第1話 初めての第一歩
イコルはスタスタと歩いていた。歩幅が3メートルあるので早い。風が冷たいが鍛えた肉体は寒さを物としないのだ。
イコルは初めて見るオルデン大陸を興味深そうに眺めていた。緑が多く、広い草原にぽつぽつと森が生えていた。
自身が住んでいる蟲人王国は荒廃している。人間の手で生み出されたビッグヘッドはキノコの胞子が濃い場所を優先して食す。その後、目から涙鉱石を輩出するのだ。そして寿命が来たら自身は木に変化する。ビッグヘッドには木の遺伝子を持つからだ。木に変化した後、新しいビッグヘッドの実を数十個付ける。それを半年感覚で繰り返せば、数年で広大な森が生まれるのだ。
しかし蟲人王国ではビッグヘッドを忌み嫌っている。人間や亜人は閉鎖社会を築き、ビッグヘッドを発見したらすぐ殺すのが主流だった。さらに文化レベルも中世ヨーロッパ風になっており、不潔で野蛮な国になっていた。
そこをエビルヘッドが力押しでエビルヘッド教団の教えを広めたのだ。自身の巨大な体躯を利用し村人に恐怖を植え付けたのである。村にはガスタンクヘッドという、特別なビッグヘッドを置いた。球根のような形で、根の部分はガス管のように細長いのだ。ゴミや糞尿をガスタンクヘッドに喰わせることで、ガスレンジやガスストーブを設置できるようになったのである。
もっともガスレンジなどは妖精王国の輸入品だが。
ただしエビルヘッド教団の教えは南部にとどまっている。北部ではいまだにエビルヘッド教団に反発しており、文明レベルは低い。広範囲でゲリラ戦術を繰り返していた。もう100年以上も戦っている。エビルヘッドも本気になれば潰せるが、エビルヘッドを憎む土壌を育てているため放置していた。
「ここは美しいな。やはり作られた自然は豊かだな」
ベビーエビルがカバンのまま独り言を口にした。キノコ戦争が起きたとき自然はほぼ荒廃していた。ビッグヘッドのおかげでキノコの胞子に侵された土や鉱石は喰われ、浄化されていったのである。自身が生まれた鳳凰大国ではゴミの山が目立ち、湖は化学薬品で汚染されていた。それを数十年かけて洗浄されたのだ。100数年前には鳳凰大国からフィガロに繋がる線路を作り上げる。今では途中にあるガルーダ神国へニワトリや香辛料を輸入できるのだ。
もっともベビーエビルには知識はあるが実感はない。数か月前にフエゴ教団の司祭の杖、フエルテに倒された。確かに自分は倒されたがどこか他人事に思えた。自身は死ぬと知識は受け継がれるが経験はなくしてしまう。そこがベビーエビルの欠点なのだ。
「おや、何か騒がしいですね」
イコルは耳が聴こえない。視覚で確認していた。それは街道だ。フエゴ教団が村の次男以下の男たちに働かせて作らせたものである。現在は村から村への大動脈だ。昔と違って旅に出る人間は多い。村の出入りは税金がかかるが安いので問題はないが。
旅人たちは猿に襲われていた。人間より巨大な猿だ。モノオンブレである。アカゲザルのモノオンブレだ。
アカゲザルはオナガザル科の猿である。ニホンザルと近縁で、毛色は灰褐色で腰が橙色だ。ガルーダ神国の前身であるインドから鳳凰大国の前身である中国南部にかけて分布していた。キノコ戦争前では実験動物として扱われていたという。
「ウッギッギ!!」
アカゲザルたちは打製石器を手にしており、アライグマの毛皮を腰に巻いていた。まさに原始人である。
モノオンブレたちは旅人たちの頭をたたき割っていた。オスの方は髭もじゃの男と交尾していた。野生動物でも同性愛はある。こちらは相手を屈服させるための行為だ。犯された男たちは悲鳴を上げる。女たちは怯えて猿団子のように固まっていた。女たちはお目こぼしのようである。
馬車は壊され、モノオンブレに殺された人間が地面に転がっていた。
イコルはそれを見るとしばし考える。見たところほとんど人間たちだ。彼らなら自分の望むものを与えてくれると予測した。すぐに考えをまとめるとイコルは彼らを助けに行く。
☆
「ウギギギギ!!」
モノオンブレたちは好き勝手に暴れていた。彼らはオルデン大陸の西方に住んでいる。塩の町サルティエラから川を隔てており、未開地であった。フエゴ教団の布教活動でもモノオンブレたちは疎外になっていたのだ。彼らは言葉が通じない。人喰い族のベスティアの方がまだ話は通じる始末だ。
ここ最近はなぜか東まで来ており、人を襲っているのである。理由はわからない。やたらと攻撃的であり、人間を憎んでいるという気持ちだけは理解できた。
そこにイコルがやってきた。まずは天高く飛んできて、耳毛を解除する。
すたんと地面に降り立つと、両腕を前に突き出し、わき腹に拳を当てた。フロントラットスプレットのポーズである。
ラットは背中の筋肉を意味し、スプレッドは広げるという意味がある。つまり背中の筋肉を広げたポーズという意味になるのだ。
脇の下に見える筋肉は広背筋で、これは背中の筋肉であり、逆三角形の体型を形作っている筋肉だ。背中の筋肉を大きく左右に広げて、背中の横幅を強調するポーズである。
すると鼻毛がわしゃわしゃと動き出す。鼻毛は3メートルほどに長くなり、先端は拳を模っていた。
「ウギィ?」
モノオンブレたちは闖入者に目を向ける。そして興奮してイコルに向かって打製石器を振るおうとした。
しかし鼻毛の拳はイコルに近づくことはできない。顔を殴られ吹き飛んでいく。
殴られたモノオンブレは鼻を潰され、あごを砕かれ絶命していた。血泡を吹き、眼球が零れ落ちている。それを見た仲間たちはますます頭に血が上っていった。
毛の部分を叩いても、逆に打製石器が砕かれる結果となる。
「ウギギギギ!!」
モノオンブレたちは激高し、イコルに突進する。まったく策なしだ。彼らは特に頭に血が上りやすい性質なのだろう。
イコルの敵ではなかった。モノオンブレ達はあっという間に殴り殺されていく。
「ウッギィィィィィ!!」
最後の一匹は顔面を砕かれて、吹き飛んだ。べちゃっと地面に叩き付けられると、顔を手で押さえた後に断末魔の叫びをあげて死んだ。
モノオンブレたちは全滅した。
イコルは周りを見回す。生き残った人間たちはイコルに対して敵意の視線を向けていた。自分たちの脅威を取り除いた救世主に対してあるまじき行為である。
「なっ、なんだよあいつ。鼻毛で猿たちを殺したぞ……」
「それに恐ろしい顔をしているわ。悪魔の生まれ変わりよ」
「たぶんあの猿の仲間に違いない! 消えろ!!」
人間たちは地面に落ちた石を手に、イコルへ投げた。投げた石はイコルに当たった。
彼らはモノオンブレたちに襲われたのもイコルのしわざと思い込んだのだ。ちなみに彼らは滅多に村を出ない性質ゆえにイコルの行為を善意と考えないのである。
英雄フエルテでさえ、彼らの前では悪魔の使いと思い込むだろう。オルデン大陸ことレスレクシオン共和国では閉鎖社会の村が多い。亜人はまだマシな方で、人間の方がひどいのだ。
イコルは投げる石から逃げ出した。アブドミナルアンドサイのポーズを取り、耳毛を伸ばして足を作り、走り去ったのである。
「……素晴らしい。やはりここに来てよかった」
走る途中でイコルはにやりと笑う。助けた相手に怖がられ敵意を向けられる、それこそイコルの望むものであった。彼は黒い気持ちを力に変えていたのだ。憤怒を司る家系で育った彼は自身の容姿と能力を利用して、その暗い心を育てていた。相手に恐怖され忌み嫌われるたびに力が増していくのを感じている。
だが今のフィガロではそれを望めない。誰もイコルに恐怖を抱かず、憎悪などしないのだ。
それはそれで満足しているが、どこか物足りないと思っている。その点レスレクシオン共和国では自分を知る者はいない。自分に対して恐怖を抱き、心を平気で傷つける人間が大勢いるだろう。それを想像すると胸の高鳴りを覚えた。自身が強くなれる期待を抱いているのだ。
歓喜するイコルを見て、ベビーエビルはため息をついた。
「自分が望んだとはいえ、歪んだ人間を生み出したことに罪悪感があるな」
しかしそれこそがエビルヘッドに力を与えているのだ。矛盾しているが、ベビーエビルはそう思わざるを得なかった。