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アレックス最後の戦い  作者: 土師 三良
第四幕 水底(みなそこ)と街角で
24/41

第三場

正しい天使の描き方/殺人者の顔/二段構えのメッセージ/擬似家族/功名心は愛を殺す/情報交換/レイスは腰を抜かさない/クリケットではない者が指摘する617の危険性/ある剣鬼の生涯/少年剣士たちはアルバイトに励む/「クリケット」という言葉の新たな定義




〈愛しきデライラ亭〉の九番テーブル。

 俺は昼食を終え、なにをするでもなく壁を見つめていた。

 狭い店内を更に狭苦しくしている、乱暴な筆使いと単調な色使いの絵。その中の天使(マンカインド)たちが無言で俺を見つめ返してくる。どいつもこいつもマヌケ面をしており、知性ってものがまるで感じられない。紫色の法衣を着ていなければ、とても天使には見えないだろう。逆に言えば、どんなに下手な絵であろうと、紫色の法衣さえ描いておけば天使に見えるということだ。

 本物の天使が紫色の法衣を着ていたのかどうかは判らない。しかし、人間と同じ外見をしていたことだけは間違いないだろう。いや、外見だけじゃない。ザミャートワを聴取した時にハイレンズ虚説なるものを初めて知ったが、そのずっと前から俺には判っていた。天使は定命の存在だったということが。

「そう、あんたたちが不死であるはずがない」

 と、マヌケ面の天使たちに俺は語りかけた。

「人間がそうであるように、あんたたちも死を恐れていた。そう考えるのが自然だろ? 〈天使の叡智(ヘリテイジ)〉の中には、怪我の治療や健康の維持――つまり死を先延ばしにするための術らしきものが山ほどあるんだから」

 まあ、山ほどあるにもかかわらず、ただの一つもまともに再構築できてないっていうのは情けない話だが……。

〈教団〉(ニュー・オーダー)は『天使は目覚めの楽土で人間を待っている』と教えているし、スルーフィールドのように『天使は人の世に子孫を残した』と言う者もいるが、どちらも間違いだ。あんたたちはきっと死に絶えたんだろう。でも、それで良かったのかもな。遺産(ヘリテイジ)の継承者である人間たちの愚かな生き様を見ずに済んだんだから」

「なぁーに一人でブツブツ言ってんの」

 この数日で聞き慣れた声が俺を現実に引き戻した。

 エイシアだ。いつの間にか、テーブルの前に座っている。またしても不意打ちを喰らうとは……。

 一人きりの時間を奪われた怒りを込めて睨みつけてみたが、彼女はそれを涼しげな顔で受け流し――

ドロッセル(バオアーン・)ラント風オムレツ(フリューシュテュック)とシェイカーズ・ブラウンのミルク割りをくださいなっ!」

 ――と、カウンターの向こう側に注文を叫んだ。

 怒りをぶつけることを諦め、俺は尋ねた。

「……なんの用だ?」

「テニエルさんからの伝言。例の人相書きが刷り上ったんだってさ。はい、これが見本でーす」

 空になった皿の横に一枚の紙が置かれた。

 視線を落とし、その紙に描かれている617の顔を見る。商品目録の似顔絵を見た時と印象は変わらない(同じ絵なのだから当然だが)。これといった特徴はないが、平凡とも言い切れない顔。それなりに端正だが、どこか間の抜けた顔。芝居に出てくる、商家の気の良い若旦那のような顔。

「君はこいつの顔をどう思う?」

 人類史上最高最大最良の発明品であるところの先割れスプーンを使って、人相書きをエイシアの前に押しやった。スプーンの表面に付いていた皇国風スープの雫が垂れ落ちて、617の額に赤茶色の染みをつくった。

「うーん」

 エイシアは眉間に皺を寄せ、いつになく真剣な眼差しで人相書きを見つめた。

「上の下……いえ、中の上ってところですかねー。男前の部類にぎりぎり入るけど、あたしはもっとシュッとした感じの人が好きだな」

「そういうことを訊いてるんじゃない」

「じゃあ、どういうことを訊いてるの?」

「これが五人もの真導師(コンダクター)を斬り殺した男に見えるか?」

「見えないよ。でも、顔は関係ないでしょ。こいつの中身はアレックス・ザ・ミディアムなんだから」

「なるほど。そっち側の世界(ヽヽヽヽヽヽヽ)の理屈で考えれば、617が殺人者の顔をしていないのはおかしなことじゃないわけだ」

「貴方の世界の理屈で考えても、おかしなことじゃないと思うな。仕事柄、凶悪犯を何人も見てきたけど、その中には善良そうな顔をした奴もいた。人間の本性というのは必ずしも顔に出るとは限らないんだから、外見だけで判断しちゃいけないよ」

「正論だな。やっぱり、君はクリケットらしくない」

「うふっ!」

 おなじみの微笑だ。

 なにがおかしいのか俺には判らない。判ったとしても、笑顔を返すことはできないだろう。

「笑っていられるのも今のうちだぞ」

「そうだね。アレックスを目の前にしたら、もう笑っていられないだろうな」

「アレックスの件が片付いた後も笑っていられないさ」

「どうして?」

「判らないのか? ジェイコブたちは617を救おうとしているのに、君はその意向を無視して粛正省に協力しているんだぞ。大袈裟かもしれないが、それは小隊への裏切り行為だ。この事件が終結して警鼓隊に戻った時、なんらかの形で制裁を受けるかもしれない」

「あら、まあ!」

 エイシアは両手を頬にあて、目を輝かせた。

「あたしのこと、心配してくれてるんだ。ちょっと嬉しいかもー」

「勘違いするな。全然、ちっとも、まったく、これっぽっちも心配なんかしてない。ただ、君の覚悟を確認してるだけだ」

「はいはい、そういうことにしておきましょう。でも、大丈夫だよ。小隊長は話の判る人だから。現に今もあたしの行動を黙認しているみたいだし」

「たとえジェイコブが許しても、他の隊士たちが許さないんじゃないか」

「あたしも許しを乞うつもりはないけどね。小隊の連中が辛くあたってきたら、こっちから三行半を突きつけてやる」

「本気か?」

「本気ですとも。今すぐに辞めてもいいくらいよ。警鼓隊の仕事に思い入れがあるわけじゃないし、市都滞在権の期限ももうすぐ切れるからね」

「辞めた後はどうする?」

「さあ、どうしようかなー。警鼓隊士くずれのお嫁さんを貰ってくれる物好きな男を探そうかしら」

「……」

「今、ギョッとしたでしょ? 顔に出てるよ。言っとくけど、その手のことを貴方に期待してるわけじゃないからね」

「……」

「今、ホッとしたでしょ? 顔に出てるよ」

 決まりの悪い思いを隠すために(おそらく隠し切れていないだろうが)俺は目を逸らした。

 細長い通路の先――店の入り口に立っている男が視界に入った。口髭を生やした色黒の男。劇場神殿でジェイコブと一緒にいた警鼓隊士だ。

 エイシアが俺の視線を追いかけて振り返った。

「あ! ガフさん」

 その声に応じるかのように男が近づいてきた。だが、エイシアに用があるわけではないらしい。鷹を思わせる鋭い双眸は俺に向けられている。

 鷹の目を持つ男はテーブルの前で立ち止まり、静かな声で呼びかけた。

「レイス・シンガー四級真導師(コンダクター)

「なんだ?」

「小隊長から言伝を頼まれました。『サイプレス街の〈マムシ亭〉で待っている。一人で来い』とのことです」

 あきらかに俺よりも年上なのに、なぜか敬語を使っている。

 その腰の低さに触発されて図に乗ったわけでもないが、俺は挑発的な言葉を返した。

「嫌だと言ったら、あんたはどうする? 俺を力ずくで連れて行くのか?」

「いえ、貴方が拒絶した場合は別の言葉を伝えるように命じられています」

「別の言葉?」

「『グダグダ言ってねえで、さっさと来やがれ!』だそうです」

「……」

「では、確かに伝えました」

 ガフは一礼すると、呆気に取られている俺とくすくす笑うエイシアを残して立ち去った。



 サイプレス街にある小さな食堂の前で俺は足を止めた。

 看板を見上げると、そこに描かれている蛇と目が合った。愛嬌のある顔をした蛇だ。尻尾に絡みつかせた杓文字を使って、茶碗に米飯をよそっている。

「〈マムシ亭〉か」

 絵の下に記された店名を呟き、引き戸を開けると――

「いよぉ! こっちだ、こっち!」

 ――傾いだテーブルの前でジェイコブが大声を出して手を振った。

 もっとも、そんなことをしなくても、奴を見つけることはできただろう。狭い店内には他に誰もいないのだから。

 俺はジェイコブの正面に座った。

「随分とシケた店だな」

「定休日だから、誰もいないだけさ。ここの店主は古い知り合いでな。事情を話して、場所を貸してもら……おりょりょりょ?」

 ジェイコブはいきなり素頓狂な声をあげた。大きく見開かれた目は俺の顔の左側に向けられている。

「おいおいおいおい。なんか変な物が左の耳たぶに付いてるぜ」

「軟膏だよ」

 と、感情を押し殺した声で俺は言った。

「怪我でもしたのか?」

「ベッドで猫にかじられた。本人が言うには『屈折した愛情表現』なんだそうだ」

「本人って……おまえさんの飼ってる猫は喋るのかよ?」

「俺の猫じゃない。警鼓隊が押し付けてきた猫だ」

「は?」

 ジェイコブは毒気を抜かれたような顔をしていたが、やがて事情を察したらしく、意味ありげにニヤリと笑った。

「ああ、そういうことか。おまえさんも意外と手が速いねえ」

「俺はなにもしていない。コナをかけてきたのはエイシアのほうだ」

「かけられたコナを払おうとは思わなかったのか? 澄ました顔して『骨張った女は好みじゃない』とか言ってたくせによぉ」

「考えを改めたんだ。食わず嫌いはよくない」

「そうかい。まあ、なにを食べようとおまえさんの勝手だが、最低限のテーブルマナーだけは守ってくれよな。意地汚く食い散らかしてエイシアを傷つけたりしたら、俺を敵に回すことになるぜ」

「あんたには関係ないだろう」

「なに言ってやがる。関係は大ありだわな。小隊長っていうのは隊士どもの親も同然なんだ。可愛い娘が好き者に弄ばれた挙句に捨てられたりしたら、親としては黙っちゃいられねえよぉ」

「俺が不誠実な態度を取ったとしても、エイシアは傷ついたりしないさ。俺に本気で惚れているわけじゃないからな」

「それはどうかな? あの娘は旧ラムディア教の尼僧みたいにお固くないが、その場のノリで誰とでも寝るような尻軽でもないぜ。ああ見えて、けっこう純真なんだ」

 そういえば、エイシアは「小隊長の下す人物評はあてにしないほうがいい」と言ってたな。人を見る目のない上司に「純真」などと評されていると知ったら、どんな顔をするだろう? あるいは知っているからこそ、あんなことを言ったのかもしないが。

「まあ、親の贔屓目かもしれんがね」

 ジェイコブが照れくさげに付け足した。

「贔屓目だな」と、俺は断言した。「確かにエイシアは純真な心を持ち合わせているようだが、それは恋心じゃなくて復讐心だ。一戦交えた後、彼女は俺に『アレックスを殺してくれ』と言ったよ。家族の仇を討つためには俺の力が必要だと思っているらしい」

「復讐を果たすため、おまえさんに肉体(からだ)を捧げたというわけか。泣かせるじゃねえか」

「ぜんぜん泣けないね。彼女のやっていることは無意味だ。俺は最初から617を狩るつもりでいるんだからな」

「たぶん、エイシアはその言葉を疑っているのさ」

「俺が嘘をついているというのか?」

「そうじゃない。嘘をついているつもりはなくても、土壇場で心変わりするかもしれないってことだよ。おまえさんは冷酷非情な審問官(リヴァイザー)のように振る舞っているが、どこかに甘さがある――エイシアはそう思ってるんじゃねえかな」

「甘さだと?」

「『優しさ』と言い換えてもいいが、おまえさんが嫌がりそうだし、俺もコッ()ずかしいから、やめとくよ」

 突然、耳の奥で女の声が反響した。

『貴方は正しいことをしているのよ』

 声の主はシャンメイだ。こちらを見つめて、緩やかに微笑んでいる。

 もう一度、彼女は言った。

『貴方は正しいことをしているのよ』

 俺は耳を塞いだ。

 シャンメイの顔から笑みが消えた。だが、瞳にはまだ俺が映っている。

 一ヶ月前、この目で見つめられた時、俺は決めた。別れを告げることを。

 彼女のことは愛していた。今でも愛しているかもしれない。自分でもよく判らない。だが、まだ愛しているとしても、それは功名心に打ち勝てるほど強固な愛じゃない。シャンメイと一緒にいると、人の道を踏み外すことを恐れる人間になってしまう。間違っているものに対して「間違っている」と言うことを恐れない人間になってしまう。そうなったら、四級真導師のままで人生を終えてしまうだろう。そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ。

「おいおいおいおい。心ここにあらずって感じだな」

 ジェイコブに声をかけられ、俺は我に返った。目の前にシャンメイはいなかった。耳を塞いでいたはずの手はテーブルの上にある。

「大丈夫かよ?」

「大丈夫だ。それより、さっさと用件を話してくれ」

「おう。ちょっと提案があるんだ。俺もおまえさんも動機は違えど、目的は同じ――617を見つけ出すことだよな。だから、ここはひとつ、情報交換といかねえか。お互いの捜査の進み具合を教え合おうや」

「あんたの情報がガセでないという保証は?」

「そんなもの、ありゃしねえよ。俺という人間を信じてもらうしかない。そんなに難しいことじゃないだろ?」

「いや、かなり難しい」

 きっぱりと言い切った。

 しかし、ジェイコブは意に介することなく話を進めた。

「言いだしっぺの俺が先に情報を教えるのがスジだよな。言っておくが、この情報は衝撃的だぜぇ。腰を抜かすなよ。実は……昨日、うちの小隊の連中がテイパーズ・デンで617らしき奴を見つけたんだ」

「なんだと!?」

 俺は思わず立ち上がった。その拍子に椅子が倒れ、大きな音が店内に響いた。

「腰を抜かすなとは言ったが、腰を上げるとは思わなかったよ。げはははははは!」

「笑ってる場合か!」

 テーブルに両手を叩きつけて、ジェイコブを睨みつける。

「すぐに617を引き渡せ!」

「そんなに興奮しなさんな。見つけたとは言ったが、捕まえたとは言ってねえだろ。保護するつもりだったんだが、ちょっとした手違いで乱闘になっちまってな。617は隊士たちを叩きのめして逃げやがった。その代わり、妙な奴をとっ捕まえたけどな」

「妙な奴?」

「どこぞの獄舎から逃げてきた囚人らしい。だんまりを決め込んでやがるが、各市の警鼓隊に問い合わせてるから、いずれ正体が判るはずだ。いや、そいつのことはどうでもいいんだよ。問題は617のほうだ。これは俺の勘だが、617はもうテイパーズ・デンにはいないぜ」

「勘と言いつつ、根拠がありそうだな」

「まあね。617にブチのめされた隊士たちが言うことにゃ、奴の言動や雰囲気は裏の世界に慣れた輩のそれじゃなかったらしい。そういう人間はテイパーズ・デンでは目立つ。にもかかわらず、一晩たっても見つからない……ということは、昨夜のうちにテイパーズ・デンから離れたと考えるべきだろう」

「なるほど」

 納得した振りをしながらも、俺は頭の中で第二次テイパーズ・デン捜索隊の編成を始めていた。ジェイコブが嘘をついているとは思えないが、不用意に信じると、後で泣きを見るかもしれない。

「もう一つ、伝えておくことがある。617が騒ぎを起こした場所は〈ボロゴーヴ亭〉という食堂なんだけどよぉ。そこの店主は誰だと思う?」

「もったいぶるな」

「へいへい。店主の名はミリアム・マッカーティー。通称、ミル。なんとアレックス・ザ・ミディアムの妹だ」

「アレックスの残魂転移の素体にされた男が期せずしてアレックスの身内の店に訪れたというわけか。よくできた話だな」

「『期せずして』とは限らないぜ。もしかしたら、617は自分のことをアレックスだと思い込み、アレックスのように思考し、アレックスのように行動しているのかもしれん」

「昨日の夜、エイシアも同じようなことを言ってたよ」

「寝物語でか? けけけっ!」

「いや、寝る前の話だ」

「……真面目に答えんなよ」

 ジェイコブは「興ざめだよ」とでも言うようにかぶりを振り、話を戻した。

「617がアレックスになりきっているのだとしたら、面倒なことになるぞ。今はまだ一般人に危害を加えちゃいないが、なにかの拍子で箍が外れちまったら、ヤバいことをしでかすかもしれない」

「深刻に考えすぎじゃないか。あんたの部下たちの見立てによると、617は裏の世界には慣れていないんだろ?」

「慣れていないからこそ、歯止めがきかないんだよ。現に617はスルーフィールドたちをブチ殺している。『異端の真導(ウェイク)の実験体にされた奴隷が自由の身になるためにしかたなく剣を振るった』というような顛末を想像していたんだが、テイパーズ・デンでの暴れっぷりを知った後では別の見方をしたくなるってもんだ」

「スルーフィールドは殺されて当然の外道だ。同情の余地はない」

「同情なんかしてねえよ。俺だって、617と同じ状況に陥ったら、間違いなくスルーフィールドを殺すさ。しかし、相手を殺せるだけの力と動機があるからといって、誰もが実行に移せるわけじゃない。617には、人の命を奪うことを厭わない性質があるんだ。自分がアレックスだと信じることで、その性質が暴走するかもしれん」

 ジェイコブの話を聞いているうちに、心の中で怒りの〈獣〉がまた唸り始めた。

 しかし、俺は何者に対して怒っているのだろう?

 残魂転移を信じてアレックスになりきっている(かもしれない)617に?

 617をそんな状況に追いやったスルーフィールドに?

 それとも……

「もしもーし! 聞いてますか、シンガーくーん?」

 ジェイコブがテーブルを揺らしながら、大声で呼びかけてきた。

「なんだ?」

「『なんだ』じゃねえよ。またボーっとしやがって。寝不足か?」

「すまない。話を続けてくれ」

「続けようがない。俺の話はこれでおしまいだ。さて、今度はおまえさんが語る番だぜ」

「情報交換に応じた覚えはない……と言っても、無駄のようだな」

「ああ、無駄だ。さあ、話せ! やれ、話せ! そら、話せ! 今すぐに話しやがれ!」

「判った、判った」

 俺は溜息をつくと、椅子を起こして腰を下ろした。

「スルーフィールドに617を売った奴隷商人を割り出すことができた。チェスナット街のローマーという男だ」

「口入れ屋のネイサン・ローマーか?」

「そうだ。知り合いか?」

「おまえさんの言葉を借りるなら、『知り合いじゃないが、よく知ってる』だ。この町の悪党番付なんてものがあるとすれば、上から十番目以内に名前が載るクソ野郎さ」

「そのクソ野郎から奴隷の目録を押収したから、617の素性も判ったぞ。名前はホーホー・ホイ。十七歳のチャオ人。身長は二ドリー強で痩せ型。係累なし。職業は旅芸人だそうだ」

「年齢や背格好はうちの隊士の話と一致するが、旅芸人というのが引っかかるな。ただの旅芸人が警鼓隊士を四人もブチのめすなんて、ちょっと合点がいかねえよ」

「ちょっとどころじゃない」

「と、言いますと?」

「スルーフィールドたちの調書を読んで判ったことだが、劇場神殿で死んでいた無級真導師(ディサイプル)の一人は剣術の心得があったらしい。名前はサイモン・アップルディガー。渾名はシンプル・サイモン。ランシター市の市官に仕えている騎士の三男坊で、幼い頃から錬武館で剣術の稽古に励んでいたそうだ」

「どうして、そんな剣術野郎が真導師になったんだ?」

「口減らしのために〈教団〉(ニュー・オーダー)に放り込まれたんだよ。貧乏な下級騎士の家ではよくある話だ。俺もそうだった」

「ほぉ。おまえさん、騎士の出だったのか。どうりで立居振る舞いに品があると思った」

 その皮肉を無視して、俺は話を続けた。

「サイモンは真導師になった後も剣の修行を続け、ランシター市の剣武祭にも毎年のように参加していたらしい。しかし、その程度のことでは満足できなかったのか、親しい学友たちに『真剣勝負がしてみたい』とか『人を斬ってみたい』なんて剣呑なことを言ってたそうだ」

「うへえ! 血に飢えた剣鬼って感じだな」

「その剣鬼を含む五人の真導師を殺し、四人の警鼓隊士たちを叩きのめす――これはただの旅芸人にできることじゃない」

「うーむ。ひょっとしたら、617は生粋の芸人じゃなくて、食うに困って剣技を見世物にしている剣士なのかもしれんな。時々、そういうのを見かけるだろ。道端で剣の腕前を披露して、集まってきた通行人に小物を売ったり、金を恵んでもらったり……あー、なんだか懐かしくなってきたなぁ。ガキの頃、俺も同じことをして小遣いを稼いだもんだ」

「俺もやったことがある。錬武館の師範にバレて、大目玉を食らったけどな」

「ヤットウ好きのやんちゃ小僧が一度は通る道なのかねぇ。げはははははは!」

 ひとしきり笑い声を響かせた後、ジェイコブは真顔に戻った。

「おまえさんが掴んだ情報はそれだけか?」

「それだけだ」

「じゃあ、石頭の審問官と不良警鼓隊士の密談はこれでお開きってことにするか。なにか食ってくか? ちょっと時間がかかってもいいのなら、特製の春巻きを作ってやるぞ」

「飯は済ませた」

「そうかい。最後に言っとくけどよ。情報交換をしたからといって、俺は粛正省のやりようを認めたわけじゃないぜ。617を救いたいという気持ちは変わってない。奴がアレックスになりきって凶行を起こさない限りはな」

「俺の気持ちも変わってない」

 そう言いながら、俺は立ち上がった。

 怒りの〈獣〉はまだ唸り続けている。

「617が凶行を起こすような危険人物であろうが、そうでなかろうが、見つけ出して捕まえる。その際に抵抗するようであれば、殺してしまうかもしれない。無抵抗で捕まったとしても、最終的には処刑されるだろう。しかし、それは俺の知ったことじゃない」

 ジェイコブが哀れむような顔をするのは判っていたので、目を合わすことなく、足早に戸口に向かった。

 同情と嘲弄が入り混じった声が追いかけてきた。

「ある意味、おまえさんもクリケットだな」

「なんだと?」

「だって、そうだろうがよ。口では真導を信じないとか言いながら、結局は〈教団〉のルールに従って生きている。真導に騙されている奴もクリケットだが、自分を騙している奴もクリケットさ」

 俺はなにも言い返さずに店の外に出た。

 いつの間にか、〈獣〉の唸り声は絶叫に変わっていた。

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