第二場
闇と頭痛/劇場と立看板/記憶喪失/商品番号617/ふっかつのじゅもん/「一人残らずブチ殺してやる」/真剣勝負/アレックス、怒る/ダニ退治/アレックス、笑う/敵の名前
〈彼〉は闇の中で息を吹き返した。
(ここはどこだ?)
なにも見えない。体を動かすこともできない。空の彼方に昇っているような気もするし、奈落の底に落ちているような気もする。
やがて、動かせぬ体に変化が起きた。頭に痛みが生じたのだ。それと同時に上昇/落下の感覚が浮揚の感覚に変わった。
落ちることもなく、昇ることもなく、闇の中をゆらゆらと漂う――それはとても心地良かった。頭の痛みさえなければ。
(この頭痛は気のせいだよ。本当は痛くもなんともないんだ)
〈彼〉は自分にそう言い聞かせてみた。
またもや変化が起きたが、〈彼〉の望んでいた変化ではなかった。痛みではなく、浮揚感のほうが消えてしまったのだ。
冷たくて硬い物の感触を体の背面が伝えてくる。自分が仰向けになっていることを〈彼〉は知った。視界は闇に包まれたままなので、どこに横たわっているのかは判らない。
この闇は自分の意思で消せる。頭の痛みがそう教えてくれた。ただ教えるだけでなく、痛みは〈彼〉を急きたてた。闇を消せ、早く目覚めろ、と。
(いつまでも眠っているわけにはいかないってことか。しょうがない。起きよう……待ってろよ、ウォルラス!)
その時、一つの疑問が頭の奥で火花のように飛び散った。
(あれ? ウォルラスって、誰だっけ?)
〈彼〉は薄目を開けた。
半円形の大きな天井が見えた。もっとも、天井としての役目は果たしていない。中央部に穿たれた穴からは青空が覗き、その穴の縁や朽ちかけた梁のそこかしこには鳥の巣がかけられている。
「目が覚めたようだな」
横手から声が聞こえ、その声の主らしき中年の男が顔を覗き込んできた。
〈彼〉は瞼を大きく開き、物怖じせずに男を見上げた。
男の目は充血し、淡紅色に染まっていた。青白い肌がその淡紅色の目を際立たせている。そして、僧尾と呼ばれる型に結われた黒髪と藍色の僧衣がその青白い肌を際立たせている。そう、男はあきらかに真導師だった。
「立てるか?」
「たぶん、立てる……と、思うよ」
〈彼〉は上体を起こし、周囲を見回した。
そこは小さな劇場だった。いや、「かつて劇場だった場所」と言うべきか。天井の穴から吹き込む風雨に痛めつけられ、惨憺たる有様になっている。梁にかけられた巣がどれも空であることが、この光景をより物悲しいものにしていた。
〈彼〉がいる場所は舞台の上。その中央に並べられた木箱の上に寝かされていたのだ。
舞台を囲んでいる階段状の観客席に人影はなかったが、無級真導師の白い僧衣を着た四人の若者が舞台の袖に立ち、こちらをじっと見つめていた。観客席と舞台の相違点は他にもある。前者は鳥の羽と糞に塗れているのに対して、後者は塵一つ落ちていない(舞台袖の四人が汗水流して雑巾がけをしている様を〈彼〉は想像し、少しばかり同情した)。
更に視線を巡らせる。
人の背丈ほどの高さを有した物が舞台の奥に立っていた。布が掛けられているため、その正体は判らなかったが、厚みがないことだけは見て取れる。
(きっと、なにかの立看板だな)
と、〈彼〉は決め付けた。
そして、淡紅色の目の男に視線を戻し、ゆっくりと木箱から降りた。
狂喜の色を滲ませた顔で〈彼〉の視線を受け止めつつ、男は問いかけた。
「気分はどうだ、アレックス?」
「最悪だよ。頭が痛むし、口の中がネチャネチャする」
〈彼〉は唾を吐き捨てた。床に落ちた唾は微かに緑味を帯びていた。その緑色のなにかが口中の不快感の原因らしい。
「そうか。しかし、生まれ変わった自分の姿を見れば、気分の悪さも消し飛ぶぞ。顔の作りがずっと良くなったからな。まあ、生前の顔が酷すぎたのだが……」
わけの判らないことを言いながら、男は例の「立看板」の布を取った。
〈彼〉の予想は間違っていた。布に隠されていたのは立看板ではなく、姿見だったのだ。
「さあ、見るがいい」
男に促されて〈彼〉は姿見の前に行き、そこに映っている者を見た。
そこに映っている者も〈彼〉を見た。
両者の視線は相手の顔の上部に向かった。額の中央に異物がある。琥珀に似た、赤茶色の小さな球体だ。それは肌の上に貼り付いているのではなく、皮と肉を裂いて作った窪みに埋め込まれていた。額に穿たれた穴が球体をくわえこんでいるようにも見えるし、頭の中の球体が額を突き破って半身を覗かせているようにも見える。
「なんだ、こりゃ?」
球体を摘んで引っ張ってみたが、びくともしなかった。頭蓋に固着しているらしい。
「乱暴に扱うな!」と、男が叫んだ。「その石には貴様の精神……いや、魂が宿っているのだぞ!」
「え?」
その謎めいた言葉の意味を問い質そうとして、〈彼〉は凍りついた。目覚めた瞬間から抱いていた奇妙な違和感が今頃になって明確な疑問となり、迫ってきたのだ。
その疑問とは――
(――僕は誰なんだ?)
それに続いて、新たな謎が次々と泡のように浮き上がってきた。僕の年齢は? 生業は? 住処は? 家族は? どこで生まれた? どんな生き方をしてきた? なぜ、こんなところにいる? そもそも、ここはどこ? 今日は何期の何月の何日?
謎の答えは一つも見出せなかった。自分自身について判っていることは、男が口にした「アレックス」という名前だけだ。もっとも、その名前が自分のものであるという確証はどこにもないが。
アレックスかもしれない何者かは目を閉じ、闇の中で記憶の糸を手繰り寄せた。いや、手繰り寄せるべきものを掴むため、手探りした。
すると――
(ウォルラス?)
――その奇妙な言葉が指の間をすり抜けていった。
それ以外の収穫はなかった。
頭上から不安が滴り落ち、足元から恐怖が這い上がり、闇の中に立つ〈彼〉の全身を包み込んだ。
しかし、その不安と恐怖はすぐに拭い落とされた。心の奥底から湧き上がってきた闘争心にも似た好奇心によって。
アレックスは目を開き、鏡に映る自分に向かって楽しげに語りかけた。
「わーおぅ! もしかして、これは記憶喪失ってやつかい?」
鏡の中の〈彼〉がニヤリと笑い、アレックスに頷いてみせた。
姿見に映る自分の姿をアレックスはしげしげと眺めた。先刻は額の石に気を取られたが、今度はそれ以外のところにもしっかりと目を向けた。
『正体不明の僕に関するメモその一……僕はチャオ人である』
と、心の備忘録に書き記す。
確かに外見はチャオ人だ。肌は黄褐色で、髪と瞳は黒い。だが、淡紅色の目の男との会話はシュライキア王国の公用語でおこなったし、思考に用いているのも公用語だ。多くのチャオ人がそうであるように、記憶を失う前のアレックスもシュライキア王国の臣民として生きていたのだろう。海の底に沈んだと言われている鷦島の遺民ではなく。
年齢は十代の後半くらいか。顔立ちは中性的で、額の異物を考慮に入れなければ、まずまず端整と言える。アレックスは「中の上」とランク付けしたが、考え直して「上の下」に格上げした。右も左も判らない状況なのだから、せめて自分自身との関係は良好なものにしておいたほうがいい。
髪を何気なくかき上げてみると、左のこめかみの辺りに傷痕が見えた。古い傷ではないが、昨日今日のものでもなさそうだ。傷はそれだけではなかった。細長い痣が両手首を周回し、その縁のところどころで皮膚が裂け、血が滲んでいる。枷で拘束されていたらしい。
少し後退して、全身を眺める。
背丈は低かった。しかし、貧弱には見えない。身に着けているのは薄汚れた肌着とズボン。どちらも粗末であるばかりか、丈が合っていない。肌着の裾には小さな木片が縫い付けられており、そこには「617」と刻まれていた。
「……ろく、いち、なな?」
アレックスが首をかしげると、彼の行動を見守っていた淡紅色の目の男が言った。
「それは商品番号だ。ローマーはすべての売り物に番号を付けているらしい」
「番号を付けるだけじゃなくて、ちゃんと手入れもするべきだね。見てよ、この服。まるで雑巾だ」
「ローマーの売り物は服ではなく、中身のほうだ」
「中身? あんたの言っていることはよく判らないな。っていうか、僕自身のことも判らないんだけどね。記憶をなくしちゃったもんだからさ」
「なくしたわけではない。その額の石に記憶はしっかりと刻まれている。いずれ、貴様はすべてを思い出すはずだ」
「思い出すまで待ってられないよ。できれば、今すぐに教えてほしいな」
「ああ、教えてやるとも。私はセバスチャン・スルーフィールド。〈教団〉の四級真導師だ。そして――」
舞台の袖にいる四人の無級真導師を男は指さした。
「――あれは私の弟子たちだ」
「いや、あんたたちのことはどうでもいいから、僕のことを教えてよ」
「貴様はアレックス・ザ・ミディアムだ」
「アレックス・ザ・ミディアム?」
アレックスは思わず復唱した。失われた手足に痛みを感じる幻肢痛のように、失われた記憶の一端がその名に反応した。
「なんだか聞き覚えがあるような気がする……って、自分の名前なんだから、聞き覚えがあるのは当然か。だけど、これは二つ名の類じゃないの?」
「うむ。本名はアレグザンダー・マッカーティーだ」
「チャオ人らしからぬ名前だね」
「あたりまえだ。生前の貴様はファウクーン人だったのだからな」
「生前って、どういうこと?」
「貴様は〈吼え猛るヤマネ団〉という盗賊団を率いて各地を荒らしまわっていたが、悪運が尽きて騎士団に捕縛された。そして、七日ほど前に斬首刑に処されたのだ」
「わーおぅ! 僕は死人だったのか。記憶喪失っていうのは、自分が死んだことまで忘れちゃうものなんだね。こりゃ驚いた。はははははは」
アレックスは笑った。常軌を逸した言動には真面目に対応したりせず、悪趣味な冗談として受け流したほうがいい。
だが、意図的な曲解をスルーフィールドは許さなかった。
「笑うな! 私が言ってることは嘘でも冗談でもない。貴様は本当に死んだのだ」
「でも、僕の首はちゃんと繋がってるよ。呼吸もしてるし、心臓も動いてる」
「そのとおり。貴様は生きている。しかし、本来の魂は夢見の冥府で責め苦を受けている。今、貴様の中にあるのは、残魂転移という真導によって宿った第二の魂だ」
「……は?」
「人が死ねば、その魂は目覚めの楽土に転生する。あるいは夢見の冥府で永遠の責め苦を受ける。しかし、現世から完全に消え去るわけではない。命が燃え尽きる時、魂の影が骸に焼き付けられるのだ。私は貴様の骸から魂の影を摘出して――」
スルーフィールドの細い指が、アレックスの額に埋め込まれた石に突きつけられた。
「――その石に宿らせ、素体に埋め込んだ。そして、貴様は新たな生命を得たのだ。判ったか?」
「さっぱり判りませーん」
「ええい! 平たく言うと、私が真導を用いて貴様を生き返らせたということだ!」
「生き返らせた?」
「そうだ」
「真導を使って?」
「そうだ」
「……あんた、イカれてるよ」
「なにを言うか! 私は正気だ!」
スルーフィールドが怒鳴ったが、アレックスはなにも言い返さなかった。「あんた、イカれてるよ」という言葉を放った直後、奇妙な既視感に心をとらわれたのだ。
(つい最近、同じことを言ったような気がする。誰に言ったんだっけ?)
助言を求めるかのように姿見を横目で見る。鏡に映っている少年が指を弾くような仕種でスルーフィールドを指し示した。もちろん、鏡の中の少年はアレックス自身であり、スルーフィールドを指したのは反射的な動作に過ぎない。それでも、その偶然の教示に従って、アレックスはスルーフィールドを見た。淡紅色に濁った目を見た。
心の奥で誰かが物騒な言葉を囁いた。
『一人残らずブチ殺してやる』
一瞬、なにかを思い出しかけた。
だが、なにも思い出せなかった。
既視感が消え、囁き声を発した「誰か」も消えた。あるいは最初から誰もいなかったのかもしれない。
アレックスの突然の沈黙と凝視にスルーフィールドはたじろいだ様子を見せたが、すぐに気を取り直し、舞台の袖に声をかけた。
「言葉を重ねても埒が明かん。この愚か者には荒療治が必要だな。貴様の出番だぞ、シンプル・サイモン」
「お任せください」
袖にいた四人組のうちの一人が舞台に歩み出た。シンプル・サイモンと呼ばれたその若者は僧衣の帯に長剣と短剣を一本ずつ差し込んでいた。真導師には無用の代物だが、彼の立居振る舞いは剣を使い慣れている者のそれだ。
長剣の柄に手をやって、サイモンはスルーフィールドに確認した。
「真剣を使ってもよろしいですか?」
「構わん。貴様もアレックスも木剣では本領を発揮できんだろうからな。しかし、間違っても殺すなよ」
袖に残っていた無級真導師の一人が舞台裏に姿を消した。他の二人は舞台に出てきて、アレックスが寝かされていた木箱を黒子さながらの所作で片付け始めた。
アレックスはスルーフィールドからサイモンに、更に木箱を片付けている二人組へと視線を移し、その作業をぽかんと眺めていたが、やがて我に返った。
「えーっと……なにが始まるのかな?」
「ちょっとした腕試しだ」と、スルーフィールドが答えた。「貴様にはシンプル・サイモンの相手をしてもらう。こやつは渾名の通りの愚直な男だが、剣術に関しては警鼓隊の古強者にも引けを取らん。ランシター市の剣武祭で二度も入賞したことがあるのだ」
「……三度です」
サイモンの遠慮がちな訂正に耳を貸すことなく、スルーフィールドとアレックスは話を続けた。
「この手合わせによって、残魂転移の成否を確認することができる」
「どうして?」
「アレックス・ザ・ミディアムは希代の剣客だった。幼少の頃からウェン流の錬武館に通い、わずか十四歳で塾頭になったそうだ。道を踏み外すことがなければ、剣豪として名を成していただろうとも言われている」
「たいしたもんだ」
「そのアレックスの魂が貴様に宿っているなら、剣技もまた宿っているはずだ。人間の魂には人格や記憶だけでなく、肉体の操作に関する技術も含まれているのだのからな」
「でも、僕が凄い剣技を披露することができたとしても、それは残魂転移とやらの証明にはならないと思うな。だって、真導をかけられる前の僕も凄腕の剣士だったかもしれないじゃないか。アレックス・ザ・某に負けないくらいのね」
「それはあり得ない」
「なぜ、あり得ないと言い切れるの?」
「あり得ないからだ」
答えになっていない。しかし、それ以上の反論をスルーフィールドは受け付けなかった。返答に窮しているのではなく、あたりまえのことだから説明は不要だと思っているらしい。
舞台裏に消えた無級真導師が戻ってきた。朱鞘の長剣を抱えている。彼はアレックスの前まで来ると、恐る恐るといった体で剣を差し出した。
「その剣を取れ、アレックス!」
力強い声でスルーフィールドが命じた。
「もっとも、こんなことをするまでもなく、私は確信しているがな。残魂転移が成功していることを……」
「確信しているなら、やらなくてもいいじゃん」
「私ではなく、貴様を納得させるためにおこなうのだ。それに、これが切欠になって、生前の記憶が一気に回復するかもしれん。さあ、恐れずに剣を取れ!」
「いや、べつに恐れちゃいないけどね」
その言葉は嘘ではない。アレックスは本当に恐怖を感じていなかった。ただ、恐怖を感じていないという事実に少しばかり戸惑っていた。見知らぬ者といきなり刃を交える――そんな状況を素直に受け入れる自分の心理がよく判らなかった。
しかし、戸惑いはすぐに消え、体中で血が沸き立ち始めた。
『僕に関するメモその二、僕は荒事が嫌いじゃない』
心の備忘録にそう書き込み、アレックスは剣を手に取った。
頭の痛みはいつの間にか消えていた。
アレックスは無造作に剣を抜いた。
美しい刃紋を有した細身の曲刀だ。曲刀といっても、刀身の反りは浅く、切先が鋭く尖っているので、突き刺すこともできる。
鞘を放り投げ、左足を踏み出して右半身を退き、剣を持ち上げた。柄を顔の横につけ、刃が水平になるような形に構え、姿身に映る自分自身に切先を向ける。
「しゃあーッ!」
裂帛の気合いと共に踏み込み、突きを放った。切先が姿見に命中する寸前に剣を左上にすくい上げ、それと同時に素早く後退して、剣を引き戻す。柄を顔の横につけ、刃が水平になるような形に構えた状態で停止。右足を前に出し、左半身を退いた姿勢だ。突きを放つ前の姿に似ているが、鏡像のように左右が入れ代わっている。
体の向きが変わったため、切先が向けられている対象も変わった。姿見に映る自分の姿からシンプル・サイモンに。
サイモンが剣を抜いた。
「さすがですね、アレックスさん」
「なにが?」
「今の貴方の動きですよ。剣のさばき方や足の運びに澱みがありませんでした」
「いや、適当に動いただけだよ。でも、そういうことを言われると、嬉しくなっちゃうね。もしかしたら、僕は本当に強いのかもしれないぞ……っと!」
アレックスは地を蹴り、剣を突き出した。
不意を打ったつもりだったのだが、サイモンは一瞬の隙も見せずに反応した。アレックスと同じ勢いで飛び出し、剣を振り上げる。
両者は舞台の中央ですれ違った。アレックスの剣は空を斬り、サイモンの剣もまた何者にも触れなかった。
アレックスは振り返り、相手に斬りつけた。
サイモンも振り返り、相手に斬りつけた。
二条の刃が噛み合い、軽やかな音が響き、火花が散る。その音と火花を残して二人は飛び退ると、滑るような動きで半円を描き、最初の位置に戻った。
「わーおぅ!」
アレックスは白い歯を見せて、賞賛の言葉を投げかけた。
「やるじゃないか。さすが、ナントカ祭で二度も入賞しただけはあるね」
「三度です」
サイモンは剣を正眼に構え、前進を始めた。一見しただけでは動いていることが判らないほど緩慢な歩調だが、岩が迫ってくるような威圧感がある。
アレックスは剣を逆手に持ち替え、「岩」を待ち受けた。
強い者と戦いたいという剣人の欲求が膨れ上がり、悪意の含まれていない純粋な殺気となって放射された。アレックスの双眸から。サイモンの双眸から。
スルーフィールドの表情が曇った。二人の殺気を感じ取ったらしい。
「雲行きが怪しくなってきたな。もう充分だ、サイモン。剣を収めろ」
「……と、あんたの師匠は言ってるけど、どうする?」
アレックスが尋ねると、サイモンは歩みを止めることなく答えた。
「私としては、こんな中途半端な形で終わらせたくありません。貴方もそうでしょう?」
「うん。でも、あんたは強いから、手を抜くことはできない。もしかしたら、勢いで殺しちゃうかもしれないよ」
「望むところです。私も本気でやります」
声に形があるなら、今のサイモンの声は刃のような形をしているだろう。だが、聞く者の耳を切り裂くようなその鋭い声をアレックスは顔色一つ変えずに受け止めた。
顔色を変えたのはスルーフィールドのほうだ。
「やめろ、サイモン! 殺してはならんと言ったはずだぞ!」
「大丈夫ですよ。万が一、アレックスさんが死んでしまったら、残魂転移でまた生き返らせばいいじゃないですか」
「ふざけるな!」
「ふざけてなどいません。今まで黙っていましたが、私が師父について来たのは、アレックス・ザ・ミディアムのような剣客と刃を交えたかったからなのです」
サイモンは前進を続けた。
ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと。
アレックスは逆手に持った剣を頭上に掲げて後方に引き、切先の峰を左手で支えた。
その奇妙な構えを見たサイモンの顔に狼狽の影が差し、足が止まった。
二人の間に緊張の糸が張られ――
「やめろと言ってるんだ!」
――スルーフィールドの叫びで断ち切られた。
アレックスが動いた。
白刃の切先がサイモンに迫る。だが、アレックスは剣を突き出したのではない。槍でも投げるかのように放り出したのである。
サイモンは自分の剣を振り下ろし、投擲された剣を払い落とした。予想外の攻撃法に面喰ったのか、動きに切れがない。
その間隙を見逃すことなく、アレックスは一気に間合いを詰めてサイモンの懐に飛び込んだ。相手が剣を振り上げるよりも早く、その手首を右手で掴んで動きを封じつつ、新たな武器に向かって左手を伸ばす。
一瞬の揉み合いの後、鈍色の光が走り、血潮が噴き上がった。
真一文字に斬り裂かれたサイモンの喉笛から。
「あぁ~~~っ!? しまった!」
返り血で顔を染めたアレックスが悲鳴のような声を上げた。彼の左手には短剣が握られていた。サイモンの腰に差されていた短剣だ。
「反射的に殺っちゃった!」
サイモンは剣を取り落とし、ゆっくりと崩折れた。敵に対する賞嘆の微笑でも浮かべていれば絵になるところだが、愕然と目を見開いている。なにが起きたのか判っていないのだろう。
「お、お、お……」
喉の傷口を押さえ、言葉にならぬ言葉を吐き出しながら、サイモンは血の海で身体を痙攣させた。
やがて、声は途絶え、痙攣も止まった。口は奇妙な形に歪んでいる。最後の最後になって状況を理解し、相手に対する賞嘆の微笑を浮かべようとしたのかもしれない。
「ごめんよ。本当にごめんよー」
アレックスは短剣を投げ捨てると、物言わぬサイモンの傍に屈み込み、情けない声で詫びた。心が痛む。それでも、罪悪感は抱けなかった。両者ともに斬られることを覚悟した上で戦ったのだから。
顔を上げて、今度はスルーフィールドに詫びた。
「ごめんなさい。あんたのお弟子さんを殺しちゃったよ」
スルーフィールドは茫然としていたが、我に返り、胸を反らして笑い始めた。
「ふはははははははははははは! サイモンを倒すとはな! やはり、貴様はアレックスだ! 残魂転移は成功したのだ!」
「おいおい、笑ってる場合じゃないだろ。お弟子さんが死んじゃったっていうのに……」
「無級真導師の一人や二人、死んでも構わん。サイモンがまた必要になったら、残魂転移を施して生き返らせればいい。サイモン自身がそう言ったようにな。ふははははは!」
「……」
スルーフィールドの不愉快な笑い声によって、アレックスの中で眠っていた感情が頭をもたげた。
もっと早い段階で目覚めるべき感情――怒りだ。
記憶を奪われた者の怒り。
真導の被験体にされた者の怒り。
人間の尊厳を踏みにじられた者の怒り。
怒りには殺意が含まれていたが、彼はそれを自然に受け入れることができた。心の中にある未完成のパズルに殺意というピースがぴたりと嵌まり、誰かの囁き声がまた聞こえた。
『一人残らずブチ殺してやる』
また、なにかを思い出しかけた。
だが、なにも思い出せなかった。
しかし、囁き声を発した「誰か」は消えることなく、アレックスと混じり合って一体となった。
あるいは最初からアレックスだったのかもしれない。
スルーフィールドと三人の無級真導師が悠然とした足取りでアレックスに歩み寄り、取り囲んだ。スルーフィールドは正面に。無級真導師たちは左右と後方に。彼らがアレックスに向ける眼差しは、愛犬の働きを褒める飼い主のそれだった。愛犬の中で怒りが目覚めたことには気付いていないらしい。
「さあ、行くぞ。立て、アレックス」
「行くって……どこに?」
「まずはテイパーズ・デンだ。そこで蜘蛛の帽子屋に接触し、私が成し遂げたことを同志たちに伝える」
「蜘蛛に頼るのですか?」
と、無級真導師の一人が不満げに口を挟んだ。
「しかたあるまい。教会に出向くわけにはいかんのだ。敵が網を張っている恐れがあるからな。さあ、立つんだ、アレックス」
スルーフィールドが再び促したが、アレックスは立ち上がらなかった。
「悪いけど、あんたたちにつきあうつもりはないよ」
「ふざけるな。私は貴様を生き返らせてやったのだぞ。その代価は行動で支払ってもらう」
「どんな行動をすればいいの?」
「〈教団〉に巣食う醜いダニを始末するのだ。これは貴様が死ぬ直前に抱いたであろう望みと合致するはずだぞ」
「ぜんぜんガッチしないね。僕は〈教団〉の内輪揉めなんかに興味ないよ」
「貴様が興味を持っていなくとも、〈教団〉のほうが貴様を放っておかないだろう。いずれ、粛正省が今回の件を嗅ぎつけ、貴様を追い始めるぞ。残魂転移は異端と見做されているのだからな」
「……粛正省」
その忌まわしい名をアレックスは呟いた。
粛正省――〈教団〉の監察機関。各地に駐留審問官を置き、巡察審問官を放ち、異端の真導を取り締まっている非情な組織。記憶喪失のアレックスでもその程度のことは知っていた。王国の一般知識まで忘れてしまったわけではないらしい。
「そう、粛正省だ」
スルーフィールドが表情を和らげ、愛息を諭す慈父のような声を出した。
「アレックスよ。たった一人で粛正省から逃げ切ることはできないぞ。悪いことは言わん。私について来い。そして、共に大義を果たそうではないか」
彼の不器用な懐柔にアレックスは苦笑で応じた。
「〈教団〉のダニ退治があんたの『大義』なのかい? 随分と大袈裟だねえ」
「ダニの始末は第一歩に過ぎない」
「じゃあ、二歩目以降はなにをするわけ?」
「決まっているだろう。我らが望む世界を築き上げるのだ」
慈父めいた声が陶然とした響きを帯び、狂信者のそれに変わった。
一方、アレックスの苦笑も変わった。
唇の端を歪めることによって形作られた笑みに。
見る者に惨劇の予兆を感じさせる笑みに。
命のやりとりを楽しむ奸雄の笑みに。
「『我ら』だって? 勝手に一括りにしないでよ。あんたが望む世界と僕が望む世界は違う。仮に同じだとしても、一緒に築くことは絶対にできない。なぜなら――」
そう、アレックス・ザ・ミディアムの笑みに。
「――あんたはここで死ぬんだから」
「なんだと?」
「あんたは死ぬんだよ。っていうか、僕が殺すんだけどね」
「……」
静寂が舞台を領し、奇妙な間が生じた。スルーフィールドたちがアレックスの言葉を理解するのに要した間だ。
それが過ぎ去ると、スルーフィールドが青白い顔を引き攣らせて震え声を発した。
「冗談はやめろ、アレックス」
「冗談じゃないよ、スルーフィールド」
アレックスはサイモンの剣を拾い、立ち上がった。
「バカな真似はやめなさい!」
弟子の一人が絶叫し、他の二人が懐剣を抜いて身構えた。
彼らの困惑と恐怖が混じった殺気が両隣と後方から吹き付けてくる。
それでも、アレックスは動じなかった。その瞳はスルーフィールドだけを映していた。
「な、なぜだ、アレックス!?」
悲痛な声でスルーフィールドが叫んだ。
「私は貴様を生き返らせてやったのだぞ! それなのに……いったい、なにが気に入らないというのだ!」
「なにもかもさ。偉そうな物言いが気に入らない。サイモンさんの死を笑い飛ばしたことが気に入らない。『おまえは死人だったが、真導で生き返った』なんて戯言が気に入らない」
「戯言ではない! 貴様は本当にアレックス・ザ・ミディアムなのだ! 今、その体を動かしているのはアレックスの意思だ! 今、『僕』と言ってるのはアレックスの自我だ! その現実を受け入れろ!」
目を剥いて強弁するスルーフィールドの様は狂態と呼ぶに相応しいものだった。しかし、本人は理を尽くして語りかけているつもりなのだろう。真導を信じる者にしか通じない理を……。
この愚かな真導師にアレックスは初めて憐れみを覚えた。
ただし、怒りが消えたわけではない。
「現実を受け入れなくちゃいけないのは、あんたのほうだよ。今、ここで、僕に、斬られて、死ぬ――そんな現実をね。覚悟はいいかな?」
アレックスはそう問いかけると、相手の返事を待たずに剣を逆袈裟に斬り上げた。
血煙を上げてスルーフィールドが倒れた。
その血煙に別の血が混じった。アレックスが振り向きざまに剣を突き出し、背後にいた無級真導師の喉を突いたのだ。
「うおおおぉぉぉ!」
別の無級真導師が怒りと驚愕の叫びを発して、懐剣を振り上げた。
次の瞬間、アレックスの剣が一閃した。
振り上げられていた懐剣が天井近くまで跳ね上がった。柄を握っている拳もろとも。
「うおおおぉぉぉ!?」
再度、無級真導師が叫んだ。今度の叫びは手首を断ち切られた激痛とショックによるものだ。
アレックスは反転して三人目の無級真導師の喉笛を裂き、間を置くことなく背後に剣を突き入れた。
手首を斬られた無級真導師の胸を刃が刺し貫いた。
その刃が引き抜かれると、三人の無級真導師はまるで事前に申し合わせていたかのように同じタイミングで倒れ伏した。
少し遅れて、宙を舞っていた懐剣付きの拳が床に落ちた。
「わーおぅ! 我ながら見事な立ち回りじゃないか。観客席が空っぽなのが残念だね」
アレックスは剣を振って鮮血の破線を床に引き、無人の観客席に向かって見得を切った。
万雷の拍手が聞こえたような気がした。
その拍手に紛れて、擦れた声が足元から聞こえてきた。
「……ア、アレックス……きっと……後悔するぞ……」
「あれ? まだ生きてたの?」
アレックスはスルーフィールドを見下ろした。
「私と貴様には……共通の敵がいる……それなのに……私を……斬るとは……」
「もしかして、その共通の敵というのはウォルラスのこと?」
隣人と語り合うように軽い調子で尋ねると、スルーフィールドの目が大きく見開かれた。
「や、奴のことを覚えていたのか!?」
「うん。どういうわけか、『ウォルラス』という言葉だけは頭にこびりついてるんだ」
「ふ、ふはは……ふはははははは……」
スルーフィールドは感涙にむせびつつ、笑い声をあげた。といっても、充血した双眸から流れ落ちているのは涙ではなく、赤い血だ。
「そうか。覚えていたか……やはり……貴様はアレックス・ザ・ミディアムだ……」
「そんな話はどうでもいいから、ウォルラスのことを教えてよ」
「……」
「もしもーし!」
「……」
「死んじゃったか。殺す前に話をちゃんと聞いておくべきだったな」
アレックスはスルーフィールドから離れると、姿見の前に立ち、子供じみた仕種で頬をかきながら、自分自身に問いかけた。
「ウォルラスというのは何者なんだろうね? いや、正体が判らないのはウォルラスだけじゃないぞ。僕は誰なんだ?」
鏡の中のアレックスはなにも答えなかった。子供じみた仕種で頬をかきながら、アレックスを見つめ返している。
「死人を生き返らせる真導なんてものがこの世に存在するわけがない……と、頭では判っているんだけど、アレックス・ザ・ミディアムという名前がなんか引っかかるんだよね。もしかして、僕は本当にアレックス・ザ・ミディアムなのかな?」
鏡の中のアレックスが「知るもんか」とでも言うように肩をすくめた。
もちろん、鏡像と同時にアレックスも肩をすくめていた。
「まあ、どうでもいいや。僕が何者であれ、やるべきことは変わらないんだから」
やるべきこと――それは正体も居場所も判らぬ仇敵を探し出して倒すことだ。
「なぜ、そんなことをしなくてはいけないのか?」という当然の疑問は感じない。
迷いもない。
恐れもない。
清々しい強迫観念とでも呼ぶべき奇妙な感情が彼を駆り立てていた。
やるべきことを見出した少年は心の備忘録に新たな情報を書き加えた。
『僕に関するメモその三、僕の敵の名前はウォルラス』