第二場
爪痕/生ける屍/この父にして/傷口を抉る/骨に飛び付く/「フロイト・ミヒ・ゼーア」/調理人たち/二つの花/カーペンター先生の副業/免罪符/猟犬もまた狩られる
無惨な焼け跡、墓地に立ち並ぶ真新しい墓標、そこかしこから聞こえてくる嗚咽――悪夢の一夜が残した爪痕。
昼餉の煙、風にはためく洗濯物、剣戟ごっこに興じる子供たちの声――どこにでもある日常の光景。
それらが混在する村に俺はいた。
グレイノーモアだ。
混在と言っても、後者のほうが優勢だ。いつの日か、悪夢の爪痕は日常の光景に塗り潰されるだろう。もっとも、目に見える爪痕が消えたからといって、〈グレイノーモアの虐殺〉を体験した村人たちの心の傷までもが消えるわけではないが。
俺は足を止めた。
『北刃派ウェン流 グレイノーモア練武館』という看板が掲げられたチャオ造りの屋敷の前。正面玄関の脇に床机が置かれている。チャオ服に大陸風の上着を羽織った痩身の男がそこに腰かけ、湯呑みを鼻先で揺らしていた。
「自警団のタオラムだな?」
俺が声をかけると、男は顔を向けてきた。だが、こちらの姿は見えていないはずだ。顔の上半分が包帯に覆い隠されているのだから。
「おう」と、男は答えた。「俺はタオラムだ。正確に言うと、タオラムの死体だけどな」
「死体は喋ったりしない」
「俺は普通の死体じゃねえ。なにせ、二度も死んでる。最初に死んだのは十年前――女房を亡くした時だ。あいつが息を引き取ると同時に俺の心も死んだ。半分だけな。出来の悪いガキどもがいなけりゃ、残りの半分も死んでいただろうよ」
「二度目に死んだのは〈グレイノーモアの虐殺〉の時か?」
「そうだ。あの夜、俺は視力を奪われた挙句、倅と末の娘を失った。命は落とさなかったが。トビクジラがくぐれるくらい大きな穴が胸にぽっかりと開いちまった。そして、生きる屍になって、日がな一日まずい生姜湯をすすりながら、三度目の死を待っているというわけだ」
「待つ必要はないだろう。死にたければ、自殺すればいい」
「それはできねえな」
「なぜだ?」
「死ぬのが怖いからさ」
タオラムの頬が微かに痙攣した。笑っているのだ。大きな穴を胸に穿たれた者の笑み。哀しい狂気を含んだ笑み。
俺の耳の奥で「うふっ!」という笑い声が跳ね回った。容貌(と言っても、鼻から下しか見えないが)に相似点がないにもかかわらず、タオラムの笑顔はエイシアのそれに通じるものがある。
「どうやら、エイシアは父親似らしいな」
俺がそう言うと、エイシアの父――タオラム・インは大袈裟に驚いてみせた。
「わーおぅ! こいつは予想外の展開だぜ。生きる屍の話につきあってくれる変人が娘の知り合いだったとはな」
湯呑みを床机に置き、遅すぎる問いを俺に投げかける。
「おまえ、何者だ?」
「レイス・シンガー四級真導師。粛正省の審問官だ」
「シンガーか。この村の食堂に行け。〈豚と胡椒亭〉という店だ」
「……なに?」
唐突に飛び出した意味不明の言葉。俺はこめかみに痛みを覚えた。エイシアを連れてこなかったのは正解だ。彼女とその父親を同時に相手にしたら、こめかみの痛みだけでは済まないだろう。血管が弾け飛ぶかもしれない。
だが、タオラムは言葉を投げっぱなしにせず、ちゃんと説明してくれた。
「今朝、妙な女がここに来て、『レイス・シンガーという真導師が訪ねてきたら、食堂に行くように言ってくれ』と頼んだのさ」
「その女の名前は?」
「知らん。向こうは名乗らなかったし、俺も訊かなかった。さあ、次はその女の容姿について尋ねてみろ。盲目の紳士が機智に富んだ答えを聞かせてくれるぞ」
その要求を無視して、俺は自分の用件を口にした。
「あんたに伝えなくちゃいけないことがある。先に言っておくが、あまり良い知らせじゃない」
「大丈夫だ。俺は死体だから、なにを聞いても取り乱したりしない」
「じゃあ、単刀直入に行こう。あんたの息子のアルシャオ・インは生きている」
宣言通り、タオラムは取り乱さなかった。ただ、先程と同じように頬を痙攣させて笑った。
「つまらねえ冗談だな。俺は、アルシャオが殺されたところを見たんだぜ」
「本当に見たのか?」
「本当だとも」
「見間違いじゃないのか。あの夜のことをよく思い出してみろ」
「おいおい。遺族の心の傷口を抉るようなことをして楽しいか?」
「アルシャオは死んでいないのだから、あんたは遺族とは言えない」
その言葉を発した後で俺は自分の過ちに気付いた。イン家の犠牲者はアルシャオだけではないだろう。タオラムは「倅と末の娘を失った」と言ったのだから。
しかし、盲目の死体は俺の失言を平然と受け止めた。
「ふむ。まあ、いいだろう。傷口を抉って膿を出してみるかねえ」
そして、〈グレイノーモアの虐殺〉について語り始めた。
「あの日……夕暮れ時に市辺警備の騎士たちがいきなり村にやってきて、教会を取り囲んだ。ところが、そいつらは本物の騎士じゃなくて、〈吼え猛るヤマネ団〉だったのさ。後で知ったんだが、騎士団や警鼓隊の格好をして集落に堂々と押し入るっていうのが奴らの常套手段だったらしい。市辺警備の巡廻にしては人数が多すぎるから、おかしいとは思っていたんだが、こっちの疑惑が確信に変わる前に奴らは行動を起こした。真導師のカーペンターさんを殺して、教会に火を付けやがったんだ。あるいは教会に火を付けた後でカーペンターさんを殺したのかもしれん。どちらにせよ、同じことだけどな」
「それから?」
「教会に火の手が上がったもんだから、村の連中は騒ぎ始めた……と、他人事のように言ってるが、騒いでいる中には俺もいた。今にして思うと、それがいけなかったのかもな。ヤマネ団は引き返そうとしていたが、俺たちが大騒ぎする様に刺激されたらしく、また村の中に突っ込んできやがった」
「こういう言い方は問題があるかもしれないが、ヤマネ団は教会を襲うついでに村を襲ったというわけだな」
「そういうこった。俺は自警団の若い衆と一緒に奴らを迎え撃った。その間に女子供や年寄りどもは森の中に避難したんだが、二十人以上が逃げ遅れて殺された。それに自警団からも犠牲者が出た。しかし、無駄死にした団員は一人もいないぜ。あいつらが時間を稼がなけりゃあ、被害はもっと大きくなっていたはずだ」
「アルシャオも自警団の一員だったのか?」
「もちろん。俺ほどじゃねえが、あいつの剣の腕前はなかなかのものだった。しかし、相手が悪かった」
「その相手というのは?」
「ラクダみてえな顔をした大男だ。たぶん、あれは首領のアレックス・ザ・ミディアムだな。アルシャオはそれなりに善戦したようだが、返り討ちにあった。このあたりに――」
タオラムは左のこめかみをつついた。
「――一撃を食らってよ。その時、俺はヤマネ団の面子とやり合ってた。四人を仕留め、二人に深手を負わせた。しかし、アルシャオのほうに気を取られて、背中に斬り付けられた。で、振り向きざまに……これだ」
手刀をつくり、包帯の前で走らせる。
「相手はザコだったんだが、アルシャオが倒されたところを見て気が動転してたんだな。我ながら情けねえよ。目をやられた後、頭に一撃を喰らって、意識を失っちまった。しかし、とどめは刺されなかった。たぶん、敵は俺が死んだと思ったんだろう」
「ヤマネ団は村人の死体を切り刻み、山のように積み上げて燃やしたと聞いたが……」
「奴らはすべての犠牲者を切り刻んだわけじゃねえよ。人の形を留めた死体もあったし、翌日になってから村の外で見つかった死体もある。目についた獲物を拉致して、村を離れてから改めて嬲り殺しにしたんだろうな」
「その『人の形を留めた死体』の中にアルシャオは含まれているのか?」
「いや。村の連中が言うことにゃ、倅はバラバラの黒焦げだったとよ」
「なるほど」
小さく頷いてから、俺は断言した。
「やはり、あんたの息子は生きてる」
「はぁ? おまえ、なにを聞いてたんだ? 俺はアルシャオが倒されるところを見た。そう言っただろうが!」
タオラムの語気が怒りの響きを帯びた。
饒舌な死体が初めて見せた心の隙――そこに俺は容赦なく言葉を突き入れた。
「その通りだ。あんたが見たのはアルシャオが倒された光景であり、殺された光景じゃない。それにアルシャオの死体を確認したわけでもない」
「村の連中が確認してるさ」
「あてになるものか。村人たちは混乱し、悲嘆にくれ、怒りに震えていただろう。そんな状態で、無数の肉片に分けられて消し炭になった死体の判別ができたとは思えない。そもそも、死体の数と犠牲者の数を照らし合わせることさえ困難だったはずだ。ヤマネ団は仲間の死体も一緒に燃やしたんだからな」
「そういう考え方もできるかもしれねえが……だからといって、アルシャオが生きているとは限らねえだろう」
「いや、生きている。あんたと同様、アルシャオも気絶しただけなんだ。しかし、あんたと違って、その場に放置されなかった。生け捕りにされて、奴隷商人に売られたんだよ。おそらく、アルシャオだけじゃない。生きている村人が他にもいるかもしれ……」
「おいおい、ちょっと待て」
タオラムは手を上げて、話を遮った。両目が隠された顔に動揺の色が浮かんでいる。
「アルシャオが生きている――それが事実だとしたら、俺は小躍りして喜ぶべきなんだろう。だけど、おまえは最初に『これは良い知らせじゃない』とか言ったよな?」
「ああ、良い知らせじゃない。奴隷になったアルシャオは、スルーフィールドという真導師に買われて、異端の真導を施された」
「異端だとぉ?」
「詳しい説明は省くが、アルシャオは記憶を失っている。しかし、いずれ自分が何者であるかを思い出し、この村に帰ってくるかもしれない」
「それを見越して、おまえはここに来たのか。アルシャオを捕まえるために……」
「そうだ。だが、事を荒立てたくない。今のところ、手配中の素体がアルシャオであることを知っているのは俺とエイシアだけだ。奴隷商人の目録は破棄したから、俺が上に報告しない限り、粛正省がこの村に目を付けることはないだろう」
「ありがたいこった。で、俺にどうしろと?」
「アルシャオがここに逃げ帰ってきても、匿ったりするな。俺に引き渡せ」
「倅を見捨てろというのか?」
「アルシャオを匿えば、あんたも罪を被ることになる」
「べつに構わんよ。自己犠牲を厭わない程度の父性愛は持ち合わせているつもりだぜ」
「あんたはそれでいいだろうが、エイシアはどうなる? 下手をすると、彼女は弟と父親を同時に失うことになるんだぞ」
「なんで、そんなことを気にするんだ? おまえはエイシアのなんなんだよ?」
「……」
俺は答えなかった。答えられなかった。どう答えればいいのか判らなかった。
タオラムの頬がまた痙攣した。自分のペースを取り戻したらしい。そのことに満足したのか、エイシアの件は追及せず、「ふん」と鼻を鳴らした。俺が自分の仕事に抱いている気負いや罪悪感を鼻息で吹き飛ばすかのように。
「無駄足を踏んだな、審問官。おまえは来る場所を間違えたぜ」
「どういう意味だ?」
「うちのバカ息子は人生を楽しんでいる。悪く言うと、人生を舐めきっている。自分のことを剣劇か何かの主人公だと思い込んでるお調子者なんだ。だから、記憶を取り戻しても、ここには帰ってこねえよ。復讐者という立場に酔いしれて、敵のところに突っ込んでいくはずだ。骨に飛び付く犬みたいにな」
「だが、アルシャオが飛び付く骨――アレックス・ザ・ミディアムはもうこの世にいない」
「きっと、代わりの骨を見つけるさ。もしかしたら、おまえのことをアレックスの代わりと見做すかもしれねえな。むはははははっ!」
タオラムは初めて声を出して笑った。
謎の女が待っているという〈豚と胡椒亭〉に俺は向かった。
重い足取りで。
タオラムの推測が正しいとしたら、アルシャオという犬は何者を「骨」と見做すのか?
判らない。判るわけがない。判りたくもない。「自分のことを剣劇か何かの主人公だと思い込んでるお調子者」の考えることなんて。
判らないことは他にもある。〈豚と胡椒亭〉で俺を待っている女は何者なのか?
タヴァナー市を発つ時、俺は行き先を誰にも告げなかった。エイシアにさえもだ。にもかかわらず、件の女はこの村で俺を待っていた。こちらの動きを追っていたのか、あるいは予想していたのか……いや、そもそも俺は自分の意思でグレイノーモアに来たのか? もしかして、誰かが俺を誘導したんじゃないか? ゲームの駒でも動かすかのように。
べつに駒として扱われても構わない(駒も猟犬も似たようなものだからな)。ただし、ゲームの勝敗がついた時に自分が盤上に残っているならばの話だ。指し手の意図を知らされぬまま、下手なギャンビットの犠牲になりたくはない。
しかも、現状では指し手の意図どころか正体さえも判らないのだ。おそらく、俺の直属の上司であるディミック副長は指し手ではないだろう。それどころか、副長もまた駒の一つなのかもしれない。
妄想じみた疑念を頭の中でこねくり回しているうちに俺は〈豚と胡椒亭〉に到着した。タオラムのいた錬武館と同様、ここもチャオ造りの家屋だ。
疑念を断ち切るように引き戸をわざと乱暴に開け、店内に足を踏み入れる。
奥の掛け座敷に女が座っていた。他に客はいない。
厨房に通じる内暖簾の隙間から老人が顔を覗かせたが、すぐに引っ込めた。その老人のものと思われる声が内暖簾の向こう側から聞こえてきた。
「お客さんだよー!」
掛け座敷の女がこちらを見た。
「レイス・シンガーさんですね?」
「そうだ。タオラムに言伝をしたのはおまえか?」
「はい」
と、女はドロッセル語で答えた。
彼女の前にある座卓には、大きなトップハットが置物のように鎮座していた。
俺は掛け座敷に上がり、座卓を挟んで女と対峙した。座卓には帽子の他に酒瓶とグラスが置かれていた。
「はじめまして」
女が会釈した。
「アンゲラ・ディクスと申します。テイパーズ・デンで古着屋を営んでおります。今は店を閉めておりますが……」
「素体の逃亡に手を貸した古着屋というのはおまえのことか?」
「『はい』と答えると嘘になりますし、『いいえ』と答えても嘘になりますね。私はアルシャオさんと行動を共にしていましたが、それは彼を助けるためではありません。貴方を誘い出すことが目的だったのです」
「今、『アルシャオさん』と言ったな」
「言いましたが、それがなにか?」
「なぜ、素体の名前を知ってるんだ?」
「タヴァナー市にいる別の蜘蛛がネイサン・ローマーの商品目録の写しを入手したのです。アルシャオさんの素性を知った時、私は確信しました。貴方が同じ情報を得たら、グレイーノモアに赴くはずだと。だから、ここで網を張っていたのです」
「俺はずっとタヴァナー市にいたんだぞ。用があるのなら、誘い出したり網を張ったりしないで、直に会いに来ればいいだろう」
「過程を省略するわけにはいきません」
「なんの過程だ?」
「貴方がこの件に深入りし、泥沼にはまっていく過程です。別の言い方をすると、貴方のある感情が増幅する過程です」
その言葉に呼応するかのように心の中で〈獣〉が吠えた。
アンゲラが言うところの「ある感情」というのは〈獣〉のことなのか? 俺の怒りを増幅させることになんの意味があるというんだ? まさか……いや、そんなことはどうでもいい。
俺は平静を装いつつ、〈獣〉の頭を何度も殴って気絶させた。
「アルシャオもこの村に来ているのか?」
「いいえ。彼はアベンゼン教会にいます。三日前、私が送り届けました」
「三日前だと? そんな報告は受けていないぞ」
「報告が届く前に貴方はタヴァナー市を離れてしまいましたから。個人的な意見を言わせてもらうなら、〈教団〉はクラン商会の早馬や郵便馬車を当てにしすぎです。今回のような行き違いを減らすためにも、もっと信頼できる通信手段を確立すべきですね」
本当に行き違いなのか? 敵が情報の流れを塞き止めていたという可能性も無視できない。もっとも、その「敵」の正体も判らなければ、目的も判らないが。
「おまえの狙いはなんだ?」
そう問いかけた時、厨房の内暖簾から小太りの若い女給が飛び出してきた。
女給は土煙を上げて店内を突っ切り、掛け座敷の前で急停止して、甲高い声を張り上げた。
「いらっしゃいませぇ! 何になさいますぅ?」
「引っ込んでろ」
俺のすげない言葉に女給は頬を膨らませたが、アンゲラのフォローによって表情を和らげた。
「すいません。この人、ちょっと気が立ってるんです。でも、〈豚と胡椒亭〉自慢の百年シチューを食べれば、笑顔を取り戻すはずです。お願いできますか?」
「はぁーい!」
アンゲラには笑顔を返し、俺には憎々しげな一瞥を送り、女給はのっしのっしと厨房に戻った。
「百年シチューはチャオ料理ではありませんが、グレイノーモアの名物なんですよ」
そう言いながら、アンゲラはグラスを手に取った。
「百年シチューという名前の由来を御存知ですか?」
「知らない。べつに知りたくもない」
その後半の言葉は無視された。
「百年もの時間をかけて煮込むから、百年シチューと呼ばれているのです。もちろん、それはこの手の料理によくある大袈裟な命名なのですが、長期間に渡って煮込み続けるというのは本当の話ですよ。黄玉期の中頃から煮込み始めて、材料を足しながら、黒玉期の終わり頃まで保たせるのです」
アンゲラはグラスの中身を一気に飲み干した。空になったグラスを俺の前に置き、新たな酒を注ぐ。毒などが含まれていないことを証明するため、同じ酒を同じ器で飲んでみせたのだろう。
だが、俺はグラスを取らなかった。
「おまえは俺の質問を忘れているようだな。もう一度、訊くぞ。おまえの狙いはなんだ?」
「なにも狙っていませんよ。私は回帰主義者の一派に雇われている蜘蛛に過ぎません」
「じゃあ、その雇い主たちの狙いは?」
「百年シチューをつくることです」
「ふざけてるのか?」
「ふざけてなどいません。比喩として聞いてください。現在のシュライキア王国は巨大なシチュー鍋のような物です。その鍋の中ではシュライキア人、ドロッセルラント人、チャオ人、ファウクーン人、モワノール人、ゴロンドリーナ人、白泥族……多種多様な人種の文化がぐつぐつと煮込まれています。さて、それらの食材を混ぜ合わせているシチューの素はなんでしょう?」
「知るもんか」
「真導です」
答えを聞いた瞬間、叩きのめしたはずの〈獣〉が目を覚まし、体を震わせて咆哮した。
その声は悲鳴に似ていた。
「真導なのです」と、念を押すかのようにアンゲラは繰り返した。「それこそがシチューの素であると雇い主たちは考えています。言ってみれば、彼らは『世界』という名のシチュー鍋を管理する調理人。火加減を調節し、材料や調味料を足し、シチューをかき混ぜているのです。もちろん、衛生面にも気を配っていますよ。汚い蝿が厨房に迷い込んできたら――」
アンゲラは顔の前で両手を打ち合わせた。
「――容赦なく叩き潰します」
「なるほど。話が見えてきたよ。回帰主義者どもは俺のことを蝿と見做しているんだな」
「違います。彼らが叩き潰そうとしている蝿は、貴方がよく知っている人物――ウォルラスです」
「俺はウォルラスなんて知らない」
嘘だ。
俺はウォルラスのことを知っている。
ずっと前から……そう、獄舎でアレックスがその名を叫ぶ前から知っている。
「知らないはずがありません」
アンゲラが初めて笑顔を見せた。
いわゆる〈昆虫の微笑〉というやつだ。
「貴方は、ウォルラスことサイラス・L・ディミックの私兵なのですから」
小太りの女給が料理が運んできた。
「お待たせしました! 野兎の百年シチューですぅ!」
大きな深皿と人類史上最高最大最良の発明品が座卓に置かれた。いい具合にとろけた肉や野菜が顔を覗かせている黄土色の水面――そこから立ち昇る湯気が俺の顔面に襲いかかり、えもいわれぬ芳香を鼻腔に擦りつけながら体内に侵入し、食道を急降下して胃袋で爆発した。
俺は気力を振り絞り、空腹感を意識の外に締め出した。ここで腹が鳴ったりしたら、格好がつかない。
女給が内暖簾の奥に消えるまで待ってから、アンゲラは話を再開した。
「レイス・シンガー四級真導師――貴方は巡察審問官の立場を活かしてヴァリ島の各地を巡り、ウォルラスの敵を排除してきました。何人も、何十人も……」
「証拠はあるのか?」
そう尋ねてから、俺は心中で自分を罵った。俺はどうしようもない阿呆だな。証拠を確認する前に否定しろ。
動揺を静めるために(さして効果がないことは判っていたが)酒の力を借りることにした。座卓のグラスを取り、口に運ぶ。舌を少し湿らせるだけのつもりだったが、座卓に戻したグラスは空になっていた。
「証拠はありません。ただの想像です。ここから先の話も私の想像に過ぎませんが……ディミックは回帰主義者に目を付けられていることを悟り、奴隷の購入を控えるようになりました。また、それだけでは安心できなかったのか、よく利用していた奴隷商人を始末することにしました。その仕事を任されたのも――」
アンゲラは俺の眉間のあたりに指を突きつけて、からかうようにくるくると回した。
「――貴方ですね、レイス・シンガー? 貴方は人形屋のネイサン・ローマーを殺すためにタヴァナー市に派遣されたのです」
「その『想像』の根拠はなんだ?」
「貴方がローマーの名前を割り出して聴取するまでに要した時間は二日。実質的には一日です。そんなに迅速に動くことができたのは、ローマーに関する情報を事前に知っていたからでしょう。違いますか?」
俺はなにも答えなかった。
それが答えになっていた。
アンゲラは自分の「想像」を語り続けた。
「ディミックの私兵は貴方だけではありません。アレックス・ザ・ミディアムもディミックに雇われていました。非情な審問官と残虐な無法者――共通点はなさそうに見えますが、二人は同じ枝に咲く花だったのです」
「花と来たか。綺麗な例え方をしてくれたもんだ。だが、俺とアレックスを同列に語らないでくれ。俺がやってきたこととあいつがやってきたことは違う」
いったい、なにが違うというんだ? ――自分自身にそう問いかける。
アンゲラが代わりに答えてくれた。
「そうですね。貴方は、指定された相手だけを殺し、無関係な者を決して巻き込まなかった。アレックス・ザ・ミディアムが貴方のような人間だったら、〈グレイノーモアの虐殺〉は起きなかったでしょう」
俺は天井を仰いだ。やはり、あの惨劇にはディミックがかかわっていたらしい。次にエイシアに会った時、どんな顔をすればいいのだろう?
「もうお判りだと思いますが、アレックス・ザ・ミディアムがグレイノーモアを襲ったのは、デニス・レオ・カーペンター四級真導師を殺すためです。そして、アレックスにそれを命じたのはディミックです」
「……」
「なぜ、ディミックはカーペンターを殺さなくてはならなかったのか――その理由を御存知ですか?」
天井を見上げたまま、俺は答えた。
「さあ、存じちゃいないね」
「秘密を守るためです」
「なんの秘密だ?」
「カーペンターの副業ですよ。彼はディミック専属の人形屋だったのです」
「人形屋だと? まさか――」
俺は天井に向けていた顔を降ろした。
「――孤児を売っていたというのか?」
「はい。この村の孤児院で育てられた子供たちの多くは一定の年齢に達すると、都市部の教会に送られ、無級真導師になっています。エルドリッチ市とタヴァナー市の教会の学徒名簿を調べたところ、村の孤児院から送られてきた子供の数は二十一人。しかし、そのうちの九人は名簿の中にしか存在しない幽霊学徒です。おそらく、ディミックに売られたのでしょう」
「証拠は?」
「今のところ、確たるものはありません。しかし、いずれディミック自身がぼろを出すと思いますよ。そもそも、〈グレイノーモアの虐殺〉が起きるまで、私の雇い主たちはカーペンターのことを知りませんでした。ディミックは手早く口封じをしたつもりなのかもしれませんが……とんだ薮蛇ですね」
村人たちに慕われていた変わり者、孤児たちの面倒を見ていた篤志家、「信仰は義務でもなければ、美徳でもない」と信徒に語っていた真導師。エイシアの言葉によって築かれたカーペンターの印象が崩れていく。だが、俺はそれを素直に受け入れることができた。そして、好感を持てなかった相手が悪人だったことに奇妙な安堵と満足感を覚えた。
同時に怒りも覚えた。一度も会ったことのない、この先も決して会うことのない、会えるとしても会いたくないデニス・レオ・カーペンターに対して。
その怒りが呟きになって口から漏れ出た。
「偽善者め……」
「あら? それカーペンターのことですか? それとも、貴方自身のことですか?」
「なにが言いたい?」
「とぼけないでください。エルドリッチ市での四人殺しのことは調べがついています」
「ラークスパー事件のことか? いつのまにか話が小さくなっているようだな。俺がエルドリッチ市で始末した獲物は四人じゃない。五人だ」
「いいえ。四人です」
と、アンゲラは断言した。
冷たいものが背中を流れ落ちていくのを感じながらも、俺は表情を変えずに訂正した。
「いや、五人だ。ラークスパーと三人の無級真導師。そして、素体にされた少女……」
「いいえ。貴方が殺したのはラークスパー一党だけです。貴方は少女の命を取らず、虚偽の報告をしました。そして、副長の秘書官シャンメイ・ユォの手を借りて書類を偽造し、少女に新しい名前と身分を与え、無級真導師としてエルドリッチ市の中央教会の学舎に編入させたのです」
視界からアンゲラの姿が消え、代わりにシャンメイが現れた。
優しく微笑みながら、彼女は言った。
「貴方は正しいことをしているのよ」
あの時の……そう、少女に関する書類の偽造を頼んだ時の幻視だ。
やめてくれ――と、俺は叫ぼうとしたが、声が出なかった。
目を閉じ、耳を塞ぐ。
それでも、シャンメイの声は聞こえた。
「正しいことをしているのに、どうして恥じ入るの?」
恥じ入るのは当然だ。俺は自分の行いを「正しいこと」だとは思っちゃいない。あの少女を助けたのは、正義感や良心に突き動かされたからではなく、後ろめたさから逃げるためだ。過去に成した罪とこれから成すであろう罪の重さを軽減する小さな免罪符が欲しかっただけだ。
耳から手を離し、目を開く。
シャンメイはいなかった。そこにいるのは〈昆虫の微笑〉を浮かべた女だ。
彼女は座卓のトップハットを取り、畳に置いた。
トップハットの下から、小さな陶器の瓶が現れた。
俺は茫然と小瓶を見つめた。それから、トップハットに隠されていなかったほうの酒瓶を見た。酒瓶のラベルには、編物をしている羊が描かれており、その絵を囲むようにして『いちばん素敵なものはいつも遠くにある』と記されている。
俺は悟った。単純な罠に引っ掛かってしまったことを。二人が飲んだ酒は違うものだったんだ。この店に来た時、グラスは既に満たされていたが、あれは羊のラベルの酒ではなく、小瓶の酒だったんだ。
傍らに置いていた剣を取り、アンゲラに問いかける。
「……俺になにを飲ませた?」
「ヤドモシンカという薬だ」
答えたのはアンゲラではない。その声は内暖簾の奥から聞こえてきた。
俺はそちらに目を向けた。
「おまえらの言葉に直すと、『黒い月光』だな。フクロウオの肝を原料にしている点ではトリークル・ウェルと同じだが、ヤドモシンカのほうが使い勝手がいいんだぜ」
そう言いながら、小柄な老人が姿を現した。店に入った時に顔を見せた、あの老人だ。
「おまえは……」
剣の柄を握る手に俺は力を込めた。
「よお!」と、老人は片手をあげた。「俺のこと、覚えてるか?」
「覚えていなかったが……今、思い出した。アレックスの首を刎ねた刑吏だな」
「おうよ。首落としのロブと呼んでくれ。ペイ爺でもいいけどな」
「なぜ、おまえがここにいる?」
「私が招待しました」
グラスを弄びながら、アンゲラが言った。
「ペイさんはウォルラスに殺されかけた挙句に刑吏の職を失ったのですから、この笑劇に参加する権利があります」
「笑劇を演じたければ、おまえたちだけでやればいいだろう。俺を巻き込むな」
「主役がいなければ、劇は成り立ちません」
「ふざけるな!」
俺は立ち上がり、抜刀した。
だが、笑劇の脇役たちは動じない。アンゲラは小瓶の酒をグラスに注ぎ、老刑吏は楽しそうに笑っている。
「座っといたほうがいい。そろそろ薬が効いてくる頃だ。すってんころりんと転んじまうぞ」
「黙れ」
老刑吏の忠告を無視して俺は足を踏み出した。
なにかが畳にぶつかる音が聞こえた。
足元を見る。
手に持っていたはずの剣が転がっていた。
指の感覚が無くなっていることに気付いた瞬間、膝から力が抜け、体勢が崩れた。
いつか見た悪夢と同じように、激しい勢いで視界が回転した。
頭がどこかにぶつかった。だが、いつまで経っても痛みがやって来ない。
瞼が落ち、世界が闇に包まれた。
そして、アンゲラの声が聞こえた。
「良い夢を、レイス・シンガー」




