2話:日本の国際連盟脱退と日中戦争へ
日本は1931年、現地軍の関東軍が独自行動で満州事変を起こしたのを機に中国への侵略を開始、満州全土を制圧し1932年3月にかいらい政権満州国を建国。これに対し、中国政府は国際連盟に満州国建国の無効と日本軍の撤退を求めて提訴。それを受けて国際連盟はリットンを代表とする調査団を派遣した。リットン調査団は1932年3月から6月まで現地および日本を調査し、リットン報告書をまとめた。
報告書は日本の侵略と認定した。ただし満州に対する日本の権益は認め、日本軍に対しては満州からの撤退を勧告したが南満州鉄道沿線については除外された。1933年2月、国際連盟総会はリットン調査団報告書を審議、日本の代表松岡洋右は満州国を自主的に独立した国家であると主張したが、審議の結果、反対は日本のみ、賛成が42カ国で可決された。
これを受けて日本政府は翌3月、国際連盟脱退を通告した。続いて秋にはドイツが国際連盟を脱退、常任理事国2カ国が相次いで脱退するという事態となり、集団安全保障体制は大きく揺らぐこととなった。同時に脱退した二国は、全体主義国家として、イギリス・フランス・アメリカとの対立を強め提携に向かうこととになる。
また、穀倉地帯とよばれる地域を中心に小作争議が激化した。1933年「昭和8年」以降景気は回復局面に入るが、1933年、初頭に昭和三陸津波が起こり、東北地方の太平洋沿岸部は甚大な被害をこうむった。また、1934年「昭和9年」は記録的な大凶作となって農村経済の苦境はその後もつづいた。 農作物価格が恐慌前年の価格に回復するのは1935年「昭和10年」だった。
1937年「昭和12年」7月7日、盧溝橋事件が勃発し、日中間が全面戦争に入ると、中国の提訴を受けた国際連盟総会では、同年9月28日に中国の都市に対する無差別爆撃に対する、23ヶ国諮問委員会の対日非難決議案が全会一致で可決された。1938年「昭和13年」9月30日の理事会では、連盟全体による集団的制裁ではないものの加盟国の個別の判断による規約第16条適用が可能なことが確認され、対日経済制裁が開始された。
孤立主義の立場から、アメリカ合衆国議会での批准に失敗し、国際連盟に加盟していなかったアメリカ合衆国は、満州事変当初は、中国の提案による連盟の対日経済制裁に対し非協力的であった。しかしその立場は不戦条約および九カ国条約の原則に立つものであり、満州国の主権と独立を認めず、国際連盟と同調するものであった。
アメリカ合衆国の孤立主義的な立場が変わるのは、フランクリン・ローズベルトがアメリカ合衆国大統領になってからである。ローズベルトは大統領に就任してから1937年の隔離演説発表まで、表面上は日本に協調的姿勢を見せ、日中国間の紛争には一定の距離を置く外交政策を採っていた。しかし、1937年7月に盧溝橋事件が発生すると、対日経済制裁の可能性について考慮をし始めた。
そして、1937年10月5日に隔離演説を行い、孤立主義を超克し増長しつつある枢軸諸国への対処を訴えた。日本に対する経済的圧力については、アメリカ国内に依然として孤立主義の声もあり慎重であり、後述の通り長期的で段階的なものであったが、仏印進駐による1941年「昭和16年」7月から8月にかけての対日資産凍結と枢軸国全体に対する石油の全面禁輸措置によりABCD包囲網は完成に至る。