第三場
泥沼にはまる・その1/獣との半生記/教団史/笑う猫/五十人殺しの伝説/既婚者からの忠告(あるいは予言)/需要に対する供給、黙認に対する義憤/糖蜜の井戸/思わぬ再会/死霊はデマを否定する/ドッグズ・ライフ
ぬかるみに足を取られて、馬が大きくよろめいた。これで九回目だ。
先の八回と同様、俺は鞍上で巧みにバランスを取り、落馬を免れた。その間に馬も体勢を直し、転倒を免れた。人馬一体とはいかないまでも、そこそこ呼吸は合っている。
だが、所詮は「そこそこ」だから、後が続かない。馬はその場で立ち止まり、蹄で泥をこねるように足踏みを始めた。走る気力を失ってしまったらしい。荒い鼻息が泣き声に聞こえる。まあ、泣きたくもなるだろう。この一帯――タヴァナー市の北にある沼沢地は馬向きの場所じゃないからな。とはいえ、人間向きの場所でもないから、馬に泣いてもらうしかない。
この憐れな馬は組織の備品だが、乗り潰したとしても咎められることはない。上の連中はすぐに新しい馬を支給してくれるはずだ。それだけの功績を俺は積んできた。
しかし、まだ足りない。もっともっと功績を積み上げなくてはいけない。馬を支給する側になるために。
俺が横腹を容赦なく蹴りつけると、四本足の備品はやけくそ気味の嘶きを発して走り始めた。
晩秋の冷たい空気を切り裂くように疾走する白い騎馬――絵になる光景じゃないか。ただし、「晩秋の冷たい空気」は沼地特有の悪臭に満ちているし、「白い騎馬」は泥まみれだ。それに「疾走」というのもどうだろう? 冬に備えて葉を丸めたミズバショウを蹴散らし、草叢に残された夏鳥の巣を踏み潰し、川虫たちが眠る泥を跳ね飛ばし……これは「蹂躙」という言葉のほうがしっくり来るな。
俺と馬が地面を蹂躙しながら向かっている先には、大海に浮かぶ孤島さながらに、乾いた草原が湿地から顔を覗かせていた。その更に先にあるのは、廃墟と化した開放型のドーム。往時のドロッセルラント人たちが築いた劇場神殿だ。
神殿とは名ばかりのあのバカげた建物を見ていると、口許が自然に弛んでくる。べつに微笑ましい気分になるわけじゃない。これは嘲笑だ。こんな不便な場所に神殿を築いたドロッセルラント人たちに対する嘲笑。
そして、〈教団〉に対する嘲笑。
〈教団〉は「調和」や「理解」や「寛容」という言葉を好んで用いるが、実際はドロッセルラント人の奇妙な信仰を異端視し、白眼視し、危険視している。適当な大義名分さえ見つかれば、各地に点在する劇場神殿を一つ残らず破壊するだろう。当のドロッセルラント人たちは劇場神殿のことなど忘れているというのに。
〈教団〉の愚かさについて考えているうちに嘲りが苛立ちに変わり、胸の奥でなにかが吠えた。闇に潜む獣に似たなにか……俺が〈教団〉や真導のことを考える度にこの〈獣〉は吠え猛り、走り回り、爪を立てる。
物心ついた時から俺は〈獣〉と共に生きてきた。子供の頃は〈獣〉に振り回されてばかりいたし、心をかき乱されて自分を見失ったこともある。二十六歳になった今でも心をかき乱されることはあるが、自分を見失うところまではいかない。
幸い今回も自分を見失うことはなかった。馬が湿原を渡り切り、劇場神殿が建つ草原に上陸する頃には、〈獣〉はおとなしくなっていた。
劇場神殿の前には十数人の先客がいた。全員が武器を携え、太い腕章を左の上腕部に付けている。腕章に描かれているのは、棍棒を握った拳の図柄。内州の治安機関である警鼓隊の紋章だ。
正直、警鼓隊のことは好きになれない。治安機関と言えば聞こえが良いが、奴らの実態は市官の私兵だ。市民の守護者であるべきなのに、権力者の走狗に成り下がったクズども……ああ、そうさ。自覚してるよ。これが近親憎悪だってことは。
愛すべき近親者たちに誰何されるよりも早く、俺は馬上で叫んだ。
「責任者は誰だ!」
「貴方じゃないのは確かね」
と、チャオ人の警鼓隊士が応じた。
その隊士は若い女だったが、むくつけき男たちの中に違和感なく溶け込んでいた。だからといって、容貌魁偉というわけではなく、むしろ華奢な体付きをしている。顔立ちは鋭角的で目鼻が大きく、痩せた猫に似ていた。右目は前髪に隠され、左目は俺を真直ぐに見据えていた。その目こそが彼女と他の隊士たちとの共通点だった。鈍い光を湛えた目。暴力を生業にしている人間の目だ。
俺は馬を女の傍に寄せた。
「君が責任者か?」
「いいえ。貴方は何者?」
「粛正省の審問官だ」
左手を突き出し、〈教団〉の腕輪を見せる。
そう、俺は真導師だ。
真導なんて、これっぽっちも信じちゃいないけどな。
今から四百年ほど前のこと。継承派ラムディア教会の僧侶ニール・ギーンとその同志たちがこんなことを言い始めた。
「天使は人間を見捨てたのではない。微睡みの煉獄である現世を人間に託し、一足先に目覚めの楽土に旅立ったのだ」
そして、彼らはシュライキア王国に〈教団〉を興した。それは瞬く間に人心を掴み、国中に広まり、遂には本家の継承派ラムディア教会(今では旧ラムディア教と呼ばれている)を傍流に押しやって、実質的な国教になった。
その隆盛の原動力となったのは、神話時代の知識である〈天使の叡智〉から生み出された秘術――真導だ。夢見る神ラムディアの声を聞き、運命を読み、天を翔け、知覚を拡張し、肉体を強化し、傷や病を癒し、死者をも甦らせる奇跡の技。それを王国の民は信じ、恐れ、なによりも魅せられたというわけだ。
だが、夢はいつか覚める。
真導が王国の隅々にまで染み渡ってから長い年月が過ぎ、人々はようやく悟った。真導の名のもとでおこわなれる儀式や予言や呪術はまやかしに過ぎないことを。
真導に対する信仰は薄れた。真導師には「カッコー」という蔑称が与えられ、真導を信じる者は「クリケット」と呼ばれ、嘲笑の対象や冗談の種にされるようになった。
人々の意識の変化に合わせて、〈教団〉も真導の扱い方を変えた。教義や規範が記された九痕聖典を大幅に改訂し、荒唐無稽な真導の大半に異端の烙印を押して使用を禁じ、当たり障りのない加持祈祷めいたもの(「実証不可能なもの」や「トリックが不要なもの」と言い換えてもいいだろう)だけを正統な真導として認めた。
その無節操な方針転換が功を奏したのか、クリケットが少なくなった現在でも〈教団〉は実質的な国教であり続けている。
「うふっ!」
女隊士が笑った。猫に似た容貌が更に猫めいたものになった。もしも猫が笑うのなら、こんな顔をして笑うのかもしれない。
もっとも、彼女のほうからすれば、この俺も笑う猫なみに奇妙な存在なのだろう。こちらに向けられた眼差しは珍獣を見るそれと同じだ。まあ、無理もない。真導師といえば僧衣と相場が決まっているが、俺が身に着けているのは短衣とズボン、それに革の胸当てと手甲。しかも、腰には長剣を差している。真導師らしいところといえば、僧尾型に結った長髪と〈教団〉の腕輪だけだ。
女の無遠慮な視線に無愛想な視線で対抗しつつ、俺は最初の質問をまたぶつけた。
「責任者は誰だ?」
「はいはい。ちょっと待っててね。ガフさーん!」
女が呼びかけた相手は、神殿の門の近くにいた隊士――口髭を生やした男だ。
「〈教団〉の人が来たの。小隊長を呼んできてくれないかな」
口髭の隊士は無言で頷き、神殿の中に消えた。
俺は馬から降りると、目についた若い隊士に手綱を突き出して、当然のことであるかのように「繋いでおけ」と命じた。隊士は不満げな顔を見せたが、なにも言わずに手綱を受け取った。
「ねえ、審問官さん」
と、あの女が声をかけてきた。
「貴方は歓迎されてないよ」
「そんなことは言われてなくても判ってる。しかし、俺を呼んだのは君たちだぞ」
「『呼びたくて呼んだわけじゃない』というのが大方の意見じゃないかな」
「君も『大方』の一人か?」
「さあねー」
女は顔に手をやり、右目にかかる前髪を指先で梳いた。猫が顔を洗う仕種に似ている。
その仕種と容貌に俺は既視感を覚えた。
「前にどこかで会ったことはないか?」
「それ、口説き文句の枕詞としては古典の域に達してるよ。逆に新鮮な感じがしないこともないけど」
「俺は真面目に話してるんだ」
「貴方が真面目に話すべき相手はあたしみたいな下っ端じゃないでしょ。ほら、小隊長がこっちに来るよ」
女は劇場神殿の門を一瞥し、俺から離れた。
俺も門のほうに目を向けた。
くたびれた外套を身に着けた蓬髪の男が歩いてくる。風采が上がらない中年親父だが、彼を見る隊士たちの視線には敬意と畏怖が含まれていた。どうやら、見かけどおりの人間ではないらしい。
蓬髪の男は俺の前まで来ると――
「おいおいおいおい。随分と物騒な格好をした真導師だなぁ」
――そう言って、胸当てを馴れ馴れしく小突いてきた。
「この防具も剣も飾りじゃなさそうだ。こんな物が真導師に必要なのか?」
「ただの真導師には必要ないが、審問官には必要なんだ」
「納得。審問官っていうのは敵の多い稼業だもんな」
「警鼓隊ほどじゃないけどな」
「げはははははははははは! 返す言葉もないやね」
俺の反撃に豪快な哄笑で応じた後、蓬髪の男は手を差し出してきた。
「俺はジェイコブ・レッダルだ。タヴァナー市の警鼓隊の第二小隊を仕切らせてもらってる。よろしくな」
その手を無視して、俺は自分の名前を告げた。
「粛正省のシンガーだ」
「シンガー!? おいおいおいおいおい。もしかして、あのレイス・シンガーかよ?」
「さあな。あんたが言うところの『あのレイス・シンガー』がどのレイス・シンガーのことなのか判らないから、答えようがない」
「『あのレイス・シンガー』っていうのは、お隣のエルドリッチで伝説を築いた男だよ。異端に手を染めた真導師とその手下あわせて五十人を皆殺しにしたっていう伝説をな」
「ラークスパー事件のことか? いつのまにか話が大きくなっているな。俺がエルドリッチ市で始末した獲物は五人だけだ」
……そう、五人だ。五人だけだ。
「人間様を獲物呼ばわりかよ。おっかねえ野郎だなぁ」
ジェイコブは眉間に皺を寄せ、改めて俺の全身を眺め回した。
「よりにもよって、おまえさんみたいな武闘派の審問官が派遣されるとは……〈教団〉はこの一件を大事だと見做しているようだな」
「考えすぎだ。タヴァナー市の駐留審問官の手が空いていなかったから、たまたま逗留していた巡察審問官の俺にお呼びがかかっただけさ。とりあえず、なにがあったのかを話してくれ。その上で大事かどうかを決める」
「へいへい。今日は郊外の定期巡廻日でな。この辺りの見回りをするついでに劇場神殿の中を覗いてみたら、舞台の上に真導師たちの死体が転がってたんだ」
「その程度のことで審問官を呼んだのか?」
「人の話は最後まで聞くもんだ。死体だけじゃなくて、もっと怪しげな物も見つけたんだよ。それがとても異端くさい物だったから、市の中央教会に急使を送り、審問官を派遣してもらったというわけだ」
「その『異端くさい物』とやらを見せてもらおう」
「はいよ。ついてきな」
ジェイコブは劇場神殿の門に向かって歩き出した。
俺はその後を追ったが、十歩も進まぬうちに背後からの視線を感じ、振り返った。
敵意に満ちた目で俺の後ろ姿を睨んでいたであろう警鼓隊士たちが一斉にそっぽを向いた。ただ一人――あの猫に似た女隊士を除いて。
女は「うふっ!」と笑い、手を振った。前髪が風に揺れ、その奥に隠れていた右目が覗いている。
俺は無言で正面に向き直り、また歩き始めた。
「いい女だろ」
と、前方を行くジェイコブが言った。
「なんのことだ?」
「とぼけなさんな。あの猫娘のことだよ。名前はエイシア・インってんだ。うちの隊の半分が彼女を狙ってる。残りの半分は玉砕しちまった」
「あんたはどっちの半分なんだ?」
「どっちでもねえよ。俺は所帯持ちなんでね。おまえさんは独り者かい?」
「ああ」
「これと決めた女はいるか?」
「どうでもいいだろう」
女の顔が脳裏を過ぎる。あの女隊士じゃない。同僚であり、恋人でもあった五級真導師の女だ。
一ヶ月前、俺はその女との関係に終止符を打った。別れ話を切り出した時、彼女は怒りもせず、泣きもせず、憐れむような顔をしてみせた。おかげで自尊心が少しばかり傷ついたが、後悔はしていない。いずれ、もっと有用な女(どこぞの高家で持て余されてる行き遅れだの、高位真導師のお下がりの愛人だの)を上の連中が紹介してくれるだろう。新しい馬でも支給するかのように。
「独り者のシンガー君に忠告しておこう」
前を歩いていたはずのジェイコブがいつのまにか横に並んでいた。下卑た笑みを満面に浮かべている。
「これを機にエイシアとお近付きに……なんてことは考えないほうがいいぞぉ。おまえさんのことはよく知らないが、あの娘をうまく乗りこなせるような男には見えない。鼻面を引き回されるのがオチだ」
「俺は女に引き回されるほどヤワじゃない」
「女房と出会う前の俺も同じようなことを思ってたもんだ」
「あんたと俺は違うさ。なんにせよ、俺はあの女に手を出したりしない。骨張った女は好みじゃないんだ」
「おいおいおいおい。『骨張った』は酷いんじゃねえのぉ。もうちょっと言い様があるだろう。たとえば『肉付きが控えめ』とかよ」
「言葉を変えたところで実像が変わるわけじゃない」
振り向きたいという欲求が湧き上がってきたが、俺はそれに耐えた。視線に背中を射抜かれる感覚は消えていない。あの骨張った……いや、肉付きが控えめな女隊士はまだこちらを見つめているのだろう。
猫のように笑いながら。
劇場神殿の外観はドーム型だが、内部は円形劇場ならぬ半円形劇場になっていた。石材を重ねて作られた階段状の観客席も半円形なら、その中心にある舞台も半円形で、鳥の集団営巣地と化した天井も半円形だ。
灰白色の糞と灰青色の羽で斑模様が描かれた階段/観客席の最上段に俺とジェイコブは並んで立った。
「ここの天井にはアオサギの群れが住み着いてんだ」
上を指さして、ジェイコブがそう言った。
「この地方のアオサギは凶暴でな。人間様が巣に近付こうもんなら、けたたましい声をあげて突っついてきやがる。劇場神殿の住人にして番人というわけだ。だが、その住人兼番人どもは寒いのが苦手だから、冬が迫ると、南に飛んでくのさ。それと入れ替わるように、今度は人間様が劇場神殿を利用する。肝試しや戦争ごっこのために町から遠征してくる元気いっぱいのガキンチョとか、テイパーズ・デンにさえ居場所がない流れ者とか、ドロッセルラント人の信仰を研究している物好きな学者とか――」
ジェイコブの指が下がり、舞台に向けられた。
「――良からぬことを企んでいる真導師とかな」
舞台の上には、筵から足を覗かせた五つの死体が並び、その傍に数人の警鼓隊士(俺の到来をジェイコブに知らせに行った、あの口髭の男もいる)が立っていた。
「俺らがここに来た時、五人の真導師が舞台に倒れていたんだが、そのうちの一人――手首を斬り落とされて胸を刺されていた奴だけはまだ息をしていた。そいつはおっ死ぬ前にいろいろと話してくれたよ。半死半生の状態で喋った話だから、理解するのに苦労したが、簡単にまとめると『ある奴隷を使って、なにか怪しげなことをしたが、その奴隷が皆をブッ殺して逃げちまった』ということらしい」
「奴隷の素性は?」
「判らん。手首を斬り落とされた奴は『617』と呼んでいた。たぶん、奴隷の商品番号みたいなもんだろうな」
シュライキア王国に奴隷制度はないし、もちろん人身売買は法で禁じられている。
にもかかわらず、人間を売る者がいて、人間を買う者がいる。
市民が奴隷という名の商品になる経緯は千差万別だ。ある者は借金の形にされて、ある者は賊にさらわれて、ある者は山師に騙されて、奴隷商人のもとに卸される。
奴隷たちを待ち受ける運命も千差万別だ。有能な使用人として重宝がられる者もいれば、使い捨ての農奴として酷使される者もいるし、性技と嬌態を駆使して奴隷から愛妾に成り上がる者もいる。
しかし、どのような奴隷であれ、「公的機関に救われる」という運命を期待することはできない。奴隷の売り買いには上層階級の人間がかかわっていることが少なくないので、内州も外州も人身売買を厳しく取り締まっちゃいないんだ。
そんな現状に対する憤りがジェイコブの声には込められていた。市官の私兵同然の警鼓隊に属しているとはいえ、人身売買を憎む程度の正義感は持っているらしい。
この好人物に俺はほんの少しだけ共感を覚えた(あくまでも「ほんの少し」だ)。同時に警戒心も抱いた(こっちは「ほんの少し」とはいかない)。人身売買を憎むような奴なら、審問官の職務に理解を示さないだろう。それどころか、妨害してくるかもしれない。
俺たちは階段/観客席を降り、舞台の前まで行った。舞台は無駄に高かった。しかも、階段や梯子は備えられていない。
「おぉーい、おまえらぁ!」
ジェイコブが舞台上の部下に呼びかける。
「俺を引っ張り上げてくれや!」
「なにやってんですか、もぉ。舞台裏のほうから回ってくればいいのに……」
不平を漏らしながらも、隊士たちはジェイコブに手を貸した。
彼らが悪戦苦闘している間に俺は地面を蹴って舞台の縁に飛びつくと、懸垂の要領で体を持ち上げて壇上に登った。
舞台から観客席を見回してみる。ただの汚い廃墟だと思っていたが、こうして舞台に立つと印象が……ちっとも変わらない。やはり、ただの汚い廃墟だ。
「はぁ~、疲れた」
一足遅れて舞台に登ってきたジェイコブが腰を拳を叩きながら、俺と同じように観客席を見回した。
「どうして、この劇場を建てた連中は舞台をこんなに高くしたのかねえ。最前列の客席からはなにも見えやしないぜ」
「客席は飾りだよ」と、俺は言った。「劇場神殿は、天上の舟星に歌や踊りを奉じるるための場所なんだ」
「へぇー。だから、屋根にでっかい穴が開いてんのか。ドロッセルラント人の考えることはよく判らねえな。もっとも、奴さんたちにしてみれば、真導を信じてる連中のほうがよっぽど不可解な人種なんだろうけどよ……おっと! 真導師さんの前でこんなことを言うのはマズかったかな」
「べつに構わんよ。俺も真導なんぞ信じちゃいない」
「おいおいおいおい!」
ジェイコブが大袈裟に目を剥いてみせた。
「真導師がそんなことを言ってもいいのかよぉ?」
「そんなに驚くことでもないだろう。真導を信じない真導師なんて珍しくもない。むしろ、信じているほうが少数派だ」
「だけど、信じていなくても信じている振りをするのが真導師ってもんじゃねえのか。おまえさんのように『真導なんてクソくらえ』と言ってのける奴こそ少数派だろ」
「『クソくらえ』とまでは言ってないぞ」
心に潜む〈獣〉がまた騒ぎ始めた。俺の代わりに「クソくらえ」と叫んでいるのかもしれない。
この〈獣〉を解き放ち、澱んだ想いをぶちまけたい――そんな衝動を必死に抑えつつ、何食わぬ顔で話題を軌道修正する。
「無駄話はこのくらいにして、本題に入ろう」
「はいよ。まず、念のために面通しをしてくれや」
ジェイコブが中央の筵をめくりあげた。
「たぶん、こいつが頭目だと思う。年嵩だし、色付きの僧衣を着てるからな」
そこには青白い肌の男が横たわっていた。両目から血が涙のように流れ落ちている。
その不気味な泣き顔を見下ろして、俺は言った。
「四級真導師のセバスチャン・スルーフィールドだ」
「知り合いか?」
「知り合いじゃないが、よく知ってる。こいつは〈教団〉ではちょっとした有名人なんだ。筋金入りのクリケットで、おまけに回帰主義者の急先鋒だったからな」
「カイキシュギシャ?」
「『教義や真導が空疎化していなかった古き良き時代に回帰すべきだ』なんてことを主張している真導師たちだ。その中でも特に狂信的な連中は異端の真導を忌避していない。奴らが言うところの『古き良き時代』には異端という概念がなかったからな。こいつも――」
スルーフィールドの脇腹を爪先でつつく。できれば、生前に蹴り飛ばしてやりたかった。
「――狂信的な一派に属し、異端に傾倒していたらしい」
「そんな奴を粛正省は野放しにしてたのかよ。職務怠慢じゃねえか」
「野放しどころか、ずっと目を付けていたさ。審問にかけたこともある。だが、こいつは上手く立ち回り、一度も尻尾を出さなかった」
「そうかい。だけど、今回は尻尾を隠せなかったようだぜ」
ジェイコブは指を鳴らした。
隊士の一人が俺の前に駆け寄り、小さな甕を差し出してきた。その甕の底には、緑色の液体が溜まっていた。
「医者や鋳掛屋が使うような道具が舞台の袖にいくつも転がってたんだけどよ。そこにこの壷があった。傍には漏斗もあった。たぶん、中身を617に飲ませたんじゃねえかな」
俺は胸当てから短剣を抜き取ると、先端を甕の底の液体に浸し、それを自分の鼻先に運んだ。
「この匂い……トリークル・ウェルだな」
「なんの井戸だって?」
「糖蜜の井戸。辰砂やフクロウオの肝から作られる強力な催眠剤だ。トリークル・ウェルと命名したのは〈教団〉だが、本当の名前はシンナムイという」
「おかしな名前だな。チャオ語か?」
「違う。白泥族の言葉で『月の吐息』という意味だ」
「うへえ! 白泥族の薬かよ」
ヴァリ島の先住民である白泥族は蛮族と見做されて蔑まれているが、彼らが調合する様々な薬物は(効果が疑わしいものも含めて)自称「文明人」たちの生活をより良きものにしている。時には、より悪しきものにも。
俺は短剣を袖で拭い、胸当てに戻した。
「トリークル・ウェルは危険な代物だ。効果が不安定だし、副作用もあるから、白泥族の施療師も滅多なことでは使わない。しかし、ある種の真導を用いる際にはその副作用が役に立つ。おそらく、スルーフィールドは……」
言葉を切り、ジェイコブを見る。
「どうした?」
ジェイコブが先を促した。目が笑っている。俺を試しているのだろう。
確信を込めて俺は言った。
「あんたがここで見つけた『異端くさいもの』というのはトリークル・ウェルだけじゃないな?」
「ご明察。もう一つ、とっておきの物が奥の部屋にあるんだ」
「それがなにか当ててやろう。脳を抜き取られた死体だ」
「一応、正解だな。死体といっても――」
ジェイコブは手刀で自分の首を撫でた。
「――こっから上しかないのさ」
ジェイコブに先導されて、俺は舞台裏に回った。
「ここで見つけたんだ。半分腐った首をよぉ」
幅広の通路の突き当たりにある扉の前でジェイコブは立ち止まった。どうやら、倉庫部屋らしい。
「それがまたひどい御面相の首でな。腐ってるということを差し引いても、見られたもんじゃねえんだ。なんていうか……そう、大猿とラクダをかけあわせたような顔だな。想像つくか?」
「つかない。ラクダを見たことがないからな」
「俺はガキの頃に見たよ。乗ったこともある。親切な赤砂族の商人が乗せてくれたんだ。で、調子こいて『地獄の巨鳥乗り』気取りで曲乗りの真似事をしたんだけども、落馬というか落ラクダしちまってよぉ。ここんところに大きなコブが……」
ジェイコブが思い出話を始めたが、俺はそれに耳を貸さずに扉を開けた。
微かに漏れ出ていた室内の腐臭が一気に解き放たれ、襲いかかってきた。手荒い歓迎を受けたのは臭覚だけじゃない。無数の虫の羽音が耳に飛び込んできた。今が黄玉期でよかった。夏場だったら、もっと酷いことになっていただろう。
思い出話を続けるジェイコブを扉の前に残して、俺は室内に足を踏み入れた。
殺風景な部屋だ。かつては衣装や小道具や書割が保管されていたのかもしれないが、今は小さな円卓が置かれているだけ。その円卓には、麻布を被せられた何かが乗せられている。
俺が麻布を取ると、表面や内側にたかっていた虫たちが一斉に飛び立った。その羽音の合奏は拍手に似ていた。
虫たちの拍手に応じて、「大猿とラクダをかけあわせたような顔」が現れた。
それは体から切り離されただけの首ではなかった。頭が眉の上で輪切りにされ、脳が取り除かれている。眼球も失われており、眼窩の底には腐汁と蛆が溜まっている。左の頬は崩れ落ち、黄ばんだ乱杭歯と黒ずんだ歯茎が剥き出しになっている。
そんな惨たらしい有様であるにもかかわらず、その首は生前の特徴を残していた。生来の醜さが死後の腐敗に敗れることなく、見事に調和していた。
ジェイコブが昔話を打ち切り、おどけた調子で首の名前を告げた。
「紹介しよう。アレックス・ザ・ミディアムことアレグザンダー・マッカーティー君だ」
「紹介するまでもない。前に会ったことがある」
「本当かよ?」
「ああ。俺はこいつの処刑に立ち会い、転生封じの聖言を唱えたんだ」
俺はアレックスの首に手を伸ばし、歯が剥き出しになった頬を親しげに叩いた。
「また会ったな、アレックス」
首が笑ったように見えた。
俺は振り返った。
ジェイコブが目を丸くして、こちらを凝視していた。
「おいおいおいおい。おまえさん、本当にアレックスの処刑に立ち会ったのか? あいつを処刑した奴らは一人残らず死んじまったとかいう噂を聞いたが……」
「根も葉もない流言だ。見てのとおり、俺は生きてる」
「でも、名前は『死霊』なんだよな」
「綴りが違う」
無理のある駄洒落をすげなく受け流して、俺は廊下に出た。
ジェイコブが扉を閉め、腐臭の根源をまた倉庫に封じ込めた。
「さて、審問官さんよ。専門家の所見というやつを聞かせてくれや」
「ここで異端の真導が用いられたのは間違いない」
と、俺は静かな声で断言し、更に付け加えた。
「その真導が残魂転移であることも間違いない」
「申し訳ありませんが、素人にも判るように仰ってくださいませんかねぇ。残魂転移っていうのはなんだよ?」
「『精神移植』とも呼ばれている。死体から魂の残滓を取り出し、新たな肉体に移して生き返らせる秘術だ」
「生き返らせるだぁ? いくらなんでも、それはありえねえよ」
「そう、ありえない。しかし、そのありえない真導を信じている人間がいる。ただ信じるだけでなく、実際に用いる人間もいる。アレックスの首には脳がなかっただろう? あれが残魂転移の名残りだ。残魂転移を信じている奴らはこう考えている。人間の魂はここじゃなくて――」
自分の胸を軽く叩き、次にこめかみを指先でつつく。
「――ここにある、と。だから、対象の死体から脳を抜き取るんだ」
「その脳ミソを別人に埋め込むのか?」
「そんなに単純なものじゃない。脳の表面にシンクレア薬を塗り、聖印を刻み、オバズラの腺液と一緒に煮込み……といった具合に呪式を施し、魂の髄液とでも呼ぶべきものを精製する。それを凝固させて琥珀のような石を作るんだ」
「随分と手間がかかるんだな。だけど、その複雑怪奇な手順になんか意味があるのか?」
「あるわけないだろ。ただのハッタリだよ」
過去の歴史に埋もれた〈天使の叡智〉の片鱗を発掘し、調べ上げ、再構築することで真導は生み出された……ということになっているが、実際はまともに再構築されたものなど一つもない(白泥族の薬物のルーツも〈天使の叡智〉だという説があるが、〈教団〉はそれを認めていない)。残魂転移にいたっては再構築どころか発掘の段階で怪しい。〈天使の叡智〉の中に残魂転移に相当する技術があったとは思えない。仮にあったとしても、それは脳を刻んだり煮込んだりするようなデタラメなものじゃなかっただろう。
「で、そのハッタリはどんな風に仕上げるんだよ?」
「魂の髄液を固めた石を別の人間の頭に埋め込むんだ。その工程も手間がかかるぞ。石を取り付ける対象――それは『素体』と呼ばれているが、そいつの本来の記憶を消して頭を真っ白な状態にしなくてはいけない」
「どうやって真っ白にするんだ?」
「それが残魂転移の最大の難関なんだ。この真導を〈天使の叡智〉から再構築した真導師は研究書を残しているんだが、それには記憶を消す方法が記されていない。だから、後人たちは独自の方法を試すしかなかった。素体の頭を強く殴ったり、側頭部を切り開いて脳に手を加えたり、すべてを忘れさせるための暗示をかけたり、人格のできあがっていない乳児に石を取り付けたり、他にも……」
俺が言葉を切ると、ジェイコブが後を引き取った。
「白泥族の薬を飲ませたり、か」
「そうだ。トリークル・ウェルと強い酒の混合物を大量に服用すると、記憶が消し飛ぶことがある。もっとも、命や理性や身体機能が消えてしまうことのほうが多いけどな。スルーフィールドはその方法で奴隷の617の記憶を消し、残魂転移を施したんだろう」
「ところが、617はスルーフィールドたちを殺して逃げちまったというわけだな。今回の事件の筋立てが見えてきたぜ。しかし、なにが起きたのかは判ったが、なぜ起きたのかが判らん。スルーフィールドの目的はなんだったんだ?」
「だから、それはアレックス・ザ・ミディアムを生き返らせることだろう」
「そんなこたぁ、判ってるよ! 判らないのはアレックスを選んだ理由だ。残魂転移の実験がしたいだけなら、他の死体でもよかったはずだぜ。それなのに、スルーフィールドはわざわざアレックスの首を使った……なぜだ?」
「さあな。そんなことはどうでもいい。奴の目的が何であったにせよ、俺がやるべきことに変わりはない」
心の中の〈獣〉が身を大きく反らして吠えた。
その咆哮にジェイコブの問いが重なった。
「なんだよ、やるべきことって?」
「617を見つけ出し、捕まえることだ」
「はぁ? どうして捕まえなくちゃいけないんだ?」
「自分の意思でないとはいえ、617は異端の真導にかかわった。審問官として見逃すわけにはいかない」
「なぁーにが『審問官として』だ。真導なんて信じてないくせによ」
「俺が信じているかどうかは問題じゃない」
「問題にすべきだな。信じていないもののために働いたって、なんの得にもなりゃしねえぞ」
「得はあるさ。職務をきっちりこなせば、上層部に認めてもらえるし、目をかけてもらえる」
「うへえ! まるでエサをもらうために芸を披露する犬じゃねえか」
「そうさ、犬だよ」
〈獣〉はまだ吠え続けていた。俺の胸の内で渦巻く怒りに呼応するかのように。
真導という名のまがい物に対する怒り。
そのまがい物を信じている愚かなクリケットたちに対する怒り。
そのクリケットたちの妄信と狂信を正そうとしない〈教団〉に対する怒り。
そして、その〈教団〉に属している自分自身に対する怒り。
怒りをぶちまけたいという衝動にまた煽られたが、俺は今回もそれを抑えこみ、自嘲の仮面で自己嫌悪を隠して言葉を続けた。
「しかし、犬の役も悪くない。上手く演じ続ければ、いずれは犬を使う側の役に昇格できる」
「犬に追われるウサギ役のことなんか知ったこっちゃないってわけか。他人の命よりも自分の出世のほうが大事なのかよ」
「当然だろう。俺は四級真導師のままで終わるつもりはないんだ。〈教団〉の頂点は無理だとしても、八合目あたりには昇りたい」
「やれやれ……」
ジェイコブは溜息をついた。捨てられた犬でも見るような顔をしている。一ヶ月前、別れた女が見せたあの顔と同じだ。なぜ、どいつもこいつも俺を憐れむ?
「おまえさんのことを真導師にしてはおもしろい奴だと思ってたんだけどなぁ。どうやら、見込み違いだったようだ」
「あんたに俺のなにが判るというんだ?」
「そうさな。とりあえず、『おまえに俺のなにが判る』なんて定番の台詞を恥ずかしげもなく口にできる奴だってことは判ったよ」
「そういう人、あたしは嫌いじゃないな」
と、女の声がいきなり会話に割り込んできた。背後からだ。
振り返り、声の主を見る。
神殿の外で言葉を交わした、あの女隊士――エイシア・インだ。いつから背後にいたのだろう? 気配を感じ取ることができなかったとは……不覚だ。
「話は聞かせてもらったよ、審問官さん!」
エイシアは両手を腰にあて、芝居気たっぷりに叫んだ。鈍い光を湛えた瞳に別の光がある。歓喜がもたらした光かもしれないし、狂気に呼び起こされた光かもしれない。
その瞳を俺は見つめた。見つめるつもりはないのだが、目を逸らすことができない。猫に射竦められた鼠のように。
ジェイコブが俺の肩に手を置き、勝ち誇ったような声で囁きかけた。
「俺の思ったとおりだ。おまえさん、鼻面を引き回されるぞぉ」




