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アレックス最後の戦い  作者: 土師 三良
第七幕 僕に関する最後のメモ
37/41

第二場

特賓待遇/虎の巻/初顔合わせ・その1/醜いダニ/エイシアとシャンメイ、意見が一致する/傍聴席から撃つ/AからDの未来予想図/霊媒犬/被疑者、入廷/薔薇色の飴玉/使徒(ごう)




 粛正省ヴァリ島部局の本部アベンゼン教会に出頭したアレックス(アルシャオ)

 彼は教会の宿坊の一室――物置同然の狭い部屋に軟禁され、審判の時を待っていた。部屋の扉は錠前で封じられ、窓は外側から板で塞がれている。それらを破ることができたとしても、逃げ出すことはできないだろう。武装した教会衛士たちが部屋の周囲で目を光らせているのだから。

 ……というのは表向きの話である。

 アレックスとミルがいるのは、宿坊とは別の区画にある賓客用の部屋だ。アンゲラの雇い主たちが手を回してくれたらしい。これは回帰主義者の勢力が粛正省に潜在することを意味するのだが、アレックスはそのようなことを深く考えていなかった。

 今、彼の頭を悩ませているのは……

「……食事は美味しいし、寝床も上等だけど、ここには暇潰しになるものが一つもないんだよね。ゲラさんも出て行ったきり戻ってこないしさ。あぁ、退屈、退屈、退屈だー!」

 前後ろになって椅子に座り、背もたれに抱きついてガタガタと揺らしているアレックスの姿を見れば、ディミックの恐怖も消し飛ぶだろう。緊張感の欠片もないこの少年がアレックス・ザ・ミディアムであるはずがない。

「そんなに退屈だったら、そこの紙くずでも読んでればいいでしょ」

 窓辺で外の様子を窺っていたミルが声をかけてきた。

「んー?」

 アレックスは体を捻り、後方にある机を見た。そこには数冊の冊子が置かれていた。審問会に備えてアンゲラが用意したアレックス・ザ・ミディアムの資料だ。

「この虎の巻にはもう何十回も目を通したよ。今では僕はアレックス学の最高権威だ。記憶のほうはあいかわらず靄に包まれているけど、審問会ではアレックスを完璧に演じることができるはずさ。自分自身を演じるというのも、おかしな話だけどね。よっと!」

 飛び上がるようにして椅子から離れ、廊下に通じる扉に向かう。

「どこに行くつもり?」

「外の空気を吸ってくる」

「やめなさいよ。『絶対に部屋から出るな』と帽子女に言われたでしょ。ここはディミックの御膝元なのよ。もし、敵に見つかったりしたら……」

「おやおや?」

 アレックスは立ち止まり、ニヤニヤと笑いながらミルを見た。

「もしかして、ミルちゃんは僕のことを心配してくれてるのかな?」

「そんなわけないでしょうが。あんたの身を案じているのなら、もっと早い段階で忠告してるっつーの」

「忠告されたとしても、僕は耳を貸さなかっただろうけどね。粛正省に乗り込み、アレックス・ザ・ミディアムになりきり、ディミックの悪事について証言する――これが無茶な計画だということは判っているけど、失敗を恐れていたら、なにもできないよ」

「かっこつけてんじゃないよ。あんた、なんにも判ってないのね。本当に恐れなくちゃいけないのは、失敗しなかった時のことでしょ」

「へ?」

「兄貴は死刑囚だったのよ? こともあろうに、あんたはその死刑囚と自分が同一人物だと言い張ってるの。もし、粛正省がそれを事実として受け入れたら――」

 ミルは首を掻き切るジェスチャーをしてみせた。

「――あんたはめでたく死刑になる。そして、歴史に名前を残すでしょうね。二度も斬首刑に処された犯罪者として」

「わーおぅ!」

 アレックスは思わず自分の首を押さえた。

「そういう展開は想定外だったよ」

「想定するまでもないことでしょうが」

「困ったなぁ……どうしよう?」

「知るか!」

「いっそのこと、計画を中止しますか?」

 そう言いながら、ミルが呼ぶところの「帽子女」が部屋に入ってきた。足で扉を開けるという器用かつ無作法な技を披露したが、それは両手が塞がっているからだ。

「おかえり、ゲラさん」

 アレックスは帽子女(アンゲラ)に駆け寄り、彼女の両手を塞いでいたもの――体の前に抱えていた大きな行李を床に降ろすのを手伝った。

「ずっと姿を見せなかったけど、どこに行ってたの?」

「グレイノーモアで知人と会っていました」

「グレイノーモアって、あの虐殺があった村のこと?」

「そうです。よくご存知ですね」

「うん。ゲラさんが用意してくれた虎の巻に書いてあったからね」

 アレックスは顔を曇らせた。

「虎の巻の〈グレイノーモアの虐殺〉のあたりを読んでいると、さすがに気分が悪くなったよ。あれは人間のやることじゃない……と、他人事のように言っちゃいけないな。アレックス・ザ・ミディアムとして生きるからには、その罪から逃れることはできないし、罰から逃れることもできないんだよね。だけど、やっぱり、首を刎ねられるのは嫌だなぁ」

「先程も言いましたが、計画を中止しても構わないのですよ。貴方が命を惜しみ、尻尾を巻いて逃げ出したとしても、私は責めたりしません。命というのはなによりも重いものですからね。たとえ、それが憐れな負け犬の命でも」

「なんか、さりげなく挑発してない?」

「全然さりげなくないでしょうが」と、ミルが口を挟んだ。「めちゃくちゃ露骨だっつーの」

「その露骨な挑発に乗ってみるのも悪くないかな。ゲラさんのことだから、僕が死刑にならずに済む方法も考えてるんでしょ?」

「考えているとも言えますし、考えていないとも言えますね」

 曖昧な言葉を返しながら、アンゲラは行李を開けた。

「最後の戦いに臨むための衣装を用意しましたので、着替えてください」

「今すぐに?」

「今すぐです。言い忘れていましたが、審問会が開かれるのは今日なんです」

「わーおぅ! まだ心の準備ができてないんだけどな」

「では、着替えるついでに心の準備も済ませてください」



「ちょっと、ちょっと! そこのお姉さん!」

 シャンメイは廊下の角で見知らぬ女に呼び止められた。

「間違ってたら、ごめんね。お姉さんの名前はシャンメイ・ユォだったりする?」

「はい」

「やっぱりねー」

 女は右手の指先を口許にあて、肘を左手で支えるような姿勢を取り、商品を鑑定する美術商の目でシャンメイの全身を眺め回した。

「噂通り、美人さんじゃないのぉ。あたしと違って、骨張ってもいないしね。なんか勝てる気がしなーい」

 シャンメイは体を退き気味にして、

「あ、あの……貴方は?」

「まだ名乗ってなかったっけ? あたし、エイシア・イン。タヴァナー市の警鼓隊士なんだ。お姉さんとは初対面だけど、共通の知り合いがいるよ」

「誰のことですか?」

「ヒントその一、けっこう単純な男」

「……レイス?」

「正解。あたし、レイスと一緒にアレックス・ザ・ミディアムの残魂転移について捜査していたの。だけど、彼はいきなり姿を消しちゃったのよね。どこに行ったのか知ってる?」

「いいえ。なにも聞いていません」

「そっか。まいったなぁ。あいつ、どこに消えちゃったんだろ?」

 エイシアは眉を八の字にして天を仰いだ。

 つられて上を向きそうになる顔を必死に制御しつつ、シャンメイは確認した。

「彼を探すためにわざわざタヴァナー市から来られたんですか?」

「まさか! この教会に来たのは、つまらない任務を仰せ付かったからよ。で、その任務は無事に済んだから、タヴァナー市に帰ろうと思ったんだけど、ちょっと妙な話を小耳に挟んだのよね」

「妙な話と言いますと?」

「残魂転移の素体にされた617……じゃなくて、正確には616だっけ? ややこしいなぁ、もう。とにかく、アレックス・ザ・ミディアムかもしれない奴がここに出頭したという話よ。それって、本当のこと?」

「素体が出頭したのは事実ですが、彼にアレックスの魂が宿っているかどうかは判りません。それは今日の審問会で決まります」

「審問会っていうのは、〈教団〉(ニュー・オーダー)の関係者じゃなくても見学できるのかな? 一応、あたしも無級真導師(ディサイプル)の資格は持ってるのよ。一時的なものだけどね。それに素体の身内でもあるの」

「身内?」

「うん。素体はあたしの弟なんだ。しかも、アレックス・ザ・ミディアムはあたしの故郷の人たちを殺しまくった悪党なのよね。審問の結果が有罪だったりしたら、あたしは『仇敵の魂が弟の肉体に宿っている』という悲劇的な状況に直面しちゃうわけ」

 しれっと言ってのけたが、猫を思わせる澄まし顔は憂いを隠し切れていない。あるいは同情を買うためにわざと隠していないのかもしれないが。

「というわけで、審問会を見てみたいんだけど……ダメかなー?」

 上目使いでシャンメイを見る。ミルかペイ爺がこの場にいれば、〈ボロゴーヴ亭〉に警鼓隊が踏み込んだ時のアレックスの振る舞いを思い出すだろう。

 ほんの少し考えてから、シャンメイは言った。

「〈教団〉の外部の人間が審問会に参加できるのは、証人として喚問された場合に限ります。しかし――」

 緩やかに微笑む。かつてレイスを魅了した笑顔だ。そして、レイスに別れを決意させた笑顔でもある。

「――今回の審問を取り仕切るダックワース主任に私から頼んでみましょう。主任は話の判る方ですから、貴方も審問会を見ることができると思いますよ」

「ホントに? ありがとー! 恩に着るよ! もう着膨れするくらい、着まくっちゃう!」

 エイシアはシャンメイの両手を掴んで飛び跳ね、更に強く抱き締め、それでもまだ足りないのか、「んにゃにゃー!」と奇声を発しながら頬擦りした。

 シャンメイはされるがままだ。悪い気分ではない。エイシアとレイスがわりない仲になったことは察しがつくが、嫉妬が芽生えることはなかった。それどころか、残酷な喜悦を感じた。利け者を気取るレイスがこの娘に翻弄されている様が容易に想像できたからだ。

 感謝と喜びを十二分に表現した後、エイシアはやっと体を離した。

「シャンメイさんは良い人だなー。レイスが言ってた通りだわ」

「……え?」

「あの人、姿を消す前に言ってたの。『俺になにかあったら、シャンメイを頼れ。きっと力になってくれる』ってね」



 アレックスは行李の中の衣装を取り出し、寝台の上に並べた。

「場合によっては、これが僕の死に装束になるかもね。あはははははは」

「へらへらと笑ってんじゃないよ」

 ミルが吐き捨てた。

 その忠告(?)に従ってアレックスは笑みを消し、できるだけ真面目な顔をした。厳粛な場で笑いを堪えている子供のような表情になったが、彼にしては上出来だ。

「ねえ、ミルちゃん。訊いておきたいことがあるんだけどさ」

「なに?」

「どうして、僕についてきたの?」

「特に理由はない。強いて言うなら、暇だったから」

「そういうのはやめてよ。これが最後のお別れになるかもしれないんだから、真剣に答えてほしいな」

「……」

 ミルが探るような目を向けてきた。

 アレックスは先程の表情を維持したまま、その目を真っ直ぐに見た。

 真剣な想いが伝わったのか、あるいは想いを推し測ることを放棄したのか、ミルはぶっきらぼうに質問の答えを返した。

「確かめたかったのよ。あんたが本当に兄貴なのかどうかを……」

「でも、ミルちゃんは残魂転移なんて信じてないんだろ?」

「あたりまえでしょ! そんなもの、信じられるわけがない!」

「だったら、確かめる必要なんかないじゃん」

「うるさい!」

 正論に怒声で応じて、ミルはそっぽを向いた。

 だが、対話を打ち切ったわけではないらしい。間を置いてから、拗ねているとも怯えているとも受け取れる弱々しい声を出した。

「あたしは残魂転移なんか信じない。絶対に信じない。だけど……あんたはシュペングラー金貨の隠し場所を知っていたし、鈎爪ルダボーのことも知っていた」

「そ、そうだね」

 シュペングラー金貨の話を持ち出されると、罪悪感に苛まされる。真相をミルに告げたくなったが、理性が良心を抑えつけた。自分がペテンにかけられていたということを知ったら(しかも、そのペテンにペイ爺が一枚噛んでいるとなれば)ミルは激怒するだろう。

 とはいえ、なにも言わずにいるのは心苦しい。アレックスは思い切って侘びることにした。ただし、シュペングラー金貨のことには触れずに。

「ごめん!」

「どうして謝るの?」

「ゲラさんの店で鍋を囲んでいる時に『僕はアレックス・ザ・ミディアムだ』と断言したけど、あれは嘘というかハッタリだったんだよ。実を言うと、僕はまだ自分が何者なのか判っちゃいないんだ」

「……」

 意外なことにミルは怒らなかった。もっとも、機嫌を直したわけではないらしく、そっぽを向いたままだ。その横顔からは困惑と疑念の色が見て取れる。もう何を信じていいのか判らないのだろう。

「僕は自分が何者なのか判らない」

 訴えかけるように繰り返してから、アレックスは表情を崩した。

「だけど、判りたいとも思わない……っていうか、そういうことは深く考えないようにしてるんだ。僕は醜いダニ(アグリー・チック)だからね」

 アンゲラがやんわりと訂正した。

不可知論者(アグノスティック)です」



 審問所の壁はタイルに覆われ、その表面には二十一人の女性型の天使(マンカインド)が描かれていた。彼女たちの表情や肢体や姿勢は聖画らしからぬ煽情的なものだが、堅物の抗議を封じるだけの神聖さも有していた。一説によると、この部屋の壁にはより煽情的かつ冒涜的なフレスコ画が描かれており、それを隠すためにタイル画を貼り付けたのだという。しかし、タイルを剥がして真偽を確認した者はまだいない。

 室内の中央には、腰までの高さの柵で囲まれた半円形の証言台があり、それを馬蹄型の机が包み込んでいた。周囲に立っているのは、白い胸当てと鉢金を身に付けた教会衛士たちだ。審問の途中で被疑者が暴れ出すようなことがあれば、その手に携えられた鉾槍が唸りをあげるだろう。

 馬蹄型の机の外側の曲線に沿って幾つかの椅子が並べられているが、そこにはまだ誰も座っていない。

 一方、蹄の開かれた側に面している傍聴席には真導師(コンダクター)たちが集まっていた。いや、真導師だけではない。シャンメイに頼み込んで傍聴権を得たエイシアの姿もある。

「なんか、審問所っていうのは想像していた通りの場所ね。あのひん曲がった細長い机に審問官(リヴァイザー)がズラッと並ぶんでしょ?」

「はい」と、隣席のシャンメイが頷く。「審問官の数は審問によって違いますので、『ズラッと並』ばない時もありますが」

「今回の審問官は何人?」

「九人だそうです」

「被疑者の弁護人は?」

「そんなものはありません。審問官たちの意見が分かれた場合、被疑者を無実と判断した審問官が自然に弁護人の役割りを果たすことになります」

「すべての審問官が有罪と判断したら?」

「一応、被疑者には反論の機会が与えられます。ただし、その機会を活かすことができる被疑者は滅多にいません」

「ふーん。ところでさー。そんなに丁寧な言葉使いはしなくてもいいよ。タメ口でいこうぜぇ。っていうか、あたしが敬語を使うべき? シャンメイさんのほうが遥かに年上だもんね」

「……は、遥かに?」

 シャンメイは顔を引き攣らせて訂正を求めようとしたが、その前にエイシアが「あ!」と声をあげた。

「ねえねえ。あそこに鎮座しているブヨブヨの肉の塊は――」

 彼女の視線の先では、高位真導師用の真紅の僧衣に包まれた巨体が三人分の傍聴席を占領していた。

「――ひょっとして、フクチョーさん?」

「はい。ディミック副長です」

「タヴァナー市の中央教会に出向している時、あの人の噂をいろいろと聞いたよ。悪い噂ばっかりだったけどね」

 シャンメイは真面目な秘書官の仮面を脱ぎ捨て、くだけた口調で愚痴を吐き出した。

「噂を耳にするだけの人が羨ましい。私は毎日毎日、その噂の主と顔を合せなくちゃいけないのよ」

「シャンメイさんはフクチョーのことが嫌いなの?」

「彼を嫌ってない人はいない」

「じゃあ、レイスも?」

「当然。レイスは誰よりも副長を嫌っている。いえ、憎んでいると言ってもいい。そんな相手に仕えている自分自身のことも憎んでいるみたいだけど」

「でも、そういう自分に酔ってる節もあるな」

「そうね。彼、子供だから」

「コドモだよねー」

 二人は顔を見合わせて、何度も頷いた。



 ディミックは無人の証言台を凝視していた。

 両腕を組むようにして手を僧衣の袖に入れ、袂の中の物に触れる。

 ホイールロック式の短銃だ。

 教会衛士以外の者が審問所に武器を持ち込むことは禁じられているが、ディミックのように高い地位にある者は身体検査を受けることなく、傍聴席に座ることができる(実のところ、高位の真導師でない傍聴者たちが受ける身体検査もおざなりなのだが)。もっとも、彼は銃を意図的に持ち込んだわけではない。置いてくるのを忘れただけだ。

 しかし、いまさら置きに戻るつもりもなかった。

 持ち込んでしまったのなら、使わない手はない。弾丸も火薬も装填済みだ。いつでも撃てる。そう、いつでも……。

 銃把を強く握りしめ、証言台までの距離を目測する。射程距離の範囲内だ。銃を撃った経験はないが、運が良ければ、命中するかもしれない。

 目を閉じて夢想した。

 脳天を撃ち抜かれて倒れるアレックスの姿を。

 そして、教会衛士たちに取り押さえられる自分の姿も。

 審問所で被疑者を撃ち殺す――そんなことをすれば、教団史に名前が残るに違いない。

 もちろん、ディミックはそのような形で自分の名前を残すつもりはなかった。

 目を開き、現実の世界に戻る。

 先刻まで冷たい感触を返していた銃把はいつの間にか汗にまみれ、生温かくなっていた。このまま握り続けていれば、バターのように溶けてしまうかもしれない。

 気休めにもならない武器から手を離し、今度は反対側の袂に収めた小袋を探った。その中の飴玉を摘んで袖から抜き、口に素早く放り込む。

(落ち着け、大丈夫だ。このような事態は想定済みではないか)

 飴玉を舌で転がしながら、ディミックは自分に言い聞かせた。

(なにも恐れることはない。九人の審問官のうちの六人には話をつけてある。そして、残りの三人は愚かしくも残魂転移を信じていない。信じていないからこそ(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)公正な審問(ヽヽヽヽヽ)をするはずだ(ヽヽヽヽヽヽ)

 今日の審問会の真の目的はアレックスの証言を合法的に潰すことだ。被疑者(アレックス)はアレックス・ザ・ミディアムではない――そのような判決が下されれば、ウォルラスに関する証言も虚言と見做されて棄却されるに違いない。そして、被疑者は「アレックスになりすまして粛正省を混乱させた愉快犯」として獄舎に送られる。あとは獄舎の関係者に働きかけるなり、各地に散っている刺客を動員するなりして、始末すればいい。

 万が一、被疑者がアレックスだと認定されたとしても、極悪非道な犯罪者である彼の証言を真に受ける者は少ないだろう。ディミックが知らぬ存ぜぬを通せば、すべては有耶無耶になる。疑惑と悪評は残ってしまうが、それは今に始まったことではない。

 つまり、どのような判決が下されるにせよ、最後に笑うのはディミックなのだ。

 しかし、それが判っているにもかかわらず、彼は恐怖を拭い去ることができずにいた。



 九人の審問官と三人の書記が入廷し、それぞれの席に着いた。

 傍聴席のざわめきが消えた。

 審問長を務めるダックワース三級真導師が開廷を宣告し、他の審問官たちと共にラムディアへの誓言と聖言を唱え始める。

 エイシアは知らず知らずのうちに身構えていた。

 ここに来たのはアレックスもしくはアルシャオの運命を見届けるためではない。アルシャオにアレックスの魂が宿っているかどうかを自分の目で見極めるためだ。もちろん、それは簡単なことではないだろう。かつてレイスに語ったように、アルシャオは自分のことをアレックスだと思い込んでいるかもしれないし、アレックスが罪を逃れるためにアルシャオを演じる可能性もある。また、見極めることができたとしても、九人の審問官がエイシアと同じ判断を下すとは限らない。

 自分の判断と審問官たちの判決との組み合わせをエイシアは頭の中に並べてみた。


A エイシアと審問官、どちらの結論も「被疑者はアレックスである」


B エイシアと審問官、どちらの結論も「被疑者はアレックスではない」


C エイシアの結論は「被疑者はアレックスである」だが、審問官の結論は「被疑者はアレックスではない」


D エイシアの結論は「被疑者はアレックスではない」だが、審問官の結論は「被疑者はアレックスである」


 望ましいのはBとCだ。Bならば、死に別れたと思っていた弟と涙の再会。Cならば、アレックスは自由の身になり、エイシアは復讐を果たすために彼を追う――つまり、現状と変わらない。

 Aは微妙だ。アレックスは改めて処刑されてしまい、またもや復讐の機会を逃すことになる。自分の手でアレックスを殺せなくても構わないが(そうでなければ、レイスを頼ったりしない)、彼の最期にかかわることができないのは悔しい。せめて処刑に立ち会いたい。

 最悪なのはDだ。実の弟が悪漢アレックス・ザ・ミディアムとして処刑されてしまう。シャンメイは「被疑者には反論の機会が与えられる」と言ったが、九人もの審問官を論破して無罪を勝ち取るなどという芸当がアルシャオにできるとは思えない。

(もし、そんなことになったら、あたしがあの子を助けなくちゃいけないのかなー?)

 各所に立っている衛士の数をエイシアは確認した。十人を超えている。一方、彼女は一人きりであり、武器も持っていない。アルシャオを救うためにここで暴れたとしても、すぐに返り討ちにあうだろう。

 弟の無邪気な(しかし、見る者を妙に苛立たせる)笑顔を思い浮かべ、エイシアは手を合わせて侘びた。

(ごめんね。姉ちゃん、あんたを助けてあげられないかも……)

 その時、心に浮かぶ弟の無邪気な笑顔が意味ありげな含み笑いに変わり、ある疑問が生じた。

 被疑者がアルシャオだったとして……彼は本当に無罪になることを望んでいるのだろうか? もしかしたら、有罪になるために出頭したのではないか? 処刑されることを承知の上でアレックス・ザ・ミディアムとして振る舞うというのはあまりにも馬鹿げた行為だが、アルシャオならやりかねない。

 しかし、なんのために?

 やがて、エイシアの疑惑は焦燥に変わった。今すぐに確かめたい。アルシャオはアルシャオのままなのか? それとも、アレックスの魂に身体を乗っ取られているのか?

 だが、誓言を兼ねた聖言の唱和はまだ続いていた。被疑者が現れる気配はない。

「ねえねえ」

 エイシアはシャンメイの腕を指先でつつき、小声で話しかけた。

「被疑者はまだ来ないの?」

「審問長に呼ばれるまで入廷しないわ。今は奥の部屋で着替えてるんじゃないかしら」

「着替え?」

「被疑者は僧衣を着なくてはいけないの。たとえ真導師でなくてもね」

「真導師じゃない被疑者は何色の僧衣を着るの?」

「無級真導師と同じ色よ」

「白だね……あの子の好きな色だ」

 白い僧衣を着た弟の姿を思い描いてみた。

 あまり似合っていなかった。



「僕はなにを着ても似合うなー」

 アレックスは着替えを終え、自分の体を見下ろした。

「これ、気に入ったよ。かっこいいし、色も素敵だ」

「あんた、白が好きなの?」

 白い衣装を身に着けたアレックスを横目で見ながら、ミルが問いかけた。

「うん。清潔感があって良いよね」

「兄貴も白が好きだった」

「ふーん。なんか、アレックスらしくないよね」

「本人もそう思ってたみたい。周りの目を気にして、身の回りに白い物はあまり置かなかった。ミディアムは例外だけど」

「ミディアム?」

「兄貴が子供の頃に可愛がっていた犬よ。尻尾の先っぽだけが黒くて、あとは白かった」

「犬を飼っていた話は嘘じゃなかったんだ。飼い犬のことまでは虎の巻に載ってなかったな」

「調査不足でした」

 と、アンゲラが頭を下げた。冗談ではなく、本当に恥じ入っているように見える。

 アレックスはミルに訊いた。

「それにしても、どうして犬に〈霊媒(ミディアム)〉なんて名前を付けたの?」

「子犬の頃は家族の皆が好き勝手に呼んでいたんだけどね。毎期、醒魂夜が来ると決まって吠えまくるもんだから、父さんが冗談半分でミディアムと呼び始めたの。それが定着しちゃったのよ」

 幼少の日々を思い出したのか、ミルの口許が微かに綻んだ。

 しかし、すぐにいつもの仏頂面に戻って、囁くような調子でアレックスに語り始めた。いや、語っている相手はアレックスではないのかもしれない。

「もしも……いい、あくまでも、もしもの話だからね? もしも、あんたが本当に兄貴だとしたら、自分が生き返ったことの意味をよく考えたほうがいいわ。こういう陳腐な言い方はどうかと思うけど、これは神様が与えてくれたチャンスかもしれない。まっとうな人間としてやり直すためのね。もちろん、生き方を改めたからといって、過去の罪が消えるわけじゃない。でも、罪を重ねて生きるよりはずっと……」

 囁きで始まったはずの述懐はいつの間にか嗚咽にも似た哀願の声音に変わっていた。本人もそれに気付いたらしく、決まり悪げに俯いた。

「……あたし、なに言ってんだろ」

「さあ? なにを言ってんだろうね。あはははははは」

 アレックスはわざとらしく苦笑しながら、助けを求めるようにアンゲラを見た。

 彼女は助けてくれなかった。

「その衣装、よく似合ってますよ」



 審問官たちが誓言/聖言の唱和を終えた。

 室内は静まり返った。

 静寂というものが質量を有していることをディミックは知った。

 重い。

 とてつもなく重い。

 その重量級の静寂を審問長の軽い咳払いが吹き飛ばした。あまりにも機械的で型にはまった咳払いなので、それさえも九痕聖典(ナイン・スティグマス)で定められた作法の一つに見える。

 審問官の一人が法鈴を手に取り、濁った鈴の音を響かせた。

 被疑者に入廷を促す合図だ。

 いつの間にか、ディミックの手はまた銃を握っていた。



「よし! いよいよウォルラスと御対面だ!」

 扉に向かって、アレックスは意気揚揚と歩き始めた。

 背後からアンゲラの声が聞こえた。

幸運を(フィール・グリュック)



 ゆっくりと扉が開かれ、白い僧衣を着た若者――審問会の被疑者が現れた。

 彼はおどおどと周囲を見回した。

 ディミックと目が合った。

 被疑者の表情は変わらなかった。

 シャンメイと目が合った。

 被疑者の表情は変わらなかった。

 そして、エイシアと目が合った。

 被疑者はあわてて視線を逸らした。



「あいつは!?」

 エイシアは身を乗り出した。シャンメイが肩を押さえなかったら、被疑者に駆け寄っていたかもしれない。

「どうしたの?」

「どーしたもこーしたもないよ。あそこにいるのは――」

 被疑者を睨みつけながら、エイシアは断言した。

「――弟じゃないわ!」



 ディミックの口がだらしなく開き、一回りほど小さくなった薔薇色の飴玉が唾液の糸を引きつつ、突き出た腹の上に落ちた。

「な、なぜだ?」

 誰にともなく尋ねる。

 周りの傍聴者たちは訝しげな目を向けてくるだけで、なにも答えてくれなかった。

 答えられるわけがない。

 彼らもディミックと同じ疑問を抱いているのだから。

「なぜ、残魂転移の石がないのだ?」

 そう、被疑者の額にはなにも付いていなかった。



「被疑者は証言台に……」

 書記に促され、被疑者は証言台に向かった。

 傍聴席にいた女隊士の視線を感じた。

「なぜ、残魂転移の石がないのだ?」という声が聞こえた。

 その視線と声から逃れるように足を速め、証言台に駆け登る。

 木彫りの仮面にも似た九つの顔が彼を迎えてくれた。

 正面の仮面――審問長が言葉を発した。

「名乗れ。そして、宣誓せよ」

「は、はいぃ」

 声が裏返った。背後の傍聴席から失笑が漏れたが、そのことを恥じる余裕は今の彼にはない。

「わわわわわ、わ、わ、わた、私は……」



「弟じゃない?」

 シャンメイが聞き返した。

「ええ」と、シャンメイは答えた。「あいつは、あたしとガフさんがこの教会に移送してきた囚人よ。たしか、名前は……」



「……ホーホー・ホイです」

 本物の617である被疑者はそう名乗ると、ぎこちなく聖印を切り、誓言を唱えた。

「真実のみを語ることをラムディアに誓います!」



 アレックスは扉を開け、廊下に出た。

 右を見た。

 左を見た。

 そして、部屋に戻ってきた。

「えーっと……よく考えたら、僕は審問所がどこにあるのか知らないんだよね」

「あら?」

 アンゲラが口に手をあて、驚いた顔をしてみせた。一目で演技だと判る仕種と表情だ。

「そういえば、審問所の場所を教えてさしあげるのを忘れてました」

「しっかりしてよ、ゲラさん……って、人のことは言えないか。あはははははは」

もうしわけ(エントシュルディゲン)ありません(・ズィー・ビッテ)

 慇懃に侘びてから、アンゲラは審問所への道順を教えてくれた。

「よし! 今度こそ、ウォルラスと対面だ!」

 頭の中に描いた地図を確認しながら、アレックスは再び意気揚々と歩き出した。

「急がないとね。審問会の主役が遅刻しちゃったら、格好がつかないよ」

「審問会はもう始まっていますよ」

「え?」

 アンゲラの意外な言葉にアレックスは思わず振り返った。だが、足を止めることを忘れていたので、そのまま扉に激突した。

「いたたたた……」

 よろけた体を立て直そうとしていると、アンゲラが追い討ちをかけてきた。

「既に被疑者も入廷しているはずです」

「え? え? えーっ!?」

 全身から力が抜け、両手と両膝が床に落ちた。

「既に入廷って……僕はまだここにいるんだけど?」

「問題ありませんよ。代役を立てましたから」

「そんな話、聞いてないよぉ!」

「あら?」

 アンゲラはまた口に手をあて、驚いた顔をしてみせた。演技だと見抜かれることを承知の上でやっているとしか思えない仕種と表情だ。

「そういえば、計画の変更について教えてさしあげるのを忘れてました」

「白々しいっつーの」と、ミルが半畳を入れた。「あんた、情報を小出しにして、このバカの反応を楽しんでるんじゃないの?」

 その言葉をアンゲラが否定(肯定したかもしれないが)する前にアレックスが四つん這いのまま詰め寄ってきた。

「計画の変更って、どういうこと?」

「ディミックの悪行が表沙汰になると、〈教団〉の名前にまで傷がつくかもしれません。ですから、彼にはもっと綺麗な形で退場してもらいます」

「綺麗な形?」

「具体的に言うと、『〈教団〉とは無関係の者が個人的な理由でディミックを殺す』という形です」

「もっと具体的に言うと、『この僕がディミックを殺す』という形なんだね」

「その通りです。ある程度の手助けはしますが、報酬は出しません。また、成否にかかわらず、事後の貴方を守ることもできません。貴方が教会衛士に捕まり、回帰主義者との繋がりを吐いてしまう恐れがある場合は――」

「――僕を殺す?」

はい(ヤー)。ですから、強制はしません。命が惜しいのであれば、ここで降りてください」

「降りるもんか。僕はやるよ。審問会で証言するよりも、こういうやり方のほうが性に合ってるもんね。うぉーっ! なんか燃えてきたー!」

 アレックスは立ち上がり、拳を強く握りしめて突き上げた。

「たった一人で審問所に乗り込み、ディミックを叩っ斬る――これって、すごくかっこよくない? ねえ、かっこよくない?」

「かっこよくないっつーの。それに一人で乗り込むわけでもないよ」

 冷たい言葉を浴びせたのはミルだ。窓辺を離れ、つかつかと近付いてくる。

「あたしもつきあうから」

「ミ、ミルちゃんも?」

 拳を突き上げた姿勢のまま、アレックスはぽかんとミルを見つめた。

「気持ちは嬉しいけど、無理につきあわなくてもいいよ」

「べつに無理なんかしてない。さっきも言ったでしょ。あたしは確かめたいのよ。今、ここにいる、あんたが――」

 ミルはアレックスの正面で立ち止まり、彼の胸をつついた。

「――何者なのかをね」

 ミルの後方でアンゲラが笑った。〈昆虫の微笑〉とは違う、稚気に満ちた笑いだ。

「そう仰るだろうと思って、ミルさんの衣装も用意しておきました」



 茫然自失たる面持ちのディミックの前で審問会は粛々と進行した。

 まず、審問長が審問の論旨を述べた。

 続いて、被疑者のホーホーが語り始めた。

 私は賊にさらわれ、奴隷にされました。そして、スルーフィールドという真導師に買われて、残魂転移の素体にされかけたのです。しかし、額に石を取り付けられる前に逃げ出すことができました。

 それはホーホーとアルシャオの身に起きた出来事を混ぜ合わせて少しばかり脚色した虚構の物語だった。回帰主義者たちがホーホーを買収もしくは脅迫して、そんな話をさせているのだろう。錯乱しかけているディミックにもその程度のことは判ったが、回帰主義者たちの意図を理解することまではできなかった。

 ホーホーの供述が終わると、質疑応答が始まった。それは多くの審問会で見られるような自白の強要でもなければ、丁々発止の舌戦でもなかった。一目で無罪と判る者を無罪に導くための義務的な言葉のやり取りに過ぎなかった。

 審問官たちが尋ねる。石が取り付けられていないというのは本当か? それ以外の施術は? 記憶や人格は保持しているか?

 被疑者が答える。はい、石は取り付けられていません。それ以外の怪しげなこともされていません。記憶は失っていませんし、自分が誰なのかもよく判っています。私はホーホー・ホイです。アレックス・ザ・ミディアムではありません。

 審問官たちはホーホーの言葉を信じているようだった。あるいは信じている振りをしているだけなのかもしれない。どちらであれ、ディミックにとっては同じことだ。

 残魂転移で生き返ったアレックスに悪事を暴かれる――そのような事態を回避することはできたが、心に根付いた恐怖が消えることはなかった。

 審問会が終わりに近づき始めた頃になって、ディミックは回帰主義者の真意がようやく理解できたような気がした。

(この事件そのものが陽動だったのだ)

 それが彼の導き出した答えだった。

(私がアレックスの動向に目を向けている隙に回帰主義者は別の計画を進行していたのだ。そうに違いない!)

 判ったからといって、どうなるものでもない。

 ディミックは席を立ち、出口に向かって歩き始めた。もう、審問の結果に興味はない。今は一人になりたい。一人になって、じっくりと考えたい。回帰主義者たちの未知の攻撃手段への対抗策を。あるいは、回帰主義者たちに敗れた後の身の振り方を。

(いや、弱気になってはいかん)

 ディミックは自分を叱咤し、歩き続けた。だが、扉を開けて廊下に出たところで力尽き、片方の膝が床に落ちた。

 すると、二人の教会衛士が駆け寄ってきた。

「大丈夫ですか?」

「う、うむ……」

 深呼吸をして、膝に力を込め、ゆっくりと立ち上がる。衛士たちが両脇に回り込み、巨体の制御に協力してくれた(体格差がありすぎるため、肩を貸すことはできなかった)。

 二人の衛士に体を支えられて、ディミックは幽鬼のような足取りで教会の中をさまよった。

 やがて、一階にある聖堂で歩みを止めた。ここを目的地として定めていたわけではない。知らず知らずのうちに信仰心が働いたのだろう。

 悪徳にまみれて生きてきたにもかかわらず、ディミックは篤信家だった。誰よりも神を愛していたし、神もまた自分を愛してくれていると信じていた。大きな試練や挫折を体験することなく成功を手に入れることができたのは神のおかげだと思っていた。

 だから、神への感謝の心を忘れたことはない。人形屋から買った名も無き「商品」を縊り殺して恍惚感に浸っている時でさえ、祈りの言葉を呟いた(もちろん、「商品」のために祈っていたわけではないし、許しを請うために祈っていたわけでもない)。「商品」が精液混じりの糞便を漏らして悶え苦しみ、遂には息絶えても、その細い首から手を離すことなく、祈り続けたものだ。神の深い愛を感じながら。

 それが冒涜だとは思っていない。そもそも、罪を犯しているとも思っていない。自分の行為について釈明する機会があれば、彼は真顔で言うだろう。九痕聖典には「人身売買をしてはいけない」とも「人を殺してはいけない」とも書いていない、と。

 そんなディミックにとって、現在の窮地は不条理極まりないものだった。神を信じ、神を愛し、神を敬い、神のために生きてきたのに、なぜこんな仕打ちを受けなくてはいけないのだ? ――本気でそう思っていた。

「夢見る神よ……」

 母にすがる幼子にも似た声が大きな口から漏れ出た。

「この道理に合わぬ苦境から私をお救いください」

 祭壇の奥に記されたラムディアの紋章に向かって、聖印を切った。膨張していた恐怖がゆっくりと萎んでいく。もっとも、完全に消え去ることはなかったが。

 小さな咳払いが聞こえた。両脇で巨体を支えてくれていた衛士の一人が発したのだ。この時までディミックは彼らのことを完全に忘れていた。

「申し訳ないが、出て行ってくれないかな。一人になりたいんだ」

「判りました」

 衛士たちは一礼し、聖堂の扉に向かった。

 ディミックは再びラムディアの紋章に目を向けて、祈りを捧げようとしたが――

「よっこらしょっと!」

 ――場違いな声によって、中断を余儀なくなれた。

 怒りを込めて振り返ると、あの衛士たちの姿が見えた。聖堂の扉を内側から閉めて、鉾槍を把手に突き通している。

「なにをしているのかね?」

「見て判らないの? 閂をかけてるのよ」

 衛士が答えた。その声はあきらかに女のものだった。

「誰にも邪魔されたくないからね」

 そう言いながら、もう一人の衛士が鉢金を取った。

 チャオ人の少年の顔が現れた。

 彼の額には、琥珀のような赤茶色の石が埋め込まれていた。

 萎んでいた恐怖が一気に膨らみ、爆発した。

「お、お、お、おまえは……まさか……」

「そう、アレックス・ザ・ミディアムだ」

 アンゲラが用意した衣装――教会衛士の白い胸当てを装着したアレックスは剣を抜いて、ディミックにウインクした。

「やっと会えたね、ウォルラス」


次回は2015年10月24日頃に投稿予定。


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