蝶の片羽は夢を見る
「胡蝶の夢を知っているかい?」
女の声だ。
どうやらぼんやりしていたようで、話の前後関係が思い出せない。だが、これは唐突な話題で、その前はちゃんとまともな会話をしていたはずだ。
自分の意識はようやく自分を思い出したようで、忙しく回転し始めた。
「何だお前は、哲学かなんかの本でも読んだのか」
断定気味に尋ねると気まずげに目を逸らした。 やはりか、と思う。この女は考えていることがわかりやすい。 まあ、腐れ縁と言えるほどの付き合いだから当然だろう。
私は彼女の記憶を引っ張り出して、性格を参照する。彼女には始めて知ったことや経験したことを、他人と共有したがる性質があった。
そんな女は、空気を戻すために咳払いをしてから口を開いた。
「君も知っているだろう?」
「昔の中国のある思想家が夢を見た。 夢の中で己は蝶としてひらひらと宙を舞い、その生を
謳歌していた。 目が覚めたとき、彼は己が蝶になる夢を見たのか、蝶が人間になる夢を見ているのか、と不思議に思った。というお話だ」
「それがどうしたっていうんだ。 まさか僕は僕なのか、とでも言うつもりか」
そう問いかけたが、彼女はこんな事を言うような人間ではないだろう。 彼女はもっと単純で、いつも人の事ばかり考えているのだ。
「そんなこと、考えるほどの余裕は僕には無いさ。面白いと思っただけだよ」
何に、と聞く前に女は続ける。
「この話は故事成語の意味では、『夢と現実の区別がつかないこと』となっている。だが彼自身は夢も現実も違いはあれども、根っこは同じだという考えを示した。かなり省略してしまったが、要は『夢と現実の区別をつけない』んだ。彼は夢も現実も受け入れている。なのに、後の人々は受け入れられずに惑っているんだ」
「そうだな」
軽く相槌を打ってそっぽを向いた。
興味ぐらいは示した方が良いのかもしれないが、私はこの長話に飽きつつあった。
女は興奮すると話が長くなる上に自分の世界に入っていくのだ。もっと余裕がある時ならば、いつまでも聞いていられただろう。
「全く、君は本当に話を聞く気がない。そんな様子だと意中の子にも呆れられてしまうよ」
「意中の人間などいない」
突き放すように言った。彼女とのやりとりの中ではこのような事も無い訳ではないが、いささか冷たすぎではないだろうか。 自分の目がやってしまったと言わんばかりに泳いだのを気にしながら、声をかけた。
「それで、話の続きは」
催促する形になってしまうのが何とも口惜しい。正面では彼女がにんまりと笑っていた。
「ではありがたく、人々は自分が本当に存在しているのか信じられなかったんだ。 蝶か人間か、あるいは他の何かなのか?僕らの意識は本物なのか? この疑問たちを、彼らは胡蝶の夢に押しつけた。 まあそんな話は置いといて、ここで僕が論点にしたいのは何故押しつけたのかじゃない」
やや置いて、言う。
「自分の意識を確信できないことを、何も蝶で例える必要は無いんだ。物はいくらでもある」
「ふーん、例えば?」
早く話が終わって欲しい、そう思いながら右手の鉛筆を眺める。 先程は話を進めさせてしまったが、気まずさに流されなければ終わったのではないか、などと考え始めた。 空調があるのか、こちらの内心とは反対の快適で爽やかな空間で過ごせること。 それだけがこの長話の唯一の利点だった。
何ともし難い空気の中で彼女はゆっくりと唇を動かす。
「多重人格」
唐突な言葉に一瞬目を向けてしまう。 その言葉が場違いに聞こえたからだ。
「多重人格って、それは精神障害であって意識が存在するしないは関係無くないか」
「論点がずれているよ、君」
椅子から立ち上がり、頭を軽く叩く。
その感触があまりに不明瞭で、まだ意識の霞の中にいるのかと一瞬疑問がよぎるが、首を振る。
「存在するかではなく、例示することにふさわしい物として挙げただけだ。多重人格はその名の通り人格が複数存在して、表に出るのはその中の一つだけ。では、どれが本物の自分なのだろうか、という話だよ」
ふむ、と頷く。
理解しようとすれば理解できる。しかし、私にはそれが、この話全体がひどく中身のないものに聞こえてきた。はっきり言ってしまうと、女が何を伝えたいのかさっぱりわからなかった。
頭を抱えて唸る自分を見て、人差し指を立てる。
「本当はもっと話したいことがあったのだが、時間もないから最後に一つ」
時間がないのは自分の長話のせいだろう、などと考えながら待つ。待ちながら、頭では先ほどの話について考えていた。 何か引っかかるような気がする、身近にそういった存在があるような、ないような。
何者も映さない瞳が私を射抜く。何か重苦しいものに気圧されて、息を呑んだ。
「多重人格は、本人が自覚しているかいないかで性質が変わる。自覚できていなければ凶悪な者になり得るし、できていれば自在に操れる可能性もある」
あくまで可能性だがね、と最後に付け加える。 人差し指を立て、目をうすく細めながら。
だが、話が終わったことへの喜びより、ずっと気になっていることがなんであるのか明らかにできないもどかしさの方が私の優先度を上回った。
喉元まで出かかっているのに出てこない。頭の中の、大脳皮質に埋まった何かを掘り起こし、その姿を見ようとしているのに、その何かはどんどんと奥に潜り込んでしまって姿がわからない。
何かを追い続けている自分には、目の前の彼女が言った話を理解する余裕など無かった。
ただ、自分の中に潜り続け、潜り続けて
「ああ、あとこれも伝えたかったんだ。自覚している者の中には、人格どうしで____」
****
最初に視界に入ったのは、ぼやけた少女の姿だった。
ぼんやりとした意識をかき集め、自分が何者でどこにいるのかを思い出す。
「ああ、やっと目を覚ました」
目の前の少女は言う。その安堵したような表情に少し疲れが見える。
「さっきからずっと寝てて、何言っても反応しないんだもの。心配ぐらいするでしょう?」
「そういうものか」
声を返すと、そういうものよ、と返事がくる。
ふと、このゆったりした時間が有り難いものに思えてきた。しっとりした心地よさを全身で味わっていると、頬を膨らませた少女が私に声をかける。
「ねえ」
「きみ、人に心配かけたっていうのに随分と呑気なんだね。不安でしょうがなかったボクに、言うことぐらいあるでしょう?」
ああ、となんとなく合点がいく。いくにはいったが、その言葉を発するのがなんとなく気まずくて目を落とす。だが左には何もないし、右には鉛筆が挟まった本しかない。 どうやら話を流すことは難しいようで、私はひとつため息をついた。
それから少女の目を見つめて、言う。
「心配かけてすまなかった。ありがとう」
少女は淡く頬を染めて、柔らかく微笑みを浮かべた。




