異界の知識
知識の実を食べてから数日の間、セレナはふわふわとした気分で日々を過ごしていた。
ふとした瞬間に異界の記憶が流れ込むから、現実との境界がわからなくなってしまうのだ。
「たくさん心配をかけてしまったわ」
食事の席につけば、パンをちぎる事なくそのままかぶりつく。
散策にいけば長年しつけられた令嬢としての立ち居振る舞いも忘れて走り回る。
あげく、屋敷の使用人達をじっと見つめていたかと思えばそのまま尾行を開始する。
ここ数日間で起こったセレナの奇行は、ひとつひとつ上げていけばキリがない。
『だって仕方がないじゃない。焼きたてのパンなんてパン屋さんにでも行かなければ食べられないし、こんなにも見事なイングリッシュガーデンは外国でなければお目にかかれない。なによりも、生のメイドさんが働く姿なんてタイムスリップでもしなければ見る事も出来ないもの』
これぞ、萌え。堪能しなければもったいない! とセレナの脳内で誰かが力説する。
すると不思議な事に、セレナもその通りだと思ってしまうのだ。
焼きたてのパンは毎日食べているし、引き取られた当時からリシュリア家の庭はセレナの憩いの場だ。使用人だって、きちんと専属のメイドを付けてもらっている。
今さら目新しい事など何もない。そのはずなのに。
「『メイドも騎士も乙女の憧れ。魔法がある世界なんて夢のよう。精霊さんや妖精とお友達になれたらもう死んでもいい』……これは一体誰の声?」
声、と仮に形容したが、頭の中で誰かがしゃべっている訳でも、セレナに別の人格がうまれたわけでもない。
ただ、時々。ほんとうに時々、セレナの中にセレナの物ではない思考がうまれる。
まるでどこか異なる世界で生きた意思がセレナに宿ったように、まったく異なった視点から物事を見る事が出来るようになった。
「知識の実を取り込んだ影響かしら」
もしもそうなら、日を置けば収まるだろう。
どちらにせよ視野が広がるのは良い事だ、と前向きに考えてセレナは放置した。
正確に言えば、考えても無駄だと匙を投げた。
そして今、そのツケを払う事になっている。
知識の実がもたらしたのは、異界ならではの考え方や捉え方だけではない。
異界の知識も、だった。
おかげでセレナはレッスン中にぼんやりしたまま異界の音楽を奏でてしまったのだ。
結果、偶然発動した「術」は先生を卒倒させてしまう事となる。
騒ぎはそのまま屋敷中に広がり、元凶となったセレナは自室待機を命じられ、今に至る。
人はそれを、軟禁ともいう。
「どうしましょう。ねぇ、あなたには理由がわかって?」
自室のベッドに浅く腰を掛けて、セレナは手を伸ばす。
白くたおやかな指先がくすぐるのは、淡く光る白銀の毛皮だ。
「きゅうん」
喉をくすぐられた小さなオオカミが可愛らしい鳴き声を上げて、セレナの手になつく。
美しい蒼玉の瞳が輝いた。
遊んでくれると勘違いしたのだろう。
純白の翼を広げたオオカミは尻尾をひとふりするとそのままセレナめがけて飛んだ。
「……絶対にわかってないわね」
比喩でもなんでもない。文字通り空を駆けてきた小さなオオカミ……っぽい生き物を抱きとめて、セレナは息を吐く。
この子こそが、騒ぎの原因。セレナの「術」によって「召喚」された「何か」だった。
「聖獣……にしては小さいから違うと思うんだけど……」
最古の歴史書にすら記録されていない、神話の中でのみ語り継がれている幻の獣。かつて、5柱の精霊王に使えたとされる5柱の翼持つ聖なる存在。
そのうち、水の精霊王に仕えた聖獣が天狼だったと伝えられていた
「というか、本当にあなたが聖獣だったとしたらとてつもなく面倒な事になるから違っていてほしいんだけど……」
おとぎ話だと思っていた世界樹が実在したからには、聖獣がいたっておかしくはない。
けれど、聖獣の存在が確認されるのと、セレナが聖獣の召喚に成功するのでは事の大きさが違う。
「……ネーヴェルクが絶対にうるさくなる……」
北の国ネーヴェルクは水資源に乏しい国だ。
水がないわけではないが、その大半は氷と言う形で地下に埋まっている。
例の楽器に適合しただけのセレナでも欲しがるのだ。水の聖獣を召喚した事がばれたら即日拉致されてもおかしくはない。
今は皇子だけの言葉であり、セレナも未成年である事から、コッツェル王も提案という形にとどめてくれているが、キュリアスとの婚約は水面下で粛々と進められている。
おそらく学園に入る頃には正式に発表され、卒業と同時に結婚となるだろう。
残された時間は少ないと言うのに、それすらも取り上げられてはたまらない。
いや、事はネーヴェルクだけでは収まらないかもしれない。
聖獣を従えた娘だ。きっとどの国も欲しがるだろう。
「私はお義兄様と結婚したいのに……」
セレナは小さなオオカミを抱きかかえたままパタリとベッドに倒れた。
状況は悪化の一途をたどっている。
これでは何のために知識の実を取り込んだのかわからないではないか。
「もう。何か上位の存在との婚約をそつなく断れるような、役に立つ知識はないの?」
そのまま眼を閉じて、やけくそ気味に異界の知識へと呼びかける。
答えは、あった。
「……あくやくれいじょう?」
それは、異界に存在する物語の知識だ。
婚約が整っている令嬢が、自分勝手な振る舞いを続けることによって、婚約者の心を失っていく。という内容である。
なるほど、確かに妻に相応しくないと判断されれば婚約話など一瞬で吹き飛ぶだろう。
「……試してみる価値は、ある?」
物語に出てくる令嬢たちのような過激な事をしなければいい。
目的は、王族の妃にはふさわしくない、という烙印を押される事。
辺境伯の妻ならばまだ許される範囲を見極めて、罪に問われない範囲を探す事は簡単ではないが、可能性はゼロではないはずだ。
まだ取り込んでいない異界の知識にそのあたりの話が埋まっているかもしれない。
「とりあえず、形からいこうかしら」
傲慢な態度など、とった事もない。
我儘だって一つも言わなかった。
泣き言は散々こぼしたが、それだって限られた人たちの前でだけ。
今までのセレナは、優等生を絵にかいたような、どこに出しても恥ずかしくない娘であるように心がけていた。
まずは、そんな理想のお姫様象を壊すところから。
鏡の前に立って、足を少し開く。なるべく自分が大きく見えるように胸をはって、重心は少しだけ後ろ気味に。扇子は出してくるのが面倒臭いから、代わりに持っていたオオカミを口に当ててみた。翼が良い感じだ。
少し楽しくなってきたセレナは、そのまま高らかに笑ってみる事にした。
「おーっほっほっほっほ」
ガタンと大きな音を立てて、セレナの背後で何かが地面に落ちた。
驚いて振り返れば、自室の扉があいている。
「ごめん。ノックは、したんだけど……」
引きつった顔の義兄がそこにいた。