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アレックス最後の戦い  作者: 土師 三良
第五幕 三月ウサギは野を駆ける
29/41

第三場

警鼓隊士たちの歓迎会/ジェイコブ、お約束に酔う/ある旅芸人の受難記/商品番号616/いさましいちびのプリズナー/古着屋の撹乱作戦/迷宮入りするであろう辻斬り事件/正義の殺し屋/「大事な話がある」/その名はアルシャオ/「わーおぅ!」




 タヴァナー市の市都の各街区に設けられた警鼓隊の詰所。

 そのうちの一つ――留置場を併設したオーク街の詰所に俺は足を踏み入れた。

 警鼓隊のシンボルとも言える(もっとも、使用されることは滅多にないが)大太鼓の傍で猥談に興じていた数人の隊士が黙り込み、敵意の視線を向けてきた。

 もちろん、そんなことで動じる俺じゃない。

 隊士たちは俺を睨むのをやめると、仲間うちで目線を交わし、言葉なき協議を始めた。その結果、トカゲじみた顔付きをした背の低い隊士が総代に選ばれた。皆に推されたのか、自分で立候補したのか――そのあたりのことは判らないが。

 チビは俺の真正面に立ち、ガビッシュ訛りで尋ねた。

「なんの用や、カッコーさん?」

「ジェイコブに呼ばれた」

「小隊長は留置所におるで。なんや知らんけど、名無しの囚人と話し込んどるわ」

 チビの拳が上がり、立てられた親指の先端が背後の扉に向けられる。しかし、その小さな体は俺の前から動かなかった。ただで通すつもりはないらしい。

「ところで、カッコーさん。エイシアをものにしたっちゅうのはホンマなんか?」

「『ものにした』というのが性交を意味するのであれば、質問の答えはおまえの想像通りだ」

「おうおう。たいした色事師やないか。俺なんか、ずっと前からエイシアに言い寄ってたのに、鼻もひっかけてもらえへんかったんやで。なあ、後学のために教えてくれや。あいつをどんな風に口説き落としたんや?」

「口説いた覚えはない。彼女のほうが身を任せてきたんだ」

「へっ! 羨ましいっちゅうか、妬ましいっちゅうか……カッコーは美味しい稼業やなぁ。〈教団〉(ニュー・オーダー)の腕輪を見せびらかせば、頭の悪いクリケットの女が喜んで股座を開いてくれるんやから」

 成り行きを見守っていた隊士たちが下卑た哄笑を響かせた。だが、目は笑っていない。

 チビの目も笑っていない。

 当然のことながら、俺も笑わなかった。

「認識を改めたほうがいいな。エイシアはクリケットだが、頭は悪くない」

「頭だけやなくて、あっちの評価も教えてくれや。いぃ~い具合やったか? あン?」

「その質問になんの意味がある? おまえの場合、比較の対象は自分の右手だけだろう」

「な、なんやと、コラァ!」

 チビが胸倉を掴んできた。

「この魚臭い手を放せ」

 静かな声で警告する。俺も大人になったもんだ。昔なら、警告という段階を省略して行動していただろう。

「さもないと、今夜から左手が比較対象になるぞ」

「上等じゃい、この腐れカッコーが! やれるもんなら、やっ……」

「やめろ」

 と、怒号に割り込んできた声は決して大きくなかったが、チビはあわてて胸倉を放し、振り返った。

 いつのまにか奥の扉が開かれ、声の主であるジェイコブがそこに立っていた。

「一触即発ってな感じのところに親玉が登場して、いきりたってる手下どもをいなす――手垢の付きまくった展開だが、実際にやってみると、なかなか気持ちの良いもんだな。げはははははははは!」

 豪快な笑い声に追い立てられるようにチビはすごすごと部屋の隅に戻った。

 ジェイコブは笑うのをやめて、柄にもなく厳しい顔付きをした。

「おいおいおいおい。リトル・ビルよ。おまえさんの喧嘩の売り方は粋じゃねえなぁ。相手を挑発するためとはいえ、同僚のエイシアまで貶めることはねえだろうがよ」

「……」

 リトル・ビルと呼ばれたチビが消え入るような声で何事かを呟いた。謝罪か反省の言葉を述べたのだろう。他の隊士たちはばつの悪そうな顔をして、床や天井を見つめている。

 悪童を叱る鬼教師の目で彼らを一睨みしてから、ジェイコブは俺を招き入れ、扉を閉めた。

 そして、両手を合わせて頭を下げた。

「すまん!」

 大陸人がチャオ式の詫び方をすると、どうしても違和感が生じてしまうものなのだが、ジェイコブの所作は自然だった。もっとも、自然であるが故に悪びれているように見えないが。

「許してやってくれや。あいつらに悪気はねえんだ。ただ、小隊のマドンナを取られちまったもんだから、ちょっと気が立ってるのさ」

「あんたが俺とエイシアのことを言いふらすから、こんなことになるんだ」

「俺ァ、なにも言っちゃいないぜ。この手の噂は自然に広まっちまうもんなんだよ」

 俺はその言葉を信じなかったが、あえて追及しなかった。

「それで、用件というのは?」

「うむ。おまえさんに617を紹介してやろうと思ってな」

「なに!?」

 目を剥く俺に背を向けて、ジェイコブは歩き始めた。

 俺はその場に立ち尽くしていたが、すぐに我に返り、あわてて後を追った。

「617を捕まえたのか?」

「捕まえたというか、知らず知らずのうちに捕まえていたんだ。この前、〈マムシ亭〉で話しただろう。テイパーズ・デンで妙な奴を捕まえたってよ。そいつの正体が617だったのさ。ただし、おまえさんが探している617とは別人だけどな」

「話が見えないぞ」

「617は二人いたんだよ。いや、本当は一人なんだが……まあ、詳しいことは当人の口から聞いてくれや」

 ジェイコブが牢獄の前で立ち止まり、鉄格子を軽く蹴った。

 俺は牢屋の中を覗き込んだ。

 奥の壁にうずくまっていた若者が顔をあげた。見覚えのある顔だ。

 これといった特徴はないが、平凡とも言い切れない顔。それなりに端正だが、どこか間の抜けた顔。芝居に出てくる、商家の気の良い若旦那のような顔。

 そう、617の人相書きと同じ顔だ。

「……どういうことだ?」

 俺は説明を求めた。

 ジェイコブがまた鉄格子を蹴った。

「おい、ホーホー! この兄さんに話してやんな。おまえさんの身に起きたことをな」

「はい」

 檻の中の若者――ホーホー・ホイは力なく頷いて、訥々と語り始めた。



     ◆



 私の名はホーホー・ホイといいます。生まれはグリマング市のガスタブルという村です。悪事とは無縁のしがない流れ者の辻楽士でしたが、紆余曲折がありまして、凶状持ちに堕ちてしまいました。

 紆余曲折の発端は紅玉(こうぎょく)の三月二十九日。タヴァナー市に向かっている途中、スロース峠の辺りで追い剥ぎたちに襲われたんです。

 追い剥ぎというのは「通行料を渡せば、命だけは助けてやるぜ」というような輩と「身ぐるみ剥いでブッ殺してやるぜ」というような輩に大別できます。私が出遭った追い剥ぎは前者でしたが、素寒貧だったので、通行料を払うことはできませんでした。

 金目のものを持っていない獲物を捕らえた時に賊が選ぶ道は三つ。殺すか、見逃すか、奴隷商人に売るか……。

 奴らが選んだのは三つめでした。

 私は縛り上げられてテイパーズ・デンまで運ばれ、ネイサン・ローマーという奴隷商人に買い取られました。

 追い剥ぎたちからローマーに引き渡される時に隙をついて逃げ出すこともできたかもしれませんが、なにもできませんでした。自分の身に起きていることが受け入れられなくて頭が真っ白になっていましたから。あれよあれよという間に名前や経歴を聞き出され、似顔絵を描かれ、「617」という番号札が縫い付けられた服を着せられ、ローマーの店の地下にある牢屋に押し込まれて、活きの悪い奴隷の一丁あがりです。

 牢屋の中には何人かの先客がいました。そのうちの一人と私は親しくなりました。そいつの番号は616です。

 616はおかしな奴でしたよ。奴隷にされたというのに、とても楽観的なんです。剣術の心得があるらしく、「剣が一本あれば、今すぐにでもこの店の連中を皆殺しにして、逃げ出してみせる」と豪語してました。

 でも、本当に腕っ節が強いのなら、奴隷なんかになるはずはありませんよね? その疑問をぶつけてみると、616はこんなことを言いました。

「世の中、上には上がいるんだよ。僕は腕が立つけど、もっと腕の立つ奴に負かされて、奴隷商人に売られちゃったんだ」

 私は尋ねました。その「もっと腕の立つ奴」というのは誰なんだ、とね。

 そしたら、616はこう答えました。

「アレックス・ザ・ミディアムだよ」



「ここから逃げることができたら、アレックス・ザ・ミディアムを見つけ出して、再戦を挑むつもりでいるんだ。今度は負けない。絶対に殺してやる」

 616は軽い調子で言ってのけました。

 でも、奴の夢は叶いませんでした。ある日、「アレックス・ザ・ミディアムが処刑された」という知らせが牢内に伝わってきたんです。ええ、ローマーの地下牢は娑婆と完全に切り離されていたわけじゃないんですよ。牢番や新入りの奴隷を介して、外の世界の最新情報が自然に流れてこんでくるんです。

 アレックスが処刑されたことを知ると、616はひどく落ち込みましてね。普段はうっとうしいくらいによく喋るくせに、その日はずっと黙り込んでいました。

 もっとも、今にして思うと、普段との落差が激しすぎたから落ち込んでいるように見えただけかもしれません。いえ、落ち込んでいたのは間違いないんですが、それほど深刻なものではなかったような気がするんですよ。なんというか……お気に入りの玩具を壊してしまった子供みたいな感じでした。

 その翌日、ローマーが地下に降りてきて、牢番と話を始めました。

「四ヶ月振りにウォルラスから注文があったぞ。毎度のごとく、チャオ人の男で、なるべく華奢なのがいいらしい」

「あれなんかどうですか?」

 と、牢番が指差したのは私でした。ローマーはこちらをちらりと見ただけで「よし、いいだろう」と頷きました。

 今度は私が落ち込む番ですよ。ローマーの口振りからすると、ウォルラスというのは常連らしい。しかも、たった四ヶ月前に奴隷を買ったばかり。そんな奴のところに売られたら、私も数ヶ月で使い捨てにされるに違いありません。

 しかし、意外なところから救いの手が差し伸べられてきました。

 ローマーが立ち去り、牢番が所用で姿を消すと、さっきまで意気消沈していた616が傍に寄ってきて――

「服を脱ぎなよ」

 ――そう声をかけて、自分も脱ぎ始めたんですよ。

 私は言葉も出ませんでした。まさか、こいつがそういう趣味の持ち主だったとは……なんてことを思ってたんです。

 616は私の様子がおかしいことに気付いて、自分がやろうとしていることを説明してくれました。

「服を取り替えるんだ。あんたが616になり、僕は617になる。で、僕がウォルラスのところに売られるというわけさ」



 ローマーや手下たちは奴隷の顔をいちいち覚えたりしてないから、番号札付きの服を取り替えても、気付かれることはない。616はそう主張しました。

 確かにローマーの商品管理は杜撰でした。それにチャオ人の顔の区別もついていないようでした。だけど、それはあまりにも危険な賭けです。バレてしまったら、どうなるか……まさか殺されることはないでしょうが、笑って許してくれるとも思えません。

 悩みに悩み抜いた末、私は616の策に乗ることにしました。奴隷というのは維持費がバカになりませんから、いつまでも売れ残っていると、始末されるかもしれません。とはいえ、ウォルラスとかいう奴のところがここよりもマシとは限らない。残るも地獄、進むも地獄。だったら、少しばかり住み慣れた地獄のほうがいい。

 服を換えた後、こんなことをした理由を616に尋ねました。

「ウォルラスを殺すためさ」

 それが616の答えでした。

「ウォルラスはアレックスの黒幕なんだ。ここに連れてこられる時、鉤爪の男がそう言ってた。もっとも、奴隷の買い手であるウォルラスと黒幕のウォルラスが同一人物とは限らないけどね。それを確かめるためにも、ウォルラスに会う必要があるんだ」

 言っていることは理解できませんでしたが、一つだけ判ったことがありました。616にとって、ウォルラスというのはアレックス・ザ・ミディアムに代わる新しい玩具だったんです。ウォルラスのことを語る時、616は目を輝かせていましたよ。悪戯を思いついた子供みたいに。

 数日後、616は牢屋から出されて、どこかに連れて行かれました。ローマーたちは番号が入れ替わっていることに気付きませんでした。私と616は賭けに勝ったんです。

 でも、すべてが上手くいったわけじゃありません。後で牢番から聞いたんですが、616が連れて行かれた先はウォルラスのところじゃなかったんですよ。ウォルラスが急に解約したもんだから、別の客に売られてしまったんです。

 その翌日に私も売られました。買い手はサイプレス街の娼館の主です。

 初日は雑役夫として働かされましたが、それは環境に慣れさせるための準備体操みたいなものです。時間が経てば、男娼として働かされていたでしょう。自分で言うのもナンですが、私は器量が悪いほうじゃありませんから、売れっ子になれたかもしれません。

 しかし、私は男娼になるつもりはありませんでした。白粉くさい小金持ちの婆さんや尻穴好きの変態どもに弄ばれた挙句に妙な病気をうつされて死んでしまう――そんなのは御免です。どうせ死ぬなら、運命に抗って死んだほうがいい。数日前までの私だったら、そんな無茶な考え方はしなかったでしょうね。知らないうちに616の影響を受けていたのかもしれません。

 決心が鈍る前に私は行動を起こしました。隙を見て娼館の一角に火をつけて、皆が騒いでいる間に逃げ出したんです。行き掛けの駄賃に店の金も貰っておきました。

 逃げ出すことはできましたが、問題はその後です。理由はどうであれ、火付け強盗みたいな真似をしてしまったんですから、警鼓隊のところに駆け込んで助けを求めるわけにもいきません。だから、テイパーズ・デンに身を潜めて、ほとぼりが冷めるまで待つことにしました。

 まず、カジキ通りの古着屋に行き、ちゃんとした衣服を買いました。なぜだか判りませんが、そこの女主人がしきりにターバンを薦めてきたので、それも買いました。それから、食料を買い込み、古着屋と同じ通りにある廃屋に行きました。

 で、そこで一夜を明かそうとしていたら、いきなり警鼓隊の旦那方が突っ込んできまして……ここに連行されたんです。



     ◆



 ホーホーはすべてを語り終えると、飼い主の機嫌を伺う犬のような目で俺とジェイコブの顔を交互に見た。

 その眼差しから逃げるように顔を背けて、俺はジェイコブに確認した。

「つまり、スルーフィールドが素体として利用した奴隷は、617に化けた616だったというわけか?」

「そういうこった。それだけでもややこしいのに、本物の617であるホーホーが紛らわしい格好をしたもんだから、余計にややこしくなっちまったんだな。ちなみにホーホーが古着屋で服を買ったのは五日の昼過ぎ――うちの小隊の連中と616が〈ボロゴーヴ亭〉で騒動を起こしていた頃なんだとよ。つまり、616はホーホーより先にターバンを巻いていたということになる」

「それがどうした?」

「古着屋の思惑が気になる。警鼓隊の目を逸らすため、似たような衣服をホーホーに売りつけたのかもしれねえ」

「しかし、616にターバンを提供したのが同じ古着屋だとは限らないだろう」

「ああ。それを確かめようと思ってテイパーズ・デンに出向いたんだが、その古着屋はもぬけのからだった。近所の連中から聞いたところによると、数日前から姿を見せなくなったらしい」

「古着屋だけじゃなくて、ローマーも臭いな。もしかしたら、奴隷が入れ替わっていることを知った上で、スルーフィールドに616を売りつけたのかもしれない」

「その可能性も無きにしもあらずだが、確かめることはできないぜ」

「なぜだ?」

「ローマーはくたばったのさ。今朝、チェスナット街の裏通りで死体が見つかったんだ」

 ジェイコブはなぜかニヤリと笑った。

 俺のほうは表情を変えなかった。

「裏通りとは、おかしな場所で死んだものだな。死因はなんだ?」

「馬に撥ねられたわけでもなけりゃ、卒中でポックリ逝ったわけでもない。斬り殺されたんだ。背後から一太刀でバッサリとな」

「辻斬りか……物騒な話だ」

「確かに物騒だが、ちょっとばかし痛快でもある。俺ァ、その辻斬りに拍手を送りたい気分だよ」

「警鼓隊士にあるまじき発言だな。聞かなかったことにしておこう」

「いやいや、ぜひとも聞いていただきたいね」

 ジェイコブの声が熱を帯びた。

 その熱の発生源が何のなのかは判っている。俺もまた同じものを抱えているから。

 そう、〈獣〉(怒り)だ。

「俺がこの世でいちばん嫌いな悪事は、人間様を物みてえに売り買いすることだ。まあ、同率一位の悪事が他にもいくつかあるんだけどな。とにかく、人身売買というのは許せねえ。警鼓隊に入ったのも、人形屋どもを根絶やしにしたかったからだ」

「奴隷の売り手を根絶やしにすることは不可能だ。買い手がいる限りな」

「そのとおり。しかも、買い手のほとんどは警鼓隊を顎で使えるほどの大物なんだよな。俺は進むべき道を間違えたよ。できるなら、予言者(バックワーダー)みたいに過去に逆行して、人生をやり直したいぜ」

「どんな人生にしたいんだ?」

「正義の殺し屋だ。人身売買をしている野郎どもを闇にまぎれて次々と殺していくのさ。かっこいいだろ?」

「子供じみてるよ」

「そうかもしれねえな。げはははははははははは!」

 ジェイコブの笑い方は普段のそれよりもわざとらしかった。頭を冷やすため、無理に笑っているのだろう。

「まあ、そういう子供じみた夢を持っている俺様としてはよぉ。ローマー殺しの犯人を挙げたくねえんだわ。たとえ、そいつの動機が義憤じゃなかったとしてもな」

 ジェイコブは「そいつ」という言葉を殊更に強調した。まるで、「そいつ」のことをよく知っているかのように。

 そのことに気付かない振りをして、俺は軽口を叩いた。

「とか言いながら、本当はあんたが犯人じゃないのか?」

「そんなわけねえだろう。正義の殺し屋に憧れているとはいえ、一線を越えちまうほどバカじゃねえよ」

「あんたは恵まれている。一線を越えるかどうかを自分の意志で決められるんだからな」

「おまえさんだって、そうだろうが」

「俺と比べているわけじゃない」

 俺は牢獄に視線を戻した。

 一線を越えて火付け強盗にならざるをえなかった者――ホーホー・ホイはまだこちらを見つめていた。

 ジェイコブも牢獄の中を見た。

「おいおいおいおい。情けねえ顔すんじゃねえよ、ホーホー。火付けは重罪だが、おまえさんの場合は情状酌量の余地があるから、死刑にならないさ。あの火事では死人も出てないしな。とはいえ、無罪放免というわけにはいかないぜ」

「は、はい……この町の獄舎でお勤めをすることになるんでしょうか?」

 ホーホーが尋ねると、ジェイコブはかぶりを振った。

「いや、収監先はこの町じゃない。もしかしたら、獄舎でもないかもしれん。さっき、上のほうからお達しがあってな。おまえさんを他所の州の教会に移すことになったんだ」

「どうして、教会なんかに?」

「たぶん、上の連中はおまえさんをネタにして、〈教団〉と取引するつもりなんじゃねえかな。どんな取引なのかは判らねえけどよ」

「その取引が済んだら、私も用済みということになって……こ、こ、殺されちゃったりとか……」

 ホーホーが鉄格子までにじり寄ってきた。その顔は青ざめ、眼は涙で潤んでいた。

「心配すんな」

 ジェイコブは鉄格子に手を差し入れて、哀れな旅芸人の頭を軽く叩いた。

「おまえさんの身はちゃんと守ってやるよ。移送を任されたのは俺の小隊だからな」



〈愛しきデライラ亭〉の九番テーブルにはいつもと同じ夕食――ブレッド・アンド・バタフライと皇国風スープが並んでいたが、俺はそれらに手を付けることなく、分厚い帳面に目を走らせていた。

 ネイサン・ローマーの商品目録だ。

「行儀の悪い真似はやめなさい。ここはものを読む場所じゃなくて、ものを食べる場所だよ」

 向かい側で指を舐めていたエイシアが注意した。少し前まで彼女の前に積み上げられていたマフィンは一つ残らず消えている。

『舌で指を洗うほうが行儀の悪い振る舞いだろう』

 普段の俺なら、そんな具合に応酬していたかもしれない。しかし、今はなにも言い返すことができなかった。

 考え込んでいたからだ。エイシアに伝えるべきことについて。

 616と617が入れ替わっていた件は報告済みだが、伝えなくてはいけないことは他にもある。商品目録を改めて読むことによって知り得た新事実だ。それを聞けば、エイシアは動揺するだろう。そして、俺の行動を阻む側に回るかもしれない。

 べつにエイシアが敵になったところで脅威にはならない。そもそも、彼女がこちらに与しているからといって、メリットがあるわけでもない。だが、しかし……くそっ! 悩むようなことじゃないだろう。どうせ、いつかはバレるんだ。

 俺は頁に折り目をつけて目録を閉じ、話を切り出した。

「聞いてくれ」

「ん?」

「大事な話がある」

「あらあら。ようやく、あたしに抱いている不思議な感情が愛であることに気付いたのね。ちょっと遅すぎるんじゃないの」

「そういう冗談につきあえる心境じゃない」

「冗談につきあってくれたことなんて一度もないくせにぃ」

「俺の話を聞けば、君も冗談なんて言えなくなるぞ」

 料理をテーブルの脇に押しやり、空いた場所に目録を置く。

「俺は無駄なことはしない主義だ。この目録をローマーから渡された時も、ホーホー・ホイの情報が記されているところしか読まなかった。他の奴隷のことを知る必要はなかったし、べつに知りたくもなかったからな。だが、それは間違いだったのかもしれない。ホーホー以外の奴隷たちの情報にも目を通していれば、もっと早く気付いていただろう。気付いたからといって、事態が変わっていたとは思えないが……」

「〈無駄なことはしないぜ協会〉の会長さんにしては、前置きが無駄に長すぎるんじゃないの。さっさと本題に入ってよ」

「判った。今から俺がする質問は脈絡のないものに思えるかもしれないが、間違いなく本題だから、ちゃんと答えてくれ。いいな?」

「はーい」

「アルシャオ・インという名前に聞き覚えはあるか?」

「……え!?」

 泡を食うエイシアに向かって、俺は質問を繰り返した。

「アルシャオ・インだ。その名前を知っているか?」

「知ってるもなにも、それは――」

 猫に似た顔に動揺と愁傷の影が差した。こういう表情もできるんだな。

「――あたしの弟の名前よ」

「弟の年齢は?」

「あたしの二つ下……十七歳だった。ねえ、その質問になんの意味があるの?」

「商品目録によると、616は十代後半のチャオ人。名前はアルシャオ・インだ」

 九番テーブルに沈黙が降りた。俺たちを包んでいる空気が店内の喧騒を遮断したのだ。

 エイシアは半口を開けて俺を見つめていたが、やがて目録の表紙に視線を落とし、すぐにまた俺を見た。それから、神経質に前髪をいじり始めた。

「616は君の弟なんだよ」

 俺は沈黙の空気を霧散させた。自分でも驚くほど優しい声で。

 エイシアの頭が弱々しく左右に振られた。

「そんなこと……ありえない。だって、アルシャオは〈グレイノーモアの虐殺〉で死んだのよ」

「目録には『紅玉(こうぎょく)の三月二十七日にアレックス・ザ・ミディアムより購入』と記されていた。おそらく、〈グレイノーモアの虐殺〉が起きた晩、君の弟はアレックスに生け捕りにされたのだろう。その後、ローマーの手に渡り、スルーフィールドに売られ、残魂転移の素体にされたんだ」

 俺は目録を開いて顔の前にかざすようにして持ち上げ、そこに描かれている似顔絵をエイシアに見せた。

「目録には奴隷の似顔絵も付いている。616(アルシャオ)の似顔絵は君に似ていたよ。自分の目で確かめるといい」

 エイシアの顔は目録に隠れて見えないが、息を呑む気配は伝わってくる。

 そして、数秒の間を経て、目録の向こう側から彼女の驚声が聞こえた。

「わーおぅ!」

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