EP 3
黒い霧。
何時から在るのか、何の為にそこに在るのか分からない。
黒い霧は只々そこに漂っていた。
黒い霧は流れる。ゆっくりと気まぐれに。そこには何の意思も意図もない。
永遠の刻を気まぐれに在った黒い霧は唐突に流れを変える。
やはりそこには意思も意図もない。
偶然に流れを変えた黒い霧だが、今までもそんなことは何度もあった。だが今回これまでとは少し違う点があった。
それは、流れを変えた方向、角度がこれまでよりも少し急だっただけ。そしてその最も内側の黒い霧の流れが、やはり少しだけ停滞しただけの事だった。
そして停滞した黒い霧に追い付いた流れは停まることは無く、周りを迂回しようとする。その流れに巻き込まれ留まっていた黒い霧は行き場をなくし、その場で渦を巻き始める。渦は迂回しようとしていた霧を巻き込み次第に規模を拡大していく。
周りの霧をどんどんと巻き込み成長していく渦の中心は、黒い霧の濃度を増していく。
濃度が増し圧迫され圧縮し密度を増していく。
黒い霧の流れが偶然に交差することで濃度を増し密度を濃くすることはこれまでにもあった。ちょっとした流れの変化で小さな渦を発生させることもしばしば起こっていた現象だ。だが、いずれの場合もそれよりも大きな流れによって流され散らされていった。
今回も同じようにまた、より大きな流れによって渦は飲み込まれようとしていた。
しかし、またここで小さな偶然が起こる。
それは、大きな流れに飲み込まれ散らされるのが少し、遅かっただけ。
だが、その小さな偶然は密度を増した黒い霧に小さな変化をもたらすには十分な時間だった。
その変化は今にも消え入りそうなほど、か細く弱々しい『小さな意思』の誕生だった。
黒い霧が存在してから初めての小さな変化。小さな奇跡。
その奇跡も流れ込む、より大きな流れによって散らされようとしていた。
渦が飲み込まれると、密度を増していた黒い霧も端から削られるように散らされていった。
小さな奇跡で産まれた『小さな意思』も、自分が消えていくのを感じていた。
ただでさえ弱々しかった『小さな意思』は、その存在を維持することも出来ない。もう間も無く全て散らされてしまうだろう。
薄れていく意識の中で生まれたばかりの『小さな意思』はただ一つだけ願った。
「在りたい」と。
そう願った時、『小さな意思』の眼前には世界が在った。
黒い霧がその願いを聞き届けたのだ。
存在することの出来る世界に舞い降りた『小さな意思』は自信に宿る黒い霧の力を使ってあらゆるものを創造した。
『最初の神』と『最初の世界』は誕生した。
『小さな意思』は後に感謝の意を込めて黒い霧をこう呼んだ。
『世界の母なる大河(オプリス大運河)』と。
◇
男は黒い霧の中、その流れに身を任せ漂う。
ソファーで泣き叫び唐突に生を終わらせた時から、もうどれほどの刻が流れ、いくつの世界を巡ったのだろうか。
最初の幾つかの世界は十歳未満で一生を終えた。事故や事件に巻き込まれ死ぬ事が何度かあった。何事も無く平和な日々を過ごしていても十歳になる前に必ず激しい頭痛によって死んでしまう。
その一生はいずれも死んで黒い霧の空間に戻ってくるまで前世の記憶は無い。
男は辟易していた。
黒い霧の空間は心地よく安らぎに満ちている。しかしその流れに逆らうことは出来ず、どんなに足掻こうとも必ず世界へと運ばれてしまう。運ばれた世界では記憶は無く、十歳になる前に死んでしまう。そして黒い霧の空間に戻ってきた時、その世界で過ごしてきた人生と頭痛の痛みの記憶だけが残るのだ。
(あの頭痛は記憶が蘇る予兆なんだろうな)
死の直前に起こる激しい頭痛。意識が遠のく時に見る走馬灯のような映像。
映像に映っているのはこれまで幾つも巡ってきた世界での人生だった。それが男の予想が大きく外れていない証拠とも言えるだろう。
(だが、どうしたってあの頭痛を耐えられそうにないぞ?)
男の予想はもう随分前から思い浮かんでいた。だが世界に産まれてからは記憶がないのだ。その世界では初体験の痛みになる。今の状態で同じ痛みに襲われても、耐え切れる自信が男にはあった。それは、もう何度も経験しているから。知っている痛みが、来ると分かっていれば耐えられる。
だが十歳にも満たない子供が経験したことのない激しい痛みに耐えられるはずもなかった。
(んー、んー、んー)
流れから逃げる事も拒否する事も出来ず、ただ流れに身を任せてまた新たな世界に産まれるしかない現状。世界は違ってもほぼ同じループを繰り返す地獄のような現状に心折れそうになりながらも、男は顎を手で摩りながら打開策を模索する。
ちょっとした失敗でソファーで泣き叫んでいた男はもういない。それは幾つもの世界での死の経験によって、死が本当の意味での終わりではないと知ったからだろう。
(ん?)
男は気がつく。顎を手で摩っていた自分に。
(あれ?)
手足の感覚は今までもずっとあった。だがそれは酷く薄ぼんやりしていたし、黒い霧が纏わりついて抵抗感がある程度だったのだ。だが今は自分の顎を手で摩れている。以前よりもはっきりと自分の身体を認識出来ていることに気がつく。
(これは…どういうことだろう?)
顔の前に手を翳してみる。
相変わらず黒い霧が充満していて、その手を見ることは出来ない。だがそこに手があることははっきりと認識できる。
(俺の身体は……これも霧だったのか…)
見えない自分の手をさらに顔に近づける。もう手が顔を覆っている状態だ。それでも手を見ることは出来ない。
一瞬、視力が無いのかとも思ったがどうやら違うようだ。それは手があると感覚で分かるのではなく、しかっりと目が認識してるからだ。
顔を手で覆って初めて気がつく。自分の手とその周りの黒い霧との密度の差を。
今までにこの空間における自分の姿は黒い霧のせいで見えないだけで、何の根拠もなく美容師だった頃の姿だと思い込んでいた。だがそれは間違いで同じ黒い霧で構成されていたから分からなかっただけだった。
(黒に黒で違う黒が見えるって……ん? どういうこと? いや、ま、確かに黒にも種類があるけども……でも同じ黒い霧なわけで…うん、止めよう。考えるのやめ)
黒に満たされた空間の中でその濃度の違いが分かるものなのか? と疑問に思うも、その疑問自体を放棄したようだ。
(以前よりも身体の感覚が鮮明なのは霧の濃度の問題か?)
そう考えた男は霧の中で手足を大の字に広げ、何となく周囲の黒い霧を取り込めないかと意識を集中してみる。以前の男ならば「厨二か!」と馬鹿にしていたことだろう。
しかし、今自分がいるのは世界を巡る黒い霧で満たされた不思議空間だ。
誰が見ている訳でもなく、現状のループを打開する為に今はこれぐらいしか男に出来ることは無かった。
意識を集中し始めて間もなく、ファンタジーもかくや周囲の霧の濃度が増し始め男に溶け込むように吸収されていった。
(お? うぉ? マジか! もう今更だけどマジか…)
本当にもう今更のことを呟きながら、男はさらに霧を吸収する。霧を吸収した男の身体は、今はもう顔に手を近づけるまでもなくはっきりと見えるまで密度を増している。
男が霧の吸収に意識を集中させていると、またいつもの圧迫感が訪れる。
次の世界だ。
男は今までと少しだけ違う現状に期待を抱きながら、新たな世界で産声をあげた。
◇
今、男はいつもの黒い霧の空間に漂っている。
期待も虚しく死んでしまった訳ではない。
むしろ目論見は成功。頭痛にも耐えられる肉体となって産まれ、記憶を取り戻す事が出来るようになった。最近では頭痛もなく産まれた時から記憶を保てている。
黒い霧を吸収して頭痛に耐えられる肉体を手に入れた最初の頃、頭痛とは関係なく事故で死んでしまったり、戦争に巻き込まれて死んでしまったりと、何かの悪意を感じることが何度かあったが、その後は順調に人生を何度か謳歌することが出来た。
不思議なのが今までの全ての世界で知的生命体として産まれたことで、一度も犬、猫、爬虫類に鳥類、魔物的なものといった知的生命体以外のものとして産まれることがなかった。
何度もある生の中で一度くらいは、と思っていた男は多少残念に思いながらも考えても答えの出ない事だと、やはり放棄した。
幾つも謳歌した人生はそれこそ漫画や小説の主人公のように何でもやった。
何でもと言ってもハーレム属性は無く、男も望んでいなかったので問題無さそうなのだが何故か女に騙される事が続き女性不信になってしまった。
チート的なものは基本無かったし、今までの記憶を活用して内政チートをしようにもそこまでの知識は無かった。
元々は三十過ぎの美容師だ。ニュースはよく見ていたがそこまで社会に関心があった訳ではない。知識としてアイディアは出せても、それを実行する力は無かったしプレゼン能力も無かった。
米を作ろうにも農業の知識も技術も無い。田んぼは作れても枯らしてしまうか雀の涙ほどの収穫しか得られない。収穫出来ても美味しくない。麦も同様、その他野菜も同じだ。
飢饉でもあれば生きる為に試行錯誤して成功する事もあったかもしれないが、そもそも食糧難では無かったし、それではチートとは呼べないだろう。
男は内政、技術チート系のラノベは好きだったが、心の奥底にしまいこんでいた違和感がどの世界でも湧き上がってきていた。
(主人公博識すぎるだろ! 学生が転移や転生する作品が多いのに何でも知ってるっておかしいだろ! それでいて劣等生だったと言い張る奴が多かったりするし。クソ優秀じゃねぇか! 三十過ぎのおっさん物もあるけど、ただのリーマンが狩りの仕方知ってたり、獲物解体出来たり、農業で作物育てたり、色んな設計図知ってたり、軍隊率いて指揮したりできるか? そんなやつがただの雇われリーマンとかあり得るのか? )
男は小説に出てきそうなシュチュエーションのたびに奮闘した。チートヒャッハーがしたかったという下心も無くには無かったが、基本的には心からの善意によるものだった。しかし、そのほとんどが素人の浅知恵でしかない男の知識では中途半端にしかならず失敗した。
ちなみにSFな世界もあったのだが自分の元いた世界よりも進んでいる文明ではチートも何もあったもんではなかった。
(はぁ……まぁ僥倖だったのは魔法の世界が意外と多かったのと、覚えた技術は次の世界でも身体がトレース出来たことか)
幾つもの世界で覚えた技術は次の世界でもちゃんと扱う事が出来た。
男は様々な世界で技術を極めていった。同じ剣術でも様々な流派に師事することによってその技術を磨いていった。
男の極めた技術は剣術、格闘術、銃術、魔術の四つ。
少ないのではないかと思うかもしれないが、それには男なりの理由がある。
一つは、ゲーマーとしての男のポリシーとでもいうものだ。『ステータスは極振りが基本』これに則って磨いた技術は剣術。『ファンタジーと言えば剣だ』というだけで剣術を磨いた。もともと運動は得意ではなかったが何度も人生を重ねるうちに克服し遂に極めるまでに至った。
剣術を極めた男はまだまだ幾つも人生があることに気付き、格闘術を習い始める。さらに人生を重ね格闘術を極めた男は剣術と格闘術の融合を試みる。また人生を重ねそれすらも極めた男は、今更になって遠距離攻撃が一切無いことに気がつく。次の世界では遠距離攻撃で何か探そうと思い、産まれ世界はSFだった。その世界には当然のように弓なんてものは無く、あったのはレーザーなどの光学兵器にレールガンなんかの電磁兵器だった。
距離による威力減衰も薄く基本真っ直ぐに飛んでいく兵器は、剣術と格闘術を極めた男にとっては容易に扱える。その世界では剣術と格闘術に銃術を加え技を磨いた。
二つ目は魔法の存在だった。
魔法のある世界は多くは無かったが何度も生まれ変われる男には何の問題も無かった。
男は魔法を習い始めるが、やはりこれも最初は上手くいかなかった。
一生をかけて学んだ魔法はその世界では初級でしかなかったのだ。「とことん色んな才能が欠けてるいるな」と嘆いていた男だったが、人生は一度きりでは無い。ストイックに打ち込めば今の自分なら間違いなく極められる。男はそう信じて次の世界まで流れに身を任せた。
だが次の世界で挫折を味わうことになる。
久々の挫折だ。
魔法の理論がまるで違うのだ。前の世界で学んだ事が使えない。
魔法の体系が違っていようとも同じ魔力を使っている以上、前の世界の魔法が使えないのはおかしい。だがいくら試しても魔法は発動しない。男は諦めて一から魔法を習うことにした。
この世界でも初級までしか習得することは出来なかった。
黒い霧の空間に戻った男は次の世界までに何とか打開策を見つけ出そうと思考を巡らせる。だが結局は何も見つからぬまま次の世界で産声をあげることになった。
次の世界でもまた魔法のある世界だったのは僥倖だった。必ず魔法があるとは限らないからだ。
一人で出歩ける年齢まで成長した男は早速、魔法の勉強を始める。だがやはり知っている魔法を使うことは出来なかった。
この世界での男の家族は代々魔法使いの家系のようだった。家族の中でも祖父の魔力量は凄まじく扱う魔法もまた凄まじかった。
いくら剣術と格闘術を極めた男でも遠距離から祖父の魔法をくらえば勝負にもならないだろう。
産まれた時から祖父に匹敵するほどの魔力量を持っていた男は周りから期待され、祖父もまた同じだった。
祖父直々に魔法を教えてもらっていた男は今までに無いほどの成長を見せる。指導者や環境で成長具合が違うのはいつの世もどの世界でも同じようだ。
素晴らしい指導者で偉大な魔法使いにも唯一欠点があった。それは魔力制御。正確には魔力制御自体は一流なのだが膨大な魔力量ではその魔力制御をもってしても抑えられないのだ。
魔法を発動する時と発動後に抑えられなかった魔力が残滓として辺りを漂う。ただそれだけのことなのだが、こと戦闘中においてはそうも言っていられない。これから魔法を放つ事を知らせているようなものなのだから。
だが、男にとってそれこそが僥倖だったと言えるだろう。
魔法の発動時と発動後の魔力の残滓。祖父の魔力の残滓は青と銀の混ざった美しい色だった。男は溢れ出した魔力の残滓が空中に消え入るときの刹那の間に黒くくすんで消えるのを目撃した。それは剣術、格闘術を極めた男だからこそ見ることのできた一瞬だった。
一瞬だけ見えた黒いくすみ。間違いない。黒い霧だ。世界を巡る間、自らの身体に吸収してきた男が見間違えるはずが無い。
魔法は、魔力の元は黒い霧だったのだ。
なんらかの世界の法則で黒い霧を魔力に変換して魔法を行使していたのだ。もしかすると魔力に変換される際に同じ魔力に変換されるわけでは無いのではないだろうか? よくよく考えてみれば世界が違うのだからそりゃそうか、と男は納得する。
タネが分かれば後は実践するのみ。今まで直接に肌で感じて取り込んできた黒い霧だ。それを今まで習得してきた魔法の理論に則って顕現すればいい。
魔法を行使する。結果は成功。魔力制御が未熟なのか祖父と同じように魔力の残滓が辺りを漂っているが、祖父に匹敵するほどの威力を持った魔法を発動することに成功した。
その残滓の色はただただ黒いだけの霧のようだった。
こうして世界ごとの魔法の違いに躓いていた男は、そこからさらに世界を巡る事でやっとの思いで魔法を極めるに至った。
魔法の修行をする上で発覚したのが、魔法がほぼ万能であるということだった。
空を飛ぶことも、大気を操ることも出来るし、無から有を産み出すことも可能だった。それらを利用して武器を作ることも出来た。その対価は自らの魔力=黒い霧。その対価も時間経過とともに回復する。
そしてその魔法のおかげで今まで先送りにしていた問題が解決した。そう銃術だ。
ほぼ真っ直ぐに飛ぶ銃を的に当てられたとして、果たして極めたと言えるのだろうか? もし極めたとしても次の世界にレールガンがなければ意味が無い。真っ直ぐに飛ばなくなった途端に当てることは難しくなるだろう。
そこで魔法の出番だ。込めた魔力の分だけ物理法則を無視して落ちることは無いし曲がらない。土と炎の魔法で弾丸を飛ばすことも魔力の塊を飛ばすことも出来る。極め付けは誘導まで出来る。
お気づきだろうか? そう。もう銃は必要無いのだ。
銃術を極めたというのは一種のカモフラージュのようなものだ。剣術、格闘術、魔術を極めた男には敵が多かった。
強いものと戦いたいという欲求は男には既にない。
ただ周囲の者達は強者である男を放っておくことは無かった。
脳筋連中には所構わず絡まれるし、男の作り出した装備を狙った賊は見境なしに襲ってくる。そんな襲撃者にとっての難題が遠距離からの銃による攻撃だ。
銃さえなければ怖く無いと考えた賊達はありとあらゆる手段を使って銃を男から奪った。そこで満足していれば良かったのだが、欲をだした賊達は男の魔法で作り出された剣も標的にした。
男は銃を持っていない、遠距離攻撃はない、数で囲めば問題ないと判断した賊達は男の魔法によって殲滅された。
銃を持っていた賊の頭も発砲できずにその場に倒れた。
男が持っていた銃はレプリカだ。弾すら込めることも出来ず銃の形をした鉄の塊でしかない。魔法で銃口から弾丸を飛ばしていたに過ぎないのだ。
男は絡んでくる脳筋連中にも嫌気がさしていたが、寝込みも襲ってくる賊どもには心底うんざりしていた。そこで態と銃を奪わせて欲にかられた賊どもを一網打尽にしようと考えたのだ。
この時から右手に取り回しし易い小太刀を、左手には銃のレプリカを装備し格闘術を駆使して立ち回り切り札の魔法を銃でカモフラージュする戦闘スタイルが確立していったのだった。
男はチートでお馴染み魔法による装備などのアイテム作成能力と遠距離攻撃、剣術と格闘術による近接攻撃能力を極め、やっとの事でチートと呼べるまでに成長することが出来たのだった。