〈彼〉の夢
淡紅色の目をした男が〈彼〉の顔を覗き込んできた。
「これから貴様に施すのは残魂転移の真導だ」
〈彼〉は、一列に並べられた木箱の上に横たえられていた。体が動かない。漏斗を使って強引に飲まされた緑色の液体のせいだ。
その液体は〈彼〉の体だけでなく、意識も麻痺させようとしていた。視界がぼやけ、そこに映し出されていた物の輪郭が溶けていく。〈彼〉を見下ろしていた男の顔も、目だけを残して溶け崩れた。
「その真導で貴様は死ぬ。肉体的に死ぬわけではないが、自我は消え去る。これを取り付けるからだ」
淡紅色の双眸の下方に琥珀のような赤茶色の球体が現れた。
「見えるか? この石にはアレックス・ザ・ミディアムの魂が宿っている。奴の魂は貴様の肉体を支配するだろう。次に目覚める時、貴様はもう貴様ではない。アレックス・ザ・ミディアムとして目覚めるのだ!」
真導を信じていない〈彼〉からすれば、男の熱弁はお笑い種でしかなかった。実際、〈彼〉は状況を忘れて笑い出しそうになった。
『あんた、イカれてるよ』
と、男に向かって言い放った……つもりだったのだが、緑の液体に毒された口から出たのは「ああぁ」という呻き声だけだった。
男が尋ねた。
「言い残しておきたいことがあるのか?」
「うぉ……ああぅ……あう……(目が覚めたら、あんたを殺してやる)」
「うむ」
「あぁ、あああ……おおおう……あうあう……うおっ!……おっ、おっ、うぉおうううう……(あんただけじゃない。あんたの弟子たち、奴隷商人のローマー……そして、ウォルラス! 一人残らずブチ殺してやる)」
「そうか、そうか。『ゴミ同然の矮小な命を貴方のために活かすことができるのは存外の喜びです』と言いたいのだな」
「……おぁ!(絶対に殺す!)」
「さらばだ。名もなきゴミよ」
瞼が落ち、視界が闇に塗り潰された。
(眠っちゃだめだ!)
薄れていく意識の中で〈彼〉は偏屈な父を想った。亡き母を想った。数年前に村を出た姉を想った。泣き虫の妹を想った。〈吼え猛るヤマネ団〉に殺された村人たち――一緒に悪さをした友人、近所に住んでいた親切な老婆、教会のカーペンター先生、口煩い村長を想った。番号札付きの衣服を取り替えてくれた気弱だが親切な旅芸人を想った。
皆への想いを武器にして、緑色の液体がもたらす睡魔と酩酊感に抵抗した。
しかし、いとも簡単に打ち負かされた。
(まあ、いいか……)
あっさりと気持ちを切り換える。
(ちょっと遠回りすることになるけど……これはこれで……おもしろいかも……)
〈彼〉の意識は途絶えた。
アレックスは現実の世界に帰ってきた。
同時に〈彼〉の夢の記憶がどこかへ流れ去った。一片の余韻も残さずに。
鱗雲に彩られた空が揺れている。いや、彼を乗せて走る荷馬車が揺れているのだ。
状況がよく把握できなかったが、お世辞にも心地良いとは言えない振動に身を任せて空を眺めているうちに、寝起きの頭にかかっていた霧が晴れてきた。
(そうだ。エルドリッチの市都で荷馬車に乗り換えて、ゲラさんに御者を交代してもらったんだっけ……)
アレックスは体を起こした。
藁が敷き詰められた荷台の縁にもたれてミルが眠っていた。その横には、御者台に腰掛けたアンゲラの後ろ姿がある。
そして、馬車が向かっている先には――
「――目的地が見えてきましたよ」
御者台のアンゲラが言った。
アレックスは四つん這いになって荷台の前部に移動し、アンゲラの肩越しに「目的地」を眺めた。
寸詰まりのオベリスクのような多角形の塔が梢の海から頭を突き出している。それは石造りであるにもかかわらず、錆の色を帯び、所々で輝きを放っていた。錆は紅葉した蔦であり、輝きは窓の照り返しである。
馬車が進んでいくうちに、多角形の塔の陰に隠れていたもう一つの塔も見えてきた。針を思わせる細長い鐘塔だ。宗教的建築物であることは明らかだが、〈教団〉や旧ラムディア教が好む様式と違い、装飾は抑えられている。
「あれがアベンゼン教会?」
「はい。かつては俗世と交わることを好まぬ予言者の僧院だったのですが、紆余曲折を経て〈教団〉の教会になりました。もっとも、その『紆余曲折』の詳細は記録に残っていません。おそらく、記録に残せない類のことなのでしょう」
アベンゼン教会はエルドリッチ市の市都の郊外にあり、区分上はエルドリッチの小区教会とされている。だが、その規模は各市の中央協会に匹敵し、その力は各市の中央協会を遥かに上回る。
「意外と普通っぽいね。もっと禍々しい感じの場所だと思ってたよ」
「見た目は普通の教会ですが、中は魑魅魍魎でいっぱいですよ」
「おーこわっ! そのチミモーリョーたちと対峙する前にやっておきたいことがあるんだけど……ゲラさんにお願いしてもいい?」
「なんでしょう?」
「テイパーズ・デンにいるペイっていう人に渡したいものがあるんだ。僕の代わりに届けてくれないかな」
「渡したい物というのはシュペングラー金貨ですね?」
「うん」
アレックスはあっさりと認めた。アンゲラに隠しても無駄だと悟ったのだ。荷台からは彼女の後ろ姿しか見えないが、その顔に〈昆虫の微笑〉が浮かんでいることは容易に想像できた。
「どうやら、ゲラさんは勘付いているみたいだね」
「詳細は知りませんが、察しはついています。貴方はそのペイ氏に金貨の隠し場所を教えてもらったのですね」
「そのとおりです。ごめんなさい」
「私は気にしていませんよ。ただ、ミルさんにはこのことを教えないほうがいいと思います。騙されたと知ったら、きっと怒り狂いますよ」
「騙したつもりはないんだけどなー」
アレックスはミルの寝顔に目をやった。眠っている時も仏頂面をしているところが彼女らしい。
「ミルさんは信じかけていますよ。貴方にアレックス・ザ・ミディアムの魂が宿っていることを……」
「そうなの? 僕の話を初めて聞いた時は『信じられない』と言い切ってたのに」
「シュペングラー金貨や鉤爪ルダボーの件で自信が揺らいできたのでしょう。貴方はカナヅチだから、アレックスであるはずがない――そう指摘したことも忘れているようです。私見ですが、彼女にはクリケットの素地とでも呼ぶべきものがありますね」
「ファウクーン人には信心深い人が多いからなー。でも、そう言うゲラさんはどうなのさ? やっぱり、回帰主義者だから、残魂転移を信じてるの?」
「私はただの雇われ者です。回帰主義を信奉しているわけではありません。それに神や真導の実在性については深く考えないようにしています。アグノスティカーですから」
「なにそれ?」
「公用語で言うなら、不可知論者ですね」
「苦悶の棒? よく判らないけど、拷問具みたいなもの?」
「違います。ないものねだりの虚しさを知っている人間のことですよ」
「なるほどねえ」
相手の言葉が理解できた振りを装いながら、アレックスは前方に視線を戻した。
アンゲラと話している間に荷馬車が森を抜けたため、今は多角形の塔の全体像が見える。
それは塀で囲まれた教会の中核を成す建築物であり、塀と一体化した下部には豪奢な門が設けられていた。予備知識のない者が見たら、そこが正門だと思い込むかもしれない。だが、正門は別にある。塔の門をくぐることが許されるのは、〈教団〉のある機関に属する者だけだ。
「この角度からは見えませんが、塔の上部には大きな窓があります。真導師たちは、その窓がある部屋のことを――」
アンゲラが振り返り、横顔を見せた。
案の定、〈昆虫の微笑〉を浮かべている。
「――『豚小屋』と呼んでいます」
次回は2015年9月19日頃に投稿予定。




