目覚め
「息子さんは、回復に向かっています。脳内の新たな出血は今の所見られませんので、もう少し様子を見ましょう」
遥平の担当医は、外来が終わった後、オペの時間の合間に、必ず病室に顔を出してくれる。きっと看護師から報告は受けていると思いながらも、遥平の母は昨日の様子を改めて医師に報告する。
「昨日は、10分程目を覚ましていたんです。ぼぅっとしている感じで……。あの子は、言葉を忘れてしまったのでしょうか、先生」
「損傷を受けた場所が、幸い前頭葉ではなかったので、言葉は戻ると思います。それよりも、まだしっかりと覚醒状態になっていないので、もう少し意識が戻るのを待ちましょう。お母さんも、ちゃんと休んで下さいね。そのための病院ですから」
「はい。ありがとうございます……」
遥平は一旦意識が戻り、ICUから転床することはできたのだが、その後、意識レベルが安定せず、まだはっきりとした覚醒状態に戻らないでいた。遥平の母は、毎日病院に通っている。
今日も、朝9時に病室に着いた。4人部屋の窓側で寝ている遥平のベッドに向かう。
「おはよう」
母が声を掛けると、遥平が細く眼を開け、虚ろに声を出した。
「喉が、乾いた……」
母は驚く。術後、初めて話し掛けられた。
「遥平! 起きたの!? 何か飲みたいのね。ちょっと、待って。看護師さんに確認するから」
パタパタと母はカーテンの外に出て行ってしまった。遥平は視線を、天井から窓に移す。ここは、どこだ……。体を起こそうとしたが、少し動いたところで、右足が固定されているのか自由に動かない。右側の頭も、少し痛い。どうしたんだ、これ……。
「コーヒー、飲みたい……。小春ちゃん……」
また意識がふつりと途切れた。
「お茶を飲ませても大丈夫でしょうか?」
「まずはお水で。ゆっくりと飲ませてあげ……」
母と看護師が、急いで戻ってきた。半分開いたカーテンの中に入る。
「あれ……?」
「寝てますね」
「さっきは、本当に話したんですよ。『喉が渇いたって』」
「……良くなってきている証拠ですから、安心してください。水とかお茶を用意しておきましょうか。『吸い飲み』は、持ってこられてますか?」
「はい」
「じゃ、それで飲ませてみてください。自分で吸えるようでしたら、ストローが付いたコップのほうが便利かもしれません」
「分かりました」
看護師はそのままカーテンから出ようとして、立ち止まる。
「あぁ、お母さん。ナースコール押してくださいね。ナースを探すの手間でしょうから」
「はい。ありがとうございます」
ふぅ、と母は溜息を吐きながら、寝ている遥平の顔を眺めた。
会社の給湯室で麦子と休憩していた小春の元に、松原からラインが入った。
「お昼一緒に食べられるかな」
「大丈夫です。どこにしますか?」
「広助で。場所、分かる?」
「はい」
「時間ギリギリだろうから、先に着いたら「天ぷらそば」頼んどいて」
「分かりました。私が遅かったら、「かけ」お願いします」
「了解」
「広助」は、小さな蕎麦店である。以前、松原から穴場だと教えてもらった店だ。居酒屋が多く入っている雑居ビルの3階にあり、めったに会社の人間には合わないという。小春も1度だけお昼に行ったことがあった。お蕎麦も美味しいし、席も満席になるのだが、確かに知った顔には、誰にも会わなかった。ただし、会社から少し離れているので、1時間で往復するには、急いで食べなければならない。
今朝松原は、始業ギリギリで会社に到着した。もしかしたら、当日有給になるかもしれないと思っていたので、小春はホッとした。
「おはよう」
「おはようございます」
挨拶した時には、いつもと変わらない松原だったが、仕事中、ちょくちょくスマホを確認していた。いつもの集中力でないことは、すぐに分かった。それはそうだろう。芽衣を小学校に通わせないといけないし、小学校が終わった後の問題もある。残業が多い松原にとって、子育てとの両立はとても困難なはずだ。
そんな中でも、私のことまで気に掛けてもらって、ありがたいことこの上ない。とにかくどんな状態なのかだけを教えてもらおうと、小春も気持ちを準備した。
「あっ、こっちです」
結局、小春が先にお店に到着した。5分も違わず、松原が店に入ってきて、やっと目を見て会話ができた。
「昨日、ありがとう」
「いいえ……」
小春は少し不思議に思う。「ごめんね」ではなく「ありがとう」?
「小春ちゃんが彼女じゃないって言ってくれて、芽衣を安心させられた」
「あっ……、そのことでしたか……。芽衣ちゃんは、もう色々わかってるみたいだったから」
「そうなんだな。驚いた……」
小春はひと呼吸おいて、しっかり松原の顔を見た。
「でも、松原さん、『そうだって』言い掛けてくれたから、すごくうれしかったです」
「……小春ちゃん」
思わず見つめ合ってしまい、小春は恥ずかしくなる。丁度タイミングよく、蕎麦が2つ運ばれてきて、急いで食べ始めた。
「今日、元嫁と会うことにしてね。芽衣の学校のこともあるし、僕帰宅が遅くなるから、学校終わった後のこととかも、色々聞かなきゃいけなくて」
「学童保育ですね。今朝は、通学どうされたんですか?」
「車で送った。その後、近くの駅に車を預けて来たよ」
「駐車代金、大変ですね」
「そうなんだ。それも、すぐに何とかしないと……」
「朝食をどうした」とか、「寝具も揃えないと、意外とあの子寝相が悪い」など、あれこれ話が進む。半分くらい食べたところで、小春は改めて松原に質問した。
「あの……、聞いてもいいですか? 何があったか……」
「うん」
松原は蕎麦を手繰る手を、一旦止めた。
「大下工業が、今日倒産する」
「えっ……」
次の言葉が、出なかった。株式会社なのだから、全ての負債を個人が担う必要はない。けれど、創業当時からの役員である芽衣の祖父であれば、資金借り入れの際、連帯保証人になっている可能性はある。もしそうなら、全て銀行に差し押さえられてしまう。
「まさか、芽衣ちゃんのお宅も抵当に入ってるんですか?」
「ああ……」
そういうことか……。だから、2人は家を出なければならなかった……。そういう、こと……。
「小春ちゃん、まずは食べちゃおう」
「あっ……、はい……」
松原に促され、慌てて食事に戻るが、頭にはこの先の色んな可能性がどんどん溢れてくる。それは小春にとって、いいことばかりではない……。
最初に頭に浮かんだのは、元嫁の事だ。今日もそうだが、松原はこれから頻繁に、元嫁と会うことになるだろう。芽衣の将来のことを考えれば、復縁だって間違った方法ではない。自然と手が止まっていた。
「小春ちゃん……、どうした?」
「ごちそうさま……」
「半分残ってるじゃない。夜までもたないよ」
「もう、お腹一杯で……」
「……」
そんな小春を気にしつつも、松原は自分の分を平らげた。急いで店を出る。そのままエレベーターに乗ろうとボタンを押した。
「すみません。よかったのに……。ごちそう様でした」
「いいよ。誘ったのは僕だし」
小春は先の不安に、心が晴れない。無口になっていく……。
「小春ちゃん、これから少し2人で会うのが難しそうだから、きちんと言っておきたくて誘ったんだ」
そう言うと、松原は小春と手を繋いだ。
「……はい」
「僕、小春ちゃんのこと大切に思ってる。だから、信じてほしくて」
「松原さん……」
「しばらく、今までと違う生活になるから、小春ちゃん不安になりそうだし」
「……」
「君は、心配症だろ」
小春は松原の顔を見た。優しい視線を投げ掛けられていた。
「だから、不安があるなら、必ず言って。不安は放っておくとドンドン大きくなる。そうならない様にしたいんだ」
「……心配いりません。毎日、会社で会えるし」
「さっきさ、蕎麦半分残しただろ。もう、心配が始まってるんじゃない?」
一瞬固まってしまう。その様子を、余すことなく松原は見ている。少し頬を膨らました。
「……もうっ、何でも分からないで下さい」
小春は小さく文句を言った。それを見た松原は、笑いながら小春の頭をクシャっとした。もう一度、「もぅ」と文句を言った。
「ありがとうございましたー!」
後ろから、他のお客さん達が出てきた。話は一旦途切れる。それでも、もう一度繋いだ手は離さないでいてくれた。
エレベーターが1Fに到着する。小春も降りようとしたら、グッと手を引かれて引き留められた。
「忘れ物した」
「お店にですか?」
「うん」
松原のその言葉に、同乗していた皆が先に降りていく。2人きりになったところで、松原は小春の頭をグッと引き寄せて、優しく唇に触れるキスをした。
「こっ、こら! こんなところで……」
「少しは不安がなくなった?」
目を見て言われて、頬が熱くなる。昨夜の感覚が、一瞬で戻ってきた。ほんとに、もぅっ!
「忘れ物! 取りに行かなきゃ」
「これが、忘れ物。……昨日の続き、僕はいつまでも待てない」
松原は小春の手を引っ張って、やっとエレベーターを出た。横に並んだ小春に、いたずらっぽい顔で聞いてくる。
「小春ちゃんは?」
ムッとしつつ、小春は松原の手をギュッと握った。
「私もです!」
「ははっ、よかった」
2人はギリギリ休憩終了時間に間に合った。
金曜日の夜、小春は今日も残業で遅くなった。電車はやっと、小春の降りる駅に到着する。22時過ぎているので、大通りを行こうと足を向けた。
あれから松原は、夜19時頃までしか残業をしなくなった。芽衣ちゃんを少しでも1人にしたくないのだろう。その分、他の時間の集中力はすさまじく、話し掛けられる隙は、全くなくなった。昼休憩も席でパンを頬張りながら、パソコンに向かっている。
他のメンバーにも簡単な事情を話し、課長から皆でフォローするように指示があった。丁度時期も良かったので、麦子に次の段階の、少し難しい仕事を分担させることになった。当然、小春や他のメンバーにもスキルUPは求められるため、これを機に、皆ワンランク上の手間の掛かる仕事を、徐々に手掛けることになった。
しかし、いざ始めてみると、やはり判断に迷うことが頻繁に出てくる。かと言って、松原にその都度聞いていては、松原も集中力が保てないから、作業能率が落ちる。ギリギリのせめぎあいで、それでも少しでも松原の負担が減る様に、皆頑張っている。改めて、このグループにとっての、松原の存在の大きさが分かる小春である。
もう1つ、松原の環境が変わったことがある。
「まさか、松原さんに子供がいたなんて……」
と、分かり易く反応した麦子は、どうやら「松原倶楽部」から脱退していく様子だ。きっと他の倶楽部メンバーも同調することになるだろう。そんな彼女達を見ていて、改めて松原と「付き合う」ということを、真剣に考えた小春である。
「先のことは、分からないからね。とにかく今は、大下工業の後始末が落ち着くのを待たなくちゃね」
大通りを歩きながら、小春は自分に言い聞かせるように呟いた。
「そうそう、先のことは分かんねぇよな」
横から急に声を掛けられた。小春は「わぁっ」と思わず声に出す。慌てて横に飛び退いた。
「あれ〜、お前、俺が見えてんの!」
しまった! と後悔するが、あとの祭りである。「彼」は分かり易く半透明な、あちら側の人だ。しかも、珍しく会話ができている。
「ほら、見えてるんでしょ! ほら! ほら!」
小春の周りを、ぐるんぐるん回りながら、「彼」が絡んでくる。金髪で髪をワックスで立てていて、耳にはピアスが3つも並んでいる。見るからにチャラそうなイケイケのお兄さんだ。……はぁ、ほんと面倒臭い。
「もぅ、うるさい! あっち行って」
「何だよ、ちぇー、つまんねぇ」
意外とあっさり諦めてくれるかと思ったら、
「なーんてな。こんな面白いの、すぐ離れるわけねぇじゃん」
と、目の前に回り込んできた。……だよねぇ。いやいや、諦めている場合ではない。やっぱり、無視、無視! そう決め込んで小春は、ズンズンと足を前に進める。
「俺、シンジ。お前は?」
顔を、シンジと反対側に向ける。
「今からどこ行くの? まだ早いんだからさぁ、俺と遊ぼうぜ」
何をして遊ぼうと言うのか……。人を脅して楽しめとでも? 向けた顔の方に、ぐるんとやってきたシンジの、反対側に顔を向けた。
「お仕事の帰り? なんかお前、疲れてんな〜。さっき、後始末がどうとかって言ってたけど、その相手、脅かしてやろうか」
ほぅら、やっぱり。脅かすのを楽しみにしているタイプだ。更に無視を決め込んで、真っ直ぐ前に進む。そろそろ、離れてくれないかなぁ。
「お前、このまま真っ直ぐ行くのかよぉ」
語尾が少し情けなくなった。
「真っ直ぐ行くのは、やめなよ。あそこん家、ヤベェから」
へぇ、「あっちの人」でも、やっぱりあれは気になるんだ。
「あの婆さん、何であんなに怒ってるのかねぇ。全く、迷惑だよなぁ」
シンジが言っているのは、「怨霊」化した霊のことだ。地縛霊という人もいる。ここから200mくらい先の家に、「その人」はいる。どうやら、その家の誰かを怨んでいるようで、その「怨み」のエネルギーはすさまじく、実は小春も、絶対近づきたくない場所なのだ。近くを通るだけで、きっと体調が悪くなるに違いない。小春の場合は、吐き気や頭痛で、エライことになる。
小春の様な体質の人は、皆同じことを言う。とにかく「君子危うきに近寄らず」だ。あぁ、そういえばこれは、自衛隊の戦闘訓練でも同じ事を学ぶらしい。戦闘で1番大切なことは、「戦わない」ということなのだそうだ。
そして「あの婆さん」の様に「怨霊」化した存在にならないためにも、決して誰かへの強い「怨み」を持ち続けたまま死んではいけないと、常に心掛けている。
しかし、そんなことを教えてくれるシンジは、見かけによらず面倒見がいい人なのかもしれない。ちょっと見直したところで、シンジが何かに気付いたように動きを止めた。
「あれ、お前んとこに、誰か来てんぞ」
そんな風に言われれば、そうそう無視し続ける訳にもいかない。こっそりシンジの顔を確認すれば、小春に向けられていたその目線が、小春の後方に注がれている。何? 思わず後ろを確認した。
そこに遥平が立っていた。初めて会った頃のように、陽炎の様なその姿で、ぼぅっと小春を見ていた。
「遥ちゃん!」
「なーんだよ、ツレがいんのかよ。ちぇっ、つまんねぇ。でも、ありゃ半分半分のやつだなぁ。珍っずらし……」
そのままシンジは消えてしまう。「じゃ、またな」って、やめてよね!
「小……春……ちゃん?」
「どうしたの、遥ちゃん!? なんで病院抜け出してきちゃったの!?」
あっ、まずい。病院にいるって、遥ちゃん分かってないんだった……。
「えっと……、じゃなくて……」
ごまかそうと、あたふたしている小春に、遥平は構わず近づいてきた。
「よかった、小春ちゃんに会いたかったんだ」
「ん、どうしたの? 何か困ったことがあった?」
「んー、喉が渇いてさぁ。母さんに何度言っても、用意してくれなくて……」
えっ、何? 今、遥ちゃんはどうなってるの? 順調に回復してるんじゃないの!? 肉体の方で、まだ食事を取っていないってこと?
「自販機のでいいなら、そこで買うよ」
と、ちょっと先にある自販機を見る。
「いや、小春ちゃんのコーヒーが飲みたいんだよね。あの、美味しいの」
「遥ちゃん……」
小春は、久し振りに心がほっこりした。松原のことで、ここの所ずっと気持ちが張り詰めていたから、急に肩の力が抜ける気がした。
「じゃ明日、ちょうど土曜日だし、お部屋に行ってもいい? 何号室?」
「えっ、男の部屋に来ちゃう? 小春ちゃん、やっぱり見かけによらず積極的だなぁ」
「へっ……。いやいや……」
小春は可笑しくなる。そうだった。遥ちゃんとは、公衆の面前で、しかも朝っぱらからキスを交わした仲だ。まだその記憶、残ってるんだ……。
手の早い遥平らしく、そのまま小春の腰に正面から手を回してきた。両手で腰を抱え、上半身だけ離しながら、会話を続ける。
「408号室、待ってるよ。……ところでさ、小春ちゃん。また、疲れてる?」
さっきのシンジも同じこと言ってたな。気持ちは別として、体はそんなにヘロヘロって訳でもないんだけど……。
「ねぇ、遥ちゃん。前から気になってるんだけど、どうして疲れてるって分かるの?」
「小春ちゃん、2つに分かれてるから」
「えっ……」
「初めて見た時は、びっくりしたなぁ。『離魂病』っていうんだっけ? さっきも、小春ちゃん2つに分かれてたよ。大丈夫?」
そうなんだ……。私、疲れると、魂と体が分かれるんだ……。初めて知った。
「……うん。色々あって……。でも、大丈夫」
小春の笑顔に、遥平も納得の笑顔を返した。
「そうだ。あいつ、誰?」
「あいつ?」
「さっきここにいた、金髪の」
そうか……。遥ちゃんは今、体から離れてるから、私と似たような視界になってるんだ。
「ふふっ。ナンパされてました」
「気を付けてよ。あいつ、何かヘンだ」
そうね。同じ視界なら、きっとシンジは半透明に見えてただろうし、今も急に消えたからね。
「うん、気を付ける。それより、遥ちゃんは足の調子、良くなったみたいね」
「分かる? そうなんだよ。痛みは随分なくなってきたけど、何だか歩きづらくて」
足を固定しているギブスが、さっきから見え隠れしている。何度見ても、見慣れない。やはりまだ生きている人の魂なので、その姿も変化していく。
シンジなどは、あの姿から歳を取ることはない。断言はできないが、そういう人を見たことはない。服装も、本人がしたい服装か、もしくは「死んだらそうあるべき」と思っている格好をしているので、その様子が変わることはないと認識している。体はもう滅びているので、成長することはないのだ。
「遥ちゃん、どうしてこんな時間に、こんなところにいるの?」
「朝パン屋に行ったけど会えなかったから、駅のところで待ってた」
「だめだよ……」
そんなに体から離れちゃ……。っといっても、本人は自覚していないのだから、小春も言葉にすることはできない。早く、戻してあげなきゃ……。
そうだ、エネルギーを補給しよう! 思いついた小春は、早々実行する。
腰を抱えられて話していた小春は、体を遥平に預けた。これも毎回不思議なのだが、預ける感覚が分かる。普通は、体を通過してしまうので、触れることすらできないのだけれど、どうなっているのか、きっと一生分からないだろうなぁ。
「小春ちゃん」
そう言うと、自然に遥平が唇を求めてくる。それに応えて、小春も小さく口を開けた。また、私の記憶が流れ込むのだろうか。どうか、幸せな記憶がいきますように……。遥平の姿は、すぅっと消えていった。
次の日、約束通り面会に行くことにした。ハワイ産コーヒーも、間もなく終わりが近い。ギリギリ足りて、よかった。
病院に着いて、408号室を目指す。まだ足のギブスが薄っすら見えていたから、足は自由になっていないだろう。それよりも心配なのは、頭部の方だった。事故からかなり経っているのに、体に比べてエネルギーが少し小さいままだった。大丈夫なのだろうか……。
病室の扉をそっと開けた。4床あるベッドには、全てカーテンが引かれているが、入り口側の2床は中の人が少し見えて、遥平でないことは分かった。残るは、窓側の2つだ。
「困ったな……。どっちが、遥ちゃんだろう」
今の病院では、個人情報保護の観点から、病室の外に患者の名前は書かれていない。昔はそれを見て入室者の名前と場所が確認できた。個人情報も大事だが、看護師達の苦労は増えている。患者は容態が変われば、部屋が変わることも多いからだ。その度に看護師たちは、その情報を頭に叩き込まなければならない。
仕方がないので、こっそりカーテンの中を覗こうと思ったところで、中から突然TVの音が小さく漏れてきた。
「わっ」
と驚いた声がして、ガチャガチャと何かを手に取る気配と共に、TVの音が止まった。お陰で遥平でないことが分かる。う〜ん、セーフ! 残りの1つのカーテンの中にそっと体を滑らせた。
遥平は、ぐっすり眠っていた。付き添いは誰もいない。実体の遥平を見たのは、これが初めてだ。魂の遥平は、ケガをする前の姿だったので、ショートヘアだった。浅い感じの2ブロックで、モデルの様にカッコよかった。
けれど今は、それが坊主になっている。無精ひげも伸びている。やはり、頭部を手術したらしい。そっと覗き込むと、縫ったらしい傷口に、ガーゼが当ててあった。
「遥ちゃん」
小さい声で、起こしてみた。何度か呼んだが、起きる気配がない。まだ、眠りが深いのだと分かる。だからこそ、体から魂が抜けやすいのだろう。
「どうしようかな……」
飲みたいと言っていたコーヒーを手渡すことが難しいと分かり、途方に暮れてしまう。せめて、魂の方だけでも起きてくれればよかったのだが、そう都合よくはいかない。きっと、眠ることで回復していくのだろう。邪魔しては、いけないか……。
ベッドサイドのテレビの前に、ストローが付いたコップが置いてあるのに気が付いた。幸い中身は入っていない。ここに入れておけば、遥平が気が付いて飲むことができるかもしれない。色々考えた挙句、そうすることに決めた。こんなことなら、コンビニでホットコーヒーを買ってきた方が、気が利いてたな、と思う。
持ってきたステンレスボトルの蓋を開けると、いい香りがフワッと辺りに漂った。コップに移し替えていく。すると、さらに香りが立って、カーテンの中に広がった。
「いい……、匂い……」
遥平の声に、小春は手を止める。慌てて横を見れば、遥平が薄く瞼を開けていた。焦点の定まらない視線のまま、深く息を吸っている。
「遥ちゃん、目が覚めた?」
「……」
「コーヒー、持ってきたよ。飲む?」
慌ててコップに蓋をセットして、少しだけ電動ベッドを起こした。
「はい、どうぞ。まずは、少し……ね……」
遥平は言われたまま、ほんの少し口に含む。ゆっくりと飲み込んだ後、大きく息を吐いた。
「美味しい……」
小春は嬉しくて、またそっとストローを口に含ませる。それを素直に遥平は口に含む。それからは、ゆっくりではあるが、順調に飲み続けた。コップの半分程を飲み干したところで、遥平が「もういい」と小さく手を上げたので、一旦コップを置いた。
小春は、あくまでも魂の存在を見ることができるだけだ。なので、生きている人の体の状態が細かく分かるわけではない。だから、はっきりとは分からないのだが、きっと今、身体的に見ても、すごく良い状態になったということが、直感で分かった。
「よかったぁ。こんなことなら、クロワッサンも買ってこればよかったね」
「……」
食事が今どうなっているかは分からないが、きっとこの様子ならクロワッサンくらい食べられるような気がしたので、そんなことを言ってみた。けれど、遥平は不思議そうな顔をして小春の顔を見つめるばかりで、返事をしてくれなかった。……ん? どうした?
「何か、顔についてる?」
冗談っぽく、小春は笑いかける。そこで初めて、遥平が小さく呟いた。
「君、誰?」
広い芝生では、ヨークシャーテリアが自由に駆け回っている。よく見れば、小さなボールを口にくわえて、飼い主の方に戻っていくところだ。この犬も飼い主も、半透明な「あちら」の住人だ。一緒に遊んでいるところを見ると、きっと一緒に亡くなったのだろう。散歩している時に、事故にでもあったのかもしれない。けれどその様子は、なんだかほっこりとしており、暗さや悲壮感を感じない。まるで、もう少し遊んでいたい犬に、飼い主が付き合っているように思える。遊びに満足すれば、もう「こちら」に戻ることもないだろう。
そのまま進むと、老人3人に出くわした。道を譲るべく、足を止める。その中の1人、杖を突いたおばあさんが、「こんにちは」と声を掛けてくる。「こんにちは」と返せば、ニコニコと残りの2人の後ろに付いて行く。「喫茶店」に行く話を前の2人はしていて、後ろにいるおばあさんの姿が見えていないらしい。何だか、不思議な3人だ。皆「あちら」の人なのに、亡くなった時期が随分違うのか、それとも、話し掛けてきたおばあさんが、わざとそうして楽しんでいるのか、まぁ、結構年季が入った人達なので、昨日今日お亡くなりになったわけではなさそうだ。自由を満喫している様なので、小春は気にせずに止めていた足を前に踏み出した。
公園の木々を透かして、ゴミを回収している職員を遠くに見つける。公園にゴミ箱は設置されていない。もうすべて撤去されていて、皆、ゴミは全て持ち帰っている。なのに、まだ「あの人」はゴミ箱のゴミを回収している。
亡くなっても尚、仕事を続けているなんて、仕事が「生きがい」だったのかもしれない。仕事をしなければ、自分は生きている価値はないと、思い込んでいたのかもしれない。にもかかわらず、仕事から得られる満足感は少ない。だから、自分の人生に納得できずに、今も仕事を続けているのだろうか……。こういう人を見ると、いつも小春は「仕事」の意味を考え直す。
小春とて「食べる」ために仕事をしている。「ライスワーク」ではなく、「ライクワーク」や「ライフワーク」をしろと言う人がいる。「食べるため」ではなく、「好きなこと」や「人生のため」の仕事をしろという。
今の仕事は嫌いではない。けれど、胸を張って「自分の人生のため」とまでは言い切れない。私もこの人に様に、体が無くなっても、ずっと仕事を続けてしまうのだろうか……。できればそうなりたくないな……。そのためには、何に対しても「固執」してはいけないのだと思い直した。
やっと海に到着した。今日もあの人は釣りをしている。遠くに見える半透明の釣り人を確認して、小春は穏やかな海を眺め直した。防波堤の階段を昇り、そのままそこに腰を下ろし、クロワッサンを取り出した。ステンレスボトルに半分ほど残っているコーヒーは、まだ温かいだろうか。蓋を開ければ、いい香りがほんの少し辺りに漂った。
「うーん、やっぱり美味しい……」
クロワッサンを一口食べて、小春は大きく伸びをした。
友達が少ない小春は、自分の体質をほとんど人に話したことがない。ましてや小さい頃の辛かった思い出など、言葉にしようと思ったこともない。
それを知る唯一の人の記憶には、もう「小春」という女性は存在しないらしい。その事実を飲み込むには、少し時間が掛かった。病院を出て、パン屋に寄って、海を見る。それくらいの時間なら、そんなに笑われることもないはずだ……。
人は見た夢をほとんど覚えていない。朝方に見る夢でも、起きる直前まで見ていた夢でも、目が覚めてしまえば全く覚えていないものだ。それと同じだ。
大丈夫。こんな事、いつものことなんだから。それに、ひとりは、そんなに悲しいことばかりでもない。
「でも……、あと、もう少しだけ……」
防波堤の上で体操座りに座り直して、顔をそこにうずめた。あと、もう少し……。
冬の風が冷たく吹き始めた、11月を目前にした曇り空の休日だった。




