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向井俊也

 イブの夜は、本当に参った。警察に被害届を提出し、弁護士にも来てもらった。既に自分達に所有権がないものを、修理するつもりはない。打ち合わせと確認だけでも、時間が掛かることは安易に想定できた。とても泊まれる状態ではなかった。

「芽衣、今日はこのままパパの所に帰った方がいいわね。ママも色々終わらせてから、ホテルに戻るから」

「分かった」

 芽衣は、タクシーを呼んで松原の所に送った。さくらも、結局日付が変わる頃まで実家にはいたが、両親がもういいというのでホテルに戻った。さくらがいたところで、暴漢に立ち向かえるわけではないと言われた。逆に両親をホテルに泊める事も考えたが、登が必要ないというので、そのまま2人は残った。

「ふぁ〜」

 朝9時に起きて、身支度を整える。今日は、向井とのデートの日だ。疲れた顔で行くわけにはいかない。1日も早く、さくらと芽衣の落ち着ける場所を見つけ出さねばならない。真剣にそう考えていた。


「お食事は、外でと思ってましたけど……」

「そうですね。さくらさんは僕が料理をできるなんて、思ってないでしょうから」

「あら、できるんですか?」

「1人暮らしが長いですからね。空腹を満たす程度のことなら、できます」

「それは、素敵ね。理想の旦那様だわ」

「さくらさんにそう言ってもらえるのは、嬉しいな」

 向井とはお昼前に待ち合わせた。昼食をどうするかという話で、自宅でも用意できると言われ、さくらは内心驚いた。

「でも、やっぱり外で済ませませんか?」

「分かりました。じゃ、僕の料理は次にでも……」

 にっこりと笑いながら、一緒に歩き出す。「井口さん」から「さくらさん」に変わっている。次があるかどうかは、これからの向井次第だと、まださくらには余裕があった。


 向井は食べることには、それほどこだわりはないと言う。中学と高校時代、意外にも太っていたらしく、それで女の子には全くモテなかったという。一念発起して、大学生になったと同時にダイエットを始め、無事成功して現在の中肉に至っているらしい。

「お陰で、夕飯を食べない癖になってしまって」

 と笑う。食事をしたとしても、チキンと温野菜程度で、十分だという。さくらはそれを聞いて更に驚いた。

 さくらももちろん常にスタイルの事を考えているので、食事には気を使っている。毎日朝と昼食はしっかり取り、夕食は向井と同じような食事内容だったからだ。なるべく食べない様にしている。イブの日の様に特別な日は、昼食を抜く。

「媚びる様で、あまり言いたくないんですけど、実は私も夕食はあまり取らないんです。1日2食が基本です」

 それを聞いて、向井は弾けるような笑顔になった。

「やっばり、そのスタイルは、努力の賜物なんですね。思った通りだ……」

 そう言うと、やはりさくらを眩しそうに見つめた。


 その視線に、さくらの心臓がまた反応した。なんだろう……、この高揚感に似た感覚……。けれど、これをこのまま受け入れることは、本能が危険だと言っている。

「向井さんは、どんな家庭が理想なんですか?」

「美しいものに囲まれていれば、それだけで十分です」

「この間のお話ですと、お仕事は忙しそうですけど、家でゆっくりできるんですか?」

「以前は残業が、月100時間を超えることがよくあったんですが、今はコンプライアンスを守るために、どんなに忙しくても80時間は超えません。基本は45時間だから、家にいる時間が増えました。その代わり、収入は随分減りましたけどね」

「それは大変ですね。生活のレベルは、そんなに急に変えられないでしょう?」

「元々、それほど贅沢していた訳ではないので。1人でしたし、家のローンもありませんし」

 ローンがない……。じゃ、あの年収でも十分にやっていけるわね。まぁ、贅沢はできないけど、エステくらいは行けるだろうか。

「すごいですね。一括で購入されたんですか?」

「いいえ。あのマンションは、祖父から譲り受けたんです」

「そうなんですね……。じゃ、昇進にもあまり興味はありませんか?」

 随分突っ込んだ質問だが、今の生活で満足するようでは、さくらには物足りない。

「人並みに、ありますよ。男ですから」

 にっこりと笑って、さくらは相槌を打つ。では早速、そのマンションを見せて頂きましょう。

「あの根付、見るの楽しみにしてきました」

「じゃ、行きましょうか? デザートとかは、もういりませんか?」

 ゆっくりと顔を横に振れば、向井は嬉しそうに微笑んだ。


 根付やベネチアングラス、深い青に緑と黄が生える陶器に、白い磁器などの焼き物。本物の野菜かと見間違う様な、彫り物。バッタの細い触覚が埋め込まれた螺鈿細工。どれもこれも、見事な造りのものが、ガラスのコレクションケースに整然と並べられていた。

「綺麗……」

 ため息と共に、何度もその言葉が自然に出てきた。向井は黙って、1つずつ手に取って見せてくれる。床には模様が緻密なセンターラグが敷いてある。さくらはそこに直接正座し、ラグから5センチ以上離さない位置で眺めた。これならば、万が一手から滑っても、割れることはないという高さだ。

「さすがですね。裏千家でしたか?」

「ええ」

 向井が確認するのは、茶道の流派のことを言っている。見るものを10cm以上畳から離さないのは、茶道で道具を拝見するときの作法なのだ。どんな初心者でも身に付けている作法だ。何百年と引き継がれてきた道具を、自分が壊す訳にはいかない。


「本当に、どれも綺麗としか……」

 もう、溜息しか出ない。呆れたように向井の顔を見た。

「分かっていただけて、嬉しいです」

 やはり、満面の笑みで答えた。

「失礼な質問なんですが……」

「どうぞ、何でも?」

「向井さんの収入で、こんな綺麗なものばかり、手に入れられるとは思えないんですが……」

「あぁ、そうですね……」

 向井は、コレクションケースに1つずつ丁寧に収めながら、説明を始めた。

「この間もお話しした通り、この中の何点かは祖父から譲られたものです。もちろん両親にも残されているので、実家にも何点かはありますが。それ以外は、自分で購入しています。資金は、『株』です。大学が、経済の専攻で。その頃から初めました」

「ハイリスクということは、ないんですか? よく分からないけど」

「そういった銘柄には、手を出さないようにしています。ただ……、リーマンショックを運良く逆手に取れましてね。その時に購入したものもいくつかあります」

 「運良く」と言っているが、「運」を手に入れるにも、地道な研究と努力がいることは、さすがのさくらでも知っている。そういう手腕があるなら、このコレクションにも納得がいった。

「でも、株はあくまでも美術品購入のためだけにしているので、他のものに使うつもりはないんです」

 そう言いながら、さくらの目を真っ直ぐに見た。さくらは深く考えることは苦手だが、損得勘定が働いている時の人の気持ちは、何故だか良く理解ができる。だから、向井の意図する真意もすぐに分かって、少し可笑しくなった。

「分かりました。妻のためだとか、生活費のためには使わないって事ですね。ふふっ、大丈夫ですよ。おねだりはしません」

 さくらは、少し困った顔を作ってみせる。

「ただ、美しさを保つためには多少の出費も必要なんですが、エステに行くお小遣いくらいは、許してもらえるのかしら」

 美しさを保つ現実を指摘され、向井は少し狼狽(うろた)えた。

「えぇ、もちろん。それくらいは……」

「ふふっ、よかったわ。安心しました」

 借金さえしてなければ、それでいいのよ。さくらは心の中で軽く突っ込んでおいた。


 コレクションが集めてある部屋から出て、リビングに落ち着いた。ソファやテーブルも、シンプルながらあまり見たことのないデザインのものだ。しかも、その他にはほとんど物がない。TVと空気清浄機と、観葉植物くらいだ。生活感がまるでなかった。

「お家で、お仕事はされないの?」

「仕事を持ち込むのは、好きではないんです」

「こんなに綺麗なお部屋を保つのって、私には無理かも……」

「いや、実は僕も昨日、頑張ったんですよ」

「え……」

 声を出して笑いながら、向井はコーヒーを入れてくれた。インスタントだったことが、さくらをホッとさせた。

「昨日は、仕事だったんですよね」

「ははっ、有給取りました」

「……」

 さくらは、向井が何もかも素直に話してしまうことに驚いた。また子供の様に笑うこの顔が、この人の素顔なのだろうか……。そろそろ、あの質問をしないと……。

「子供のことは、どう考えてますか?」

 この質問には、今までとは違う、少し緊張した顔をした。

「……それは、自然に任せようかと」

「どうしても欲しい訳ではないんですね」

「ええ。むしろ、それは僕が聞きたかった。さくらさんは、どう思ってるんですか?」

「……やっぱり、自然にできればって考えてるわ」

「じゃ、あなたも、どうしても欲しいという訳では、……ない」

 「さくらさん」から「あなた」に変わる。向井の気持ちが、どんどんこちらに向かってくるのを、身動きができない思いで、さくらは受け止める。


 向井がおもむろに立ち上がり、さくらに手を差し伸べた。

「今度は、あなたが見せてくれる番です」

「……」

 断るなら、今だ。と同時に、今こそさくらの「戦い」の火蓋が切られる時でもある。どうする!? さくらは即断した。

「喜んで」

 向井の手を取った。


 向井はさくらを寝室に誘う。3LDKと思われる間取りの1室。通常は6畳辺りだが、意外にも広い。2間が繋げてあるようだ。12畳ぐらいあるように思う。そこに、ダブルベッドが置いてあった。贅沢な仕様に、少し驚く。

「随分広いお部屋……」

 向井はそのベッドサイドに腰を下ろした。

「祖父が、眠りをこよなく愛した人でね。特に晩年は、この部屋で過ごすことが多かった……」

 ドアのところで足を止めたさくらは、向井の目を見ながら、ゆっくりとジャケットを脱ぐ。ノースリーブのシルバー色のドレス。ひざ丈の裾に、控えめなスリットが入っている。

 そして、それとは対照的に、背中は大きくVの字に空いていた。理想的な腰のくびれに、引き締まったお尻。普通の男なら、もうこの時点で背中にかぶり付いてくる。けれど向井は、微動だにしなかった。

 顔だけを後ろに向け、背中のファスナーをゆっくりと下ろす。シルクのスリップが身を包む。いきなり、ブラとショーツになどなったりしない。なんのレースも付いていないこのスリップが、1番スタイルの良さを際立たせてくれる。ドレスを脱ぎながら、正面を向いた。向井の目が、じっとさくらを見つめている。


 決して顔には出さなかったが、向井の目を見た時に、さくらは違和感を覚えた。今までの男性とは違う、その目に……。欲望の欠片もないかのような目をしている。むしろ、少しの苛立ちを感じるかのような目である。

 急にさくらの胸に焦りが出てきた。今までの様にいかない、未知の敵にあったかの様な不安……。何かが、間違っている……?


 ――僕が言っているのは、造形美そのものです


 余計な「シナ」はいらないってことか……。素手で戦えとでもいうのか……。

 さくらはそのままスリップの肩紐に手を掛ける。そこで、向井が声を掛けた。

「さくらさん」

「……」

 何? こんなところで、声掛ける!? しかも、そんな冷静な声で。

「僕は、あなたの全てが見たいんです。余分なプレゼンはいらない」

「……」

 戦意喪失とはこのことだ。分かったわ。そんなに「私」が見たいなら、見せてあげる。

 ヤケを起こした子供の様に、スリップをさっさと床に落とし、綺麗なレースのブラを取る。まるで女子更衣室で着替えをしている気分だ。一体私は、ここで何をしているのだろう……。

「全て……、取ってください」

 さくらは言われるままに、ショーツも脱ぐ。向井の前で、棒立ちになった。


「回って……、くれませんか」

 その場でゆっくりと後ろを向いて、そのまま前に戻る。いつものさくらなら、この「回る」動作1つ取ってみても、それは見事に相手をそそらせる。けれど、さくらはもう、ふてくされていた。20歳前後ならまだしも、33歳にもなれば、棒立ちのあられもない姿では、なんの魅力も生み出せない。

 スリップをまくり上げる時の腰の動き、ブラの外し方、全裸になった時の胸とアンダーの隠し方、そんな全ての道具が揃ってこその、今の私の「美しさ」なのだ。それらを全て否定されて、一体この向井は何を確認したいのだろう。もうこのまま帰ろうか、と考えていた。

 その時、にわかに向井の溜息が洩れた。

「本当に、綺麗だ……」

 全身に、鳥肌が立った。その目は、あの根付や彫刻や陶器を見る時の、情熱を持った目だった。さっきの苛立ちは微塵もない。ただ純粋にさくらを「綺麗だ」と言っている。

「来て」

 向井が手を差し出す。磁石に引き付けられるかのように、真っ直ぐに向井の前に進んだ。


 向井が、さくらの胸にそっと指先で触れる。そのまま、その胸に沿うように指を走らせる。美術品を手で触って、その造形を確認しているかの様に……。

「君は、そのままで十分美しい。僕は、それが欲しいんです。それが全てです。それ以上でも、それ以下でもない。君の美しさは、それだけで十分価値がある」

 指の動きは、止まらない。話しながら、ずっと肌に触れている。とうとう「あなた」から「君」に変わってしまった。けれどさくらは、それが嫌ではなかった。向井が言った言葉が、さくらを満たしていく……。なんの条件もなく、さくらの美しさを欲しいという男。


 小さい時から、「もう少し空気を読め」とか「もっと頭を使え」などと要求され、「ただ綺麗なだけでしょ」とか「顔だけで生きてるわね」とか、まるでそれだけでは生きている価値がないかの様に言われてきた。

 それが今、それ以上でもそれ以下でもなく、さくらのそのままの美しさだけが欲しいという。綺麗に生まれたその事だけで、生きていってもいいと言っている……。

 向井の手の動きに、体が熱を帯びてくる。でもそれは、どうやら一方的にさくらだけに起こっている反応らしい。ここで息を乱してしまっては、最後の交渉には入れない。


「僕は、この家と、僅かな給与しか、君に提供することができない。君を満足されられるかどうか分からない。それでも、僕は君が欲しい」

 さくらは、座った向井の膝に、片足を折って乗せた。

「向井さん、私の条件はあと1つだけ」

 さくらの腰を両の掌で掴み、向井はさくらを冷静な顔で見上げた。

「何ですか?」

「私、10歳の子供がいるの。女の子。一緒に、暮らしてくれる?」

「……」

 ずっとさくらの肌の感触を確認していたその手が、止まる。逡巡している時間、さくらは祈る。どうか、受け入れて……。さくらは、心の声に、自分が1番驚いた。


 えっ、私、この人に受け入れて欲しいんだ……。何!? 全然余裕ないじゃない……。


 向井は少し、覚悟を感じさせる顔をした。

「それで、君が手に入るなら……」

「えっ、いいの?」

 力が抜けたかの様に、向井の膝の上に完全に座ってしまったさくらは、無防備以外の何物でもない。

「僕は、もう1つ君に与えてあげられないものがある」

 今度は、何? 一瞬眉根を寄せて、向井の次の言葉を待った。

「僕は、パイプカットしてる。子供を作る気は、ない」

「えっ、じゃ……」

 芽衣はダメじゃない。言ってることが、違う。

「僕と君の子供という事だよ。君の美しい遺伝子に、僕の凡庸な遺伝子を組み合わせたところで、美しいものなど生まれるはずもない」

 向井が浮かべた微笑みが、寂しそうに見えたのは、私の稚拙な同情のせいだろうか。それとも、小さく始まっている「何物か」のせいなのか……。

「よかったよ。きっとどんな美しい女性でも、子供を欲しがると思ってたから、結婚は諦めてたんだ。でも君は、もうそれを手に入れてるんだね」


 こんな受け止め方を、さくらは初めて体験する。「本当にこんな人で、大丈夫?」という、母としての想いがふと頭を掠める。けれど今は、芽衣のことよりも、自分の事を求めてくれる、さくらの本質である「美しくあること」を欲してくれている向井に、心は大きく引き寄せられていた。

「一度、会わせてくれますか?」

「ええ、もちろん」

 やっと向井が、「美しいもの」を見極めようとする瞳から、20代の様な青年の顔に戻った。その顔に、さくらもいつもの戦闘態勢を取り戻す。

「今日は、私のこと、見るだけ?」

 甘い声で囁けば、向井はいきなりさくらの体をベッドに押し倒す。

「まだ確認していない場所は、いっぱいありますよ。さっきのプレゼンは、とてもいいものでした」

 そう言うと、さくらの全身を自らの全ての五感で味わい尽くしていった。もちろん、「綺麗だ」と、何度も呪文のように唱えながら。

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