表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
谷戸物語  作者: 播磨王65
1/88

1話:池辺家と昭和恐慌と大凶作

「谷戸」とは、丘陵大地の雨水や湧水等の浸食による開析谷を指し、三方(両側、後背)に丘陵台地部、樹林地を抱え、湿地、湧水、水路、水田等の農耕地の地形のことです。橫浜では、数多くの谷戸があり、古くから、斜面地の里山と沢の奥の水源と緩斜面の畑、平地の水田に加えて、地形に守られた住居地とが組み合わされた、多くの農家が古くからあった。


 ところが、1960年代の高度成長期以降宅地開発され、多くの「谷戸が」宅地化された。最近の研究では、三分の一の谷戸が宅地化により、消滅したと言われている。その代表的なのが、橫浜市営団地の開発、いわゆるニュータウン開発も、それにがいとうする。関東全体を見回すと、「平成狸合戦ぽんぽこ」で有名になった多摩ニュータウン開発が代表的だった。


 池辺家は、横浜市の北西部、勝田と地域の谷戸の下に住み、大きな田んぼと、畑をつくって、数軒の親戚と共に住んでいた。1910年に池辺家に池辺作一が長男として生まれた。1912年に次男の池辺竜二、1914年に三男の池辺正三、1916年には、長女の池辺富子と4人の子供が誕生した。この当時、長男が家を継いで、次男、三男は、勉強して都会の学校に行くか、食べるだけの田畑をもらうしかなかった。


 池辺家では、当主の池辺健一が、大正時代の船株を買って儲けたため、この地区で20人を超える人を雇って、タクシー会社と運送会社を経営し始めた。しかし池辺作一は、女好きで自分の周辺の若い娘に手を出した。その後、お手伝いさんは、手切れ金をもらい家を出た。


次男、三男は、なにがしかのお金をもらって都会に出て行った。長女は、お婿さんをもらった。しかし1920年代になると1923年の関東大震災が起きた。その関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。


 一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し社会全般に金融不安が生じていた。1927年3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と失言したことをきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。一旦は収束するものの4月に鈴木商店が倒産した。


 その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した。しかし幸いにも、大きな被害がなく済んだ。その後、井上準之助大蔵大臣のデフレ政策と1930年「昭和5年」の豊作による米価下落により、農業恐慌は本格化した。この年は農村では日本史上初といわれる「豊作飢饉」が生じた。米価下落には朝鮮や台湾からの米流入の影響もあったといわれる


 農村は壊滅的な打撃を受けた。当時、米と繭「まゆ」の二本柱で成り立っていた日本の農村は、その両方の収入源を絶たれるありさまだった。翌1931年「昭和6年」には一転して東北地方・北海道地方が冷害により大凶作にみまわれた。しかし、橫浜では、山には、タケノコ、食べられる山菜、自然薯、小川には、どじょうがいて、比較的、食糧事情は良かった。


 不況のために兼業の機会も少なくなっていたうえに、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家経済は疲弊し、飢餓水準の窮乏に陥り、貧窮のあまり東北地方や長野県では青田売りが横行して欠食児童や女子の身売りが深刻な問題となった。小学校教員の給料不払い問題も起こり、日本全体的に、食糧不足とひどい不景気で、ダブルパンチを食らった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ