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アレックス最後の戦い  作者: 土師 三良
第五幕 三月ウサギは野を駆ける
28/41

第二場

(おか)の海賊/ちょっとした問題/配役発表/殺人者たちの厭戦的傾向/裏社会を生き抜くための心得/被り物に関する新たな流行/あらかじめ予定された剣戟/アンゲラ、大物を釣り損なう/鉤爪/間違えられた男/実は間違えられていなかった男




 タヴァナー市とエルドリッチ市との境界の傍にある宿場町ラヴァダック。

 その町の旅籠にアレックス一行は身を寄せていた。

 テイパーズ・デンを出立してから四日が過ぎている。時には闇に身を潜め、時には雑踏に紛れ込み、行く手に立ち塞がる刺客を打ち倒し、背後から迫り来る追手を斬り伏せ、屍山血河を築き、艱難辛苦を乗り越えて……というような修羅の旅路をアレックスは期待していたのだが、屍山血河など築けなかったし、乗り越えるべき艱難辛苦にも出会えなかった。

 そのため、アレックスの緊張感を示す目盛りの針は(最初から高い位置になかったとはいえ)ゼロの手前まで落ちていた。

「ターバン姿も似合っていたけど、こういう格好も悪くないなー」

 客室に設けられた姿見の前で彼は今も緊張感の針を落とし続けていた。首から下のいでたちはテイパーズ・デンにいた時と同じだが、額の石を隠す布はターバンからバンダナに変わっている。

「これで眼帯でも付けたら、海賊に見えるかもしれない。ゲラさんは眼帯を持ってるかな?」

「持ってるかもね」

 寝台の上で胡座をかいていたミルが投げやりに応じた。

 アレックスは手で片目を隠して鏡を覗き込み、眼帯姿の自分を思い描いた。

「うん、悪くないぞぉ。だけど、眼帯なんか付けたら目立っちゃうよね。いや、待てよ? 敵は『逃亡者が目立つ格好をするわけがない』と考えているだろうから、その裏をかいてわざと目立つというのもアリじゃないかな。ミルちゃんはどう思う?」

「あんたはバカだと思う」

「忌憚のない意見をありがとう」

「どういたしまして」

 その言葉の後に悪態が続くことを予測してアレックスは首をすくめた。

 しかし、聞こえてきたのは悪態ではなく、礼儀正しいノックだった。

「どうぞー」

 と、扉に向かって声をかけると、アンゲラが部屋に入ってきた。

「馬車の用意ができました。荷物をまとめてください」

「まとめるほどの荷物はないよ。ところで、どんな方法で馬車を調達したの?」

「事前にクラン商会に話をつけて、郵便馬車を借りる手筈を整えていたのです。ちょっとした問題が生じましたが……」

「どんな問題?」

「たいしたことではありません。それより、貴方のほうは大丈夫ですか?」

「なにが?」

「失礼ですが、箍が緩んでいるように見えますよ。もう少し気を引き締めてください。これからの道程は今までよりも厳しいものになるはずです」

「判ってる、判ってる。覚悟はできてるよ。ミルちゃんも覚悟はできてるよね?」

「いちいちあたしに話を振るなっつーの」

 ミルは勢いをつけて寝台から飛び降り、つかつかとアンゲラに歩み寄った。

「本当に郵便馬車で移動するつもり?」

「なにか問題でも?」

「もしかしたら、クラン商会の連中が粛正省に密告するかもしれないでしょ」

 ヴァリ島の郵便事業はモワノール人の商人シャルル・クランが独占している。〈教団〉(ニュー・オーダー)の肝煎りによるものだ。その代価として、クラン商会は〈教団〉の郵便物を無料で配達しているし、それ以外の形で協力することもある。協力の対象はあくまでも〈教団〉全体だが、クラン商会の中には粛正省と深い関係を結んでいる者もいるはずだ。

「そうですね」と、アンゲラは頷いた。「クラン商会は情報を漏らすかもしれません。しかし、そんなことになったとしても、状況が大きく変わることはありませんよ」

「どうして?」

「ディミックは既に知っています。我々が郵便馬車を使って移動することを……」

「え!?」

「それに我々の行き先も知っていますし、その経路も知っているはずです。きっと、刺客を差し向けてくるでしょう」

「なんで情報が筒抜けになってんのよ!」

「私が故意に漏らしたのです」

 アンゲラはさらりと言ってのた。一瞬、赤い片眼鏡が凶悪な光を放ったように見えた。

「たいへん申し訳ありませんが、アレックスさんには猟犬を誘き寄せるためのウサギになっていただきます」

「わーおぅ!」

 ウサギの役をあてがわれたアレックスが声をあげた。

「前言を撤回すべきかなー。僕は覚悟が足りなかったみたいだ」



 ラヴァダックからエルドリッチ市へと続く街道は途中で扁平な丘を越え、紅葉が終わりつつある樹林に下っていく。

 その緩やかな下り坂の中程に、二台の荷車が道を塞ぐ形で置かれていた。荷車の周囲には、警鼓隊の腕章を付けた六人の男が立ち、あるいは座り込んでいる。街道に臨時の関所を設けた警鼓隊――傍目にはそう見えるだろう。

 道は落ち葉で斑に染まっているが、男たちがいる場所だけは白茶色の地面が剥き出しになっていた。事前に一掃したのだ。戦闘時に足を滑らせないように。

 もっとも、彼らは戦闘を望んでいるわけではない。できれば、戦わずに済ませたいと思っていた。この場合の「戦わずに済ませたい」というのは「抵抗する暇を与えることなく、獲物を始末したい」という意味だが。

「今回の仕事は簡単だ」

 首領格の男が他の五人に言った。彼の左腕を飾っているのは警鼓隊の腕章だけではない。金属製の無骨な篭手が前腕部に装着されている。相手を殴ることに特化した篭手なのか、五指は握り拳の形に固定されていた。

「標的を乗せた郵便馬車がここを通りかかる。警鼓隊の格好(なり)をした俺たちがそれを止める。そして、標的を殺っちまう。ただ、それだけだ。なにか質問はあるか?」

 すると、手下の一人が律儀に挙手してから、質問した。

「標的は女連れだそうですね。その女はどうするんですか?」

「おまえらの好きにすればいいさ。ただし、俺が楽しんだ後でな」

 続いて、別の手下が訊いた。

「依頼主のウォルラスという奴は信用できるんですかい?」

「俺も奴のことはよく知らねえんだ。おまえらを束ねる前に何度か仕事を引き受けたことはあるが、いつも封書で依頼してきたから、直に会ったことはない。しかし、金払いは良いぞ。俺たちがきっちりと仕事をすれば、向こうもきっちりと支払ってくれるはずだ。その点に関しては信用できる」

「それ以外の点は信用できないってことですか?」

 首領がその問いに答えようとした時、坂道の上から七人目の男が駆け下りて来た。

「大将! 郵便馬車が来ますぜ!」

「よぉーし。全員、配置につけ」

 首領を含む三人の偽隊士が荷車の前に並び、残りの四人が街道の両脇に散った。

「標的が乗っていることを確認するまでは行動を起こすんじゃねえぞ。無関係の郵便馬車を襲っちまうと、クラン商会や本物の警鼓隊が出張ってきて、面倒なことになるからな」

 首領が注意を促すと、横にいた手下が不満げな表情を見せた。

「ちょっと甘いんじゃないですか。前の大将は無関係な奴でも平気で殺したんでしょう?」

「そうさ、あいつは殺しまくった。だから、お(かみ)に目ェつけらて、とっ捕まったんだよ。おまえらも気を付けな。仕事をスマートにこなせねえ奴ァ、この『業界』では長生きできねえぞ」

 やがて、森の陰に隠れたカーブの向こう側から二頭立ての四輪箱馬車が現れた。ブレーキ音を軋ませながら、ゆっくりと坂道を下りてくる。御者を務めているのは、配達夫のシンボルである悪趣味な深緑の二角帽(クラン帽という俗称で知られている)を頭に乗せた若い男だ。

「止まれ!」

 首領が大きく手を振って叫ぶと、御者は馬車を停止させ、ブレーキ棒を完全に倒した。

 街道の両脇にいた四人の手下が走り出て、馬車の後部を扇状に囲んだ。そのうちの二人は火縄銃を構えていた。もちろん、火縄には点火済みだ。

「どーも。ご苦労さんです」

 と、御者はクラン帽を取って偽隊士たちに会釈し、首領に尋ねた。

「なにかあったんですか?」

 少しばかり驚いているようだが、恐れているようには見えない。職業柄、警鼓隊に絡まれることには慣れているのだろう。

 首領は御者台に近付き、御者を見上げた。

「この馬車の積荷は郵便物だけか?」

「いえ、違います。えへへへへ」

 御者は頭をかき、卑屈な笑顔を見せた。

「ラヴァダックでお客さんを乗せました。いけないことだとは判っていたんですが……」

 郵便馬車で人を運ぶことは禁じられているが、多くの配達夫たちは小遣い稼ぎのために乗り合い馬車の真似事をしている。それを取り締まる振りをして袖の下を要求する警鼓隊士も多い。

 しかし、当然のことながら、首領が求めているのは袖の下ではなかった。

「『手配中の凶悪犯が市都に向かっている』というタレコミがあったんだ。もしかしたら、乗客の中にそいつがいるかもしれねえ」

「え!?」

「乗客は何人だ?」

「二人ですよ。おかしな帽子を被った別嬪さんと乳臭い小娘です。もう一人、チャオ人の若造も乗っていたんですが、そいつは途中で降りて、どこかに行っちまいました。『やっぱり、ウサギの役なんて御免だ!』とかなんとか、わけの判らないことを叫びながら」

「その若造というのは、こいつのことか?」

 首領は一枚の紙を懐中から取り出し、御者に向かって突き出した。

 617の人相書きである。

 これといった特徴はないが、平凡とも言い切れない顔。それなりに端正だが、どこか間の抜けた顔。芝居に出てくる、商家の気の良い若旦那のような顔。

 暫しの間、御者はその顔と睨みあっていたが、やがて「うーん」と唸り声を発して首をかしげた。

「こんな顔だったような、そうでなかったような……相手の顔をよく見なかったので、なんとも言えません。とにかく、馬車の中にいるのは女だけです。男は乗ってませんよ」

「そうか」

「もう行ってもいいですか?」

「いいわけねえだろう。まだ馬車の中を検めちゃいないんだぜ」

「べつに検める必要はないでしょう。男は乗っていないと言ってるじゃありませんか」

「その言葉が本当かどうかを確かめさせてもらう。それとも、なにか? 馬車の中を見られると困ることでもあるのか?」

「そんなことはありませんけど……」

「じゃあ、さっさと降りな」

 首領は御者を伴って馬車の後部に回り込んだ。

 馬車の背面部にある観音開きの扉にはロンクァイ錠の鍵穴が付いていた。

「扉を開けるんだ。ゆっくりとな」

 武器を構えた四人の偽隊士が包囲を僅かに縮める。

「はあ。開けろと言われりゃ開けますが……」

 御者は扉の前に立つと、「ゆっくりとな」という指示を無視して無造作に開け放った。鍵はかけていなかったらしい。

 隊士たちが緊張に身を固めた。

 しかし、それは一瞬のことだった。彼らはすぐに武器を降ろした。

 馬車の奥に座っていたのは二人の女だったのだ。トップハットを被ったチャオ人らしき女と大陸人の少女。彼女たちの足元には、郵便物の詰まった袋がいくつか転がっていたが、それらは人間が入れるような大きさではなかった。

「なにごとですか?」

 トップハットの女が皆に尋ねた。少女のほうは仏頂面をしている。御者に向けられた目が怒りの色を帯びているのは、「乳臭い小娘」という言葉が聞こえたからであろう。

「どーも、すいません。この旦那がたが凶悪犯を探しているとか仰るもんで……」

 トップハットの女にそう説明してから、御者は首領に言った。

「ね? 男は乗ってなかったでしょう」

「そのようだな。疑って悪かった」

「いえ、いいんですよ」

「ところで――」

 首領は御者の顔をしげしげと眺めた。

「――前にどこかで会ったことはないか? なんだか、おまえの顔に見覚えがあるような気がするんだ」

 御者も首領の顔をまじまじと眺めた。

「不思議なことがあるもんですねぇ。実を言うと、こっちも旦那に見覚えがあるんですよ」

「俺も、さっきから気になってるんだ」

 と、火縄銃を持った手下が御者に言った。

「その海賊じみたバンダナはなんだ? 配達夫の間ではバンダナの上にクラン帽を被るのが流行ってるのか?」



「このバンダナ? 額の石を隠すために付けてるんだよ」

 本来の口調でそう答えると、御者(アレックス)は首領の腰に手を伸ばし、そこに差されていた剣を抜いた。

「――あ?」

 と、声をあげる首領の前で剣が閃き、血飛沫が飛び、銃を持った偽隊士が倒れた。

 一秒後、首領は後方に飛び退いた。

 その判断は正しかったが、遅すぎた。彼が行動を起こす半秒前にアレックスの剣が弧を描き、喉笛を斬り裂いていたのだ。

 喉に開いた第二の口から血を噴き出しつつ、首領は着地し、そのまま仰向けに倒れ伏した。

 その間にアレックスは三人目を斬り殺し、四人目の獲物に襲いかかっていた。火縄銃を持ったもう一人の偽隊士である。

 だが、今度はアレックスのほうが遅すぎた。

 敵は既に銃を構え直していた。

 銃声が響いた。

 銃弾が飛んだ。

 空に向かって。

 馬車から飛び出した黒い影が銃身を蹴り上げたのだ。

 その黒い影――アンゲラに残りの敵を任せて、アレックスは荷車のほうに走った。

 荷車の前にいた二人の偽隊士も坂道を駆け上がって来る。

「てめえ、何者だ!?」

 偽隊士の一人が叫ぶように問いかけた。

 その勇ましい咆哮が動揺と恐怖を隠すためのものであることをアレックスは看破した。敵は怯えている。では、もっと怯えさせてやろう。目の前にいる敵が何者なのかを教えてやろう。

「アレックス・ザ・ミディアム!」

 叫び返して、剣を振り下ろす。

 偽隊士の剣がそれを迎え撃つ。

 二条の刀身がすれ違い、偽隊士の手から三本の指が血の糸を引いて飛び、剣が落ちた。

 アレックスのほうは無傷だった。偽隊士は間合いを計りそこねたのだ。名乗りが効いたのかもしれない。

 だが、戦いはまだ終わっていない。

 もう一人の偽隊士が横手に回り込み、剣を薙いだ。

 アレックスは瞬時に身を沈めた。白刃の軌跡が残像を斬り裂き、数本の頭髪が舞う。

 一瞬、偽隊士がアレックスを見下ろし、アレックスが偽隊士を見上げ、両者の瞳に互いの姿が映った。偽隊士の瞳の中のアレックスは今回も楽しそうな顔をしていた。

「しゃあーッ!」

 アレックスは体を跳ね上げるようにして剣を振り、偽隊士の両手首を同時に斬り落として、返す刀で喉笛を断ち割った。

 最後の仕上げに剣を水平に走らせる。

 指をなくした偽隊士の首が地面に落ち、その後を追うようにして体が倒れた。



 クラン商会は郵便馬車を貸してくれたが、御者までは用意してくれなかった。それがアンゲラの言った「ちょっとした問題」である。そこでアレックスが御者を買って出た。敵を引き寄せる役をやるのだから、目立つ場所にいたほうがいい――そう考えたのだ。狭い箱馬車の中に閉じ込められるのが嫌だったという理由もあるが。

 二人の偽隊士を倒したアレックスは馬車の後方に戻った。

 残りの偽隊士たちは既に死んでいた。そのうちの一人のこめかみには戦鎚のピックが突き刺さっている。アンゲラの得物だ。

くそっ(シャイセ)!」

 アンゲラが戦鎚を引き抜き、悪態をついた。

 アレックスは目を丸くした。ドロッセルラント語を知らなくとも、今の言葉が上品なものでないことは察しがつく。

「なんだか、ゲラさんらしくないね。どうかしたの?」

「大物を釣り上げるつもりだったのですが、当てがはずれました。わざと情報を漏らし、必要以上に時間をかけて移動したのに……」

「その『大物』というのはディミックのこと? いくらなんでも、それは無理だよ。こんなところに本人がのこのこと出てくるわけないじゃないか」

 返事はない。アンゲラは難しい顔をして考え込んでいた。「大物」とやらを誘い出す策を練っているのかもしれない。

 アレックスは返答を強要せず、篭手を付けた首領の骸に歩み寄り、その死に顔を見下ろした。

「あたし、この男を知ってる」

 そう言いながら、ミルがアレックスの横に立った。

「こいつはあたしを覚えてなかったみたいだけどね」

「余計なお世話かもしれないけど、友達は選んだほうがいいよ」

「友達なんかじゃないっつーの。こいつはクソ兄貴の仲間だったのよ。名前はダニエル・ルダボー。通称――」

「――鈎爪ルダボーだね」

「なんで知ってるの!?」

「ゲラさんの店で服を買った時に教えてもらったんだ。〈吼え猛る(ハウリング・)ヤマネ団〉(ドーマイス)の生き残りの鈎爪ルダボーとかいう奴がどうのこうの……とかいうような話をね」

 アレックスは屈み込み、首領の篭手を取り外した。

 その中から現れたのは普通の手ではなく、必要以上に先端部を尖らせた鈎爪(フック)だった。

「それに僕もルダボーのことを少しだけ思い出したよ。池で溺れた時に過去のことを夢に見たと言っただろう? その夢に出てきたのがルダボーなんだ」

「……嘘でしょ?」

「嘘じゃないよ。だけど、ちょっと腑に落ちないことがあるんだよなー。夢の中の僕は檻に閉じ込められていたのに、仲間であるはずのルダボーは檻の外にいたんだ。しかも、彼は騎士の格好をしてた。なぜだろう?」

 篭手を投げ捨て、ミルを振り仰ぐ。

 金貨を引き上げた時と同じようにミルは震えていた。それを抑えるためか、自分の両肩をきつく抱き締めている。顔は青ざめ、疑念と戦慄の波が揺れていた。

「どうかしたの、ミルちゃん?」

「べつに……」

 ミルはそっぽを向いた。震えは止まっていない。

 彼女の横顔をアレックス訝しげに見つめていたが、あることを思い出し、はたと手を打った。

「あ、そうそう! 腑に落ちないことは他にもあるんだ。これだよ、これ」

 ルダボーが持っていた人相書きを拾い上げる。

「なんなんだろうね、この似顔絵は?」

 すると、今まで黙っていたアンゲラが話に加わってきた。

「それは貴方の人相書きですよ」

「僕の?」

はい(ヤー)。貴方をスルーフィールドに売った奴隷商人――ネイサン・ローマーが提出した似顔絵をもとにして作成されたものです」

「だけど――」

 アレックスは人相書きを自分の顔の横まで持ち上げ、空いているほうの手で交互に指さした。

「――ぜんぜん似てないじゃないか! どう見ても、これは僕の顔じゃないよ」

「そうです。それは貴方の人相書きですが、そこに描かれているのは貴方の顔ではありません」

 アンゲラの顔に〈昆虫の微笑〉が戻った。



 牢獄の隅に一人の男がうずくまっていた。

 アレックスと間違えられて警鼓隊に捕まった、あの若者である。

 ここに放り込まれた当初は見るも無残な顔になっていたのだが、今は腫れも退き、本来の整った容貌に戻りつつある。

 その修復途中の顔が上がり、虚ろな目が鉄格子に向けられた。

「よぉ! 名無しクン!」

 と、鉄格子の外側から声をかけてきたのは小隊長のジェイコブだ。

「今日になって判ったんだけどよぉ。レイスの野郎、情報交換に応じた振りをしておきながら、617の人相書きを手に入れたことを黙ってやがったんだ。まあ、俺の小隊には617に会った奴が五人もいるんだから、人相書きなんて必要ないんだけどな……と、こんな話をしても、おまえさんには理解できねえか。レイスのことなんか知らねえだろうからな。でも、617のことは知ってるんじゃねえか?」

 ジェイコブは、折りたたまれた紙を懐から取り出した。

「さっき、うちの若い(もん)が近所の小区教会に行ってよ。小区長を言いくるめて617の人相書きをもらってきたんだ。で、その人相書きを見てみたら……驚いたのなんのって」

 紙を広げて若者のほうに見せる。

 そこには617の似顔絵が描かれていた。

 これといった特徴はないが、平凡とも言い切れない顔。それなりに端正だが、どこか間の抜けた顔。芝居に出てくる、商家の気の良い若旦那のような顔。

 それは牢獄の中の若者の顔だった。

「まさか、おまえさんの顔が描いてあるとはなぁ」

「……」

「おまえさんは617じゃない。残魂転移の件とも無関係だろう。それなのに、おまえさんの人相書きが出回っている。まったく、なにがなんだかさっぱり判らねえよ」

 ジェイコブは人相書きを丸めて放り投げると、鉄格子の鍵を開けて牢の中に入ってきた。

「もう、だんまりは無しだ! 今日こそ説明してもらうぜ。おまえさんは何者なんだ?」

「あわわわわわわ……」

 若者の唇がわななき、嗚咽にも似た声が漏れ出た。

 ジェイコブは辛抱強く待った。

 やがて、若者の声が意味を有した言葉に変わり始めた。

「あわわわ、わ、わ、わ、私は……ホ、ホ、ホー……ホーホー・ホイです……」

次回は2015年9月5日頃に投稿予定。


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