ランニングと朝食
「ハッ、ハッ、ハッ……」
朝6時。暑かった今年の夏も、先日の台風が通過してから、随分涼しくなった。今日は晴れているので、放射冷却で冷え込んでいるらしい。走る前は、寒いと感じたほどだ。田所遥平は5年程前から始めた朝のランニングに、汗を流している。
ここのコースは2週間前から走り出した。出張先で見つけた公園の中に、2キロ強のランニングコースが備えてある。住宅が少ない環境なのに、意外とランニングやウォーキングを楽しんでいる人々も多く、なんとなくモチベーションが保てて、いいコースだ。
「ん、今日も元気そうだ……」
少し先を3人程の後期高齢者のグループが、ゆっくりと歩いている。ここで走り始めて4、5日過ぎた辺りから見掛ける様になった。
歳を取ると朝が早くなるというが、彼らにしてみればこの時間は既に遅いくらいだろう。きっと、すっかりウォーキングコースを終えて、近くにある喫茶店に向かっている途中なのだろう。あの喫茶店は、朝5時から店を開けていて、開店と同時に満席になるのだと、前を歩く2人が先日話していた。モーニングサービスが人気のようだ。
「おはよう」
「おはようございます」
後ろを歩くおばあさんが、挨拶をしてくる。ニコニコとして杖を突いているが、こうして毎朝歩いている。元気なおばあさんだ。3人を右から追い越し、遥平は軽快に先に進む。
「随分寒くなったねぇ」
「今日は俺、手袋持ってきたぞ。喜美さんは、冷たくないかね」
「手足は大丈夫なんだけど、頭が寒くて」
「そろそろ、毛糸の帽子の出番だなぁ」
「ヒロちゃんに編んでもらったの、引っ張り出さないとねぇ」
「そうだなぁ……。ヒロちゃんには、もう新しいの編んでもらえんからなぁ」
「毎年、新しいの編んでくれてたもんねぇ」
「……もうすぐ、半年か。ヒロちゃんが逝って」
「いっつも、3人でこうやって『歩け、歩け』しとったのが2人になって、寂しいねぇ」
「まだ喜美さんいるから、こうやって歩けるわ……。お互い、長生きせんとなぁ」
「まぁ、十分長生きしとるよぉ」
「あぁ、そうだなぁ」
2人は、笑いながら公園を出ていく。後ろの1人は、ニコニコとついて行った。
公園の中にある、池に掛かった橋を渡る。木製で、2人並んで歩くくらいがちょうどいい幅なので、前から人が来る場合はこの橋の手前を右折して、別のコースを走るのだが、今日は誰も来ないので、そのまま進むことにした。
橋を渡ると、左手に芝生の広場が広がる。ここにはいつも、1匹の犬と飼い主がいる。犬の方はリードを外されていて、飼い主とのボール遊びに忙しい。本来はルール違反なのだが、早い時間というのもあり、どうやら誰からも咎められずにいられるらしい。
「おっと……」
足元にボールが転がってきた。それを懸命に追いかけ、犬がやってくる。ヨークシャーテリアといわれる犬種だと思う。遥平は犬に詳しくないので良くは分からないが、顔の周りの毛が長く、小型犬なのでそうなのかなと思っている。
その犬が遥平の足元まで来て、ワンッと吠えた。尻尾を見れば大きく左右に振っているので、思わず立ち止まりスキンシップを楽しむ。何日か前に初対面は済ませているので、相手も遥平の臭いは分かっているらしい。
「よーし、よしっ」
わしゃわしゃと顔を両手で挟んで、遊ぶ。飼い主の男性は、遠くで小さく会釈をしていた。
「さぁ、お前も走れよ」
と足元に転がったボールを、飼い主側に投げる。一目散にその後を追っていく犬を眺めながら、また遥平も走り出した。
「今日もご苦労様……」
心の中で声を掛け、ゴミ箱のゴミ袋を取り換えているおじさんの後ろを通り過ぎる。街中のゴミ箱はほとんど見掛けなくなったが、公園の中には昔ながらの網でできたゴミ箱がここに1つだけ設置されている。これを綺麗に保てているのも、こういった人達のお陰であると頭が下がる。
2週回って、そろそろゴールも近い。肌寒かった空気も汗をかいた体には心地よいものとなり、最後の階段を駆け上がる。そこには、海が待っていた。すっかり日は登っていて、キラキラと反射する光が、目に眩しい。
6時30分も過ぎ、街が目覚め、通勤や通学の人々が動き出す時間である。遥平も戻ることにした。帰りはウォーキングを兼ねながら、ゆっくりと朝の空気を楽しむ。
いい香りのするパン屋の前を通り過ぎ、小さくお腹が鳴ったのを自覚する。
「ん~、買って帰ろうかなぁ」
と独りごちれば、後ろで「チリンッ」と小さな音がした。この店のドアには鈴が付いていて、開け閉めをするたびに小さく音がするのだ。誰かが、店から出てきたのだろう。遥平の横を追い越していく。
ふわっと優しい香りがした。シャンプーだと思われるその香りを残して、女性がゆっくり歩いて行く。髪は緩くウェーブが掛かり、1つに編まれている。全体がフワフワとしていて、後れ毛があちこちから出ている。こんな風にまとめられるのは、きっと器用な人なんだなと、元カノのことを思い出しながら、眺めるでもなく眺めていた。
元カノはとても不器用で、髪は「ふわクシャ」と決めていて、ほとんどセットらしきことはしていなかった。それでも、遥平の部屋に泊まっていった朝は、いつも悪戦苦闘していて、「ああだの、こうだの」と文句を言いつつも頑張っていた。まぁ、そんなところも可愛かったんだけど……。
通り過ぎた彼女が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「えっ……」
彼女が2つに分かれた。
1つは、通り過ぎたままのスピードで前に進んでいく体。そして、もう1つは、遥平の顔に視線が止まり、そのままゆっくりと歩みを止めてしまった体……。遥平と、目が合った……。この子……。
その一瞬後、止まった方の体が、先を歩いていた体に吸い込まれるように戻った。後は、何もなかったかのように、彼女は行ってしまう。
「これが、離魂病……」
目にするのは、遥平も初めてだ。これも元カノから話としては聞いたことがあったが、あぁ、さっきの不器用な元カノとは違う彼女だが……、まさか目にすることができるとは、思ってもみなかった。こちらの元カノは、スピリチュアルが大好きな彼女だった。
今では2人共、子を持つ母である。
そんなスピリチュアル好きな彼女から、聞くともなしに聞いていたのが、世の中には、魂が体から離れてしまう「癖」のある人がいるという話だった。それは本人に自覚がある場合もあるし、全く自覚がないままそうなっていることもあるらしい。
自覚がある人は、体が何かに引っ張られるように感じ、気づいた時には自分の体から抜け出し、上から眺める視界を自覚したりする。そんな生活に慣れてしまった人は、「あっ、また離れる」と分かった時、慌ててその場にしゃがみこみ込んだり、残された体をなるべく人目に触れないように隠れたりして、身をまもる術を身に付ける。
もちろん、残された体の方も、話すこともできれば動くこともできるので、人形の様になってしまうわけではない。ただ、心ここにあらずといった風情になるだけだ。
しかし、もし仕事の打ち合わせ中にでもなれば、やはりそれは問題がある状態と言わざるを得ず、苦労することになる。
自覚がない人の例としては、よく話しをしている最中に、コロコロと表情が変わり、話題も豊富な人がそうだったりする。つまり、話している最中に、色んな魂が出たり入ったりするのだそうだ。その話題に詳しい魂が、出入りするらしく、何とも都合がいいことだと思う。
もちろん本人はそんなつもりはないので、ごくごく日常的に起こっていたりする。本人にとっては当然、全ての行動は、自分の意思下で行われていると思っているので、何ら疑念も不安も起こらない。
ただ、やはりそういった「癖」の人は、周りからすれば集中力という意味に於いて、長続きしない人だとの印象を受けることが多い。
あくまで、元カノからの「情報」として得ていたものである。まさか、信じてはいなかった。
「のんびり屋さん、……なのかな」
そんな風に遥平は思った。見た衝撃は衝撃として、それを受け入れてしまえば、冷静に分析できるところが、遥平の良いところである。
歩く速度もゆっくりだったし、振り向いた感じも、遥平に興味があってわざわざ見たわけではなく、追い抜くついでに「なんとなく~」って感じで、全体的にフワフワしていた。
ただ、その瞳は少し憂鬱そうで、見た目の柔らかな印象にはそぐわず、疲れているのかなとも思われた。
結局、遥平はパンを買わずにそのまま帰途についた。
会社に着いた小春は、給湯室でコーヒーを淹れ、自分の席に戻ってきた。9時始業なのでまだまだ人は少ない。途中で買ったクロワッサンを袋から取り出す。その香りを楽しんで、サクッと頬張った。
「ん~」
相変わらずここのパンは美味しい。焼きたての時間に合わせて店に寄るのだが、今日はお昼の分の調理パンまで購入してしまった。下手をすると、たまに3食全てパンになってしまうことがあって、実に不健康極まりない。
「まぁ、3食食べる様になっただけでもいいか」
以前は昼食を抜いていた。別にポリシーがあってとか、ダイエットの為とか、そういうことではなかった。ただなんとなく昼食を抜いていて、小腹がすけばコーヒーで十分だった。
ところが、そんな生活をしていたら、体に異変が生じ始めた。1番顕著だったのが、お肌である。吹き出物が多くなり、張りが無くなって、ガサガサになっていく。慌てて馴染みの化粧品店のお姉さま店員に相談したら、まずは食事を何とかしなさいと叱られた。それからはなるべく3食取って、野菜をきちんと食べる様になった。お陰様で、肌も順調に回復した。
「やっぱり人の体は、口から食べたものだけで、できてるってことだよねぇ……」
「おっ、今日はクロワッサンか」
独り言をつぶやいていた小春に声を掛けたのは、同じ課の松原である。小春より6つ年上の流動解析モデラ―だ。彼もいつも朝食は、会社で食べている。33歳独身で、中途採用の転身組である。小春の斜め前の席に着いた。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日の松原さんは?」
「高菜おにぎり」
「うほっ、『ひかりおにぎり』ですね。並びましたか?」
「5分くらい。今日は早かった」
「いいですねぇ。こっちにもできればいいのに」
松原の通勤の路線と、小春のそれは違っていて、手作りおにぎりで有名な「ひかりおにぎり」の店舗は、小春の通勤途中にはなかった。
「今度、交換しようか」
「えぇ! いいんですか!?」
「いいよ。僕もそのクロワッサン、食べたい時あるから」
「いつにします?」
「じゃあ、明日はどう。善は急げだ」
「わかりました。楽しみです!」
「何がいい? 具は」
「やっぱり、生姜〜」
「ははっ、好きだな、生姜。珍しいよ、それ」
「だって、さっぱりしてて、朝ごはんにはもってこい! 『ひかり』のは、独特の味付けでクセになるんです」
「分かった。明日ね」
「はい」
小春は、この松原を密かに好きである。小春が新入社員として入社した時、彼は中途採用で入社してきた。そのため、新人教育が一緒になり、依頼、同期として扱われている。
しかし、さすがに彼は経験者であったため、その後の仕事の差は歴然としており、小春はいつも松原に教えを乞うていた。そして当然、……好きになる。何だか色々、ありがたい話である。
「そういえば、津々木君、昨日大丈夫だった?」
「う〜ん……、ちょっと、しんどそうでした」
「そうか……。今日、ちゃんと来れるかな」
「無理しないでねって、言ったんですけど……」
「有給、まだあるって?」
「今までも結構病院とかで休んでるから、残り少ないって……」
「そうなんだ……」
津々木は、同じ課のメンバーで、小春の2年後輩にあたる。彼も中途採用で、今年4年目になる。持病で糖尿を患っており、あぁ、これは、遺伝的なもので、肥満や運動不足からくる2型でなく、1型の糖尿病。実際、彼はとても痩せているのだが、その症状が今とても強く出ていて、更に、会社でのストレスが病状を悪化させてしまい、とうとう医師の診断書が提出されてしまったのだ。それは診療内科による「長期療養を必要とする」という診断書である。
その3週間が終了し、昨日久々の出勤だった。松原は別の仕事で終日出掛けており、津々木と顔を合わせていない。
「辞めないと、いいけどな……」
「そうですね……」
しんみりとしたところで、松原のスマホが「ピロン」と鳴った。松原はそのままスマホの画面に気持ちを移していく。小春はそんな松原から、視線を外した。
毎朝この時間になると、必ず松原のLINEが受信を知らせる。きっと、彼女なのだと思う。朝の挨拶……。そのメッセージを見ると、松原はいつも優しい顔になり、すぐに返信をしている。もちろん覗いたわけではないが、ずっと見ていればこそ、きっとその人にしか見せないだろう笑顔に、小春は気付いている……。
まぁ、1度転職したとはいえ、この顔でこの性格で、世の女性がうっかり見逃すほど、先進国の日本は甘い婚活市場ではない。そういう訳で、小春は「密かに好き」という現状になっているのである。
それでも、芸能人の「推し」と同じで、その人が「結婚」という形を選択するまでは、ずっと楽しんでいられるのだから、小春もそれまでは「ありがたい」毎日を過ごそうと心に決めている。
「ごちそうさまでした」
1人で食後の挨拶に手を合わせ、スマホから顔を上げない松原の横を通過して、マグカップを持って給湯室に向かう。後はトイレでマウスウォッシュをして、口紅を整えて、朝の日課は終わりだ。どうなるか分からない津々木の分も、小春達は頑張らねばならない。席に戻れば、すっかり仕事を始めている松原を見習い、小春もパソコンにログインした。
「おはようございます」
始業10分前、津々木が出社した。
「……来れたね。よかった。おはよう」
「津々木君、大丈夫? 顔色、悪いけど……」
小春と松原が、順に声を掛ける。津々木が中途半端な笑顔を張り付けながら、カバンを椅子に置いた。
「ええ……、何とか。また、目の前が真っ白になっちゃって……」
「えっ、電車の中で? 大変じゃない……。まずは座って」
津々木の隣の席の小春は、慌てて椅子に座らせようとカバンをどけた。その瞬間、津々木がグラッと体のバランスを崩す。
「あっ……」「わっ……」
小春と松原が同時に声を上げる。……っ、体から抜ける。マズい! 小春は咄嗟に動いた。
津々木がそのまま崩れ落ちてしまうかと思われた瞬間、小春が待ち構えていたかのように、その体を支えた。
「うー、重い……」
「ちょっ、……待って! 今、そっち行く!」
言いながら松原は机をグルッと回って、小春から津々木を受け取った。そのまま床に横たえ、目を開けたまま気を失っている津々木を起こそうと、声を張る。
「津々木君! 津々……んっ」
頬を叩こうとしたところで、動きが止まった。
「松原さん、シーッ!」
小春は松原の横にしゃがんで、その口を横から塞いだ。顔だけは津々木の様子を確認している。
「待って……。自然に目が覚めるから。無理に起こさない方がいいです」
「ん……」
口を塞がれた松原は、返事ができない。小春の手を、指でトントンとつついた。
「あっ、ごめんなさい」
塞いだ手を外せば、松原が焦った様子で小春と津々木を交互に見比べる。何とも切羽詰まった様子で、でも声だけは小さくして小春に問いかける。
「えっ、そうなの!? でも、このまま死んじゃったらどうするの!?」
小春はもう一度、津々木の様子を見た。体のエネルギーはしっかりしている。
「えっと……、大丈夫そうですよ。ちゃんと、息してます」
何だかのんびりしている小春の声に、松原もさっきまでの勢いが削がれてくる。
「……でも、救急車呼んだ方が……」
周りに他の人達も集まって来た。課長も少し遠くから駆け付けて、何事かと声を掛けた。
「どうした?」
そうしているうちに、津々木の意識がゆっくりと戻ってきた。瞬きをしながらボーっとしている津々木に、小春が声を掛ける。
「津々木さん、分かりますか?」
「……」
「今、津々木さん倒れたんです。吐きそうですか?」
「……いや……」
「呼吸は、できます?」
「……うん、……大丈夫」
そういいながら、津々木は身を起こした。「ふーっ」と1つ息をして、ゆっくりと立ち上がる。
「津々木君、本当に大丈夫なのか!?」
課長が思わず大声で確認をした。
「すみません。ご迷惑お掛けしました……」
取り敢えず席に座った津々木の様子を見て、集まっていた人たちも、それぞれ自分の席に戻って仕事を始めた。小春も席に着いた。
「松原君、念のため医務室に連れてってあげて」
「はい」
「……すみません」
課長に言われ、松原と津々木は医務室に向かう。それを見送った小春は、自分の手を改めて眺めた。
「松原さんの唇、触っちゃった……」
小さくほくそ笑みながら、津々木のカバンを席に戻しておいた。
医務室は小春達の仕事場と別の棟にある。少し長い移動になるので、松原は津々木を気遣いつつ向かっていた。
「休憩しようか?」
「いえ、大丈夫です。あの……さっき倒れた時、俺を支えてくれたの松原さんですか?」
「いや、根岸さんだよ。途中で交代したけど」
「そうですか……。ありがとうございました。以前倒れた時、そのまま後ろに倒れちゃって、もう少しで机の角に頭ぶつけるとこだったんで、助かりました」
「……そういえば、根岸さん、いつのまにか津々木君の後ろに移動してたな……。まるで、待ち構えてたみたいだった……」
「そうなんですか?」
「う〜ん、偶然だろうけど……。良かったよね」
「はい」
倒れた時の事を思い出しているのか、下を向きながら津々木がおずおずと先を続ける。
「それと……、倒れてる時、顔とか叩かずにいてくれたのも、ありがたかったです」
「……それも、根岸さんに止められたんだよ。僕だけなら、もう少しで頬を叩いてた」
「あぁ、そうなんですね……。あれ、無理矢理起こされるのって、結構つらいんです。途中から意識は戻ってきてるんで、声と感覚だけは分かるんです。けど、視界が戻らなくて、起きたいんだけど、起きられない……。そんな時にバシバシ叩かれるから、そんなに叩かないで! って、言いたくても言えなくて……」
「へぇ、そういうもんなんだ……。根岸さん、良く知ってたな……。じゃあ、それも良かったけど……。それよりさ、あんまり無理しちゃダメだよ。調子悪い時は、お互い様だからさ」
穏やかな声に、それでも津々木は溜息が止められなかった。
「……はい。すみません」
医務室に到着した2人は、中の産業医に声を掛けながら入って行った。