黒染めの翼
百合です。
始まりは、遠く彼方の約束だった。
昔昔 神さまが暮らす世界がありました。
そこには神さまと、神さまが創った生きもの、神さまに仕える天使、そして、悪魔がおりました。
悪魔は、他のものが悪さをするとやってきて、悪さをしたものを連れ去って行きました。だから彼らは、他のみんなに恐れられていました。
ある時、ひとりの悪魔が天使のもとにあらわれました。
天使は驚きました。自分は何も悪いことなどしていないからです。それに、その悪魔の様子も変だったのです。
天使は尋ねました。
「悪魔さん、どうしてここにいらっしゃるの?」
悪魔は答えました。
「ケガをしてしまったのだ」
よく見ると、悪魔の翼には深い傷がありました。天使は、初めて血というものを見ました。
赤くてどろどろとした、見続けることさえ厳しいものでしたが、天使はそれにさわろうとました。
「触るな」
ですが、悪魔はその手をよけてしまいました。
「なぜ、触れてはいけないのですか」
「お前が、けがれてしまうからだ」
目を見ひらいた天使を見て、悪魔はそう答えました。それでも天使はめげずに言いました。
「ですが、傷に触れなくてはケガが治りません」
「そんなもの、放っておけば治る」
「しかし、それでは時間がかかってしまうでしょう」
「時間などいくらでもある。放っておいてくれ」
「いやです。治療をさせてください」
「なぜ、そこまで言うのだ。われは、恐ろしい悪魔だぞ」
「誰であろうとも、救いをあたえるのが天使です」
あっけにとられて、ついに折れた悪魔は、天使に任せることにしたのです。
それから毎日、天使は悪魔のもとへ、世話をしにやってきました。
ケガの治療も、食事の準備も、いろいろなことも、天使が全てやりました。
いく日かして、悪魔の翼はもとどおりに治りました。悪魔がさろうとしたとき、天使が言いました。
「また、あなたに会いたいです」
悪魔は、それを予想していました。
天使は好奇心がつよく、ものを恐れることがないと、一緒にすごした数日間で分かっていたからです。
「無理だ」
悪魔はきっぱりと否定しました。
途端に、さみしそうな、つらそうな顔になった天使を見て、悪魔の胸にちくりとした痛みがはしりました。
「でも」
「無理だ」
何とか引き止めようとする天使ですが、悪魔も負けていられません。
そこで悪魔は、あらかじめ考えておいた約束をすることにしました。
「ならば、たった一度だけ、またお前に会いにいこう。ただし、ひとつ条件がある」
「われのことを、お前がずっと覚えていること。それが条件だ」
しかし、その条件は、並の天使にとってとてもむずかしいものでした。
なぜなら、悪魔以外の者たちは、悪魔のことをすぐに忘れてしまうからです。
悪魔が来たことは覚えていても、どんな姿で、どんな声をしていたのか、そういったことは全て忘れてしまうのです。
天使は悪魔の思い通り、この約束を了承しました。
「わかりました。絶対ですよ」
「ああ」
飛び去っていく悪魔を見ながら、天使はずっと手を組んでおりました。
それからしばらくは、悪魔はどこにも行きませんでした。
万が一のこともありますし、もっとちがうことも原因です。
なんだか心のかけらを失ったような、傷口を無理やりなかったことにされたような違和感があったのです。
またしばらくして、悪魔が違和感になれたころ。
悪魔のもとに仕事がやってきました。
神さまの世界で、誰かがとても悪いことをしているのだそうです。
たくさんの仲間たちがその人を連れ去ろうとしましたが、抵抗されて逆に傷つけられてしまったといいます。
ただ、誰かを探しているようで、とりあえず全員がその人のもとへ行くということになったそうです。
途中まで、悪魔はその人が誰かわかりませんでした。
ですが、話を聞くにつれて悪魔はいやな予感がからだを巡り始めました。
その人のもとへ行くと、あたりはひどい状態になっていました。
仲間たちがたおれ、生き物たちが血を流し、大地が血に染まっています。
肉片が飛びちり、一歩あるけば死体にあたる、そんな状態です。
一人、先に大地に降りたった悪魔はその光景に気持ち悪さを感じました。
絶対にこんなことを行った者をゆるしてはならない。
そう心にきめて、翼をひろげたとき、何かが正面からやってくるのが見えました。
何かはとても速く飛んで、あっという間に悪魔の目のまえに降りたちました。
「お久しぶりです。悪魔さん」
うれしさを堪えきれない笑顔をさかせて、いつかの天使が話しかけます。
「なぜ、こんなことをした」
悪魔は、胸がずきずきと痛むような気がしました。
よく見ると、天使は羽が黒くそまり、あんなにきれいだった金色の髪は、返り血で赤黒くたっています。
「なぜって」
「あなたに会うためです」
悪魔は驚きませんでした。
ですが、悲しみにみたされました。
あの天使のことを、信じていたかったのです。
そんな悪魔の心も知っているのかいないのか、天使は言葉をつづけます。
「あなたと別れてから、ぜったいにあなたを忘れないようにがんばったんです」
「毎日、あなたの声や顔を思い出して」
「あなたの血の感触も胸にきざんで」
「ずっと、ずっと、あなたとの再開を楽しみにしていました」
ああ、なんということだ。
悪魔は自分の愚かさを嘆きました。
自分自身が去っても、あの場所には自分の血がついたものが沢山残っていたのです。
「あなたは、私のことを覚えていますか?」
「ああ」
たとえその答えの先が絶望だったとしても、悪魔はそう答えるしかありませんでした。
なぜなのかは、悪魔自身にもわかりません。
天使が悪魔に近づいて、ゆっくりと、手をつなぎました。
「ふふっ」
うれしそうな天使の微笑みを見て、悪魔は悟りました。
最初から、あの日から、間違えていたのだと。
「私、嬉しいです。
ようやく、あなたと触れあえるようになっ
て」
それからぎゅっと、悪魔を抱きしめました。
誰にも渡さないように、逃がさないように。
「本当に、幸せ」