始まりの果実
「はじめまして、僕のお姫様」
孤児院から屋敷に連れてこられた時、挨拶も満足にできなかった幼いセレナを、彼は柔らかな笑顔で出迎えてくれた。
「僕はリアン。仲良くしてくれると嬉しいな」
おそらく当時の彼は既に、セレナがリシュリア家の一員に迎えられる意味を理解していたと思われる。
それでも差し出された右手には、セレナに対する蔑みも憎しみもなく、ただ春の陽だまりのような暖かさだけがあった。
自分の魔力が国境沿いに位置するリシュリア領を治められるほどに大きくないと言う現実も、後を継ぐために10も離れた孤児の子供を妹として教育し、ゆくゆくは妻として迎えなければならない現実も、決して軽くない。
なのに、セレナの記憶に在るリアンはいつだって微笑んでいた。
運命を悲観するでもなく、セレナを厭うでもなく、あるがままを受け入れ、いつだって自分にできる最善を探していた。
その上でセレナにまで気を配って、めいいっぱい甘やかしてくれた。
そんな人だから、セレナはリアンの力になろうと心から思えたのだ。
――未来がどんな形になっても、この人を支え続けよう。
リシュリア家の養女として正式にお披露目された夜会でこっそり立てた誓いは、いまもセレナの心にある。
思えば、あの頃すでにセレナは恋をしていたのかもしれない。
「お義兄様がいたから、私はここにいられるの」
厳しいレディ教育を耐えられたのも、リアンがいたからだ。
慣れない環境に寂しいと泣くセレナを、厳しい教育に弱音を吐くセレナを、彼が抱きしめてくれたから。だからセレナは逃げ出さずにいられた。
「フォークやナイフすら知らない子供に作法を教え込むのはさぞ骨が折れたでしょうに」
それでも根気よく話を聞いてくれて、時には復習に付き合ってくれたのだから義兄は本当にすごい。
やらなければならない事はたくさんあったろうに、たくさんの時間をセレナにくれた。
「本当に、優しい人」
小さく笑みをこぼして、セレナは朱金の果実を握り締める。
セレナの手でも握り込めるほどに小さなそれは、目が覚めた時、枕元に置いてあったものだ。
共に添えられたカードにはただ一言だけ。
『立ち向かう覚悟あらば、知識をその身に取り込め』
簡潔な言葉。けれどセレナには十分だった。
「この身は、お義兄様の為に。この心は、お義兄様と共に」
そのためならば、なんでもする。覚悟は既にできている。
リアンではない人と共に歩む事など、セレナには考えられない。
だから、あからさまに食べられなさそうな色をしたリンゴっぽいモノも、必要ならば食べられる。
「大丈夫。神話の神様がお食べになるリンゴは金色というもの」
赤が混ざっている分まだマシだ。たぶん。
心を決めると、セレナは勢いに任せて朱金の実をひとくちで食べた。
瞬間、脳内に膨大な量の情報が流れ込んできた。
これが、取り込むべき知識なのだろうか。
石畳に覆われた地面があった。
天にも届きそうな高い建物があった。
空は狭く、緑も少ない。
灰色に覆われた道を、少女が歩いている。
黒い髪をふわふわした布のようなものでまとめた、セレナと同じくらいの娘だ。
彼女の黒い瞳と、視線が重なる。
セレナは唐突に理解した。
石畳はアスファルト。高い建物はテレビの電波塔を兼ねたシンボルタワー。
都会に自然が少なく、人工物に覆われているのはもうずっと昔からで。少女の髪をまとめている装飾品は、シュシュと言う。
知らない世界の、知らない知識。
雑然としたソレは、まとまりがないにも関わらず視点が統一されていて、まるで誰かの記憶のようにも思えた。
「……っつ……」
何年分もの知識を一気に流し込まれて、セレナの脳はとうに限界を訴えている。
それでも、流れ込む情報は止まらない。
黒髪の少女は自宅に帰る。
軽い足取りで階段を上がっていくと、そこに彼女の部屋があった。
白と緑を貴重にしてし、カントリー調にまとめた少女のお気に入りの場所だ。
セレナがタブレットを見つけた部屋でもある。
あの時のはセレナはタブレットをただの板だと思っていたのに、今では不思議と使い方まで知っているのだから人生はわからない。
部屋に入り、パソコンの電源を入れると、少女はクローゼットの扉を開けた。
ウォークイン式の広い空間の奥には、秘密の本棚がある。
主に、同類じゃない人には見せられない類の本が大切にしまわれている区域だ。
ちなみにパソコンやタブレット、スマホのデータはもっと見せられなかったりする。隠さなければいけない趣味を持つとイロイロ大変なのだ。
数冊の薄い本を選んで机に戻った彼女は、パソコンにパスワードを入力すると流れるような動きで文書作成ソフトを立ち上げる。
――術師にとって、楽器との相性はとても重要だ。
液晶に表示された既視感のある一文は、あまりにも衝撃的だった。
どうやら今セレナが記憶を共有している彼女こそが、世界樹の意思と呼ばれる存在らしい。