って聞いていた芽衣の目に、突然涙が溢れてきた。

「だから、何だって言うの! 私にも好きになれっていうの! 私はあんな人、大嫌い! あんな……」

「芽衣!」

 松原が、怒鳴った。芽衣はビックリする。滅多に聞かない松原の声に、芽衣の言葉が止まった。

「芽衣が好きになる必要はない。けれど、パパは彼女が好きだから、これからも仲良くしていく。それを、芽衣には知っておいてもらおうと思った」

 何……、何、それ!

「いずれ芽衣は、ママの所に戻る。そうしたら、もう芽衣があの人に会う事もないから、芽衣は気にすることはない。パパが芽衣を好きなことは、ずっと変わらないから」


 ――いずれ大人になれば、彼女は家を出ていく

 ――いずれ芽衣は、ママの所に戻る


 また、私、置いていかれる……。

「みんな……」

 芽衣の体が震え出した。

「みんな、私が邪魔なんだ! 私がいない方がいいんだ!」

「……芽衣……、何言ってるん……」

「もう、おじいちゃんの所にも戻れないのに! 私なんか、死ねばいいって思ってるんでしょ!」

「芽衣。そんなこと思う訳ないだろ。冗談でも、そんなこと言っちゃダメだ!」

「冗談なんかじゃない! パパだって、私がいなきゃ、あの人と結婚するんでしょ! 私が邪魔なんじゃない! もう、やだっ! みんな、みんな、だっ嫌い!」

 大声を上げて泣き出した芽衣を、松原はただ驚いて見ていた。今「パパだって」って言ったな……。どういうことだ。

 もしかして、さくらが再婚をするのか……?


 芽衣の気持ちが落ち着くまで、松原は待った。泣き声が収まった頃、努めて静かに問い掛けた。

「芽衣、ママが結婚するのか?」

「そうだよ……。私、あの人、だっ嫌い!」

「……」

 芽衣は泣きはらした目で松原の顔を見る。その目は真剣だった。

「パパ。私、パパと一緒に暮らしたい。ダメ? パパは、あの人と暮らしたいの?」

「……」

 松原は答えることができなかった。その事に芽衣は驚くことはなかった。まるで予期していたみたいに、黙って寝室に行き、そのまま布団の中に潜り込んでしまった。


 松原は、ワインを開ける。イブの夜、小春と飲もうと、冷蔵庫に入れておいた赤ワイン。冷えすぎていて甘みよりも渋みが強い。それでも気にせずに飲んだ。けれど、いくら飲んでも酔うことができず、諦めて寝室に入る。

 すると、布団で寝ていた芽衣の息遣いが、いつもと違うことに気が付いた。

「芽衣……?」

 慌てておでこを確認すれば、ひどく熱い。松原は驚いて、芽衣に呼び掛ける。

「芽衣、どうした!?」

 芽衣は、ハァハァと荒い息を吐くばかりだ。ワインを飲んだ事を後悔する。慌ててスマホを手に取った。

「タクシーを1台、お願いします! 急いでください!」


 救急病院の医者は風邪だろうと診断をした。座薬を処方され、これで熱は下がるだろうと家に戻った。苦しそうな顔だった芽衣の顔が、朝方には落ち着いた。芽衣の枕元で、一睡もできなかった松原は、スマホを手に取りそのまま電話を掛けた。

「もしもし、信行です……。芽衣のことで、1度会って話がしたい。さくらの都合のいい日を教えてくれ。できれば、すぐに」


「小春ちゃん。明日会えないかな」

 東京に大雪警報が出て、大混乱が起きた週の土曜日、松原からLINEが届いた。

「会いたいけど、芽衣ちゃんは大丈夫ですか?」

「そのことで、話したい」

 何だろう……。小春は少し身構えた。

「分かりました。どこで待ち合わせますか?」

 いつ頃からだったか、松原が疲れた顔を見せるようになった。あぁ、成人の日の連休が過ぎた頃だ。皆で何気ない話をしていて、津々木がそのことを教えてくれた。


「昨日の成人式、雪にならなくて良かったですよねぇ」

 麦子が15時頃、そんな話をしながら、その成人の日に行ったムーミンバレーパークのお土産を配りながら、そんなことを言った。

「着物に雪じゃ、シャレになんないよなぁ」

「見ました? 新成人」

 津々木と熊谷も参加する。

「見たよ。駅でさ、晴れ着姿の娘さんを車で送ってきた父親がいてさ。どうやら彼氏と待ち合わせだったらしくて、車の中から2人を見送る親父さんの姿が、切なかったなぁ。もし俺も娘持ったら、ああなるのかなぁって、ちょっとしんみりした」

「津々木さんは、娘より、まずは彼女ですよね」

「ふんっ。どうせ俺は、ボッチ歴、更新中だよ」

「そう言えば、松原主任も娘さんでしたよね」

 麦子が画面に向かっている松原を、会話の中に誘う。

「あっ、うん」

「じゃ、やっぱり、主任も寂しくなる口ですねぇ」

 小春は、貰ったクッキーを頬張りながら、何て答えるんだろうと松原を見た。すると、松原が少し考える顔になって、そのまま小春の方をじっと見つめてきた。

 ……えっ?

 皆が不審に思う間も無い程の時間だったのだが、小春には十分伝わった。松原は一瞬、とても苦しそうな顔をしたのだ。

 すると松原は席を立った。

「せっかくだから、コーヒー飲みながら頂こうかな」

 そう言って、クッキーを手に自販機の方に歩いて行ってしまう。熊谷が、後ろ姿を目で追いながら話題を続けた。

「あれは、寂しい口ですねぇ」

「そうだよなぁ……。なまじ、一緒に暮らしちゃったから、また離れるのは辛いかもなぁ……」

「そっか……。だから最近、ちょっと疲れてるんですかね」

 熊谷の言葉に、小春は少し驚いた。

「えっ、そうですか?」

「根岸さん、気づいてない? よく、画面見たまま手が止まってる。主任にしては珍しいよ」

「男1人で、子育てとの両立も厳しいよな」

「そうそう。いつまで、娘さんの面倒見るんでしょうね」

 小春は、松原の疲れに気づいていなかったことにショックを覚えた。芽衣の影があることで、松原をじっくり見ることができていなかった。1番大変な時に、何にも力になれないなんて……。せめてLINEで様子を知りたいのだが、もし芽衣の目に触れたらと心配で、必要最小限にしてしまっている。松原さん……。


 松原は待ち合わせのカフェに先に到着していた。窓際の席で、朝の光に包まれている。店内には軽やかなボサノバの音楽が流れていて、松原はぼぅっと外を見つめていた。朝9時、芽衣の影は、そこにはなかった。

「おはようございます。お待たせしてしまって……」

 小春は声を掛けながら、向いの席に座った。松原は小春の顔を追うように見つめたまま、返事をしない。その目は、やはりまた、先日の様な苦しそうな目になった。

「今日は芽衣ちゃん、大丈夫なんですか?」

 小春の言葉に、松原はピクリと反応した。ゆっくりと、普段の顔に戻っていく。

「ああ。荷物を取りに元の家に行ってるから……。朝早くに、悪かったね」

「いいえ。少しでも会えて、嬉しいです」

「……」

 また松原は、言葉を止めて小春を見つめる。やはり苦しそうな顔になった。

「……松原さん、すごく疲れてませんか? 大丈夫ですか?」

 小春は思い切って、テーブルの上に片手だけ乗せられた松原の手に、そっと自分の手を重ねた。少し驚いた松原は、それでもやっと優しい笑顔になって、小春の手を握り直す。そのまま口元まで持っていき、小春の指にそっと口づけた。

「相変わらず、冷たいな」

 そう言うと、もう一度親指で、小春の指をそっと撫でてくれた。小春は少し気持ちが落ち着いたので、ゆっくり手を自分の元に戻した。


 小春は、松原の目を見て待つ。とても大切な話があることは、十分察せられた。  

「芽衣をね……、引き取ることになった」

 意を決したように、松原がはっきりと言葉にした。

「えっ……」

「親権者の変更をして、僕が芽衣を育てる。今、調停が進んでてね、このままいけば変更されると思う」

 小春は、まだ理解ができない。それは、一時的に面倒を見るってことではなく、これからずっとってこと……?

「どうして急に……。大下工業の倒産の影響がまだ……」

「いや、それだけじゃなくてね。さくらが……、元嫁が再婚することになって。もちろん元嫁は、芽衣を連れて再婚するつもりだったんだが、何よりも、芽衣が僕と暮らしたいと望んだ」

「……」

 あぁ、だから、あんなに芽衣ちゃんはパパから離れなかったのか。ずっと、片時も離れなかった。「念」を送り続けていた。「ずっと、そばにいるんだ!」という、心の叫び……。


「だから、もうこれ以上、君とは付き合えない」


 何の言葉も出てこなかった。まっすぐに見つめる松原の目には、迷いがなかった。そこには強い意志と、考え抜かれた結果だと表明されている。小春の心が、一瞬で消え失せる。


「小春ちゃん……」

 気づくと、小春の目から、涙が溢れていた。松原の顔を見たまま、それは流れ続ける。膝にあった手の甲にその涙が落ちて、初めて泣いていることに気づいた。

「泣かないで……」

 松原が、また苦しそうな顔をした。それで、全てが腑に落ちた。先日から何度も見たこの苦しい顔は、小春と別れることを決意した顔なのだと……。

 小春は慌ててハンカチを取り出し、涙を拭う。それでも涙は止まらない。拭っても、拭っても、後から後から溢れてくる。何か、何か言わないと……。

「……別れたく、ない……です……」

「……小春ちゃん」

「私……、私では……、芽衣ちゃんのママには、なれませんか?」

 松原は、奥歯をグッと噛みしめる。強く両目を閉じ、両手で顔を覆った。

 そのまま大きく息を吸ったかと思うと、唇の前で掌を合わせ、大きく1つ息を吐いた。その息は、震えているように聞こえた。

「何度も……、何度も考えた。……君なら、きっとそう言ってくれるんじゃないかって……」

 小春は松原の顔をじっと見つめた。

「でも……、それは、できないんだ。芽衣がそれを、……望んでいない」

 絶望的な気持ちが小春を包み込む。

「……すぐには無理でも」

「……あの子は、……一人っ子だし、元々独占欲が強い。小さい時から、それは本当に変わってない。今回一緒に住んでみて、それがよく分かった。三つ子の魂……」

「百まで……ですか……」

 松原の言う言葉を、小春は横取りする。ふっと笑った松原は、更に続けた。

「それに今回は、元嫁の再婚相手のこともあってね……。自分が彼に受け入れてもらえないと確信したらしい」

「……」

「君とのことを説明した時、『私が邪魔なんでしょ。私なんか、死ねばいいって思ってるんでしょ』って言われて……、初めて芽衣の不安に気が付いた」

「……」

「僕が、居場所にならないといけないんだ。芽衣だけに愛情を注ぐ存在じゃないと、意味がない。他に愛を注ぐ相手がいては、芽衣の不安は取り除けない」

 松原が、やはり真っ直ぐ小春を見て言う。まるで、自分に言い聞かせるかのように、強い声だった。そして、最後に、付け足した。


「僕は、父親だから」


 その言葉に、また小春の涙は溢れた。松原はただ黙って、小春が落ち着くまで、もう声を掛けることはなかった。


 今から芽衣を迎えに、元嫁の家に行くという。近々、芽衣の小学校の近くに、2人で住める部屋を見つけて引っ越すつもりだと教えてくれた。

 一緒にカフェを出ると、スッキリと晴れた空から、冬の冷たくて澄んだ空気が街に注ぎ込まれていた。松原はゆっくりと振り返って、小春を優しく見つめる。

「あの日……、最後まで君を抱かなくて、本当に良かったと思ってる」

 そんなことを言った松原の顔は、どこかスッキリとしていて、それがかえって、これが夢ではなく現実なのだと小春に思い知らせる。松原が苦しんだ時間、小春もこれから苦しめば、やっと小春にとっても受け入れられる現実になるのだろうか……。

「私は今でも、抱いて欲しかったと思ってます」

 松原は予想外だったような顔をして、最後にまた、少し苦しそうな顔になった。

「本当に、君を好きになって、よかった……」

 この言葉がどれ程小春の心に深く打ち込まれても、もう2度と2人を結び付けてはくれない……。

 小春を1人残して行ってしまった松原の後ろ姿は、もう永遠に手の届かない背中になってしまった。

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