「ケダモノと朝」
これは叶わなかった恋の物語の延長線上の美しく創り上げられた物語である。
高校生の僕は中学生の時に恋をしていた先輩と付き合うことになった。
最寄駅から電車に乗って、20分もしないうちに彼女の家がある駅に着いた。
教えてもらった住所をスマートフォンの地図アプリに入力して彼女のアパートの前に来た。
彼女は今、大学生になり、この街の、このアパートで、一人暮らしをしている。
高まる鼓動を押さえつけ、震える指に電気信号で命令を送りながら、インターフォンを押す。
すぐにインターフォンから返事が聞こえて、扉が開いた。
「いらっしゃい、よく来たね」
綺麗な透き通った声で彼女は僕を迎え入れてくれた。
「お邪魔します」
そう言って僕は彼女の部屋に上り込む。
自分の家とは違う匂い、微かに漂う女性特有の匂いが、僕の心の中のケダモノのような恐ろしい心を引き出させようとする。
ソファに座った僕に彼女はお茶の入ったコップを差し出す。
僕はそれを受け取って、少し喉を潤す。
その様子を見ている彼女の顔を見て、瞬間、心の中のケダモノが吠えた。
やめろ、やめてくれ、そんな汚い感情に生み出されたケダモノが彼女を食おうとしている様なんて見たくない。
違う、違うはずなんだ。
僕が求めているのは衝動的欲求に支配されたケダモノに身を任せることなんかじゃないはずなんだ。
その時、彼女が口を開いた。
「そういえば、君が書いてくれた小説読んだよ。ありがとね、こんなに私のことを好きになってくれた子がいたんだって思うと凄く嬉しかった」
「あ、え、いや、勝手に好きになってしまってすみません…、えっと、こんな僕と付き合ってくれてること…凄く感謝してます。嘘じゃないです。」
それを聞くと彼女は笑って言った。
「こんな僕だなんて言わないで。君は私を好きになってくれた素敵な小説家だよ。」
ケダモノが檻に食いついて、激しく唸る。
「小説家なんて大層なもんじゃないですよ、僕なんて…あ、いやでもそう言ってもらえて凄く嬉しいです。ありがとうございます。」
彼女はぎこちない口調の僕を見て笑うと、僕のことを抱きしめて、「大好きだよ。素敵な小説家さん。」と耳元で囁いた。
その甘い声と冷たく冷めきっていた僕の体と心に伝わる体温が遂にケダモノを檻から解き放った。
その刹那、僕は彼女を強く抱きしめ返して、体を出来る限り彼女に寄せ、必死に彼女を強く抱きしめ、彼女の背中に触れている手を強く彼女に触れさせた。
「ずっと…ずっと…こうしたかった。触れたかった。あなたに…」
ケダモノはもう抑えきれなくなった。
伝わる体温、頬のあたりに触れる彼女の髪の毛、彼女の匂い、全てが渇ききったケダモノを潤していく。
気づけば慣れた手つきでケータイを操作する時のように、彼女に唇を何度も何度も重ねていた。
獲物を捕食するケダモノのように僕は彼女を押し倒して、その上に覆い被さり、彼女だと認識させるものすべてを確かめるように彼女に触れていた。
そうしているうちに自分のしていることの恐ろしさに気づいた僕はすぐに彼女から身を離した。
「ごめんなさい。抱きしめられたのが嬉しくてなんか…つい…あの、本当にごめんなさい、そんなつもりじゃ無かったんです。」
と言って謝った。
彼女は笑うと、ソファの上で彼女から身を離している僕の側に寄り、抱きしめて、また囁いた。
「いいよ。」
そう言うと、今度は彼女の方から唇を重ねて来た。
自分より長く生きているから、恋も多くして来たのだろうか。
彼女の方がキスをするのは慣れていて、僕のように不安や恐怖を押し付けるような重ね方はしなかった。
気づけば、長い時間それを繰り返し、僕は彼女の体に包まれて、今まで感じたことのないような安心に包まれていた。
「もう一回、もう一回キスしていいですか?」
僕はそう尋ねる。
彼女は答える。
「いいよ。でも、もうすぐ朝が来ちゃうから君にかかった魔法は解けちゃうよ?」
彼女の言葉の意味が理解出来ずキョトンとしていると、彼女の方から唇を重ねて来た。
瞬間、頭の中に膨大な量の情報を詰め込まれたような感覚になり、鋭い光が暗闇に差し込んで来た。
ハッと目が醒める。
そうか、僕は夢を見ていたのか、自室のベッドの上で身を起こし、その事に気付く。
彼女の言葉はこういう事だったのだ。
夢から覚めた僕を夜を切り裂いて朝を運んで来た太陽が鋭く照らしていた。